はてなキーワード: 本質とは
上下左右にぐるんぐるんぶるんぶるん動いてる乳を見ると可愛いの前に「痛い」の感情が先に来てしまいアニメ・ゲームが楽しめないでいる。
ブラジャーもなしにあれだけ乳を自由にさせると足の小指をぶつけた痛みが両乳に走って動けなくなるレベルで痛い。
創作物とリアルを混同すんなと言われそうだけどアニメ・ゲームで常にタマヒュンエピソードが挟まれ続けてたらそっちが気になってストーリーが頭に入って来なくないか?
共感性疼痛と言って人は他者(人・動物・イラスト問わず)の怪我を見ると自分が怪我をしたと脳が錯覚して痛みを感じるらしいから乳揺れの痛みは分からなくてもタマヒュンなら男でも理解出来ると思うんだけど。
(追記)誰1人タマヒュンエピソードが挟まれてたら気が散ってストーリーが入って来ないんじゃないか?という質問について語らず乳揺れの話しかしないの面白いな。
ストーリーに関係のある表現は必要だけど全く関係ない表現が断続的に挟まってるのは可笑しいって話で常にタマヒュンエピソードが挟まってたら可笑しいだろ?
乳揺れの対偶に金玉ダメージを持ってきてる訳ではなくゾッとする様な表現としてタマヒュンを用いただけ
乳揺れについて良いも悪いも言ってないし本質はそこじゃないんだが…
もしもカレー味のウンコが目の前にあるとして、なぜそれがウンコだってわかるんだろう。味は完全にカレーだ。味覚がカレーだということは、おそらく嗅覚でもカレーだとしか判断できないんだろう。味覚と嗅覚は密接に関連しており、鼻をつまんで舌だけで食材を味わっても、何だかさっぱりわからないことは風邪をひいたときのようにザラにある。
カレー味のウンコは恐らく、味覚も嗅覚も、そしておそらく食感もカレーなのだ。
食感ということは触覚もカレーと同じなんだろう。
五感で残るのは聴覚と視覚だが、口の中で噛んだときの音も同じなんだろう。カレー味のウンコとウンコ味のカレーという究極の選択肢があげられているからには、見た目からしてわかりづらいはずだ。
要するに、五感のすべてがこれをカレーだと判断しているのに、これがウンコであると定義づけるのは何であるか。人間の理性は時間と空間という枠組みの中で、五感でとらえたものしか認識できない。
言い換えるならば、カレー味のウンコが食べられない人は、五感でとらえられないウンコである本質、「ウンコ性」をカレー味のウンコは有していると考えているはずだ。
この目に見えない本質は恐らくプラトンの唱えたイデアである。イデア世界のウンコ、ウンコの理念を不完全ながら有しているのがこの世界のウンコである。
プラトンはウンコを食べることを拒絶するだろうから、ウンコ味のカレーを選ぶだろう。
一方で、イデアに対して否定的であったアリストテレスなら、カレー味のウンコはすでにカレーであると判断し、カレー味のウンコを選ぶはずだ。
このプラトンの立場を取り、ウンコの理念が実在すると考えるのが実在論であり、ウンコの理念はなくウンコという名があるだけなのが唯名論ということになる。これが普遍論争だ(逆だったので直した)。
昔からみてきた、ゲームとかスーパーみたいな何らかのサービスに対して「こういうインセンティブや商品があるとみんな集まってくれると思いますよ」という投書や意見を出している人たちと、本質は一緒なんだよ
インベントリが管理しづらいとかログインボーナス実装早くしろとか、詫び石渋いとか
スーパーだと、レジの接客が悪いとか、サービスの氷がないからあっちのスーパー使いますとか
じゃあ彼らが提示したことを実行できるのかとそれで客が来るのか定着するのかってのはまた別問題だったりする
別にその人たちが100%間違ってはいないけど、意見を汲むのはないんだよね
顧客が率先して出す情報って単なる個人的なオキモチでしかなく、本当に欲しいものは別の部分から見えるからさ
ただ、そういう意見を出すこと自体は間違っていないし出してくれることは全然ありだと思う
むしろそういう人たちを泳がせておかないと駄目なんだよ
だからハテブでご意見言ってる子育てに積極的な顧客層は大事にしないといけない
ツッコミ役としてね
数年前、なんでフェミニストって現実の男の性加害についていわずに二次絵に文句言うんだってはなしだったけど
ちゅーの本質は唇を重ね合わせることじゃなくて舌を絡め合わせることでは?
まあ別にSEKIROでもゼビウスでもいいんだけどさ、一人プレイのアクションゲームに本気で向き合ったことがない奴はゲーマーとは呼べないと思う。
チームプレイのゲームでいくらダイヤになろうがXになろうが、それが本当に自分の実力で勝ち取ったものだと思えるのかって話。
皆はお前よりも片手間でゲームやってただけなのにお前だけが必死だっただけなんじゃないのかって疑惑がずっと付き纏って来てないか?
ましてやレベルを上げればいいだけのRPGや、運要素が強すぎる戦略ゲームのクリア経験でお前の何が証明されたのかってことよ。
アクションゲームってのは突き詰めるほどに「ノイズの多いリズムゲーム」でしかないわけだが、最初からリズムゲームをやりこむのとアクションゲームをやり込んでリズムゲームとしての本質に辿り着くのは別物なんだよ。
ガワが剥がされていき、その果てに自分が求められている本当の入力情報が明るみに出る。
でもそれが分かったからといってすぐクリア出来るわけじゃなく、そっからまた練習が必要になる。
その体験を通じてはじめてゲームというものの本当に触れられると思うわけ。
プログラミングを勉強して自分でゲームを作って、当たり判定もダメージも造り手が好きなように設定できることを学んでも、それだけじゃまだ本当にゲームってものが見えてないんだよ。
リズムよくボタンを押したり、正体が分かれば簡単な計算を解いたり、そういった行為の連続でしかない単純な遊びが、ガワを被せただけでなんでこんなにも楽しくなるのかって事を考えだして初めてゲームが見えるんだ。
音ゲーとマリオが結局は同じようにタイミングよくボタンを押させているだけで入力は一緒だとしても、それぞれが真似ている遊び自体は全く違うってことを自分の中で再構築した経験がないと駄目だ。
そのためにはアクションゲームで高難易度のステージを攻略するのが一番だ。
とことんまで無駄が削ぎ落とされ、段々と世界が記号化していき、それが再び形を取り戻した時、ゲームの見え方が一段変わる。
ChatGPTで要約しといた
----------
小学館第一コミック局編集者一同の声明に対する批判的な見解を提供しています。問題の文章は、作家、読者、関係者に宛てたものであり、著作者人格権の問題を時系列や本質から逸らし、小学館自体の責任を隠蔽しようとする意図を持っていると批判されています。文章は内容が曖昧で、著作者人格権に関する認識の不足を後悔するというスタンスを取りながら、その実、本質的な問題から目を逸らし、責任を逃れようとしていると指摘されています。
批判の核心は、小学館がドラマ制作過程において、芦原氏(故人)の意向を適切に伝達・保護することに失敗し、その結果、彼女が心身ともに追い詰められる状況を招いたことにある。小学館の声明は、このような状況を矮小化し、誤解を招くような内容であり、本質的な問題解決に対して何の寄与もしない虚妄に基づいていると非難されています。
さらに、文章は芦原氏の言葉を捻じ曲げ、著作者人格権の問題にすり替えることで、小学館の責任を隠蔽しようとする不誠実さを示しており、このような姿勢が非常に問題であると強調されています。また、芦原氏への言及が、批判を避けるための手段として利用されていることも指摘されており、このような行為が非常に不適切であると批判されています。
最後に、この問題は小学館だけのものではなく、メディア化の過程における構造的な問題、テレビ局の体質的な問題、SNSの問題など、さまざまな複雑な要因が絡み合っていることが指摘されています。それにもかかわらず、小学館がこの悲劇を防げた可能性があるにも関わらず、問題を避け、責任を回避しようとした姿勢は批判されるべきであると結論づけられています。
面倒なので前段は省く。タイトルを見て「アレのことか」と分からない人はスルーしてほしい。
https://petitcomic.com/news240208/
この文章が一読して耐え難いほどに醜悪な理由を書く。以下、上記URLの文章について「本テキスト」と呼称する。
本テキストは「作家の皆様 読者の皆様 関係者の皆様へ」あてた、「本事件を、時系列からも本質ではないことが自明である「著作者人格権」の問題へミスリードすること、および当の芦原氏本人の言葉を捻じ曲げてまで、本来存在するはずの小学館の責任を隠蔽すること」を目的としたものである。だから気持ち悪い。
本テキストはそもそも内容が水のようにうすくあいまいだ。それでもなお、執筆者たちの「主張」を読み取ることはできる。
前半が「著作者人格権」について。後半が「小学館はドラマ制作サイドに芦原氏の意向を伝えていたこと」について。
順番に見る。
本テキストでは、まず「著作者人格権」について触れる。その後、「著作者人格権を守ろうとしたこと」を芦原氏が「恐らくめちゃくちゃうざかったと思います…。」と自己評価していたことを明らかにする。そして「私たち編集者がついていながら、このようなことを感じさせたことが悔やまれてなりません」と続く。
ポイントは、執筆者が「何を悔いているのか」だ。本テキストにおいて執筆者が「後悔」を明確に示しているのは、このくだりだけだ。これは非常に重要なことだ。
要約するとこうなる。
「著作者人格権という権利を周知させることができなかったために芦原氏に不要な自責の念を抱かせた。著作者人格権についての認識を広げることが再発防止の「核」になる」
この後に、「これだけが原因だったと単純化はしない」としつつも、あえて本文中に「核」なる単語を使用している以上、ここには明瞭な主張がある。
それは「本件がこのような悲劇に見舞われたのは芦原氏が著作者人格権についてしっかり認識していなかったからだ。その認識を与えることができなかったことを悔いている」というものだ。
暗に「芦原氏は「恐らくめちゃくちゃうざ」いことを自分がしてしまった、という自責の念によって自ら命を絶った」と結論していることになる。
……なんだか、我々とはずいぶん違う世界観をお持ちのように見える。これまでの経緯を振り返って、こう結論するのは相当に無茶なのではないか。
彼女が本当に「ドラマに口を出してしまったこと」を自責した結果として死を選んだのであれば、1月26日以降の騒動はなんだったんだ? 彼女の死に、あの騒動は関係なかったということにならないか? なぜなら「ドラマへの口出し(=著作者人格権の行使)」は、12月時点で終わっていたのだから。
そんなわけねえだろ。馬鹿か。
ここには明らかに問題のすり替えがある。「著作者人格権をめぐる認識」に焦点を逸らし、本質的な問題から目をそらそうとすると極めて醜悪な論理の欺瞞があるのだ。
明らかに本件は「芦原氏が著作者人格権についてしっかり認識していなかったから」起きたことではない。
一連の騒動を振り返って「芦原氏が著作者人格権について深く認識していれば本質的に問題は起きなかった」と思う人だけが、本テキストに同意することができるだろう。
そんなやつ、どこにいんの?
誰がどう見たって本件は多岐にわたる複雑な問題が絡み合って、最悪の結末を迎えてしまった事件だろう。わかりやすい「核」なんてものがあるはずがない。
にもかかわらず、スケープゴートのように「著作者人格権」を持ち出して「核」として据えるのは、故人に対してあまりにも不誠実すぎないか。
素直に考えれば「何のための文章か」という問いに、ここで一度答えが出る。「作家、読者、関係者に「著作者人格権」を正しく認識してもらい、悲劇の再現を食い止める」だ。
つまりね、このテキストは「経緯説明」も「調査報告」も何もかもすっ飛ばして「とにかく「著作者人格権」を知ってもらえれば再発防止につながる!」という、何の根拠もない虚妄によって書かれているのだ。
ごくごくごくごく普通に時系列を追うだけで「著作者人格権をめぐる認識」が事件の本質ではないことは明らかなのに、だ。繰り返すが、論理的に考えてここが「核」なら1月以降の騒動は自殺に関係がないことになる。
ああ、めちゃくちゃ気持ち悪い。
なにが「事態を単純化させる気はない」だ。ここで行われているのは「単純化」などということではない。もっと悪い、明らかに事実関係と時系列を無視した、問題のミスリードだ。
そして、ミスリードした先にある「著作者人格権」を取り上げ、「本質に問題解決に対して寄与しない」とわかっていつつ、ここが再発防止の核であると述べる。
ここには「事態の再発を防ごう」なんていう真摯な態度は欠片も見られない。あるいのは「そういうことにしたい」という卑劣な思惑だけだ。
そうするともう少し穿った見方をしたくなる。
つまり「本件を「著作者人格権の問題」にすり替える」ことが、本テキストの目的だったのではないか、ということだ。
この「著作者人格権」にまつわるテキストの不誠実さだけでも、十分以上に気持ちが悪い。しかしもっとおぞましいのはこの先だ。
要約するとこうなる。
「ドラマに対する芦原氏の意向は、小学館がドラマ制作サイドに伝えていた。芦原氏は納得のいくまで脚本を修正した。ドラマは芦原氏の意向が反映されたものである」
本テキストを読めばわかるが、これに関する一連のセンテンス、どこか誇らしげでさえある。
正気で書いているのだろうか? 芦原氏の「言葉」を軽んじているのは、ドラマ制作サイドなのか編集サイドなのかわからなくなる。
芦原氏の意向は、よく知られている通り「原作に忠実なドラマ化」である。これが小学館からドラマ制作サイドに伝わっていたとしよう。その後どうなった?
(https://piyonote.com/ashiharahinako-twitter/#google_vignette)
ところが、毎回、漫画を大きく改編したプロットや脚本が提出されていました(略)粘りに粘って加筆修正し、やっとの思いでほぼ原作通りの1~7話の脚本の完成にこぎつけましたが…。
加筆修正の繰り返しとなって、その頃には私も相当疲弊していました。
(略)8~10話となりましたが、ここでも当初の条件は守られず、私が準備したものを大幅に改変した脚本が8~10話まとめて提出されました。
何とか皆さんにご満足いただける9話、10話の脚本にしたかったのですが…。素人の私が見よう見まねで書かせて頂いたので、私の力不足が露呈する形となり反省しきりです。(中略)原稿の〆切とも重なり、相当短い時間で脚本を執筆しなければならない状況となり、推敲を重ねられなかったことも悔いてます。
これは芦原氏が「小学館と時系列に添って事実関係を確認し、文章の内容も小学館と確認して書かれた」文章だ。
原作者である先生にご納得いただけるまで脚本を修正していただき
馬鹿じゃねえのか。芦原氏は「推敲を重ねられなかったこと」を「悔いて」いたのだ。「加筆修正の繰り返しとなって相当疲弊して」いたのだ。
その文章を確認しておきながら、舌の根も乾かぬうちに「ご納得いただけるまで脚本を修正していただ」いたとのたまう。本当に血の通った人間のすることか? ご納得いただけるまで脚本を修正するという作業がどれほど心身に負担をかけることか、わからない編者者でもないだろう。それを何を誇らしげに「わたしたちに落ち度はありません」と言わんばかりの態度で書いているんだ?
ここに事実を捻じ曲げる意図がまったくないとでも言うのだろうか。
そもそも「意向を伝える」ことは伝書鳩のように「言いましたよ」ということではあるまい。なるべく芦原氏に負担がかからないように交渉を詰めて、芦原氏が心身を疲弊させながら手ずから「修正」をしなくてもいいように、ドラマ制作サイドに「条件の履行」を求めるのが「意向を伝える」ことではないのか。ガキの使いじゃねえんだ。「ちゃんと言いましたよ」で責任を逃れるビジンスシーンがどこにある。
明らかにドラマ制作サイドに芦原氏の意向が「伝わっていなかった」から、彼女は修正を繰り返し、自らを追い詰めなければならないことになったんだろう。そこに「伝わるまで伝えなかった」小学館の責任はないのか?
無論、担当編集者やメディア担当者が「仕事をしていなかった」というつもりはない。担当者が誰よりも働いただろうし、想像するだに困難な局面の連続だっただろう。いまの心痛はいかばかりか。結果は最悪なものになってしまったが、それは決して現場の担当者たちを非難していい理由にはならない。
繰り返すが、現場の担当者個人の責任を追及せよと言いたいのではない。むしろ、それは決してやってはならないことだ。しかしまた同時に「頑張ったから」「努力したから」「不運としか言いようがなかったから」という事実は、決して責任を消滅させる理由にもならないのだ。
小学館に責任はある。絶対的にあるのだ。それは「著作者人格権にまつわる認識を周知徹底できなかった」ことなどではない。芦原氏の意向をドラマ制作サイドに理解させることができずに、結果的にドラマ制作過程において芦原氏を心身ともに追い詰める結果を招いたことについて、責任があるのだ。
にもかかわらず、そうした自らの責任にまったく目を閉ざし、ひたすら問題を矮小化させ、ミスリードしようとする意図が、行間に充満している。
それこそが本テキストが歴史的に気持ち悪い理由のひとつだろう。
書くまでもないことを最後に書く。
ここまで確認してきたように、本テキストは「作家の皆様 読者の皆様 関係者の皆様へ」あてた、「本事件を、時系列からも本質ではないことが自明である「著作者人格権」の問題へミスリードすること、および当の芦原氏本人の言葉を捻じ曲げてまで、本来存在するはずの小学館の責任を隠蔽すること」を目的としたものである。
その最後に付された言葉が、芦原氏への「寂しいです、先生。」だったことは、瞠目すべきだろう。人間どこまでも恥知らずになれるらしい。
この一文が本当に気持ち悪いのは、SNSで言われるように「TPOにそぐわぬポエティックなもの」だからではない。
欺瞞と自己保身のために芦原氏の言葉さえ踏みにじって醜悪なレトリックを駆使した挙句、そもそも本テキストの「宛先」でさえない芦原氏を「文章の結び」のためだけに泉下から引きずり出し、まるで批判除けのお守りのように利用してしまう、学館第一コミック局編集者一同の浅ましい精神性が悪魔濃縮されているからだ。
本件の内幕はおそらく当事者たちにすらもう分からなくなるくらい複雑化していることだろう。
小学館を悪者にして幕引きをすればいいという性質のものでもない。巷間指摘されているように、メディア化における構造的な問題、TV局の体質的な問題、悪意を増幅させるSNSというシステムの問題、他にも種々様々な問題が複雑に絡み合っているはずだ。
それでも、この悲劇を防げたプレイヤーの一人であるはずの小学館が、「ことなかれ主義の上層部」「責任回避の編集局」という内実を露呈していることは、必ず批判されなければならない。
騙されてはならない。