はてなキーワード: プロ倫とは
「生成AIによる民主化」を叫ぶパブコメが公開されて話題を呼び、「それは民主化ではなく共産化」という理解が急速に形成されている。この「民主化」という概念は何も9段の人物が考え出したものではなく、海外の生成AI議論、特にイラスト関連の議論では頻出の概念であり何らかの生成AI推進過激派の共通認識だが、一方で「共産化」は少なくとも増田は寡聞にして知らぬ。では、この「才能」の「民主化」とは何なのか? 恐らく国内で理解されている形では「極一部の『絵師』と呼ばれる特権階級が、生まれながらに持っている、『絵』を生成する技術」を「広く一般が使えるようにする」こと、だろう。
Financialization(金融化)という概念がある。1980年代から汎ゆるものを金銭的価値に換算する動きが加速し、万物が通貨によって交換できるようになる一方で、金融分野に加速度的に富が集中するようになってしまったとか、そんなような話だ。まあ安っぽいネオリベラリズム批判の一種と思って構わないが、このあらゆるものを金銭的価値と拡大の速度、加速度で考えるというプロ倫の延長線上にある思想は米国では広く一般に浸透している。
だから二次元業界も当然この金融化の対象として、森羅万象を四半期指標の伸びとして変換すべしという思想の中で解釈される。このものは素晴らしい、だから儲けを加速しなければならない、という自然な発想がある。二次元イラスト業界を金銭的な側面で発展させようという試みは、2010年代を通じて諸外国で繰り返されてきた。無断転載で客を集めた後、批判を浴びて版権元と交渉しようとした漫画村事件もその一部だし、同人誌の代理購入や転売が行われたり、無断翻訳グループや各種の転載サイトの有料サブスクが販売されたりとか、仮想通貨イラスト作家を巻き込む動きも見られたし、画像ファイルを集めて転売するとか、無料の3Dデータを改造して勝手に売るとか、あるいは無料で転載して名を上げるとか、色々な試みがあった。個々の作家に対してあなたの作品はもっとビッグな儲けに繋がる、価格を上げるべきだ、販売数を増やすべきだ、出版が難しければ顔だって繋ぐ、といったオファーが野放図に撃たれることもあった。
そのいずれにも日本の漫画業界、イラスト作家コミュニティは乗らなかった。日本は強固な「非営利の業界」を維持してきた。
日本人は日本の二次元業界が作り出すソフトパワーをまったく過小評価している。増田はある時、海外のイラストレーターが何だかのソフトの互換性問題で揉めている所を見たことがある。PSDはPhotoshopから出力されるとは限らない、俺はKritaを使っているし現場によってはCSPを使っているとか、どうだかだった。お前らはCSPが何のことか分かるか? Clip Studio Paintだ。増田にとってこれはちょっとした衝撃だった。まったくのサプライズド・ピカチュウだ。分かるか? 国産商用ソフトウェアがイラスト制作ソフトの世界的御三家の一角を固めていて、Adobeが三位なんだぞ。「日本にはジョブズが生まれない」?「日本製のソフトは通用しない」? いや、増田自身、普段はこれを言う方なのだが、それでもだ。かつてはbukkakeが世界一有名な日本語だとか、不名誉で恥ずかしいとか言われたものだが、今では所によってはblack company、mesugaki、menhera moveですら通じる(最後はどこかの初号機の貢献だ)。
そして、この継続的に世界に投射される存在感、その非営利思想(と、その裏でちゃんと行われているアニメやガチャゲー課金としての回収)は、思想的に原理主義的な低位のレイヤーにおいて、世界的に反発と軋轢を生み続けているのだ。
もう一つ説明すべきことがある。共産化とは何なのか? 帝政ロシア末期のそれにしろ、中国のそれにしろ、共産主義革命とは、力を持たない民衆が団結し、腐りきった既存の体制を打破し、特権階級が貪る既得権益を破壊し、人民に還元する、という建前で行われる営為だ。実際にはこの「特権階級」は中流層以下を指し、既得権益とは単に日常生活を指す、ということはまともな人間なら皆知っているだろう。高級な壺を割り水道を破壊し公共施設を打ち壊し電線を鋳潰し、全てを焼き払ってゴミにするのが共産化、共産主義革命である。社会を破壊して所有の概念を、いや「社会」と「モノ」という概念の終了を目指すのが共産主義である。
この「才能の民主化」と「それは共産化である」という批判はこれらを踏まえて解釈されなければならない。
「民主化」による恩恵を得るのはお前らではない。「お前ら」というのはブクマカや増田のような言葉を持つ人間だけに限ったものではない。日本人ではない。ここまで書いてきたように、いま、諸外国には、日本(または中韓台を含む極東アジア)人は二次元イラスト業界で特権的な地位を得、極端なダンピングと異常な反成長主義を敷いている、という怒りがある。その怒りの文脈において、日本人は全て二次元の絵を生成し享受できる特権階級であり、才能の共産主義革命において虐殺される対象である。⑨段のパブコメを書いた「生まれつき手が震えて線が引けない」者など同情に値するわけがない。絵の金融化、イラスト市場の資本主義的成長を阻害してきた旧来体制を賛美する、唾棄すべき特権階級である。ポル・ポト政権の新国家建設の呼びかけに喜び勇んでカンボジアへ舞い戻り人民裁判に掛けられ次々と虐殺された出稼ぎ労働者たちそのものの姿だ。
そしてその方法として、生成AI推進派たちは、Danbooruに(善意で)集積されたイラストを圧縮汎化させ任意に混ぜ合わせ薄めて取り出せるようにする。そのデータを配布し有象無象が使えるようにする。LoRAにより「絵柄」の神秘性を破壊し再現できるようにする。それらすべてはコンピュータの利用を強制して非属人的に実行されることで金銭的価値に還元される。
だからあれは共産化なのだ。だから「生成AIを規制するならば二次創作も規制しろ」なのだ。つまるところ「生成AIによる才能の民主化」の指すものは、金銭的価値への還元を断固として受け入れない二次元イラスト市場の破壊そのものなのだ。文化庁の連中が考えているような「『民主化』による、日本国内の広く一般の者への価値の還元」は発生しない。民主化AIで生産性を飛躍的に向上させたクリエイターの活躍などない。ソ連にまともな戦闘機がなかったようなものだ。仮にこれが「還元」だとするならば、起こるのはちょうど紙を高濃度の過酸化水素水で炎とガスに分解するような「還元」だ。「パブコメの知能が低すぎて困る」とかボヤいている場合ではない。それほどの、あえていえば低知能のもの、が反対一色に染まってパブリックコメントを送ってきているとはどういうことか? 実害を被っているのに他ならないではないか。
この話のオチは、恐らく「生成AIによる才能の民主化」が実際にこのまま進んだとて、著作権法がAIウォッシング無罪を規定したとて、それは絵の価値が下がるという一過性の日本の純損失であって、別に日本的なイラスト創作文化への参入が海外享受者たちに認められるわけではないだろうことだ。Twitter上でも指摘されていたが、AIに点滅するカレットを与えられないから絵が造れないなどという者はいないのだ。完璧な絵をプロンプトで定義できると言うならばしてみるがいい。いや、Twitter上でもなんでもいい、人は文字が読めるのだから、完璧な絵の定義を書けばそれは作品なのだ。件の人物が長々とコメントを書き、そしてバズりを作り出したように。
飽きた。ここで投げる事にする。ナガノのくまを讃えよ。
大学受験で日本史選択だったために、世界史をほとんど勉強してこなかったのだが、年末年始の休みを利用して教科書(山川出版社 『詳説 世界史研究』)を読んだ。
1/2(月)追記 ブコメにて、「 『詳説 世界史研究』 は 「教科書」 ではない」という指摘をいただきました。ここでは 「教科書」 を 「高校で使う教材」 ぐらいの意味で捉えてもらえれば幸いです。また、他にも指摘をいただいた点について修正を加えました。問題意識としては変わっていません。
それでびびったのが以下の点。
・ 旧約聖書の記載(特に出エジプトの下り)を史実として書いている。
・ ウォーラーステインの 「近代世界システム論」 を前提に近代の記述が進む。
・ アジアでの 「勤勉革命論」 が何の疑いもなく紹介される。
・ 資本主義の説明が、ほぼマルクス『資本論』の主張を丸呑みしている。
同じ山川でも日本史教科書だと、 「〇〇論」・「△△説」 の紹介は避けるところがあって、事実の羅列にしか見えないような記述ばかりなのに対し、世界史教科書だとガンガン踏み込んでいくからちょっとびっくりした。
そもそもだ、共産主義ってのは、革新ヅラしているだけで、思想的系譜としては保守に属する。
資本主義っていうのが出てきた、都市ってものが形作られてきた、それらは経済的発展を目指していたら自然とそうなった新しい形だった。でもこの新しい形には貧富が拡大するなどの不合理があった。
そこで、新しい社会への反動として、共産主義が出てくる。「これまでの農村での暮らしでは貧富の差は大したことなかったじゃないか。もう一回その時代に戻そうぜ」。共産主義ってのはそういう発想だ。
今あるパイをちゃんと全部分割したら平等になるってシンプルな考えだ。
ところがこれをやると絶対に経済的には衰退していまうんだよね。
なぜなら、いまあるパイを分割したいだけで、未来への投資って発想がここでは抜けているからだ。
マルクスは資本主義について根本的なところを理解してなかった。まあマルクスをライバル視してたのは「プロ倫」のほうらしいから無理もない。今を我慢して未来に投資するから豊かになるのが資本主義だ、というエッセンスが完全に抜けていた。マルクスは経済について「ブルジョアの工場を奪ったらプロレタリアートが同じように運営するだけだから何も変わらないっしょ」ぐらいのことしか言ってない。
マルクスがそうだったから、レーニンはその通りにした。しかしこれは案の定上手くいかなかったんだよね。労働者には工場を上手く回せなかった。そこでロシアは計画経済の統制をますます強化して、あの有様というわけだよ。
統制を強化するとうまく行かないのも、後付けで考えたら当たり前なんだよね。
なぜなら計画経済っていうのは、当たり前だけど、自由経済よりも高コストだから。管理コストが多くなる。
中間管理職が増えてすぎた会社は、効率が悪くて滅びる。我が日本がここのところ見てきた光景だよ。
増田の考えは、コンピューターのある今なら増えすぎる管理コストも背負えるんではないか? という発想がもとになっているようだ。それは問題点を捉えられているという意味で評価するが、俺は楽観的すぎると思うな。
今のAIって所詮は人口無能で、まだ中間管理職の代わりをさせるわけにはいかないし。それに管理コストってそういう細かい部分だけでなくもっと大きい部分もある。自由経済よりも素早く確実な判断できるのか? という話でさ。それは現実社会をコンピューターがエミュレートできるか?というのに等しい。普通に無理。
いろいろ面倒なのではっきりさせておくと、大学で民俗を専攻してました。隣接分野として文人&歴史&考古の教養は有ります。更に文人サブジャンルの宗教学に関しては「馴染みがある」「概説書、エッセイを読んだことが有る」程度です。
そのうえで、この増田はすごくいい疑問を持ってると思う(ウエメセ)。
これはそのとおりで、逆に言えば「宗教の教義が十分に煩雑で多方面にわたっていれば、それがたとえ非論理的でも教義内で無謬となり諸々の事象を教義で説明できる」っていう仮説があって。イメージとしてはユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学みたいな(こちらは両方とも論理の枠内だけど)。
なのでその場合は「はさみをつかえばおまもりを切ることができる」に対応する屁理屈なり禁忌なりが形作られるのだと思うよ。
宗教と政治が一緒にならないようになったりとかは宗教上の定義とほかの何かの定義が一致しないことに基づいてじゃないかなと思うんだけど
これも逆説的にそのとおりで。
言ってしまえば「政教分離」を是とする現在の日本の状況は、人類全体で見ればたいへん特殊なんです。
200万年前に人類が猿から別れて、その後どこかで「宗教」が発明された。
発掘で確認されているのは10万年前くらいなので、仮に10万年とするけど、
その後、9万9千9百30年間くらいずっと宗教と政治権力は同一だったわけで、
「あれ? これじゃいろいろまずいんじゃね?」と気づいたのがここ数千年(ギリシャ・ローマとかのピンポイントの特例を含む)、
必死に血を流して実効が上がってきたのがここ数百年の話(プロテスタントとかイギリス国教会とかフランス革命とか。これも「別のより穏当な宗教」に置換しただけだけど)、
やっと成功例ができてきたのが大戦期からのここ数十年(共産主義、政教分離)。
といっても何百年後かの人類からは「21世紀のヤツらってまだ○○してたんだって」「やべーwww」と言われるんだろうが。
なので歴史=宗教=政治なのは普通で、上の「いろいろまずい」ってのは、あなたの言う「宗教上の定義とほかの何かの定義が一致しないことに基づいて」とほぼ同一なんだけど、たぶんまだ現生人類はベースが宗教=歴史=政治=パラダイムなので、色んな場面で宗教的感覚は染み出してくる、というのが俺の私見。
渋谷スクランブル交差点地下道入口へ登ることが禁止されてるのは? 禁止しないとやっちゃう人がいっぱいいるから。
何かが禁止された記録というのは、それをやっちゃう人が現実にわりといっぱいいたから。
というのが歴史学の基本的な考え方の一つです。
なんか読みやすい参考資料とかパッと浮かぶといいのだけど。プロ倫の解説書とかかなー。微妙か。
現役じゃなくなって久しいので、だれか現役の人頼む。
つまりそれは集団の意思決定=政治学であり
集団での金やらモノやらの動き=経済学だ
そういう「自然ではあるはずがない」単純な仮定空想の状況を作り出して実験することも容易い。
やっぱりさ、人間をある程度捨象してしまうことだよね。つまり類型論。類型論って、ステレオタイプのこと。
そうすれば、因果関係も見えてくるじゃない?でも、類型をつくる時点で、それは人を捨象する学者の価値判断がそこに含まれてしまう。
やっぱり科学っぽくない?まあしかし厳密な正当性なんてものを社会みたいに相関的、イコール互いに影響しあう対象の研究に求めるのは酷。
ある程度の妥当性が認められれば万歳でしょう。
じゃあどういう風に類型を作るのが一番妥当なんだろう?マックス=ウェーバーはプロ倫を考えてみる。
まず事実があるじゃん。資本主義ができる前にはプロテスタントが広がってった
プロテスタントには商工業者が多い。プロテスタントは現代でも重役につくことが多い。
フランスはナントの勅令を廃止してから財政難に陥った。スペインはゴイセンを迫害してから没落していった。
適当だよ?ウェーバーさんがどういうやり方したかは知らないよ。適当適当
でもこれら個別の事実を並べて、ある色メガネでみるとそういう法則が分かるんじゃないかってこと
色メガネは絶対に必要なんだよね。つまり他の色を捨てるってことだよ。
まぁ結論ありきでやらないってことが重要だよね。どの色メガネを使うか最初からきめてたらそれは「ただの今頃の若いもんはおやじ」だよね。
統計に余計な価値判断を加えるのが社会科学、というか社会学?ですが!その価値判断が社会学のすべてなので!スマートでアクロバティックな価値判断がよろこばれます!つまり多様な価値観!複眼的な分析が重要なのです!