はてなキーワード: 特殊相対性理論とは
電磁気学という分野で、(真空中の)光速は一定で変わらないって前提がまずある。
(これは別にアインシュタインが考え出したわけじゃなく全く別方面の研究から分かってたこと)
でもそれっておかしいよねという話になる。
例えば、時速300kmの新幹線に乗ってる人が進行方向に時速50kmのボールを投げたら、それは時速350kmの速度になる。
なら時速300kmの新幹線に乗ってる人が進行方向に光を飛ばしたら、それは「時速300km+光速」の速度になる……はずだ。
じゃあどうやって辻褄を合わせようかという時に「速度=移動距離÷時間」のうち
「速度(光速)」と「移動距離」はどうやっても決まってるなら時間をいじれば矛盾しなくなるじゃん、
と考えたのが特殊相対性理論。
もうちょっと細かく書いてみる。プロじゃないので正確性についてはごめん。用語もかなり適当。
人間が日常的に体験する範囲では、速度は加算される。例えば、地上を時速100kmで走っている電車の中で、ボールを時速100kmで進行方向に投げたら、地上の人からはボールの速度は時速100+100=200kmに見える。
ところが、光はそうはならない。電車の中でライトをつけると、地上から見ている人からは、電車の進行方向にもその逆の方向にも同じ速度で光が広がるように見える。(ということが実験で確かめられている。)
光よりちょっと遅い程度のもの、例えば素粒子なんかでも、やっぱり速度は単純に足し算できない。どうやら光速以上の速度を出すものは存在しないようだ。(ということも実験で確かめられている。)
一方で、すべての物理法則は、地上にいる人でも電車に乗っている人でも同じであってほしい。電車に乗ったら物理法則が変わった、のではいろいろと困るしな。
相対性理論の「相対性」ってのは、「どの人にとっても同じ物理法則が成り立つ」ってこと。ちなみに特殊相対性理論は「どの人」を慣性系に限るから特殊。
ついでに、相対性理論発見以前の知識では、電磁気の法則はどの人にとっても同じ、ではなかった。電車に乗ってる人には、何故か電磁気の法則は(当時知られている形では)成立しなかった。力学の法則は誰でも同じなのに電磁気はナンデ? てのが課題になってたのが20世紀初頭。
で、「(真空中の)光速一定」と「(慣性系での)物理法則相対性」が成り立つとしたら、実は時間と空間ってこういう性質を持ってるんじゃね? ってことを導出していってできたのが特殊相対性理論。
例えば、
とかいうのが特殊相対性理論のよく知られた部分だけど、逆に言うとそれを認めないと「光速不変」「物理法則相対性」が成り立たなくなる。
ついてに、こういう「変な」性質は速度が光速に近くなるほど強く現れるため、人間の日常生活の範囲では(飛行機でもせいぜい「時速」数百km、光速は「秒速」約30万km)普通は気づかない程度のレベル。
多くの人たちは、研究者や科学リテラシーの高い人が使っている言葉の意味を理解していない。
一般相対性理論より特殊相対性理論の方が後に考えられたと思っているし、統計的な「代表」を特別優れた例だと思っている。
「多くの人たち」なんて根拠のない印象で文章を書いたら昼前に不毛な争いが起きてる。なにこれこわい。
相違が分かればそれを埋めるための言葉を尽くせばいいだけ。
相手が自分の言っていることの全てを理解していると勘違いして、話がかみ合わないまま無駄な時間を過ごすより、それは有意義な体験だ。
重力の最も重要な性質の1つは、重力は光と同じ速さですすむ波でありながら物資をすり抜けてすすむことができることです。
重力なので、なんでもすり抜けるのは当たり前と思うかもしれないですが、
光も波でありますが電磁波の一種なので、なんでもすり抜けるわけではありません。
でも、例えば地球の重力はどこにいても一緒。どこに隠れたって必ずそのままうける。
「重力は波でありそれは光と同じ速さで伝わる(重力波)」というのは同じくアインシュタインが発見した「光が誰がどのような状況でみても必ず一定の速さになる(光速不変の原理)」ということと同じくらいの超重要な宇宙全体の法則で、
それまではニュートンが「重力は瞬時に伝わる」と言ってて、それを誰も疑ってなかった。当時の誰もが疑うことすら思いつかないくらいそれは当然だと思ってたと思う。
重力波も光速不変の原理のどちらもアインシュタイン以前は誰ひとりとしてそんな主張すらしてなかったし、理論のカケラすらなかった。
敢えて言うならローレンツ変換くらいだけど、ローレンツは「光の速さに近づくと物質が縮む」って言ってたわけだからね。
でも、アインシュタインは「ローレンツは物質が縮むとか言ってるけど、それ空間そのものが縮んでるんだよ(特殊相対性理論)」って言いはじめて、既存の理論を駆使して理論的に完璧に証明してしまった。そのついでに重力波まで発見し(一般相対性理論)、ニュートンが「重力は瞬時に伝わる」って言ってたのを撃殺。超絶すぎる。天才と言われる所以はそこにある。
さらに、今回の実験装置が萌える。何が萌えかって、重力波を観測したその実験装置が、アインシュタインが「光は誰からもみても必ず一定の速さになる」っていう着想を得たマイケルソンの干渉計とほぼ一緒の仕組み。
もちろん今回の場合は、まさに天文学的な精度の担保が必要なんだけど、それはお金の問題。
マイケルソンの干渉計の仕組みそのものはもの凄い単純で、高校で物理やってたら必ず習う。
それでめっちゃ完璧な装置じゃんって感心するんだけど、さらにおもしろいことに、もともとは光を伝える物質(エーテル)の存在を証明しようとした装置なのに、
むしろそんなものがないことがわかって、当時の科学者たちが「結果何も起こらなかった」ってションボリするんだけど、
その実験結果をアインシュタインが「それ光は誰からもみても必ず一定の速さになるからだろ」って、当時で言うとコペルニクス的転回をおこなって、
そんなもんだから、もう今回の件はあらゆるところにアインシュタインが出てきて堪んないわけですよ。神ってこういうのをいうんじゃないの?
仮に憲法学が学問の名に値し、科学的な態度を尊ぶならば、安保法制を違憲と唱える憲法学者は安倍首相に感謝するべきだろう。
実験や観測で得られた「観察された事実」を説明するのが「理論」。
現在、受け入れられている理論(定説・通説)で説明できない事象が観察されたとき、それは学問が発展する大きな機会だ。
惑星の動きを説明するために天動説が唱えられていて長い間人々はそれに疑問を持たなかった。
ガリレオの地動説によればより簡単な理論で惑星の運行は説明できたが、その精度は天動説の周転円による理論と同じだった。
だが、ティコ・ブラーエにより観測された火星の運行を天動説の周転円理論で説明するのは困難を極めた。
そしてケプラーは、惑星の運行は惑星が太陽のまわりの楕円をたどるとする新たな世代の地動説を唱えた。
さらにニュートンは万有引力の法則を導入し、これに数学的根拠を与えた。これが新たな世代の理論となった。
さらに時代を下ると、地球の自転する方向である東西方向と南北方向で光速度が同じになることが発見された。
これは物体の運動速度には加法(足し算)が成り立つとするニュートン力学の前提を揺るがす観察だった。
これを説明する新たな世代の理論はアインシュタインの特殊相対性理論だった。
さて、憲法学者たちが今日、持っている理論で安保法制の合憲性を証明できないとしよう。
しかし、安保法制自体は現実の政治のなかで必要であるし(そのことは民主党すらも類似の法案を対案として出さざるを得なかったことで分かる)、成立の暁に最高裁に100回持ち込まれても100回合憲判決が出るであろう。
今後、現実の政治制度のなかで安保法制は合憲・合法のものとして扱われることになるのだが、それを現在の憲法学の理論は説明できないことになる。
すばらしいことではないか。
君らは今次の安保法制の合憲性を説明する新理論構築という新たな大事業に取り組むことができる。
憲法学は現状を追認するだけのつまらん学問もどきだという烙印を世間から押されることになるかもしれない。
しかしそれは憲法とは何か、憲法がなんのためにあるかを考えるふりをして実は考えてこなかった報いだ。
甘んじて受けてほしい。
今回のクールって未来モノ、SFっぽいモノが多い気がするんだけどどうなんだろ? ファンタジー系がちょっと減った?
順次追加する予定。
地球を軸にその周りを宇宙が回っているという説で、プトレマイオスによって体系化された。中世のあいだは天体の運行を最も高い精度で計算できる理論であった。コペルニクスが地動説を復活させ、1627年にケプラーが地動説をもとにした高精度の天文表を発表したことで、地動説が広く支持されることとなった。ちなみに地動説がカトリック教会により迫害されたというのは真実ではないそうである。
物の状態・現象・性質を説明するための理論である。多くのバリエーションが存在するが、アリストテレスの「温・冷・湿・乾の四つの性質の組み合わせにより火・水・空気・土の四大元素が生まれる」という説が広く支持された。これが否定されたのは1661年、ロバート・ボイルの著書『懐疑的化学者』によってである。彼は近代的な「元素」観を確立し、後のラヴォアジエによる化学革命を準備した。
フロギストン(燃素)という元素が物質から分離することが「燃焼」であるとした説で、四大元素説のような迷信めいたものではない、科学的な理論として広く受け入れられた。1774年、ラヴォアジェは「燃焼とは物質と酸素が結びつくことである」と看破し、フロギストン説は否定された。
「熱」が物質に起因するか運動に起因するかということは長年にわたる議論の的であったが、ラヴォアジェは熱物質説を支持し、熱の原因となる物質を「カロリック(熱素)」と名付けた。1843年、マイヤーによって運動エネルギーと熱エネルギーが相互に変化することが明らかにされ、またエネルギー保存の法則が発見されたことにより、カロリック説は衰退した。
古代ギリシャのヒポクラテスが唱えたもので、人間の四つの体液のバランスが崩れることが病気の原因であるとする説である。四大元素説とも結びついたこの四体液説は、批判に晒されつつも長らく信じられていた。1858年、ウィルヒョウが「細胞病理学」を確立。すなわち病気とは細胞の異常によるものとされ、体液病理説は否定された。
アリストテレスが提唱したもので、「生物の中には親からではなく自然に発生するものがある」とする説である。たとえば虫やネズミなどがそうであるとされた。その後、レーウェンフックによる「微生物」の発見もあり、擁護と批判が繰り返されたが、パスツールが行った1861年の「白鳥の首フラスコ実験」などにより、自然発生説は完全に否定された。
ホイヘンスやニュートンらにより提唱されたもので、エーテルとは光が伝播するための媒質として想定された物質のことである。ニュートン力学とマクスウェルの電磁気学における光速度の矛盾を説明するために利用されたが、最終的に1905年、アインシュタインの特殊相対性理論によってエーテル説は否定された。
俺としては
ってだけの話をしてる。
一ヶ月で十分イケると思う。
単純に「知らない」あるいは「専門外で読んでない」
だけのお話じゃないかな。俺は特殊相対性理論ならデキの良い中学生になら理解させる自信があるし
理系大学生なら知らなくても一ヶ月も勉強すれば理解出来て当たり前だと思うけど。
それは知能のレベルではなく、それを学んだことがあるかどうかだけのお話し。アホでは別にない。
批判がほしいのか、一握りの共感がほしいのかわかりませんが、こんな文章を知らない誰かが読んでどう思うのか気になって書いて見ました。
いつからかボタンをかけちがっているような感覚がありました。些細な瞬間というよりは常にうっすらとありました。
自分の人生を生きているという確かな実感が薄く、実年齢とその年齢で想定していた精神状態との乖離をすごく感じていました。精神は安定せず、2~3ヶ月に何日かすごく塞ぎこむ日が続いたと思えば、一週間ほど“ハイ”な日がきたりしました。
夜明けまで街なかを散歩したかと思えば、毎日ランニングに精を出したこともあります。
2~3週間で興味や関心が移り、好きな時間に起きて、それをやり、好きな時間に寝ていました。
そんな生活をしていると一年という期間はあっという間に過ぎてしまいます。
この一年で得た些細なものと、この一年で失った大きなものとの、両方の大きさを実感できます。
ニートになるのはやめろ、言いたいのではなく、結局なるようになったのだと思います。
ボタンのかけちがったままいこうにも、すでにとめるものが無くなってしまったのですから。
躁鬱病と言えばそれまでですが、病院に行ったこともなく正式な診断は受けていません。
自分で病的だということの自覚はありますが、それが自他ともに認めるのを怖がっているのです。
ですが自分が病的であるという自覚、又は仮定をすれば、では正常な判断とはなんだろう、という疑問が湧きます。
もし1つ条件を置くことを許して頂ければ、誰しもこの疑問にすぐ答えることは難しいだろうと思います。
「常識、普通」と「正常な判断」というのは必ずしも一致しない。
これは僕の経験則なので、あまり参考にならないかも知れませんが、常識や普通で考えて、「良い」又は「ありえる」「良くない」と想定できる行為は、行為のすべての可能性の8割程度を構成していると思います。
後の2割に「とてつもなく悪い」と「とてつもなく良い」が、混在しており、それは常識では判断できず、往々にして常識ではどちらも「とてつもなく悪い」と判断されてしまいます。
デカルトは良識はすべての人に備わっているといいましたが、もし「とてつもなく良い」判断をする能力を須く人類が備えていれば、「とてつもなく良い」世界ができそうですが、僕にはそうなっているようには思えません。
つまり8割を判断できる一般論では、2割を構成する極論は判断できないのです。
そしてその極論は、一般論では、否応なく悪い方に判断されてしまいがちだ、と思うのです。
というのも「とてつもなく悪い」と「とてつもなく良い」というのは何か、紙の裏と表のようなもので切り離して語ることはで
きないので、そのように思うのです。
例えば「食事」で考えてみます。
「良い」食事というと常識で考えて、1日3食決まった時間にバランスよく肉だけでなく魚や野菜も食べれば「良い」食事であると判断できるのではないでしょうか。
逆に「悪い」食事というのは、常識で考えて、好きな時間に、ファーストフードや揚げ物など偏ったものばかり食べれば、それは「悪い」食事であると判断できるのではないでしょうか。
では例えばスティーブジョブスのような偏執的とも言えるようなベジタリアンはどうなのでしょう。
本で見た程度なので、正確かどうかはわかりませんが、彼は体の毒を除くための絶食を1週間程したり、肉は全く食べず限られたものしか食べないというようなかなり偏ったベジタリアンだったようです。
晩年、すい臓がんの闘病中に、医師から栄養価の高いものを勧められても頑なに自分の信念を曲げず、自分の決めたものしか食べなかったので、病気の進行を早めたといいます。
これは「とてつもなく悪い」食事なのでしょうか。
多分そうなのでしょう。
食事という面を切り取れば、「とてつもなく悪い」ということになると思います。ではもう少し多面的に、考えてみましょう。
この偏執とも言える食事のおかげで、彼の頑なな意志が生まれ、僅かではあるが、皆さんがご存知の偉大なイノベーションにつながったとすればいかがでしょうか。
これでは、言い過ぎと言われるかもしれないので、彼の頑なな意志では、一度決めたことは、たとえそれが「とてつもなく悪い」ことでも貫き通すことにこそ意味があった、というのはいかがでしょう。
彼のパーソナリティを鑑みれば、「とてつもなく悪い」食事と「とてつもなく良い」イノベーションとは切っても切れない関係なのです。
これも言い過ぎかも知れませんが、僕が言いたいのはこのようなことです。
極論なので論ずるに値しないと思う人もいるかもしれませんが、僕は極論の話をしたいのです。
極論というとあまり響きがよくないので、ここで言い換えましょう。
一般相対性理論、特殊相対性理論とあるように、一般の対義語は、特殊だと思いますが、特殊論というと、これも極論と響きが似てきます。
例えば「彼のようなクリエィティブな人間な人材を育成したい」と言うと、食習慣を真似するというのではなく、イノベーティブな製品を発明することを指すと思います。
ですが私は、それらは切り離せないウラとオモテのように思うのです。
常識的な判断で「よい」と思われる物事の一面だけを切り取って、それを一般化させて、一般論としても、個別論に適応できないように思われるのです。
僕達は個別論的に生きているので、一般論的に論じられても、意味を見出せないと思います。
これは私の個別論的な主観を、一般化して世代を論じているので、自己矛盾じゃないか、と言われると思いますが、全くその通りです。
そしてただの自己弁護です。
こんな文章を一体誰が読んでくれるのでしょう。ああ、そういえばタイトルがありました。
「やりたいことをやるってなんだろう」です。これです。
結局僕はやりたいことが一般論で見つからなかったからニートになったんだと思います。そしてこの文章も推敲もせず途中で投げ出していまいました。こんな人間がニートになるのです。
http://d.hatena.ne.jp/AntiSeptic/20091001/p1
いやまあ、なんというか。消毒氏はhttp://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20090930/1254321315に対してオッカムの剃刀よろしく「アンタの解釈は違うよ、だって××は○○と解釈すればそれでいいじゃんwww」と説明して見せている。もちろん、「なぜ○○と解釈したほうがいいか」という理由つきで。
物語の解釈なんて、ただ説明をつけるだけならいくらだって言える。(これは物語ではないが、)いろは歌の隠された真の意味はこれこれ、この詩集の隠された意味はこれこれ…とかいうように。しかしある解釈がそういう「だって私こう思うもん!」といった感想文や妄想ではない「まともな解釈」となるには、「なぜそのように解釈しなければならないか」という確かな理由がなければいけない。たとえば、「○○解釈では十分に説明できない△△が、××解釈では整合性を持って説明できる」というようなことがあって、初めてその××解釈は有効になるわけだ。
こんなことはいうまでもないことだし、だからこそ消毒氏もきちんと説明を怠らない。ところが、ここで批判された大野なんちゃらという人はそこのあたりがまるでわかっていないらしい。
ohnosakiko 2009/10/01 21:40
いやー、見事に一歩も進みませんねwww
<大文字の他者>は言語活動を支えるものだということを書いているのに、どうしても「規範」という概念で理解したいんですねぇ‥‥
後に出てくる「規範」も、<大文字の他者>が立ち現れる象徴界のごく一部なんですが‥‥
まあでもしょうがないという気がしてきました。
普通何冊か読んでやっとわかりかけるようなことを、ブログ記事の一つ二つじゃとても無理ですわやはり。説明している方もシロウトだし。
ごめんごめんw 忘れて下さい。
だから「『共通基盤』なんて常識とか規範とかそんなものしか考えられない」という消毒解釈に抗する「ここにおいて『なぜ』消毒解釈でなく<大文字の他者>~解釈を採るべきなのか」という理由はどこに存在するのだ(笑)。理由が存在しないのなら、当然、「『規範』という概念で理解」すべきに決まっている。
というより、本来そうした「なぜか」を了解することこそが、「わかる」ということなのである。特殊相対性理論は本を読まないとわからないくらいむずかしいが、結果としてそれなりにでも「わかって」いるのなら、少なくとも「なぜこの理論を正当とせねばならないのか」「なぜニュートン力学よりもこの理論を採らねばならないか」は説明できる。それは「ブログ記事の一つ二つ」でちゃんとできるのであり、「シロウト」でも十分にできるのだ。ではなぜ、そのくらいのこともできないのか?
それは「わかっていないから」だ。本人は「何冊か読んでやっとわかりかける」などと書いているが、実はなにも「わかって」いない。きっと何冊も読んでいるうちにその解釈を覚えてしまい、そのことを理解と混同しているのだろう。
小学生が「光速がなにものよりも速い、速度は30万キロメートル毎秒」というのをただ覚えたって、ちっとも「光速のことを理解した」ことになりはしない。かれは他人に光速を説明する能力など持っていないだろう。もちろん、そんな状態で物理話に首をつっこんでも、「見事に一歩も進」まないことはいうまでもない。
いやはや、どういうつもりで「理解したいんですねぇ‥‥」だの「一部なんですが‥‥」なんてほのめかし、草を生やしているのか。残念、というほかない。
ホッテントリ読んでいたら、昔2chに投稿した駄文のことを思い出した。ググってサルベージしたので、ちょっと修正してここに書く。ちなみに、内容についてあまり突っ込むな。いろいろな意味で。
昔オーディオの新しい波に乗り切れなかったシュレーディンガーは、 コペンハーゲンのオーディオマニアに向けてこういうことを言った。
完全防音の部屋の中にオーディオセットがある。外から鍵をかけて密室にした後、目覚まし時計によってオーディオセットが演奏をはじめる。このとき、コペンハーゲン派の立場だとつぎのようになるぞ。
すなわち:
これは明らかにおかしい。
オーディオシステムの音のよさは試聴とは無関係にあらかじめ決まっているはずだだから、コペンハーゲン派のオーディオ解釈は誤っている
しかし、ニールス・ボーアは直感に反してオーディオシステムの音は聞いてみるまでわからないだけでなく、聞いてみるまで性能すら定まらないのだとあらためて主張した(聞くまで無調整と言う意味ではない)。
これが有名なシュレーディンガーのオーディオシステムというパラドックスだ。
昔、音のよさには絶対的な基準があるという説がもっぱら主流だった。だが、こうすると音のよさが見かけの上で無限大になる場合があるという計算結果がでてパニックになった。困ったことに、絶対基準があると仮定して行ったブラインドテストがこれを否定した(マイケルソン=モーレーの実験)
その後、1905年にアインシュタインが音のよさには相対的な基準しかなく、かつ上限が決まっていると仮定した理論展開を行う論文を書いた。これが特殊相対性理論だ。この衝撃的な論文のあと、加速する車の中のカーオーディオについても適用できる音響理論をうちたてたのが有名な一般相対性理論だ。相対性理論からは、「一生懸命作ったオーディオなのに友達のシステムの方がよく聞こえる」ことが理論的に導き出される。これは日本古来の経験則、「隣の芝生は青い」ともよく一致する。
数学者だったクルト・ゲーデルはオーディオマニアだったことでも有名だ。
彼はよい音を求めていつもパーツ屋に通っては怪しい部品だのケーブルだのを買い求めていた。友人はそれを揶揄して笑ったが、完璧主義者だったゲーデルは自分が買った高級オーディオケーブルが実はやくたいもない屑ケーブルであることを認めず、必死で言い訳を織り上げた。しかし、優れた数学者だった彼は自分の言い訳にほつれがあることに気づいた。次の二つを両立する言い訳が成り立たないのだ。
すなわち:「完全かつ無矛盾な小売系は存在しない」これは真に偉大な発見で彼の名声を高めた。しかし、後に音の滑らかさを追い求める連続体仮説に思いをめぐらすうちに、カントールと同じく狂気の闇へと落ちていくことになる。
日本経済が絶頂期にあった80年代初頭、一部のオーディオメーカーは将来市場が頭打ちになりかねないことを予見して体系的な市場アプローチ、すなわちマーケティングを導入し、市場の行方を占うことにした。
このとき問題になったのはオーディオマニア層だ。口うるさいくせに雑誌で発言力のあるマニアは市場としては小さいが無視できない。そこで、マニアがどのような振る舞いを行うか、その統計的な側面が研究された。
もっとも有名なのは「二人以上のマニアが同じ意見を持つことはない」という仮定に基づいて行われた研究だ。これは人の話は聞かないくせに、同意もしないというマニアの実に嫌らしい振る舞いを見事に反映したモデルだった。
このモデルに基づく市場動向の予測は、研究者の名前を取って、フェルミ・ディラック統計と呼ばれる。この統計は各社が採用して市場予測に使い、大きな成果をあげた。
なお、マニアも興奮してくると見かけの意見らしきものをつなぐことができなくなり、オーディオ好きの高校生と同じになる。この場合は古典的な統計が適用可能になる。すなわち、マニアも興奮すると大衆程度の振る舞いになり、ガウス分布に従うようになる。そのため、オーディオフェアなど興奮しがちな場所では古典統計が使われる。
同じころ、排他的でないマニアを冷静にすると、全員がひとつの意見をもつようになるというボーズ・アインシュタイン統計も発表された(アインシュタインは先の相対性音響論を発表したのと同一人物)。しかし、企業の企画担当者が「排他的でなく冷静な」マニアを想像できなかったことからこの統計は採用されず、一部研究者がその実現性を予想しただけだった。
転機は90年代半ばに訪れた。自分の意見より人の顔色を尊重する日本人に対して行われた一連の実験から、ボース・アインシュタイン統計が適用可能な場合が示された。一群のオーディオマニアを集め、彼らを数日にわたって否定することで体力と自意識を削り取ることにより、極度の低興奮状態に置く。この状態では部屋の中のすべてのオーディオマニアが尊師の言うとおり提示された オーディオセットはすばらしいと一様に誉めた。この歴史的な成功以来、同様の実験が都内各所の道場で行われたが、その後この実験は危険であるとして禁止されている。
やたらテンションの低いオーディオマニアが全員同じ意見を述べるようなキモイ状態は、ボース・アインシュタイン凝縮と呼ばれている。
http://anond.hatelabo.jp/20070224194128
逆にさ、人に教えてもらって成功したり能力を発揮できて本当に楽しいかって考えたことがある?
もちろんあります。いや、違うかもしれません。本当の意味で考えたことはなかったのかもしれません。
当時の私が陥っていた思考の罠は、
「人に教えてもらうことは、所詮はお情けに頼ること。自分では何もできないということを認めること。これは屈辱だ」
というものでした。ここで思考停止してしまっていました。
ある意味では正しいのかもしれません。でも、当時わかっていなかったことがあります。「自分ではなにもできない」というのが紛れもない事実だったことです。これを認める勇気がなかったことが全ての敗因です。
私見ですが、研究者として必要な能力は二つあります。「何を(what)するか」と、「どうやって(how)するか」の双方です。
このうち、whatは人から教えてもらうことが困難です。知識をいくら集めても、質の良い研究テーマは出てきません。何が重要か、何が面白いか、そのあたりの判断ができることが必要です。当時の私には、このあたりの能力はあったと思うのです。そういう意味で、私は自分が才能に欠けていたとは必ずしもありません。
一方で、howの方は人から教えてもらうことができるのです。そして、「やりたいこと(what)」の中からできそうな部分を切り出してくるような能力、これも広い意味のhowに入るのです。これこそ、私が見落としていたことです。知識は本や論文から手に入れることができます。しかし、知識を集めてhowにすることも難しいのです。それができるようになるためには、経験が必要です。そして、経験がなにもない段階から経験がある段階にステップアップするためには、先達の指導を受けることがどうしても必要です。
私には、whatとhowの区別がありませんでした。確かに、whatについて教えを乞うことは恥かもしれません。無目的に時を過ごすことの無意味さを自覚できていないからです。しかし、howについては教えを乞わないことが恥だと思います。歴史上多くの先達が一生をかけて成し遂げてきたことを自分だけの力で何とかしようというのは、無謀以外の何ものでもありません。
物理学の歴史上屈指の天才の一人として、アインシュタインがいます。彼の最大の業績としては、まず間違いなく特殊相対性理論が挙げられるでしょう。これは、時間とか空間といった日常的な概念に変更を迫るものとして、一般人の関心をも大きく惹きつけました。
ですが、アインシュタインの業績だと一般に思われていることを100とすれば、そのうちアインシュタイン独自のアイディアは実のところ2か3ぐらいしかないのではないでしょうか。光速度が一定であること、時間や空間が伸び縮みする可能性があること、これらは全て、ローレンツとかポアンカレとか、これも歴史に名が残るような当時の一流の人たちによって既に得られていた成果なのです。現代でも「アインシュタイン、特殊相対論を横取りする」などという本が出版されているぐらい、このあたりは微妙な話に属するのです。しかし、それでもアインシュタインは段違いに偉大だと私は思うのです。アインシュタインの理論は単純な原理からこれらの新しい結果を自然に導き出せる驚くべき明晰さに価値があるのであって、これにくらべれば、ローレンツやポアンカレのアイディアは斬新ではあっても、既存の理論の綻びを無理に覆い隠すようなその場しのぎのものにしか見えなくなってしまいます。しかしそれにしても超一流であるアインシュタインにして、せいぜい100のうちの2か3のアイディアしか出せないことは注意する必要があります。それが成熟した学問分野での研究者の世界というものです。
さて、アインシュタインは特殊相対性理論を発展させて、一般相対性理論を提唱しました。これこそは全く新しい分野の構築であり、100のうちの100のアイディアがアインシュタインのものであるといってもいいように見えます。しかし、この理論の肝である「曲がった時空」を扱うためのアイディアは数学のうちの「微分幾何学」と呼ばれる分野から丸々拝借してきたものであり、数学者の立場からみれば、長年にわたって構築されてきた理論にアインシュタインは物理的解釈を当てはめただけ、と言えなくもありません。そして、「微分幾何学」を物理学に適用するというアイディア自体もアインシュタイン独自のものではなく、その指導教官のミンコフスキーの助言に端を発するものなのでした。もしアインシュタインがミンコフスキーと知り合っていなければ、この理論の発見者はアインシュタインではなかったかもしれません。アインシュタインですらhowを指導教官から教えてもらっているのに、どうして稀代の天才でない人間にそんなことができるでしょうか?
華々しく成功して賞賛されたのはいいけど、後々まで、教えてもらった人に、
「あの時は世話してやった」と言われ続けるのは、あなたにとって屈辱じゃないの?
「こいつは使える、優秀だ」と、周りの人に評価されてうれしいの?
評価されて嬉しくないはずがありません。評価されなければ、自分の挙げた成果も日の目を見ず、どこかに埋没してしまいます。それが研究者の世界です。それでは実績を残したことにはなりませんし、研究を続けることもできなくなるし、社会に何の貢献もできていないことになってしまいます。目的ではなく手段として、評価されることは必要です。それを嫌って前衛芸術家を気取っている人は、一生を前衛のままで終わらざるを得ないでしょう。
それに、「あの時は世話してやった」と恩に着せるような言い方をされるのが嫌だといったところで、指導を受けずに何の成果も残せないこととどちらを選ぶかといわれれば、答えはいうまでもありません。それにそもそも、弟子が華々しい実績を上げれば、黙っていてもその人の師は優れた教育者として歴史に名を残すことになるはずで、最初から自慢をする必要などありません。
この元記事を書かれたあなたへ。おそらくあなたは現役の学生なのでしょう。血気盛んに、何かを成し遂げてやろうと思っていて、私を二流に甘んじた人間とお思いなのだと思います。その意気は買うべきものがあるし、私が二流なのも事実でしょう。しかし、「何かを成し遂げる」ということは、あなたの思っている通りのことではないのも事実なのです。それを知って欲しいのです。上にアインシュタインの話を長々と書いたのも、アインシュタインであっても実際に成し遂げたことはおそらくあなたの想像より遙かに地味なことであろうという事実を知って欲しかったからです。所詮人間の能力には限りがあり、天才と凡人には言うほどの違いはありません。ただし、次に引用するニュートンの言葉が全てを物語っていると思うのです。これを肝に銘じ、有意義な学生生活を送って頂きたいものです。
「私が遠くを見通し得たとするならば、それは巨人の両肩の上に立っていたからだ」