はてなキーワード: 「A」とは
週末、1年前に別れた元カノ「A」に、久しぶりにケータイが繋がった。
Aは、僕の行動をストーカーみたいだって言って怖がっていた。自分でも、ストーカーだと解っていた。
それでも、僕はそうせずにはいられなかった。自分を止めることができなかった。
僕はAに、自分がまだAのことを忘れられず、いまでも愛しており、できることなら寄りを戻したい。
そういうことを、繰り返し訴えた。
「お願いだから、もう連絡してこないで」
Aは、怯えて言った。
Aには、新しい男がいた。まだ僕と付き合っていたときに、浮気して付き合い始めた男だ。
「私には、新しい彼氏との幸せな暮らしがあるの。もう、増田のところには戻れないの。何度も言ってるでしょう?過去に囚われないで。なんで貴方は、私がこんなに嫌がっているのに、連絡を止めてくれないの?」
僕は言った。
「別れたことに、全然納得いかないから。Aといた8年間は、俺にとって人生で一番幸せな時間だった。なのになんでいま、Aが俺のそばに居ないのか。なんでこんなことになってるのか。全然納得いかないから。もう戻れないって言われても、残された俺の気持ちはどうなるんだ?せめてこの想いをぶつけさせてくれないと、俺の気持ちが納まらないんだ!」
Aは言った。
お前が言うのか、と思った。
自分さえよければそれでいいと浮気して、一方的に俺から離れていった、お前が。
「ああ、そうだね!俺は一方的に自分の想いをお前にぶちまけて楽になりたいだけの、自分のことしか考えていない、ただのストーカーさ!でも、お前にそんなこと言う権利があるのかよ!自分の幸せのことだけ考えて、俺の気持ちなんて一切無視して浮気して、新しい男に走ったお前に!そんなこと言う権利があるのかよ!!」
「でも、いいよ。俺のストーカーとお前の浮気、これでお互い様、帳消しってことにしてやるよ!よかったね!これで気持ち悪いストーカーから解放されて!!よかったね!これで新しい彼氏と一緒に幸せに暮らせて!!コレで全部解決だ!!ひゃひゃひゃひゃひゃ!!」
気付けば街中で、他人目も気にせず受話器に向かって狂ったように叫び、嗤っていた。
こんな酷い言葉をAに浴びせたのは、後にも先にもこのときだけだった。
Aは、怒りとも怯えともつかない震える声で言った。
「…もう二度と…連絡して、こないで…」
実話なので、オチはない。
「*」を「×」、
「a」を「5」、
しかし、
というのは、式の上ではどのようにして置き換えればよいのかが分からないので、
http://anond.hatelabo.jp/20110719213530
の式を、中学生レベルの式の書き方に置き換えてもらおうと思います。
その上で、それから
地方公務員法より
第三十五条 職員は、法律又は条例に特別の定がある場合を除く外、その勤務時間及び職務上の注意力のすべてをその職責遂行のために用い、当該地方公共団体がなすべき責を有する職務にのみ従事しなければならない。
問題の「A」とやらは、「当該地方公共団体がなすべき責を有する職務」に限られている事が前提。
「上司におっぱいをもませる」が果たしてこれ含まれているかどうか。
部下に訴えられて裁判で勝つ自信があるならどこかで誰かが誰かのおっぱい揉みまくってるかもな。
これも追加。
第三十二条 職員は、その職務を遂行するに当つて、法令、条例、地方公共団体の規則及び地方公共団体の機関の定める規程に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。
「法令、条例、地方公共団体の規則及び地方公共団体の機関の定める規定」の中に、「上司におっぱいを揉ませること」が明記されてる地方自治体が実在するんなら教えて欲しいわ。今から全力で公務員試験勉強するから。
東大数学博士に学ぶ数学世界 - 「数学は方法である」をめぐる談義
http://t.hash.bz/archives/2526249.html
読んで違和感を感じたことをいくつか。
身内にばれるのがいやなので、ここで書く。
「数学」に対しては、見る立場によっていろんな見方ができる。
数学という方法を使うと世の中はうまく理解でき、予測ができる。
このあたりの問題は数学をいくら勉強しても分かるようになるわけではなく、
どちらかと言えば科学哲学の分野。
議論を始める前に、科学とは何かという基礎知識が必要だと思う。
などがある。
例えば、科学と聞いて原子爆弾や原子力発電所、パソコンやテレビ、蛍光灯などを思い浮かべる人もあると思う。
iPhoneを見て「科学ってすごい」と思ったりするかも知れない。
これは科学という言葉が製品そのものを指したり、それを作るための技術を指したりする場合。
それがなぜなのかは誰も分からない。
一時期、「科学技術」か「科学・技術」かでもめたことがあった。
今もそうなのかもしれないけれど。
科学にそれらの「技術だけ」を求めている人にとっては、「科学=技術」なのかもしれない。
いや、「科学の目的は技術ではない」と言っても良いと個人的には思う。
技術屋さんは科学を利用しているのであって科学を学んだり研究しているのではない。
いろんな意見があるかもしれないが、ここではいわゆる「理論」を作ることとしておこう。
では「理論」とは何か。
それは「現象を理解する方法」である。
その理論を使えば、どれくらいの早さで落ちるかという予測ができるようになる。
それだけではなく、「りんごと地球がひきあっていると考えれば理解しやすい」ということも分かる。
理論がなければ「りんごが地球を引っ張る」という発想は生まれにくいだろう。
そのような新しい見方ができるようになる。
繰り返すが、それは正しいかもしれないし、正しくないかもしれない。
では、どうしたら自然に現象を理解できるか、ということが問題になるだろう。
それらの方法を指して科学と呼ぶこともある。
このようなことを繰り返しているうちに、理論には一つのパターンが現れていることに気がつく。
「宇宙は数学の言葉で書かれている」と言った人があるらしいが、
ここでは、証明とは何か、公理、定義、定理の違い、などについて説明する。
証明とは何だろうか?
平たい言葉で言えば「間違いないと確信できる証拠」ということだろう。
例えば「彼女が浮気していた証明」など、その人は「確信」するかもしれないが、
本当にそうかどうかは究極の所分からないだろう。
そこにはいくつかの危うさがはらんでいる。
何かを証明したいのは、正しいかどうかがハッキリしないからだろう。
そこで、正しいことから「論理」を使ってそれが導ければ正しいと確信できるだろう。
では、何を持って「正しい」とすれば良いのか。
場合によっては「私が正しいと思えればそれでいい」かもしれない。
そこで、数学では「最初にこれを正しいと仮定しましょう」とする。
そしてその公理から「論理」を使って導かれたものが定理である。
時々「公理が正しければそこから導かれた定理は正しい」と言ったりするが、
厳密に言えば「公理が正しく、論理も正しければ、そこから導かれた定理は正しい」となるだろう。
しかし、そうやって考えている論理は正しいのか?という疑問も起きる。
そこで、最初に正しいとこれはしましょうというできるだけ公理を定める。
こうして、導かれた定理がどれだけ信じられるかは、
数学とはこういう形をしている。
そうすると、科学理論もそういう形をしているということである。
現象を理解するために、何か仮定を置く。
「その仮定」も「数学」もきっと正しいだろうと信じられるわけだ。
数学という学問は理論の中からそのような「仮定」「実験」「予測」を取り去ったものだ。
時々、数学者は全く役に立たないことをやっていると言われることがあるが、
それを使う人が「役に立たせる」だけのことである。
ブログの記事に戻ろう。
上で書いたような「仮定」「公理」の部分でつまづいているのだろう。
つまり普通の感覚で言えば、「数学」というものを使って理論を組み立てようとは思わない。
しかし、様々な理論に共通に現れているため、その部分を抜き出し、洗練させてきたのが数学だから、
それを使う人にとっては、数学を利用することはある意味ではとても不自然なことになってしまう。
僕の周りの数学者はこれらにとても慣れているので、
この時、僕はベクトルの使われ方、柔軟性に驚いた。
要するに、対称が何であろうとも「ベクトル」にしてしまえば後は「ベクトル」を扱う数学の世界のルールで加工することができて、
「数学は役に立たない」とか言っている人の理解もそうなのかもしれない。
科学が強力な力を持っているように、数学は科学理論の中で強力な武器である。
この重要性はもっと声を大にして叫ぶべきなのかも知れない。
確かに数学についてある程度理解していて、それを客観的に見られるだけの余裕がないと、
ふむ、これを、どうしたら伝えられるのだろうか?
しかし、いくつかの誤解もあるようだ。
公理はその内部で論理的に矛盾していなければ(たぶん)どのようなものを定めてもよく、一緒に使われない複数の公理が相互に矛盾することもふつーにあり得る。
しかし、そこから導かれた定理およびその解釈が、現実の予測に合わないのであれば意味がない。
数学そのものの正しさは誰も疑わないだろう。
ならば、もし予測に合わないのであれば、その最初の決めごとが不適切であったということになる。
ここで「なぜ」と問うことは意味がない。
逆に言えば「そうするとうまくいくことを示す」必要がある。
もう少し厳密に考えてみよう。
例えば万有引力の法則では各惑星は質量はあるが大きさはない質点と見なす。
「どうして?」と問われれば「そうするとうまく行くから」というのは一つの答えだ。
しかしもう少し言えば、
「そう仮定しないと計算が難しすぎる。そう仮定すると計算が簡単になる。
そしてその仮定した結果でもそれなりに精度の良い予測ができる。
ならば現実問題としてはそのように仮定するのは許されるのではないか。」
ということだ。
「数学」を知らないと、この「数学からの要求」があることが理解できない。
そして、その個々の必殺技はかなり用途が限定される場合が多い。
それは「科学」を学んだ人とそうでない人の違いのようなものだ。
意味はものとものと間に成り立つ関係のことだから、要素は2個あればいい。どういうものが2個あればいいのかというと、包含図考えてみたときに、「A」と「Aを含むようなB」
「末期患者」に含まれてる「かっこよく死にたい人」にとっての自殺の是非 とかそんな感じ
Aを含むようなBをあらかじめ仮定しているっていうのがAが意味を持つための条件かな
こういう言葉の論理を集合論に持っていって延々考えた人はバートランド・ラッセルとか、悩みそのものは宗教の聖典とか、キルケゴールの「死に至る病」とか
これはタイトルからしてそのまんまだけど、哲学者っていうか岩波文庫の青(岩波文庫の哲学書は背表紙のラベルが青い)は大概そんなんだったな
とりあえずラッセル?既知だったら恐縮です。
5つの地下室がある。
4つはそれぞれ扉に「A」「B」「C」「D」と書かれている。
残り1つはそれらを監視する監視室だ。
監視室に3人の人間が居る。
看守、看守の上司である室長、天井と床から延びる鎖に繋がれた囚人だ。
顔はそこにいる囚人にそっくりではないか。
地下室Bを映したモニタ。ベッドの上にあるのは人間の首から腰までの上半身だ。
地下室Cを映したモニタ。ベッドの上にあるのは人間の腰から下の下半身だ。
どれも動いていないが青ざめておらず、血が通っているようにも見える。
地下室Dを映したモニタ。空のベッドが3つ置かれているだけだ。
「その3つはそこのそいつですよ。」看守は言った。
「証拠を見せましょう。」
そう言うと看守はポケットからナイフを取り出し、囚人に歩み寄り、
地下室Aを映したモニタ。生首の頬からも血が流れ出している。
「本当にすごいのはここからです。」看守は言った。
おもむろに囚人へ銃口を向け発砲する。
地下室Aを映したモニタ。ベッドの上は血の海だ。
「Aは今から清掃員に綺麗にさせます。Dのモニタを見ていてください。」看守は言った。
地下室Dを映したモニタ。看守がコンソールで操作すると、2つのベッドの上に
「BとCの部屋からコピーしたんです。今。」看守は言った。
「ここからです。」
そう言うと看守は再びコンソールで操作を始める。
地下室Dを映したモニタ。先ほどコピーされた上半身と下半身が消えていく。
一方、残りの空のベッドの上に、何かが現れ出した。
さっき吹き飛ばされた生首だ。
先ほど吹き飛ばされた頭が元通りになっている。
「その首、Aに戻しておけよ。」
囚人は狂ったように叫び出した。
「頑丈でしょう?」看守は言った。
「2か所以上壊さない限りは永遠に続けられますよ。」
「部屋がもっとあれば、もっと頑丈になります。」
「例えば12部屋なら、今の3つを更に3等分して残り3部屋で‥」
室長は監視室を出た。
二つの地下室がある。
扉にはそれぞれ「A」「B」と書かれている。
地下室AとBにはそれぞれ一人づつ囚人が閉じ込められていた。
二人は一卵性双生児のように姿形がそっくりだった。
2人は全く同じ時刻に、同じ内容、同じ量の作業を行い、
同じ時刻に看守から同じ罵倒を受け、同じ部位を殴られていた。
ある日突然、地下室Aの囚人は精神に破綻をきたし、部屋の中で暴れ出した。
それをモニタールームで見ていた看守は、コンソール上のボタンを押した。
すると地下室Aの床が突然開き、真っ暗な奈落が出現した。
室内の設備一切合財とともに、地下室Aの囚人は奈落の底に消えた。
開いた床は閉じ、今までと同じ新品の家具が運び込まれた。
それを見た看守は、地下室Bの囚人にベッドで休憩を取るよう命令した。
囚人は言うとおりにベッドに横たわり、目を閉じた。
誰も居ない地下室Aのベッドの上に、Bの囚人と瓜二つの人間が出現した。
看守はマイクに向かって休憩の終りと作業の再開を命令した。
2つの部屋の囚人は同時に起き、同時に机に向かい、同じ作業を始めた。
昔から「Aさんがなんとかかんとか」とか「AさんとBさんとCさんがいて...」という風に話をされるのが嫌いだ。
うまく表現できないのだけれど、こういった話し方をするとき、話し手が自分の意見に相当な自信を持っているような口調になるのが許せない。
実名ではなく「A」とか「B」を使うことで、一般性や客観性が付与されるのはわかる。
こういった表現を好む人は、そういった効果を無意識のうちに期待しているのだろう。
もちろん、この表現を使わざるをえないような場面はよくあるし、なくなったら不便だということはよく分っている。
よく分っているのだが、どうしてもこの口調で話されると背筋がゾクゾクしてしまう。
ブログで絡んでくる知人に困っている。
コメントをつけてくれるのはうれしいんだけど、まったくあさっての方向の内容なので、
なぜそこにその内容でコメントがついているのかがわからない。
自分はコメントには基本的にお返事を書くので、いろいろ内容分析してみるのだが、
はたしてそれが適切なのかもわからない。
たとえば、
・ブログ
・知人のコメント
・増田のお返事
「X」は見てないんだけど、そうなんだー。
こんな感じ。ちなみに「A」と「X」には共通点はみつからない。
同じジャンルでもなく、同じ監督でもなく、同じ映画館でかかっているわけでもなく、
両方に共通で出演している俳優さん・女優さんも(たぶん)いない。
すっごく大きく「映画の話」というくくりでは同じなのかもしれないんだけど、
正直、中身見てる? 本文読んでる? と疑ってしまう。
一度、あまりの方向の違いに耐えかねて、黙ってコメントを削除したことがあるんだけど、
同じ記事にふたたびコメントをつけてきた。
こんなふうに思ってしまう自分が心が狭いのか、彼がKYなのか。
今のところFOするつもりで徐々に離れているのだけど、たまにコメントつくんだよねー。
いっそアク禁したいけど、前にやったら周りを巻き込んで騒がれて大変だったので、
あれはもうやめたいんだよなぁ。
最近のゲーム機は、ハードウェア単位だったり、サービスのユーザIDという形だったりと個人を識別するアカウントを作るのが当たり前となりつつある。
そういったシステムを利用して、任意の相手に自分が所有しているゲームソフトを貸すという行為はできないものか。インターネットを介して「対戦」や「協力」といった遊び方は充実しているが、ソフトを貸し借りするという行為もインターネットで済ませられれば、良作ソフトが忘れられるという事も減るような気がする。もっとも、前提としてHDDにインストールされているゲームが対象になるだろうけど。
イメージ的にはこんな感じか。
たぶん、選び方に問題があるんだと思うよ。
「従来手法は○○だけれど、△△ってことを実現してみたいね」
→「いろいろ方法はあるけれど、AとかBとかあるよね。(Aはダメかもしれないけど…)」
→「Aでやってみたけれどダメだった、A’もダメ、A’’もダメ…」
→「じゃあBでやってみようか(今ここ)」
論文を書く場合だと、
ってのが、枕に入るわけだ。(ここまでで「自明であることを示す証拠」「比較して良くなってることを示す証拠」が居るってのは判るはず)
そして、「未知の手法」として、「A」とか「B」とかって場合があるわけだよね。んじゃあ、「A」という手法を選んだ理由は?
素直に考えたら、ここで「A・B以外にもあるのかな?」「じゃあ列挙してみよう」「全部でA,B,C,D,E,Fの6つあった」「じゃあ、その6つは△△ってことは実現できるけど、差はどこにあるだろう?」「じゃあもっともコストがかからなくて良いAにしよう」となるんじゃないかな。(あ、コストがかからないことが良い事を示さないと駄目なのは判るはず)
このやり方だと「Aで駄目だった」→「じゃあ、BからFまで一気にやってあたりをつけよう」とかできるはず。Aに固執しなくても他に手法があるのがわかってるから。
また「時間が限られているから6つ全部できない」となったら、どうすれば修論としての体裁を整えられるやりかたになるかも考えられるはず。その「△△ってこと」を探るのが必要なのか、ちょっと違うけど出せそうな方法があるのか、とかね。
ちゃんと考えて選んでるだろうけど、今のやり方だと場当たり的に選んで試してみてうまくいったから論文書きました、みたいに見えちゃうよ。(研究ってのは本来そういうもんだけど、できれば「これができたらこう嬉しい」→「できないってことは、こういうことがいえるはず」みたいにしておくのが良いと思うよ)
しかし例えばCtrlキーでワンボタンと勘定する流儀であれば、ショートカットはワンボタンではないのでは?
例えば、Ctrlは普通の「c」キーに割り当ててしまう。Ctrl+Cだけ困るけどまあなんとか工夫する。「Ctrl+V」を「C+V同時押し」にしてしまう。Altも「a」に割り当ててしまう。こちらもAlt+Aは工夫してもらう。Ctrl+AやAlt+Cでまた工夫が必要だけれど、それでもCtrlとAltから開放され、キーがキーボードから二つ減らせる。上手く工夫すればShiftやreturnまでアルファベット部分に押し込められるかもしれない。
もちろん効率上独立して残した方がいい修飾キーや、重複させすぎて人間の脳の方が困惑する事態、同時押しが困難な人もいるだろうから、もちろん何が何でもということではない。でもやはり修飾キーは工夫で削れるわりに多過ぎるように感じる。
2008年3月ぐらいから東方の二次創作ゲームを作り始めて、その途中経過をニコニコ動画にUPしてみた。で、先日体験版が出来たのでここらで小休止して、創作とか東方について自分が常日頃考えていることを、この増田で吐露してみようと思う。
○ゲーム作りについて
私はこのゲームを作るのが今回が最初ではなく、大学くらいからゲーム作りはやってきたのでその経験はもう7年ぐらいになる。といってもそのクオリティたるや、市販のゲームはおろかコミケで売っているような同人ゲームにも遠く及ばない。
でも、だからといって自分のゲームがつまらないと思っていない。ゲームの面白さというものは別ものだと思う。最近ロックマン9がファミコンテイストで発売されて人気を博しているようだし、自分の作るようなゲームでも面白いゲームであれば居場所はあると思う。自分のゲームが面白いかというのは疑問が残るが。
子供の時はゲーム会社に入るのが夢といっちゃ夢だったが、ゲームとは関係ない仕事をしつつも趣味でゲームを作るというのも楽しいものである。
○東方
確か大学のサークル部室で東方紅魔郷を見たのが最初だったと思う。
遊んでみて面白く、音楽も素晴らしい。しかもその全てを一人で作っていると聞いてすごいと思った。でも東方Projectの作品に関してはともかく、その同人界隈はあんまり知識がない。同人誌とか高いし。ニコニコ動画で最近その世界を知ったばかり。
ただ、二次創作って私にとって敷居が高い。原作のイメージがぶち壊れているのもあるし。個人的には「ドラクエ4コマ漫画劇場」のような原作のイメージを壊さないものを好む感じ。
東方儚月抄は買って読んでみたけどなんか微妙だった。秋枝先生のマンガはまんがタイムファミリーで載ってる漫画が好きなので、どうしてもそちらと比較してしまうのかもしれない。
で、今回は東方の二次創作ゲームを作ることにしたわけだが、作ってみると、二次創作ゲームってなんか雰囲気としてはファミコンのオバQのワンワンパニックとか忍者ハットリ君とかのゲームみたいな感じを受ける。
漫画と違ってゲームだと原作を知らなくても楽しめるのが強みだと思う。
動画を投稿するととりあえず数百ぐらいの再生数は得られるようだ。
これはすごい数値だと思う。ブログとかだと10アクセスもいかないのはザラだし。
体験版の動画に関しては熱いメッセージをくれた方がいたが、これは謹んで聞き入れたつもりではいる。ただ、行動に反映されないと思う。
前提としてプレイヤーのためにゲームを作っているのではなくて、ただ自分が作りたいから作っているというのがある。全然遊んでくれる人がいなくても、ゲームは作ると思う。
逆にいえば、そんな不親切なゲームなのに遊んでくれてありがとうという気持ちは持っている。
後、今コメント見たらお金を取るうんぬんでコメントがついてた。まあ「こんなクオリティで金とるのかよw」とネタにされるのも一興。なんかニコニコ動画で疑似通貨ができるって話を聞いたけど、それでうまいこと楽にできないかと期待。まあ売れないけど。
まあ、ゲーム作りに自分が飽きない限り、ゲーム作りは続けると思う。
今回のゲームは年内に完成させるのを目標にして頑張ろうと思う。
追記
ブックマークしたrukuさま
readmeのテキストが間違っていました。矢印キーではなく、「W」「Z」「A」「S」キーを使います。
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