はてなキーワード: 正鵠とは
本来の意味は「大勢が笑うこと」なので一人で笑うときに「爆笑」を使うのは誤用である、とされることもあったが、実際には「爆笑」という語が使われはじめた昭和初期からすでに一人で笑う場面でも用いられていた。「大勢が笑うこと」説のほうに根拠がない。
「的は射るもの」なので「得る」は誤用である、とされることもあったが、もとを辿れば「不失正鵠」すなわち「正鵠を失わず」という慣用句であり(正鵠=的の中心)、それが「正鵠を失う」と肯定形で使われるようになり、その対義語として「正鵠を得る」という言葉が生まれ、そして明治末には正鵠を的に置き換えた「的を得る」や「的を射る」といった表現が出てきた、といったややこしい変遷があったもので、少なくとも「的を得るは誤りで的を射るが正しい」とはされなくなっている。
「汚名は返上して名誉を挽回すべきだ」とされることもあったが、もともと「挽回」という言葉は「回復」などと同じく「(悪い状態から)元に戻す」という意味なので、「病気を回復する」などと同様に「不振を挽回する」「衰運を挽回する」など、マイナスの意味の言葉と組み合わせて用いられることも多く、よって「汚名挽回」についても誤用でないとされる。「汚名を挽回する」という表現は明治末にはすでに見られる。
「全然」は「全然〜〜ない」のように否定形で受けなければならないので「全然〜〜だ」というような書き方は誤用である、とされることもあったが、実際には明治の頃から否定を伴わない形で多く使われており、「否定で受けなければならない」というルールには根拠がない。
本来は「後ろめたいことがあって相手に会いづらい」という意味なので「高級店に入りづらい」などの意味で使うのは誤用である、とされることもあったが、この表現の要点は「後ろめたい」よりも「相手に会いづらい」という部分であり、そこから考えれば「高級店に入りづらい」などもあくまで自然な応用の範疇で、誤用と言えるほどの意味の飛躍はない、とされるようになった。
本来の意味は「能力に対して役目が軽すぎること」なので「役目に対して能力が不足している」という意味で使うのは誤用である、とされることもあったが、そもそもは「役に対して不足(=不満)を言う」という意味であり、「こんな難しい役目は私には無理だ」と不満を言うことも「役不足」の範疇だった。「彼には役不足だ」などと言って不満を含まない用法は本来の使い方でない、とは言える。それも明治末にはすでに例があるので最近生まれた用法ではない。ちなみに「役者不足」という言葉は最近の造語であると言われることもあるが、こちらも少なくとも昭和初期には現在の意味での用例がある。
他には?
東京は長年「これは僕がいってるんじゃなくて、松井孝典がいってるんだけど、“文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものは「ババア」”なんだそうだ。“女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です”って。男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、きんさん・ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって…。なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね(笑い)。まあ、半分は正鵠を射て、半分はブラックユーモアみたいなものだけど、そういう文明ってのは、惑星をあっという間に消滅させてしまうんだよね。」な石原都知事をありがたがって選び続けていたし、女性蔑視発言繰り返すジジイどもを日本全体で選び続けてるんだから日本中が男尊女卑クソ国だよね。
ChatGPTがあまりにも便利なので昼夜を分かたず対話をしている。とてもいい相談相手だ。
ChatGPTは自然言語解釈に特化したAIだから、多少雑に質問したところで驚くべき洞察力でこちらの意図を見抜いてくるんだが、それでも習い性というか何というか、つい筋道を立てて丁寧に質問してしまう。「機械に質問するならこういう風に聞いてやらなきゃいけないんだろう」みたいな先入観、あるでしょう。
前提から説明して、解決したい課題、制約条件など、機械が答えやすかろう材料を整えて質問をする。
そういった、質問の「下ごしらえ」を丁寧にやればやるほど、あのAI野郎は正鵠を射る答えをすぐさま出してくれるんだよね。
この習慣が、対人コミュニケーションにもとても役に立っているようだ。
もちろんChatGPT以前も質問される側・答える側の立場に立って質問のしかたを配慮することはしていたが、それがグレードアップした感じだ。
人間相手だとついつい言葉足らずになってしまうこともあった。前提条件を共有できているものと思い込んだり、範囲をあいまいにしたままだったりね。
説明に手を抜くと言い換えてもいい。
しかしChatGPTとのやりとりの中で「言葉を尽くせば尽くすほど望ましい出力が返却される」という体験を積み重ねたおかげで、同じことを誰に対しても無意識にできるようになっていった。
質問相手からの質問返しや、ボタンを掛け違えたまま無意味な会話が続くようなことが劇的に減った。
むかし誰かが「神は細部に宿る」と言ったそうだが、コミュニケーションにおいても同じだね。
でもこれだけは認識して欲しい。
ワクチンを打たないっていうのは、副反応の苦しみと集団免疫の獲得というトレードオフを、他者に押し付けてフリーライドする行為だって。
そして、ワクチンを打つっていうのは、そのトレードオフを行った当事者であるということを理由に、フリーライドをした反ワクを痛烈に批判する大義名分を得たことではないということを。
見苦しいぞどっちも。
かかりたくないから打つ。
周りがかかって欲しくないから打つ。
集団免疫とかいう自己満足に浸りたいだけのアホがどうせ打つなら俺は打たない。
それについて他人をコントロールしようと必死に藁人形に釘を打って「どうだ!俺の釘打ちこそまさに正鵠を射るといったものだろう!」と自慢げに掲げるの、見飽きてるんでもう止めてもらえますか?
阿部さんの死には晋三が止まる程の悲しみが全身を襲った。100単位のMAP輸血をしても、この悲しみは癒やされない。
これでもう二度とにっぽんをとりもろすことはできなくなってしまった・・・。
そもそもの発端が逆恨みなのである。一方的な思い込みなのである。統一教会という、時の政権である自民党に加え、国家公安委員会や警察からも正当に認められた立派な宗教の内部のちょっとしたゴタゴタで、こんな立派な首相を失うことの損失は計り知れない(測れない)。保有するだけで幸せになれる壺を破格の値段で販売してくださり、先祖が犯した罪を浄化してくれる、本邦において絶大な勢力を誇る素晴らしい宗教に対する誤った思い込みが今回の喜悲劇を生んだとすると、マスゴミ、ネット右翼、ネット左翼に対する強力な言論統制もやむを得ないとしか言いようがない。合同結婚式を始めとした、現代日本の家族のあり方を真摯に考え、個の幸せよりも全体の幸せを重視する比類のない宗教であるのに・・・。7割の収入源が本邦である、まさに日本を代表する大宗教なのであるのだ。
阿倍野区さんを銃撃した犯人はまさにサタンである。民主主義への朝鮮である。最愛の夫を失い、長男が不治の病に侵された弱い女性(エバ)が、救いを差し伸べ人生を良い方向に導く宗教に助けを求め、有り余る金を献金したからといって、逆恨みしてはならない。就職氷河期の中で、自殺未遂までしながら実の兄を救おうとしたなどというエピソードは見せかけの優しさである。こういったお涙頂戴のお話に我々理知的な日本人は洗脳されてはならないのである。
インターネッツで湧き上がるABCさんへの追悼と自民党ネットサポーターズクラブによる協力な援護には心から涙を流した。日本は無くしてはいけないなにかをなくしてしまったのだろう・・・。精神科医の片田珠美先生が「苦しい幼少期、少年時代を過ごした人は自分には責任のない事で酷い目にあったと受け止めやすい。それは歪んだ特権意識と言わざるを得ない」とおっしゃっていた。この歪んだ特権意識というのが誰のことを指すのか不明であるが、何という正鵠を射るご指摘であろうか。先生はまた、「普通の人には許されないことでも自分にだけは許されると考えるようになる」とおっしゃっている。これは今回の事件の被疑者である人物を指していると考えられるのであるが、知能の低い私には一瞬被害者のことを指しているのではと思われてしまった。が、なんという洞察力なのであろうか。
森元首相の葬儀は数十年ぶりに国葬として行われるという。この岸田検討使の決定に意義を唱えるものは、恥を知れ!よくもそんなことを。すなわち、この日は国民の祝日になるということだ。私は日程が分かり次第、速やかにゴルフクラブの予約をしようと考えている。
この文は鮮明である。天皇陛下が土下座すべきである。私にはなんの政治的意図もない。ただの私怨であるのだ。ただ、今回のアベイルさんの横死というかつてない喜劇のなかで、唯一良かったことは、日本人の統一が進んだことなのかもしれない。阿邊さんの死を乗り越え、国民全体が同じ方向を向いている空気を確実に感じている。すごい一体感を感じる。今までにない何か熱い一体感を。
エビデンスとは単一の概念ではなく、ピラミッド状の階層構造をしている。
これを理解している者と理解していない者が対話をしても(ご覧になった通り)無益である。
また、ビル(四角形)ではなくピラミッド(三角形)であることにも重要な意味がある。
仮に、頂点から底面に下ろした垂線上に”真実”があると仮定すると、上位の階層ほど垂線からの幅は小さく、下位の階層ほど大きい。
つまり、上位のエビデンスレベルの研究結果ほど”真実”に近い可能性が高く、下位であればあるほど低いと言える。
ここで気をつけたいのは、下位のエビデンスだとしても、正鵠を射ている場合もあるという点である。
例えば「専門家の意見」はエビデンスレベルこそ低いものの、侮り難いものがある。
実際、COVID-19パンデミック初期には専門家の意見を参考に対策を進めるしかなかったが、外れていたもののほうがずっと少なかったのは、みなさんご承知の通りである。
そして、この専門家という生き物は、自分の意見を検証する生き物として知られている。
この生き物に観察される営みを研究といい、研究によって自説のエビデンスレベルを上げようとしてもがき苦しみ最後は死ぬ。
この生き物の幾多の屍を土台にし、エビデンスは構築されるのである。
マジ泣けるよねー。
(ただし、専門家ごとに専門領域が異なるため、ピラミッドの下から上まで全部自分で行うわけではない)
ではなぜ専門家はエビデンスレベルを上げるための研究を行うのか。それは過去の忌まわしい人類の歴史への反省からである。
「自説を開陳するだけの者はオ○ニストであり、過去の歴史を知らぬ愚か者である(オマエ・ダレヤネン BC.260-198)」
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バイザウェイ、私は、歯科は(日本だけではなく世界的にも)産業構造的にエビデンスの構築の価値が相対的に低い業界だと思っている。
誰かが「これは価値あるものだ!」と着想しても、一部のアカデミアを除き、エビデンスを構築する行動に対するインセンティブが乏しく、携わる人は少ない(ブーメラン)。
それよりも横展開して、商業誌に投稿したり(ブーメラン)、本を書いたり、セミナーをしたり(ブーメラン)、スタディグループを作ってマネタイズしたほうがメリットがある(←これは、これらの内容や活動が間違っているとか価値が低いということを意味しない)。
しかしこれらの活動は根本的な問題を内包している(ブーメラン)。
それは「これは価値あるものだ!」という『ご意見』はエビデンスレベルが低く、”真実”である可能性が低いことに対する自覚が乏しいことである。
そしてその自覚がないまま、自説の普及に勤しむからやっかいなのだ。
このような【専門家とは言えない彼ら】を、私は4種類+αに分類した。
A: 普及に勤しんでいたらアカデミアの誰かに検証され、概ね正しいことが明らかにされる(たまたま正鵠を射ていた幸運な例:私の乏しい理解ではインプラント)
B: 普及に勤しんでいたらアカデミアの誰かに検証され、価値がないとされて廃れる
C: 普及に勤しんでいたらアカデミアの誰かに検証されるも中途半端に終わる(最も多いパターン)
D: 普及に勤しんでいるが誰からも相手にされない(例:脳歯科)。
いずれのタイプも決められたプロセスを経ずに患者に適応する、あるいは適応させるように普及させるという点においては同類であり、過去の事例は仕方がないが、特に現代では慎むべき行動であるというのが私の認識である。
A~Dのサブタイプとして以下のZがある。
Z: 普及に勤しんでいたら批判的な声に晒され、自説にこだわるばかりにカルト化し、他者を攻撃する。彼らは批判されればされるほど、仲間どうしで傷を舐め合い、結束を固め、ますますカルト化するという特徴を持つ(例:近藤、内海、長尾)。
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では、歯科界において、エビデンスの構築の価値を高めるにはどうしたら良いだろうか。
エビデンスの構築に携わる人をすぐに増やすのは現実的ではないが、エビデンスの構築の価値を重視する人を増やすことは今日からでもできるはずだ。
こうした問題に近道はない。一つ一つ丁寧に取り組んでいく他ないだろう。
・メディアやtwitterのような患者を含む不特定多数に向けた発信はエビデンスレベルが高いものを根拠にする。
・不適切な医療は根気良く丁寧に、しかし迅速に対応して潰していく。
ひとまずこれらが現時点での最適解だと思う。
賢明な皆様ならすでにお分かりであろう。これらはすでに彼が行っていることだ。
ミソジニーに対してフェミニストによる「単なる女性嫌悪などでは全く有り得ず『家父長制秩序に従わない女性』に対する「処罰」行為こそが、ミソジニーである」っていう説明は正鵠を射たものだと思う。 どんな人間がどんな正義に基づいてどんな女性を「殴っている」かを見るなら、見る限りではこの説明が一番説得的な解釈だ。
一方ではてなブックマークに時々ブクマされてくる、すっかりミソジニスト界の一員と見なされる様になった「オタク」への軽蔑を込めたツィート等を見てて思うのは、そろって「下等なオタク風情が…」っていう悪意が下地にあることで、これはミソジニーにおける「女の分際で…」っていう謂れのない「正義の悪意」に対応する様にも見える。
往々にしてそういうオタクへの悪意を表明するアカウントが「自分もオタクである、オタクに近い」と主張することもあり、実際それは嘘でも勘違いでもない場合が殆どだと思われる。 悪意の表明は全てのオタクに向けたものとしか読めなくても、実際にはそうではない。
「大声で戯言同然の主張をする、自分の頭の程度を辨えない低能オタク」が表現の自由戦士などといった蔑称を付けられて憎まれ、罵られているのであり、これは家父長制意識にどっぷりの人間による「辨えない女」への悪意=ミソジニー の鏡映ではないかと思うのだ。
自分は作家業をしている。有名作家や、なんらかの「有名人」の友人知人がそこそこいる。
別に有名人と繋がってても公表しないしいいことも悪いこともない。
売れてる友人に、匿名掲示板での誹謗中傷が酷すぎて病んでいると言われた。
興味本位で見に行ってみたら、本来作者のファンのスレだったものが、元ファンのアンチスレと化していた。
最近の作品の内容に失望したり、作者のSNSでの言動をウォッチしては逐一ボロカスに叩きまくっていた。
匿名掲示板だけじゃなく、SNSで作者名などで検索してもそういった作者や作品を否定する言葉はいくらでも出て来た。
それを読んで、妙に感心してしまった。
というのも、長年のつきあいである友人、いっしょにお互いの家に寝泊まりしあったり、旅行に行ったりするような
親友レベルの友人に対して、私ですら言語化できていなかったことを、アンチの彼らはきちんと正鵠を射て叩いていたからだ。
彼らはものすごい洞察力で、顔も知らない喋ったこともない作者の人物像を洗い出していた。
こういうところがダメ、こういう性格だから次にこう出る、あのツイートは絶対明日までに消えている。すべてその通りだった。
なるほどな、すごい、本当にその通り。わかるわかる。友人本人は相当傷ついただろう。その通りすぎるから。
知人が私怨で書き込んでいるのもあるだろうが、SNS等の一般読者とわかる人のアンチ感想も、びっくりするほど真に迫った正確な指摘が多くあった。
興味本位で、プライベートまで知っている友人知人が他に匿名掲示板やSNSで叩かれてないか調べた。
すると、ものすごくズレたアンチも多くいるのだが、やはり同様に「なんでそんなことまでわかるんだ」というゾッとするほどの正確さで作者を叩いてる人がたくさんいた。
元々は愛を持って読んでいた読者がアンチに転身したら、愛と憎しみの反転によってここまで人間を見る解像度が上がるのかと感動まで覚えた。
私はアンチがいるほど売れてないので今のところノーダメージだ。けど、もしこんな人間たちに誹謗中傷されたら本当に立ち直れないだろうなと思った。
2020年東京オリンピックは、大盛況で幕を閉じた。
開催国の日本はメダルラッシュに沸き、経済も上向いて最高の一年となった。
そんな明るい未来を予感させる年が終わり、翌年の2021年初頭、冷や水を浴びせるがごとく、凶悪なウイルスが人類を襲った。
突然変異を起こしたこの病原体は、例年の流行とは一線を画し、高い感染力と致死性を備えた最悪のウイルスだった。
この年、新型インフルエンザによる死者は世界人口の3割に達し、各国は大混乱に陥った。
しかもウイルスは毎年変異を繰り返し、有効打と期待されたワクチンさえも効果は限定的だった。
翌年以降も猛威を振るい続け、どの国も例外なくインフラや経済基盤に大きな打撃を受けた。
人類は衰退の一途を辿った。
労働人口が激減する穴を埋めるべく、積極的な投資が行われ、技術革新が起きた。
AIのおかげで高い精度の未来予測が可能となり、遺伝子操作の分野でも大きな成果があった。
何よりもタイムマシン理論の構築は、人類の知性のみでは到達不可能だったと言われている。
一部では目覚ましい科学の発達を見せながらも、人類滅亡は目前に控えていた。
新型インフルエンザウイルスの蔓延により生産性は激減し、深刻な食料不足になっていた。
それを引き金に各地で紛争が勃発。
もしも新型インフルエンザが発生した2021年の前の年、2020年に毒性の低いウイルスが流行していたら?
感染対策が十分に行われた翌年、新型インフルエンザは感染を拡大することができずに消滅する、というシミュレーションをはじき出した。
試作品のタイムマシンは、人間のような大きな質量を運ぶことができなかったが、微小な病原体であれば、過去へ送り込むことが可能であった。
遺伝子操作で新型インフルエンザウイルスのRNAを組み込むことにより、感染力だけが強く毒性の弱いウイルスが作成された。
遺伝子を組み込む毒性の弱いウイルスには、風邪の原因としても有名なコロナウイルスが選択された。
タイムマシンは、2020年へ、遺伝子操作したコロナウイルスを送りだした。
人類が袋小路に迷い込むことなく、より良い未来をつかみ取ることを願って。
◇◇◇◇
2020年初頭、突如発生した新型コロナウイルスはいくつかの国でパンデミックを引き起こした。
大きな犠牲を払いつつも、各国は隔離政策を打ち出し、少しずつではあるが封じ込めることに成功した。
翌年の2021年、新型インフルエンザが爆発的に広がるはずであったが、高熱を出した患者はすぐに隔離、他者へ感染することなく、人知れず消滅した。
こうして、新型インフルエンザが人類を追い詰める未来は消え、新型コロナで混乱する世界線へと改変された。
新型コロナは、新型インフルエンザを知らない人類にとっては大きな痛手となったもの、数年のうちに克服された。
この新型コロナ騒動で、一人負けの様相を呈した国が日本だった。
新型インフルエンザよりも一年早く発生した新型コロナのせいで、東京オリンピックは中止となった。
期待していた五輪特需も無くなり経済が衰退。日本はみるみるうちに失速していった。
そんな日本が打開策として打ち出したのが、かつての栄光、科学技術立国日本の復活であった。
とは言え、一度失われた物を手に入れるのは容易なことではない。
場当たり的な政策を繰り返し、国内外の失笑を買うことが多かった。
それは空間に不思議な亀裂があるという、今までに発見されていない現象だった。
実のところ、この亀裂はタイムマシンが新型コロナウイルスを送り出した際に生じたものだった。
タイムマシンが過去に物質を送るのはピッチャーがキャッチャーへ向けてボールを投げるのに似ている。
時空とはピッチャーとキャッチャーの間にある障子のようなもので、途中を通る時、空間に亀裂が入る。
2030年から2020年の間には新型コロナウイルスが通過した亀裂が発生しており、日本の研究チームが偶然にもそれを発見したのであった。
新型インフルエンザ世界線ではAIの発達によりパラダイムシフトが発生したが、AIが未発達な新型コロナ世界線ではあり得ない。
しかし、何もないところから考えを飛躍させるのは無理であっても、観測できる事象があれば、類推は可能だった。
落ちぶれた日本には他にできることもないので、この研究に力を注いだ。
ピッチャーが投げたボールの途中の軌道を観測すれば、それがどこから発生し、どこへ向けたものなのか推測できる。
時間的に連続した亀裂を観測することで、これが2030年から2020年へと微小な何かを送りつけた結果であると仮説が立てられた。
この仮説には様々な飛躍があり、突っ込みどころも多かったが、偶然にも正鵠を射ていた。
そして2020年という終着点は、日本にとって忌々しい年だった。
新型コロナは未来から「悪意によって」送りつけられたウイルスである。
そう結論づけた日本はこの過去へ向けたボールを撃ち落とすことにした。
ピッチャーが2030年から2020年へ投げたボールの軌道上にいる今、そこへ大きなエネルギーをぶつけ、ウイルスのような小さな物体を消滅させることは、それほど難しいことではなかった。
これが他の国の発見であれば、もう少し慎重な対応をしたかもしれない。
2030年から2020年へめがけて送られた新型コロナウイルスは、こうして途中で破壊された。
2020年に新型コロナが感染爆発を起こさなくなったことで、2021年に新型インフルエンザが大流行した。
新型コロナ世界線は消滅し、再び新型インフルエンザ世界線へと戻った。
こうして世界は2020年から2030年の間で、新型インフルエンザ世界線と新型コロナ世界線を繰り返すこととなった。
人類は2つのウイルスに繰り返しパンデミックされる監獄へ囚われた。
◇◇◇◇
この様子を興味深く観察する、高次の存在があった。
彼は驚きと興奮を持ってこの事態を観察していた。
文明が未発達で精神的にも未成熟な地球の生命体が、まさか時間を操る術を身につけるとは想像していなかったのだ。
ただ、感心はしたものの、地獄絵図をループするだけの人類にはすぐに飽きた。
宇宙全体を見渡せば、地球よりも優れた生命体は数多く存在した。
そう判断した後の彼の行動は速かった。
奇しくもその日、日本では何度目かの東京オリンピック開会式が開かれていた。
オリンピック開会式の段階では、新型インフルエンザウイルスも発生していなかった。
聖火台に火を灯す、オリンピックを象徴する儀式の始まる瞬間。その時はやってきた。
100万度を超える高温のプラズマが電子レンジよろしく地球をチンした。
こうして人類は終わりを迎えた。
この時、ループを繰り返した東京オリンピックは10回目の開催だった。
ごりんじゅう。
ご臨終。
お後がよろしいようで。
>推しって言っとけば、自分が無能無産の消費者じゃない立場にでもなれると勘違いしているからだ。
しかし記事タイトルにあるような、それは日本のゆとり教育がもたらした、という態度はおそらく違って。
というのも、世界的な社会哲学の中でその現象には名前がついているからだ。
「消費社会」という。
ボードリヤールが言いだし、後続の学者も概念を使っていろいろ分析している。
何を消費しているかが自己表現となり、何を消費しているかで社会階級が決定するような社会のことだ。
ロックを生きるならば尾崎を聞かねばならないし、ジョックになるならゲーム漫画ばかり消費してはならない。
ハリウッドセレブになるにはドレスを買わねばならないし、家を消費できないものはホームレスとして社会不適合者扱いされる。
それを覆す、ということはなかなか難しい。
覆す必要が本当にあるのかを確定するのもだ。