はてなキーワード: 照り焼きとは
美味しくできたので記録。
献立は、
鶏もも肉を焼いたやつ
かぼちゃを煮たやつ
下ごしらえはまず余計な脂を雑に取り除く。
塩コショウ、砂糖、生姜の皮、ネギの青み、醤油、酒、ごま油を付けてポリ袋に入れて、冷蔵庫にIN。
取り除いた脂も別にして取っておく。
今日はそれを取り出して生姜の皮とネギは捨て、小麦粉を薄く付ける。フライパンに昨日取り除いた脂を熱し、サラダ油も足してやや多めの脂で皮目から弱火(最弱より1段階か2段階中火寄り)でフタをせず焼く。
8分したらフタをして3分。フタをあけたら全体の色が変わっているので、またフタなしで8分。
このフタの開け閉めは面倒くさいのだが、そうするには理由がある。
フタを開けっ放しではなかなか火が通らなくてイライラするが、短時間で火を通そうと強火で加熱すると皮がフライパンにくっついてしまう。かと言って全工程フタすると、開けっ放しよりは短時間で火が通るが水分が蒸発しないためじゃぶじゃぶの煮込み状態になってしまう。
試行錯誤して辿り着いたのが上記の、フタなし弱火長時間→少しフタ→再度フタなし、という手順。
この工程を経ると皮目にいい焼き色が付き、7割方火が通り、しかもフライパンにくっつかずきれいにひっくり返せる。
で、ひっくり返したら中火で4〜5分焼けば、私好みの火の通り具合で皮もカリカリになるのだ。
カリカリの皮にするには、ひっくり返してからも絶対にフタをしてはいけない。
火を止めてしばらく置くと、荒熱が取れて切りやすく、肉汁も流れにくくなる。幅1センチほどに斜めにそぐようにスライスして盛り付けて完成。
並行して出汁パックで出汁をとる。出汁を取りながら同じ鍋にキャベツ1/8個も入れて沸騰後2分で引き上げ、ザク切りしてかつお節かけて1品。
出汁は多めに取り、一部取り分けてかぼちゃ(2センチ角にカット済で売ってるやつ)を煮てもう1品。
出汁の量はかぼちゃが浸る位。砂糖大さじ1入れて中〜弱火で8分煮たら塩小さじ1/4入れて強火で1〜2分、水分を飛ばして完成。
残った出汁に冷凍しめじと冷凍ネギ小口切りと乾燥ワカメを入れて加熱。
沸騰したら火を止めて、豆腐入れて味噌を溶き入れて再加熱。煮立つ直前に火を止める…って本には書いてあるけど、再加熱は多少煮えてなくても、沸騰しちゃってもまあ気にしない。
今日は鶏の皮をカリカリにしたかったし時間もあったので一枚肉弱火長時間加熱にしたが、時短優先なら別のやりようがある。下ごしらえもいらないやつ。
フライパンに鶏肉を皮じゃない方から切らずに入れて、加熱しながらキッチンハサミで切る。一枚をだいたい6 〜8切れ位かな。
切ったら塩コショウして砂糖と醤油と酒を入れてフタして5分、開けたらほぼ火が通っている。
でも水分じゃぶじゃぶなので、フリフリ容器で小麦粉を振り入れながら最大火力でガーっと混ぜていると、1分位でとろみがついて照り焼き風になる。片栗粉でもいい。
アッサリが好きならじゃぶじゃぶのところに麺つゆ入れてお麩とかスライス干し椎茸とか豆腐とか入れると治部煮じゃない何かになる。
久しぶりに「てりやきマックバーガーセット」が食べたくなってマックに行くと、ちょうどお昼時なので店の入り口前に行列ができている。この炎天下の中、直射日光に当たりながら並ぶのはきついな、と思ったけど、頑張って待った後に、氷でキンキンに冷えたコーラを流し込みながらエアコンの効いた店内で一息つくときの快感を思い出して、列の最後尾についた。
とはいえ、やはり暑い。アスファルトからの照り返しで地面から上がってきた熱が頬を嫌な感じになでる。ソーシャルディスタンスをそれとなく保った列は、じり、じりとしか進まない。
ようやく、直射日光が当たる外から、入り口を通過して店の中まで列が進んだところで「すいません」と後ろから女性の声がする。振り返ると、髪をところどころハワイアンブルーに染め、°MEGADEATHというロゴの入った黒のTシャツ姿の女性が立っている。
「あの、セミ」
女性が私の肩を指さしているので、首を傾けて見ると、右肩の、背中のほうに大きな蝉がとまっている。
ここで蝉を払い落とそうとすれば、セミは店内で飛び回る。
何気ない顔をして列に入ったまま前進し、「てりやきマックバーガーセット」をゲットするまで、蝉が飛び立たぬよう、ひたすら願うという選択肢もある。
だが、いつ蝉が飛び立ち、満員の店内を恐慌に陥れるかわからない。
なすすべなく、列から離脱して店の外に出たところで、蝉はジ、ジ、と鳴いて飛び立った。
あらゆるものを瞬時に失ったという気持ちがやってくる。昼時の、カリッカリにできたてのポテト、身体に染みわたる冷たいコーラ、照り焼きソースに包まれたジューシーなバーガー。もう一度列の最後尾に並びなおして注文するには、日の光は強すぎ、行列は長すぎた。
エアコンの効いた店内から出たせいでよけいに暑さを感じながら商店街を歩く。定食屋の前に「じゃんぎ丼はじめました」という看板が置いてある。もうなんでもいいと思って店内に入り、じゃんぎ丼とかいうのを注文すると、から揚げと野菜を甘辛く炒めなおした丼ものがカウンターに出される。早い。ちょっと甘いかなと思ったが、直射日光に当たり続けて疲れ切った身体に、濃い味の食べ物がうまかった。また機会があったら注文しようと思う。
塩麹に一晩つけてシリコンスチーマーに入れてレンジでチン。2個以上一気に加熱するので、500wで7分+7分とか、200wで20分とか。時間はフィーリングでやっている。
袋入り1kgで買うと、袋ちょっと切って塩麹投入して放置できて楽。
塩麹に一晩つけてシリコンスチーマーに入れてレンジでチン。時間はフィーリング。まあ胸肉と同じくらいでいいんじゃないかな。
サンチュみたいなのでナスと一緒に包んで、つけてみそ的なものをつけて食べたのよかった。
1kgとかで買ってきて、全部鍋に入れて料理酒で弱火ひたすら煮る。1時間くらい火にかけといて後は余熱でいいんじゃないかな。
そのまま食べる、ポトフに入れる、照り焼きみたいにする、冷凍する、ご自由に。
もも肉で十分と言われたらそうかも。母が手羽元好きだから影響受けてる説はある。
塩胡椒すり下ろしニンニクを任意の量撒いてラップで包み冷蔵庫一晩。
フライパンで全面に焼き跡をつけて、シリコンスチーマーに入れてレンジでチン。
ネットで「シリコンスチーマー ローストビーフ」で出てきた好きなレシピで作ればいいと思う。
角煮。白ごはん.comが好きなので白ごはん.comのレシピに沿って作るが、レタスクラブでもオレンジページでも好きなので作ればいいと思う。時間がかかる。
鶏胸肉3.5:豚ヒレ2.5:手羽元2.5:ローストビーフ1:角煮0.5
みたいな感じで料理している。カウントしてないけどもちろん薄切り肉もひき肉も使ってる日もあるよ。ブロック肉というか塊の肉買いがちなだけで。
番外編(塊肉感がない)
子供の頃は商売をしてる祖父母と同居してたから、祖母が店を閉める少し前に早めに帰宅してくれて、店の売れ残りとかレトルト食品とかを食べてた。夏は素麺・冷やし中華・冷やしうどん、冬は鍋鍋鍋。
あとは、子供向けにと思っていたのか肉類、特に豚肉がやたらよく出て、ケチャップ味とか生姜焼き風とか照り焼き風とか。ご飯・メインのおかず+付け合わせのキャベツやレタスやトマトの皿・汁物・大人用のおかず(煮物とか)が多かった。
中学に上がる前に祖父母が老人向けマンションに入ってからは、自分で父と妹の分を作ってた。母は帰りが遅くて、頑なにわたしの作ったものは食べようとしなかった。
祖母仕込みというほどの腕前では無いのでせいぜいご飯・生野菜・具の多い味噌汁のセットと焼いた魚か焼いた肉かクックドゥーの中華か…というのが関の山だった。もちろん夏は素麺と冷やし中華と冷やしうどんに夏野菜の焼き浸し、冬は鍋鍋鍋たまにシチューだし、割と高頻度でめんどくさくてパスタ茹でてレトルトソースかけたものとか、市販のチャーハンの素使ったチャーハンとかも出してた。凝ったものは本当に作らなかったから、生姜焼きも使ったことないし、煮魚も使ったことない。時々食べたくなった父親が自分で作ってたけど。
土日や朝食や弁当は母親が作ってたけど、全然料理上手な人じゃなかったから、二段の弁当箱の一段は白米もう一段は卵焼きとトマトとリンゴが三分の一ずつ入ってるのはしょっちゅうだったし、健康に気を使って規定量からさらに調味料を減らした味のしない野菜の炊き合わせとか、鱗の残った煮魚とか、老人向けの料理でももうちょっと彩りと味があるだろう…という食卓だった。
で、この度めでたく自分も結婚する運びになったけど、毎日の夕飯がどのくらいの量と品数を求められるものなのかいまだによくわからない。
手料理を振る舞ったこともあるけど、毎日ハンバーグと焼きそばとカレーってわけにも行かないし、共働きでそんなに時間もないだろうし、そもそも一人暮らししてて夕飯とかほとんどコンビニとレトルトだし。
雑誌読んでも二人前量少なくない?こんなに一度に複数の種類の食材用意できないよ?そんな調味料一般のご家庭にあるの???みたいな解せないポイントが多すぎて萎える
秋になるとなぜか、おばあちゃんのことを思い出す。
おばあちゃんが死んだのは秋じゃない。中3の2月だったのに。
おばあちゃんちには、アメリカの冷蔵庫にあるみたいな大きなアイスがあった。
2Lぐらいあった。私たちのためにいつも買っておいてくれたそのアイスを、私とお姉ちゃんは大きい大きいといって大笑いして、はしゃいで、食べた。
姉なんて小さい頃食べ過ぎて救急車で運ばれたそうだ。
好き嫌いが多い私のために、おばあちゃんは甘い魚(ぶりの照り焼き)とポテトサラダ(にんじんときゅうりの薄切りが入ってるやつ)をよく作ってくれた。
これが関東の一部の変な食べ方だと知ったのは、大きくなって嵐の番組かなにかでだったかな。
いつのまにか、なにもかけずに食べるようになったのはなんでだろ。
おばあちゃんちにの冷蔵庫のサイドポケットには、いつもお花の飴があった。
ピンクの個包装で、それぞれ別の花のイラストと名前が描いてあった。イラストが見たいのもあって、よくもらってた。
なんの味だったかはわからない。数年前にどこかで食べたソフトクリームがまさにその味で、コケモモだったような...違ったような...
また食べたいな、あの飴。
前向きな人だから全然過去の話もしないし、人の悪口を言ったところも聞いたことがないってお母さんが言ってた。(お母さんはめっちゃ愚痴るタイプなのに)
そんなおばあちゃんが唯一してくれたのは、関東大震災の話だった。
子供だったおばあちゃんはあまりの大きな揺れにびっくりして腰が抜けてしまったんだけど、近所に住んでたお兄さんが馬にのせてくれて、それで裏山に逃げて助かったとか。
おばあちゃんは神奈川なまりがあって、「○○じゃんかよおおお〜」っていう話し方をよくしてた。
それをまねて面白がってた時もあった。おばあちゃんは照れたような困ったような顔をしてた。
夏、全然おしっこが出ていない日が続いて、倒れて、救急車で運ばれた。(だから今でも今日おしっこ全然してないじゃん!怖い!とすごく思う)
人が死ぬなんて「まさか」って感じだった。実感なかった。死んじゃう前提の反応もなんか違う気がしてて、でもなんだか怖くて「ふーん」みたいなよくわからない態度をとっていた。
おばあちゃん子だった姉は悲しみを隠さないので、それがそのまま愛情として伝わってて、お母さんを安心させたと思う。すごいなって思った。
おばあちゃんは目を覚ました。
おばあちゃんが私とお姉ちゃんに「誰ですか?」ってキョトンとした顔で聞いた時、お姉ちゃんは泣きそうな顔をしながら「おばあちゃん...○○だよ〜〜〜おばあちゃん....」って言ってた。私は黙ってただ立ってた。ちょっと悲しそうにしたら悪い気もしたのと、本当に頭が真っ白だった。
お母さんは忘れられてなくてよかった。
塾がない日は学校の前でお母さんに車でひろってもらって、よくおばあちゃんの病院にいった。
おばあちゃんは意識はあるけど、息をしてるだけで苦しそうだった。
おばあちゃんは話しかけると少し頷くけど、それすらすごくつらそうで、なんかよくわからなかった。でもお母さんは話しかけろっていう。
「そろそろ死にそう」っていうのが分かってるようで誰にも分からない。
お母さんはおばあちゃんの手をさすって「お母さん、ありがとう、ありがとう」って言ったりしてて、なんでだよまだ生きてるだろって思ってた。
2月、夜12時ちょっと前ぐらいに、寝ようと思って階段をのぼりかけてたら、お母さんが急に話しかけてきて「おばあちゃん死んじゃったって、連絡きた」って言われた。
もう、本当によくわからなくて、「ふーん、そっか」とか言ってお母さんの目も見ずに階段を登って、それで部屋に行ってたぶん寝た。
お母さんはたぶんそのままトイレに行った。
いまだにあのとき、もっと私はやるべきことがあったんじゃないかって思う。お姉ちゃんはあのとき留学してていなかった。
でも叔父さんがおばあちゃんの顔から白い布のやつをとった時、めっちゃ泣いた。
どわーーーーって泣き過ぎて家から出てうさぎを買ってた小屋のほうで叫ぶように泣いたぐらいだ。叔父さんはなぜか、あとでごめんなあって言ってきた。私はうんって言った。(なにがうんだ)
葬儀場に移る時、仏壇のある部屋でおばあちゃんに足袋をはかせた。独特の冷たくて身が詰まってて乾いた質感があった。(4年後ぐらいに、あ、これ冷蔵庫に剥いちゃった後のみかんいれておいたときの感触だ!って気づいてお母さんに言った。怒られるかと思ったけど、"○○は芸術肌ねえ"って笑ってた)
そのあとお通夜もお葬式もなにもかも、なぜか自分の中で絶対泣いてはいけない戦いになっていて辛かった。トイレで泣いて戻ってた。
骨を焼く時、叔父さん②が、焼かないでくれ待ってくれって泣いておばあちゃんにすがって、叔父さん①がとめてて、うおおおおってなった。みんな泣いてたけど、私は泣いちゃだめだ状態だったので固まってた。
骨を拾うとき、いとこがお箸を強く持ち過ぎておばあちゃんの骨が砕けた。なんかそのときまぬけですごいホッとしたっけ。(3回忌かなんかでも靴下がやぶけてて法事を絶対笑ってはいけない法事にしてくれたいとこ。)
3日ぶりぐらいに学校へ行った。
担任の先生がおばあちゃんは何歳だったのかとかいろいろ聞いてきて、聞いてくんなしと思った。学校にいる間中、なんども泣きそうになって必死で別のこと考えてるんだぞこっちは!と思った。今思えばそれも礼儀というか優しさだったのかな。
保健室の先生も、生理痛が辛くて保健室行ったら言葉にするでもなく気にかけてくれた。この先生、今思えば2年次に私が傷が残る怪我をしたあとにも傷が目立たない特別な配慮をしようか?って声かけてくれて、本当いい先生だったな。そん時も私は本当は超気にしてんのになんかかっこわるいと思って「あ、イイッス〜別に見えてもイイっす〜」とかいって断ったんだっけな。なにも言えずじまいで卒業しちゃったな(なんなら名前も忘れた)
それで、中学生なりの頭で考えて、もう会えなくなってしまう人に一番伝えたいのは「ありがとう」と「大好き」だってことが分かった。
そんで詩を書いたりしてホムペに載せたりした。
おばあちゃんの死についてはなんも書かずに、ただ行き着いたことだけを抽象的に書いた。
そしたら同級生が「なんかあれめっちゃいいね」って言ってきて、ほーんってなった。
ほーんってなったけど、私はおばあちゃんに「ありがとう」も「大好き」も言えずじまいだった。