はてなキーワード: オットセイとは
死にかけのオットセイが浮かんだ
土竜の唄で得た知識だから本当かはわからないけど、オットセイ社会がそんな感じらしい。
限られた強い雄がハーレムを作って子孫を残すので、殆ど雄が用済み。
戦いに敗れた手負いの用済み雄同士で群れになって暮らすらしい。(もちろん、強い雄にそのまま殺される雄も多い)たま〜にハーレムから抜け出した雌がそこの雄と交尾をしてまたハーレムに戻ったり。
どうもこんにちは、みなさんが生きる価値がないと思われております、キモい男性です。
弱者を狙うなんて許せないっ!
バカなのか?
いや~怖いですね~~
そうやってお前らはオレたちをバカにし続けんだろ。
よくもまあ30年間バカにし続けてくれたな。
たまには痛い目あわせてやらないといけないよな?
まず女な。
インターネットに溢れる弱者男性論のおさらいをするつもりはないが、
オットセイの群れ・ゴリラのシルバーバック・あるいは逆に女王バチ・アリ。そういうもんだろ?
性差とは相補的なモノって主張なら理解してやらんくもないが、弱者ぶってんじゃねーぞ。
じゃ、女さんのツイート鑑賞会でもするか。(女かどうかは知らんけど)
この手のクソインセルの言う「幸せそうな女を殺したい」って要は「女みたいな卑しいもんが幸せそうにしやがってムカつく」ってことでしょう。
男相手には決して手を出さない、さすがジェンダーギャップ指数120位の国の男。女を見下しながら甘えたおしておまけに殴ってくる、おまえは一体何様なわけ??
己の人生が失敗だとして幕引きは自由だよ。問題は何故そこで「満たされなかった」怒りを見知らぬ女に向けるのかってこと。
幼稚なくせにプライドだけ肥大させて、自分の汚れた尻をどうにか女に拭いてもらおうと考える。弱くて未熟で人任せで、ママ待ちの赤ん坊と同じ。体だけ大きいぶんタチが悪いわ。
日本に限った話じゃないけど、何も成し得なかった甘ったれ男に限ってこういうことをするよね。
無関係な女を勝手に見下して、無関係な女に勝手に甘えて、無関係な女を勝手に憎んで、加害インセルさんが幸せになれないのは自分自身が誰より卑しいからなんじゃないんすかねー。ああ胸糞悪い。死刑で。
おもしれー女笑 お前どこ住み? 沿線教えて?
「幸せそうな女性を見ると殺したいと思うようになった。誰でもよかった」?全然誰でも良くないし、36歳で女子大生襲うのキモい…
キモいのは知ってるよん。
まずは自己中だけど、そうなるように性格をゆがませたのは誰かな?
難しいな・・・君たちの言う「正しい思考」ができる脳ミノ、持ってないのよ。
いや、他人のこと考えて君たちの社会に奉仕するの「疲れた」から。
まあ自己中のレッテル貼るのは楽しいよね。オレも君たちに「敵」のレッテルペタペタ貼ってる。
楽しくてたまらん。
解釈というのは真実ではなくて、オレらにとってどう活かせるかということね。
1つは、このツイートみたいに知能にハンディギャップがあったという説。
通り魔事件だと割とある話だ。ただあんまりそうも思えない気がする。
電車を場所に選んだのはかなり計画的でオレも参考にしようかと思うぐらいだ。
2つ目は、混乱していた上での行動だったっていう線。
人を殺すのはそう簡単ではないし、何か大きな感情の異常インパルスが押し寄せた際にしか発火しない神経回路というものはある。池袋の通り魔事件とか、カッとなって計画したモノは多い。
そういうときにガソリンや季節はずれの灯油は入手しづらいし、台所のサラダ油を選んでしまう可能性は高いと思う。
そもそも、女さんが言うように日本には世界に誇れる死刑制度がある。
3人殺せば自殺サービスがつく。素晴らしい国だ。日本に生まれて良かった。
まあこの人は切ない言うてくれてるからそんな叩かんで次行こう。
36歳にもなってサラダ油にライターで火がつくと思ってるような男に、電車に座ってるだけで勝手に「あいつ幸せそう」とか判断されるわけですよ。なんなの。
30年分の「なんなの。」、お前にあげるよ。
統計的に女のが幸せなんだから、論理的にその推論は正しいと思うっ!
そろそろ締めくくろうか。
うん。生きててごめんね。
大正生まれの祖父は、坊主頭でメガネをかけ、こけた頬に冷たい眼差しを持ち、いつも気難しそうな顔をしていた。息子である父から聞く話でも、私は祖父に対して怖いというイメージしか抱いていない。第一印象も第二印象も、とにかく怖い。祖父を評する言葉はそれ以外に無い。もっとも、祖父は私が生まれる7年前に亡くなっている。だから、私が見る祖父はいつも仏壇の脇に飾られた白黒写真のみであり、その気難しそうな佇まいを見るたびに幼心にピシッとした気分になり、怖い爺さんだなぁと思うだけだった。私にとって祖父は、無機質な写真のみで完結していた。
対照的に祖母はとても優しい人で、おっとりしたお婆ちゃんだった。私は末の孫だったこともあり、とにかく甘やかされていたので、特にそう思うことも多かった。祖父とは会ったこともないが、祖母とは長い時間を共にした。私は幼稚園に入る前、母が働いている間は朝から夕方まで祖母の家に預けられていたので、祖母とは二人きりの長い時間をゆったりまったり過ごしていた。かなり幼い頃の記憶だが、何故だかその日々のことは断片的によく覚えている。暴れん坊将軍と蒸し芋が大好きな未就園児だったので、祖母とは気が合い可愛がられた。
祖母は幼い頃の私にとって第二の母のような存在で、お話もたくさんしたけれど、既に亡くなっている祖父の遺影はインテリアのように飾らせているだけで、その人となりについては何一つ聞いたことがなかった。息子であるはずの父や叔父からも、祖父の話は聞いたことはほとんどない。思い出話も一つも聞いたことがない。祖父がどんな人かと聞いても「おっかねぇ(怖い)人だった」と返ってくるくらいだ。そんなこんなで、私が知る祖父像は極めて薄い。とても薄っぺらい。お前の爺さんだよと言われてもピンと来ることはなく、いつまで経っても白黒写真の遺影の人でしかなかった。
そんな祖父の遺影の脇には、立派な額に入れられた賞状が飾ってある。内容は、抑留生活を慰労し、銀杯を贈られたという内容で、すでに故人になっている祖父へ政府が贈ったものだ。戦後、日本には57万人以上もの人々がシベリアへ連れて行かれており、祖父もその一人であった。『祖父は戦争へ行き、シベリア抑留をされていた』たったそれだけの漠然とした事実が、私の中の祖父像を大きく占めていた。小さい頃から、「うちのじいさん、ロシアに連れてかれたんか」と単純に思っていた。どこからともなくの知識で、多くのシベリア抑留者がそうであるように「終戦時は満州にでもいて、捕まったんだろう。だが、どうにか生き延びて帰ってきた」と思っていた。
去年、祖母が97歳で亡くなった。50過ぎの時にヘビースモーカーが祟って肺癌で亡くなった祖父に反し、かなりの大往生である。そこで私は、葬式での親戚が口にした言葉で「祖母が嫁いだ翌日に、爺さんに赤紙が来た」と耳にした。おいおい、なんだそのタイミングは。ドラマかよ、と思った。そもそも祖父母はお見合い結婚だし、祖父は戦後も抑留され、長いこと家に帰って来なかったし、つまりそれが事実なら祖母は長々と見知らぬ姑と過ごしたことになる。しかも、ど田舎の山中にある村で、家業は農家という典型的な家だった。時代が時代とはいえ、婆ちゃんは肩身の狭い思いをしていたんだろなぁと可哀想に思った。
その頃から興味が沸いていたんだと思う。
遺影の中で怖いオーラを放っているだけの、実態の無い祖父像について。
私はどこからともなく『兵籍簿』の存在を知り、取り寄せたいと決意して、去年の8月15日、実家で終戦番組を見ながら父に話を切り出して頼んだ。兵籍簿の取り寄せは三等親まで可能で、孫の私でも可能だが、故人の息子にあたる父が取り寄せた方が、必要書類が少なく済むからだ。父は戦争映画などを見るのが好きな人だし、その手のものに興味があるタイプなので、あっさりOKしてくれた。断られたらどうしようと思っていたので、聞いた時はタイミングを見極めドキドキだった。
兵籍簿の取り寄せは案外簡単だ。やり方は調べればネットに載っている。うちの祖父は陸軍なので、県の恩給科に電話で問い合わせ、手続きを始めた。ちなみに、海軍だと厚生労働省になる。陸軍であれば『〇〇県 兵籍簿』あたりで調べれば、どこの県もやり方を導いてくれるだろう。発行に際して必要なものは、対象者が故人の場合は申請者との繋がりがわかるための除籍謄本と戸籍謄本といった、役所で簡単に発行してもらえる書類。あとは申し込み用紙を書いて郵送する。コピー代などで数百円かかるが、あまりにも簡単なので、もっと早く取り寄せればよかったと思った。
まぁ、取り寄せた所で、どうせ祖父はちょろっと満州にいて、そのままシベリアに連れてかれていたんだろう。祖父は誰にも戦時の話をしなかったので、家族の誰しもがそう思っていた。語らずに亡くなったがために、語るまでもない軍歴だったのかと、我々は思い込んでいたのかもしれない。みんなが祖父の戦争について知っていたのは、彼が『シベリア抑留されていた』たった一言の事実のみであるのだから。
当時の書類ということで、読み難く難解な旧字も多かったが、やはり同じ日本語なのでほとんどは解読可能だった。それもネットで調べられた。
読み解いてまず驚いたのが、祖父は1940年から43年2月まで、きっちり軍生活をしており、一度は満期除隊をしていたということだ。その時は主に満州で国境警備をしていたらしい。大きな作戦や戦闘に関わることなく、晴れて日本へ戻っていたのだ。もしかしたら亡き祖母は知っていたかもしれないが、祖父は息子たちへ語らずに亡くなったので、満期除隊をしていたことなど誰も知らなかった。
次に驚いたのは1944年2月、祖父は除隊からほぼ一年後に再び徴兵されており、(祖母が嫁いですぐに赤紙が来たエピソードは日付けから事実だと裏付けられた、祖母マジでお疲れ様すぎる)今度は満州ではなく、北海道の先にある『千島列島』に行っていたことだった。私は先入観からてっきり、祖父が満州で終戦を迎えたと思っていたので、想像していた祖父の人生はガラリと色を変えた。
千島列島……千島列島……たくさんの島が連なる北海道の向こう側……北方領土……。そうか、そこにいた人たちもシベリアへ連れて行かれたのか……。そりゃそうか。
千島列島といえば、日本の降伏後にソ連が乗り込んできた占守島の戦いが有名だが、祖父は『新知島(シムシル島)』から途中で『得撫島(ウルップ島)』に回され、その二度目の徴兵では約一年半の千鳥列島生活を送り、終戦を迎えていた。兵種はずっと砲兵、終戦時は上等兵だった。祖父はヒョロ長い体を駆使し、轟音の轟く砲をぶっ放していたのだろうか。なんともたくましい。
お恥ずかしいことに、私は新知島のことも、得撫島のことも、「なんか名前は聞いたことあるなぁ〜」程度で何一つ知らなかった。千島列島にソ連が攻め入った経緯すらも、占守島の戦いの名前で漠然としているだけで、よくわかっていなかった。
どんな所か調べたくなった。特に長くいたらしき得撫島について。当時の千島列島について。
祖父のいた部隊は結果的には戦闘をしておらず、言わば活躍をしたわけでもないので、ほとんど資料がなくて見つけ出すのには苦労した。
得撫島はもとより、千島列島は自然の宝庫であると同時、一年を通してほとんど霧に包まれ、風も強く、ましてや長い長い冬を有する極寒の地。白夜であり、夏の夜は極めて短い。夏でも長袖は欠かせない。ほぼ無人島。そんな場所で「はい、今日から暮らしてね〜」となったら苦労していないわけがない。制空権を奪われていたので、空からは米軍の攻撃もあった。制海権も奪われており、艦砲射撃が降り注ぐ。戦時中その海域では民間人も含め、2-3万人の人が亡くなっている。祖父のすぐ後に続いて小樽港を出港した同郷の部隊は、魚雷を撃ち込まれて沈没。冬の海に投げ出され、当時は軍機密に隠され2000人以上が死んでいた。祖父もほんの僅かな順番が違っていたら死んでいた。私もこの世にいない。数奇な巡り合わせで今の私は生きている。
得撫島はラッコの島と呼ばれるほどラッコがいるらしい。オットセイもいるらしい。祖父は間違いなく野生のラッコを見ただろう。自然豊かな大地。現代人の私が見たこともない美しい景色を、祖父は計らずとも見ていた。不本意の戦時下に望んでもない場所へ飛ばされてはいるが、愛くるしいラッコちゃんとの遭遇が顰めっ面の祖父の心を癒してくれていたことを願わずにはいられない。
兵籍簿には、祖父の召集や転属などの略歴が淡々と日付けと共に記されていた。必要最低限の事務的な情報であるが、その一つ一つの行間にも目に見えぬ多大な苦労があったはずだ。
古ぼけた紙は語っていた。戦争は8月15日に終わっていなかった。南方の激戦地のように食糧に困る事はなく、敵と遭遇することも戦闘もしなかったとはいえ、祖父は戦後も長らく闘い続けていた。自分の血縁者である祖父が歩んだ具体的な数字を見せられ、これはリアルなことだったと肌身に伝わってきた。日本がしていた戦争と、祖父の存在への深みが増した。
シベリアでの日々を、祖父の白黒写真の顔と合わせて想像してみた。マイナス40度の永久凍土で働く、ろくな装備もない日本兵たち。栄養失調。ひもじい。所々にシラミが沸く。病気が流行る。ご飯は堅い黒パン。粗末なスープ。戦争は終わったのに、周りがどんどん死んでいく。いつまで経っても日本に帰れない。故郷よりももっと寒い、極寒の異国の地。日本には結婚生活を1日しか送らなかった嫁が待っている。祖父は雪深い土地で生まれ育ったから、シベリアでも適応能力が多少なりともあったのだろうか。そう思うことが唯一の救いである。
祖父が何も語らずに亡くなったのは何故か。千島列島を盗られた背徳感か。過去な抑留生活に蓋をしていたのか。赤化教育を受けたことによる偏見を隠すためか。南方の激戦地に比べたらと、自分の半生は話すまでもないことだと思っていたのか。祖父の心を知る事はできない。私は想像することしかできない。祖父は日本に帰ったが、一切を語らずに亡くなった。故郷の山村とは掛け離れた四季の彩りのない場所で、途方もない八年もの戦争と闘ったのに、一言も喋らずに亡くなってしまった。
ここでは政治的な話はしない。
兵籍簿を読むことによって、それまで漠然としていた祖父の存在がぐんと近づいた。存在そのものを実感した。祖父はちゃんと生きていた。過酷な時代を生き抜いた。ドラマや映画の主人公になるような経歴ではないが、私が一分で根を上げるような過酷な環境に長々と身を投じていたのは明らかだ。じいさんすごい。マジでお疲れ様すぎる。生き抜いてくれてありがとう。じいさんが頑張ってくれたおかげで、私はこんな平和な世界でツイ廃をしながら、ソシャゲに夢中になれて、推しに心血を注ぎ、それを通して素晴らしい友人と出会うことが出来た。夏にはクーラーの効いた部屋でアイスを食べられるし、冬には暖かい部屋でアイスを食べられる。平和は素晴らしい。色んな国の友達もいる。その中にはじいさんが憎んでいた国の人もいるかもしれない。私は紙切れ一枚で戦地へ送られることなく、空や海からの脅威を感じることもなく、当たり前の明日をのほほんと待ちながら好きなように生きている。これは素晴らしいことだ。そんな当たり前のことを、強く思った。
兵籍簿を取り寄せて良かった。兵籍簿はどこからともなく知った物だが、私はこれを読まなければ自分の流れる血に関してとても大事なことを知らずに死んでいた。
仏間へ行き、再び祖父の遺影を見上げた。祖父は相変わらず怖い顔をしている。けれど、もうそれだけではなくなっていた。その遺影は漠然とした無機質なものではなく、凄惨な時代を生き抜いた血が流れているのだ。仏間を見下ろす祖父は、計り知れない威厳を背負っていた。
うんこ味のカレーとカレー味のうんこ、もしどちらかを絶対に食べなきゃいけないとしたら、どちらを選ぶか?
おそらく物心ついた時分に、誰もが一度は直面したことのある命題だろう。究極的にプリミティブなトロッコ問題とも言えるかもしれない。
僕の答えはここ20年くらいのあいだ変わらなかった。迷うことなく、「うんこ味のカレー」だ。なぜか?それはうんこを食べたくないからだ。うんこの方は、いくらカレー味であったとしても、あくまで"カレー味"でしかない。つまり、うんこはうんこだ。僕はうんこは食べられない。なんかいろいろな尊厳を失いそうだし、わけもわからず親に謝りたくなると思う。
ところがつい最近、僕はこの命題について、もう一度しっかり考えてみた。なぜそんなことを今さら考えるに至ったかは自分でもよくわからない。仕事を辞めてから先、平日の昼間なのにベッドに寝そべって天井の模様を数えたり、フローリングの継ぎ目であみだくじをしたりという生活を送っていたことが何か関係あるかもしれない。
僕は大人なので知っているのだが、世の中にはスカトロジーという性癖がある。つまり、排泄行為や糞尿に対する性的嗜好だ。前に友達とふざけ半分でスカトロのAVを観たことがあったのだが、そこでは見た目は還暦手前くらいの歳なのに、何故かシワが全くと言っていいほど無いツルツルの奇妙なおばさんが自分の出したうんこを自分で口に詰め込み、体に塗り、何が楽しいのかオットセイのように絶叫していた。しかも一度だけではない。その回数、3時間の映像内でゆうに4回。こういう人ってふだんどういうことを考えて生きているんだろう。
妙齢の女性が4回は食べられる、ということは、おばさんのポテンシャル抜きに考えても意外な結果だと思う。これだけでも僕のうんこに対するハードルがだいぶ下がるような気持ちだった。
ネットで調べただけの知識にすぎないが、大小や形状あれど、うんこの致死量はおおむね"一本"らしい。この致死量もあくまで仮定でしかない。
例えばカフェインの致死量は400mgだが、これはコーヒーカップ4~5杯分にあたる。コーヒーが大好きな僕などは、ファミレスに行くとそのくらいの量は全然余裕で飲んでしまう。
さらにスカトロもののAVでは、女優さんは撮影の前後にちゃんと抗生物質を飲んでいるらしい。よく考えたら当たり前だ。万が一体になにかあったら大変だ。僕の前働いていた会社では、うんこを食べて何かあったとしてもおそらく労災すら降りない。僕の会社はうんこを食べる業態ではなかったのだ。AV業界は福利厚生がしっかりしているな。だからこそおばさんも安心してオットセイになれるのだ。
話が少し逸れてしまったが、なにも毎日カレー味のうんこを食えと言われているのではない。究極の選択、つまりここぞという時、マジでどっちか絶対食べなきゃいけない時にどちらを選ぶかということだ。
ここで"うんこ味のカレー"についても、もう一度考えてみる。
僕はもう子供じゃないので想像ができる。みんなも想像してみてほしい。うんこ味、ということは香りももちろんカレーではないはずだ。
ここで更にマズいことが起こる。カレーというものは大抵の場合においてホッカホカだ。もう言わずとも分かると思うが、加熱により香りが倍増したそれが、白いごはんと一緒に目の前にあったらどうだろうか?僕はもう無理、いろいろと無理だ。不快感がうんこ単体に対するそれの比じゃない。においは人の記憶と深い関係があるというが、きっとこちらを選択してしまったら死ぬまで忘れられないだろうな、と思う。例えば大きな仕事を成し遂げたとか、婚約だとか、この先の人生で何か節目となるような喜ばしいことがあったとしても、その度にふとこの選択肢を取ったということが頭によぎって背すじがピンとしてしまうだろうし、死ぬ直前にも絶対に走馬灯で出てくると思う。香り付きで。
だからきっと、実際にカレー味のうんこが目の前に出てきたら、僕は完食はおろか近づくことすらままならないはずだ。
と、あまり積極的な理由ではないものの、僕は齢28にして"カレー味のうんこ"という選択肢を初めて手に取ることができた。
大丈夫、致死量はあくまで仮定でしかないし、抗生物質だってある。においも味もカレーでしかないのだ。もしためらいそうになったら、カレー味でもないのにうんこを4セット食べるあのおばさんのことを思い出せばいい。きっと一歩を踏み出せる。
なんなら、うんこを食べたって事実がネタになる。"うんこ味のカレー"と違って、"カレー味のうんこ"は"うんこ"なのだ。子供の頃こそ、うんこ=悪みたいな風潮で、小学校のトイレでうんこをしただけで重罪人みたいな扱いだったが、もう僕たちは分別のある大人、しっかりとした判断ができる。うんこは罪ではない。うんこはおもしろい。数少ないが仲の良い友達だっているし、きっと笑ってくれるだろう。食糞という体を張ったネタを、あのカレー味がアシストしてくれる。そう思うとうんこって食べ得じゃない?
だいいち僕は無職だ。端的に言って死にたいのだ。大した経歴もないし仕事もできない、社交性もなければこれといって好きなこともない。もうすぐ30歳。はやくバイトに行けばいいのに、平日の昼間から「カレー味のうんこはどうだろう?」と一生懸命考えている。もう死んでもよくない?うんこ食って死んで誰かに笑ってもらえたらそれはそれで嬉しい気がする。親とか尊厳とかどうでもいいだろ。
そういうわけで、いまの僕は究極の選択を迫られた時、「カレー味のうんこ」を選ぶことができます。年齢を重ねると今まで分からなかったいろんなことが見えてくる。みなさんも大人になったいま、よかったら改めて考えてみてください。新しい発見があるはず。
僕はそろそろ日払いのバイトに行って小銭を稼ぎます。国民健康保険とか住民税とか払わなきゃいけないので…。誰にでも明日はやってくるんだよなあ!!