はてなキーワード: 自殺とは
横からですが
産後うつ(産後のホルモンバランスの急激な変化が関わる)での自殺は
2022年の厚労省の統計では10万出産あたり8.43人の自殺率(期間1年)となっています。(下記リンク)
また2022年の死亡全体中のうつ死亡率は23%となっていますが
産科危機的出血や羊水塞栓(血液中に羊水が入って起こる)での死亡割合などは
周産期うつと合わせると10万出産あたり21.62人の死亡率となります。
(リンク2/27)
https://www.jaog.or.jp/wp/wp-content/uploads/2023/11/3bd9b6256769e55154e241912e123866.pdf
対して労災による2021年の10万人あたりの1年間の死亡者数は、男女合わせて1.6人です。
https://www.jisha.or.jp/international/topics/202210_39.html
10万出産あたり21.62人の死亡率は1人産んだ場合ですが(期間1年程なので)、出産は2人産む場合も多く、場合によっては3人以上産むので
訂正
産後うつの自殺者数を、周産期うつ(産前産後うつ)の場合と間違えており期間1年9か月としていましたが、資料の10万人あたりの自殺割合の部分は産後うつのもので期間は1年間でしたので訂正しました。
自殺なんかしないよ
この内容がひとつの当事者の声として、実際に関係者に届いてほしいのか、
それとも自分の心情を吐き出す場所がほしいだけなのかはわからないが、
書かないと、どうにかなってしまいそうなので書く。
彼女の訃報を知ってから半日経つが、率直に言ってかなり精神的にまいってしまっている。
普段は物事に対して必要以上に感傷的になったり、映画などを見ても大泣きしたりはしないタイプの人間なのだけれど、
このあまりにも唐突で受け入れがたいニュースに触れてからというものの、
仕事や大学の授業が終わり一人になると、納得できない気持ちや言葉がどんどん頭の中をめぐって、
私生活に特別な不満もなく、心身ともに健康に日々を過ごしていた自分でさえこうなるのだから、
希死念慮を抱えて生きるような人々にとって、著名人の自殺報道がどれだけ影響を持ちうるだろうか、ということも考えてしまう。
自分が彼女に心酔する大ファンだったかと言うと、多分そうではない。
ただ、家で一人作業している時に流すiTunesのプレイリストの数%は彼女の曲であり、
人生で彼女の曲を聞いた時間を一つにつなげると、大抵の友人や家族と過ごした時間よりよっぽど長いのではないと思う。
彼女の楽曲は、巷で「生きづらさ」として語られるような感情をベースにしたものが多くて、
それが彼女の内なる思いの発露なのか、商業作家としての生存戦略であったのかはわからない。
彼女に対しての感情は同年代ならきっと抱くのだろう「共感」とはすこし違っていて、
突出した作家性で、歌声で、演奏で、唯一無二の音楽を聞かせてくれる存在だった。
記憶にすがるように罰が下るのを待っていたように
僕が僕自身をこの部屋に閉じ込めていた
という歌詞だ。鬱屈して閉じこもる心を「罰が下るのを待つ」と表現する感性。
彼女にとって自分の内面とは、けして外界とのつながりを断つための境界や手段ではなく、
それはまるで彼女の内側に広がる「世界」であり、それを統べる神様とさえ繋がる場所だとでもいうような、
強烈な自意識のあり様、彼女の作家性の一端に触れた時は、まさに殴られたような気分だった。
自分のプレイリストの中には、自分が今まで出会ってきたアーティスト達と並んで、高確率で彼女が入るようになった。
(この曲を含め、彼女の歌詞には「君」や「あなた」という表現がよく出てくるが、
彼女にとってはそれもまた客体化された、向き合うべき自分自身であり「神様」であるように思えてならない)
一度だけライブにも行った。
コロナ禍の中、東京で名古屋まで遠征して、人もまばらな新栄町のライブホールで彼女を見た。
落ち着いた会場の中で見た彼女の印象は、楽曲の持つ強烈な存在感とは裏腹に、
どこか年相応で、満員の観客と向き合うには何とも頼りなく見えた。
路上ライブ時代の楽曲なども含めた弾き語り中心の穏やかなセットリストと、
苛烈さを秘めた内容に対して、いつでも「聞いて下さい」から始まるあまりにも低姿勢で飾らないMC。
大満足と言うよりは、次もまた見に行こう、というような気持ちになったのを覚えている。
あまりリアルタイムでアーティストの動向を追うこともないタイプなので、
彼女の結婚や病気、活動休止といった直近のニュースはまったく知らなかった。
ただ、毎日の在宅デスクワーク、その時の気分で音楽を延々と流す日々のワンシーンに彼女がいる、
好きなアーティストの死に触れることは初めてではない。
1970年代の洋楽もよく聞くので、ルー・リードやデビット・ボウイが死んだ時もショックだった。
ただ、、寂しくはあってもどこかで覚悟していた大御所の死とは違い、
彼女の死に直面して、色々な感情が駆け巡って、最終的にたどり着いたのは「納得がいかない」という思いだった。
音楽の歴史の中で、若くして死ぬ事によって、伝説的に昇華されてしまったようなアーティストはたくさんいるが、
もはやそんな時代ではないと思う。
生み出された作品とその作者の人生や生活は切り離して考えられるべきであって、
劇的な死に方をすることで、楽曲の意味が何らかの方向性を持って印象的に底上げされる、
なんて事は受け入れてはいけないと理性では思っている。
「自死」という究極の自己決定と紐づけた時に、そのありかたが容易く変質してしまう類のものだと個人的には思う。
彼女自身の感性で研ぎ澄まされた強さと繊細さ、息苦しさがたどり着いた結果が「それ」だとしたら。
到底受け入れられない。結びつけてはいけない。
彼女がどんな人生を辿ったとしても、彼女が楽曲に込めた表現の意味は変わらないはずで、
自分にとって、これから先も、生活の一部として聞き続けるであろうたくさんの音楽の一つとして、
年月が移り変わっても、変わらないものとしてありつづけてほしい。
彼女が言葉と歌声と音楽で生み出した、暗くもあたたかい世界は、私自身の居場所でもありました。
自分だけの、二人だけの、生まれながらに全てが正しくて、善であるのだと強く歌ったはずの世界を、
彼女自身が、自ら”指パッチン”で終わらせる対象として塗りつぶしてしまったのではないか。
彼女が歌の中で生み出して、繰り返したモチーフのひとつひとつが、
彼女が選んでしまったかもしれない現実の結末と、それを知った自分自身の類推に過ぎないイメージで上書きされてしまう事があまりも怖くて、
自分はいま、彼女の死を知ってからまだ一度も彼女の楽曲を聞くことが出来ずにいます。
ここまで来てやっと本題です。
今回の「死因非公表」というご遺族の意向による報道内容によって、自分は落とし所を見つけられずにいる。
まず大前提として、著名人の死に当たっては、今回コメントを出した彼女のパートナーを初め、最も近しい人達が、
彼女の死という重大な出来事に対して向き合い、たとえ時間がかかっても心の折り合いをつけていく、
そのための時間は絶対に必要で、「ファンのお気持ち」なんて物とは比べるまでもなく優先すべきで、
ニュースやその視聴者が、それが興味本位であっても切実な悲しみであっても、
彼女の死の原因のあれこれを詮索して、彼らに必要な時間を踏みにじるような事はあってはならないと思う。
その意味において、詳細な死因を公表しない、と決めたご遺族の判断は第一に尊重したい。
ただ、それと同時に、自分を初めとして、彼女の楽曲に日常的に触れてきたファンも、
突然の訃報のショックと抑うつ、行き場のない感情、彼女の楽曲を以前と同じように聞けなくなった辛さを抱えています。
その中で、彼女の死がはたして「自殺」なのか「病死・事故死」だったのかを知ることは、
いや、大きな意味など本当はないのかもしれない。
あるのは、彼女の死が、病死や事故死といった本人の意志によらないものであってほしいという祈り。
でもおそらく報道コメントが暗に示すように、もし彼女が死を選んだという事が真に明らかになったとしたら、
自分の中で、彼女の楽曲に対する「受け入れがたい変化」がより決定的な物になってしまうだけなのかもしれない。
ただ、海や山で誰かが遭難して数ヶ月が経ち、たとえ見つかるのが遺体だとわかっていても、
長い人生の中で避けられない大切な人の喪失を受け入れるにあたって、
その理由や結果を知ることは、たとえ残酷な結論だとわかっていても、必要な過程なのではないでしょうか。
今まさに現在進行系で心の行き場と日々の平穏を失ってしまった自分にとっては、
彼女の死因を知ることが、とても切実な問題であるように思えてならないのです。
自殺報道が最大限の配慮を持ってなされるべきだ、ということももちろん承知しています。
その一方で、ペットロスといった身近な死を乗り越えるためのサポートなども社会課題として捉えられる時代においては、
一定の社会的支持を持つアーティストの死に対して、ファンが重要な事実を知ることも、
私達が「大切な存在の死」という逃れられぬ現実を乗り越えるためには必要な手続きなのではないかという事を、
いままさに行き場のない思いを抱える当事者として切実に感じています。
自分は、彼女の死を知って以来、まだ彼女の曲を一度も聞くことが出来ていません。
いつかまた彼女の曲たちを、これまで同様に、そして私の生活を彩る他の数多のアーティストとも同様に、
自分の人生にとってかけがえのない存在として共に過ごしていく日々がまたいつか来ることを切に願っています。
長くなってしまいましたが、
話を聞いてると先週頃からテレビのYouTube閲覧機能で食い入るように政治系の動画、特に高市の動画を1日中観てたらしい
あと正義のミカタとか
元からあの中卒メンヘラ馬鹿女はフェミスピ似非科学に親和性があり孤児院育ちでADHDのうえ好みじゃない男を目にするたびに相手の容姿を口汚く罵倒し性被害嘘松を口走るどうしようもない俗物だとは思っていたが、まさか政治に興味持ってネトウヨ属性まで加わるとは思わなんだよ
確かにYouTubeをチェックしてみると高市が女だてらに舌鋒鋭く汚えおっさん共を論破する弱女ポルノに仕立て上げられた切り抜き動画が色々上がっててあの母親なら食いつくだろうなあとは思ったが、やはり昭和生まれのメンヘラ中卒女なんてこんなもんなんだろうな
全く人をみる目がない
だからあんな被差別部落二世の無責任末っ子ゴミカスクソ親父と結婚なんかするんだよ
これからはネットで盛大に石破叩きを始めるんだろうが、その度にはてな民の用な良識ある市民が完膚なきまでにあの馬鹿女を叩き潰し自殺に追い込んでくれることを祈るばかりだ
暇空茜がひょんなことから誹謗中傷している相手の堀口英利は、追い詰められてたびたび「死にたい」と自殺願望を漏らす
暇空は堀口の住所を知っているので、堀口が自殺予告っぽい書き込みをするたびに堀口の近所の交番に通報していた
今までは警察は「見に行ったけど大丈夫でした」「留守でした」「親御さん呼びました」などと報告してくれていた
youtubeで配信しながら通報し、警察の音声も流すなどしていた
堀口は先月に暇空に高裁で勝訴し、つい最近に控訴の期限をすぎたが暇空が諦めてくれたのでインスタでちょっと元気になった
「死ぬ以外に楽になれる道が見当たりません。でも、死んでも鞭を打たれ続けるでしょう。どうしたら良いんだろう」
勝利宣言をしていたが次第に落ち込み、また弱気な発言をする堀口
暇空は堀口のインスタを監視して更新を待つ配信をやっていて気づき、また交番に「自殺予告をしている」と通報
なお暇空は、「最近のインスタは偽者が影武者をしていて、堀口本人はどこかネットができないところに閉じ込められている」と主張していたが
「今回は本物のターンで本当に自殺するかもしれない」として自説を曲げた
しばらくしてから再度交番に連絡すると毎回安否報告をしてくれていたのに、何故か今回は「通報は受け付けましたが結果は言えません」と返答
なんで教えられなくなったんだよと暇空ブチギレ
今まで通報は暇空一人だけでなく、弁護士にも通報するよう命じており、暇空には話さない情報も弁護士には話してくれる場合があった
習い事で仲良くなったあの子は、同い年なのにずっと賢くて大人っぽかった。かっけーなーってぼんやり思ってた。大人になってもこれからも、ずーっとぐだぐだしながら定期的にお互いの近況報告とかするんだと思ってた頃、来なくなった。もともと学校も違うし、今年受験だし、忙しいんだろうと思ってた。そしたら共通の友人から「あいつ死んだよ」「そういえばお葬式に来てなかったね」と言われて、目の前が真っ暗になった。まだ17じゃん。なんで?ていうか、なんで私は呼ばれなかったんだ。
自殺だったらしい。らしい、というのは彼女も死因までは教えてもらえなかったが、病気だったら絶対にしないような死に顔だったそうだ。本人が書いた手紙と、お葬式に呼ぶ人間のリストも作られていたそうだ。私はそれから外されていた。
私はあの子にとって友達でもなんでもなかったんだろう。私はバカでデリカシーがなかったから、きっと迷惑をかけたんだろう。嫌いだったんだろう。
お互いの住所も電話番号もわからない。当然お墓もわからない。でも、もしかしたら、死んだなんてのは嘘なんじゃないかな、と思っている。私のことが鬱陶しくて、一芝居打ったんじゃないかと、本当はどこかで幸せに暮らしているんじゃないかと。
それは発達障害のことか?
例えば、結婚して旦那さんの携帯電話を監視しつつ浮気をし、離婚することが決まってから、旦那から借りた家をめちゃくちゃにし、誹謗中傷しまくった人がいて…
子供が生まれて、一人になると子供が死んでしまうから「自殺する」とほのめかしてリストカットする人
とか割といる。
こういうのって一言でいえば、子供がすることで大人がすることではない。
https://www.bbc.com/japanese/articles/cwyl02d1r1mo
夢でこういうのに入って死のうとする夢を見たことがある。
なんていうか漫画喫茶みたいな感じであった。
自分でブースに入り自分でポッドに横たわって自分でスイッチを入れる形式。
食べたいものの取り寄せができます!って感じで軽食のメニューが横にあった。
すごく淡々とした気持ちで、でもこれから死ぬのだという自覚だけはあった。
パスタとかなんかが並ぶ軽食メニューをちょっと眺めて、食べたいかも知んないな、でもまあいいか……
みたいな気持ちでポッドに入って蓋を閉めて、ぱちんとスイッチを入れた。
夢の中のポッドはなかを水で満たして窒息死させる仕組みらしく、
ぼうっと水が溜まるのを待っていて、途中で何か、やらなきゃいけないことがあったのを思い出した。
それが何だったのかは忘れた。
ともかく一度スイッチを切り、濡れた髪と服のままポッドから出た。
個室ブースから出ても周りには誰もいなくて、一度出ちゃったけどもう一度ポッドを使えるんだろうか、とか、
髪がびたびたで気持ち悪いし恥ずかしい、とか思いながら
周りのことがわからないし誰かに助けを求めることもできなくてぼんやりと孤独だった。
でも、その孤独は、わたしにとって割と普段から遭遇しがちなもので、