はてなキーワード: 収束とは
今生きている人が生きている間には、まず収束せんやろ。
・「今現在ワクチンを打つ必要性が感じられない」 ←今も必要性あるけど、もし今後必要と感じることがあっても(たとえば急に老人を親が引き取って同居する)、ワクチン入荷がとまってからではうてないし、まとめうちもできないよ
・基礎疾患を持っていないので死ぬことは避けられるだろうと思っている。 ←基礎疾患がないのに若くて死んだ人、外国まで調べればいっぱいいるよ。学生だから日本語の資料しか読めないのかな
・アトピーを去年いきなり発症したこともあり、ワクチンに対して急なアレルギー反応が発現する可能性はどうしても捨てきれない。 ←そうだね、そして急に基礎疾患が発現する可能性もあるね(うつ病、肥満、喘息などよくある病気も基礎疾患だよ)
・ワクチンの持続期間について厚生労働省のHPを見てもあまり有効な答えが得られない。 ←そうだね、厚生労働省は神じゃないからね。全世界の専門家がみまもってるとこだね。だからなんなんだろう。持続期間の確定をまってたらそれこそあなたおじいさんになるよ。
・数年後に副作用が重くのしかかったりしないか ←mRNAワクチンの副作用よりコロナの副作用のほうが大きいよ。あなた自身、修学旅行にいけないなどの副作用になやまされてるよね。
・私は死ぬことに恐怖を感じていないのかもしれない。 ←でも就学旅行にいけない青春については恐怖なりを感じるんだよね。ひっくりかえった同調圧力に屈するタイプだね。あとでいじめをつるしあげられる音楽家みたいなこといってる。
・どうせ死なないだろうと甘えているところはあるだろうが、こういう理由で打たない人間もいるのだと知ってほしい。←だから甘えじゃん。さすが10代、若いね、甘やかしてあげようね。っていわれるとおもう?
・打った打ってないで人を差別するようなことがない社会になってほしいと思う。←差別じゃないよね。区別だよね。
・20歳になったとき、もし生きていたら打ちに行くだろう。その時には収束してほしいものであるが。←収束を期待するならワクチン打ってよ。
「とは言うものの」の意味で用いる「もっとも」は漢字にすると「尤も」となるので、「最も」と書くよりはひらがなに開いて書いたほうがよい。
文章にこだわりがありそうだったのでそこだけ気になった。
内容に関してはまあそういう人もいるだろうと理解できるし、選択権や差別のくだりは共感すらする。
とはいえ個人的な意見としてはやっぱり国が金出して無償で打てるものなんだから、よほど忙しいとか体調を一時も崩せない事情がない限りは接種に協力してあげるべきなのではないかと思う。
ワクチンは自分の感染や発症率を下げる為だけのものではなく、他人に伝染させてしまうリスクを全体として抑えていくためにも必要なものだからこそ、国が「お願い」をしているということをそれなりに重く受け止めてもいいのではないか。
効果期間がそれほど長期間持続しなくとも、パンデミックを抑えることができれば収束に向かっていくので、個人として見た時のワクチンの効用は微妙に見えても、集団における対ウイルス戦略としては絶大な効果になると言えるだろう。
それは昨今の遷移を見ていても分かるはずだ。
新種ウイルスのパンデミックに対して「なぜかはわからないが発症予防、治療に効果があるらしい」と噂される安価な既存薬があったら、まず試してみようとするのが人情だと思うんだけど。アメリカは公式には絶対それをせず、世界最多の死者を出し続けてる。日本だって国を挙げて独自で治験してみればいいのに。ワクチン未接種者に治験協力を要請して配ってみればいいのに、しないよね。反ワク勢はタダでも協力してくれると思うよ。でもしない。まるで効果があったら困るかのように。
もし効果があることが証明されたら、新しいワクチンや治療薬が売れなくて困るからだよね。商売機会を逃すから。製造元のメルクもだんまりで、高価な新薬開発に忙しい。陰謀論なんて壮大なものじゃないかもしれないけど、今回のパンデミックが商売になってしまったことは確か。
貧しくてワクチンも新薬も買えないアフリカ諸国のほうが感染者、死者ともに少ないことが何よりの証明。彼らがアルコール消毒やソーシャルディスタンスを意識してるとは思えないからね。そもそも全員に効果がないとしても、誰かに効果があるかもしれず、もし効果がなくても大した副反応もないなら、とりあえず配っておけばいいのに。ワクチンが任意接種なように、手元に薬があったって飲むも飲まないも任意で決めたら良いだけのこと。アベノマスクよりこっちを配ればよかったのに。
このパンデミックが、もし戦後すぐにでも起こってたら。世界中の医者、科学者が藁をも掴む思いでいろんな薬を試して、一人でも多くの命を救おうとしたんじゃないかな。
アメリカは移民の国だから、何十万人死のうと新たに入れればいいだけ。アメリカに来たい移民はいっぱいいるし、上の人間からしたら痛くも痒くもないんだろうね。
ワクチン接種済みの人だってモヤモヤしてると思うよ。ワクチンに効果がないとは思わないけど、ただ「もっと副反応の少ない既存薬を使えたんじゃないの?」「本当に最善の努力をしたと言えるの?」って疑問に答えてほしいだけなのに。来年にも軽症者向けの経口治療薬ができて、ワクチンも数種類から選べるようになって、パンデミックは収束。全部有耶無耶にされちゃう。資本主義が全部悪いとは思わないけど、今回の騒動は本当に資本主義の悪い部分の極みって感じ…。
【訃報】人気ユーチューバーが肺炎で… 亡くなった後の簡易PCRで陽性
https://news.tv-asahi.co.jp/news_geinou/articles/hot_20210930_140.html
※最初に言っておきますが、お笑い芸人で今はソロキャンプで活躍されてる芸能人のヒロシさんとは別人です。
登録者数17万、サブチャンネル13万の人気、といってもYoutube界は広いから知る人ぞ知るレベルだけれども
話題になったニュースを肴にしてFacerigの和兜かぶった猫が酒飲みながらしゃべる、居酒屋談義のようなチャンネル。
増田は令和納豆の件が炎上してた時に知ってチャンネル登録し、最近ではガンプラ転売ヤーや松戸Vtuberも取り上げていた。
生前の最終動画投稿が9/23で、9/25に警察救急が自宅で死亡確認。
動画の収録は別日で投稿がアシスタントによるものだとしても題材が時事ニュースなのでその差はあって数日。
本当にものの数日で容体急変して亡くなったのだと思う。
コロナ第5波も収束しつつあり病院への入院も可能であろうこの時期になぜ自宅で?という驚き。
血中酸素濃度が入院レベルに低くても本人は意外と息苦しさを感じない場合があったり
一人暮らしだといいよヤバいって時に救援求めるのが難しかったり
病院で確定診断受けるのが怖かったりしたのかな。
ブコメにもちょっと書いたけど、物理学的なところだけ見て考えられそうなことを書いてみるな。
最初に結論を言うと、「もし時間が戻ったら、歴史は同じことを繰り返すか?」と答えは「繰り返す」だろうと思う。量子力学によれば世界は確率的に決まるのだから、そんなことはない、と思うかもしれないが聞いてくれ。あと、「歴史が変わるタイプの時間の戻し方」の説明もする。
そもそも、時間というのは物理学的には一つの「次元」である。縦、横、高さと同じようなもので、我々は実は四次元空間にいるんである。そして、静止する我々は光の速さ(比喩ではなく)で時間次元方向に進んでいる。で、我々の速度はいつでも光の速さで一定。なので、もし縦方向に光の速さの半分で進めばその分時間方向の速度が遅くなる(時間の流れが遅くなる)という相対性理論的不思議現象が起きるのである。
ここで時間の次元を我々にとっての空間の次元のように観察することができる上位存在を仮定しよう。その存在からは世界が時間方向にぶっ飛んでいるように見えるわけだが、その存在がなんらかの力で我々の世界を時間軸方向に動かしたとするとどうなるか?我々の世界で起きた色々な歴史的事象は、「それが未来に起きるポテンシャル状態」に回帰することになる。が、あくまで上位存在からすれば、一つの次元方向に動かしただけなので量子力学的な確率分布の収束が変化する理由がない。我々が空間的に一旦別の場所に置いてから元の位置に戻した時、空間次元の観点からは本質的な変化が一切ないのと同じだ。この場合、歴史は変化しないことになる。
一方で、「時間が戻る」というのが、今この瞬間の宇宙を一旦分解して、例えば1000年前の宇宙と寸分たがわぬ宇宙に再構築する(量子テレポーテーションのようなイメージで、量子レベルで全く同一の宇宙を作る)、もしくは寸分たがわぬ別の宇宙を新しく作る。としたら話は変わる。上述の上位存在的にも、時間次元方向に動いていた世界が突然姿を変えるだけ(新しく生まれるだけ)である。そうすると、今度はそこから時間次元で先に進んだときに、確率分布が前回と同じところに収束する理由がない。なので、こんどは逆にありとあらゆる量子力学的事象が異なる収束先に収束するようになるわけだ(偶然同じところに収束することもあるだろうが)。
こっちのほうが元増田的にはロマンがある「時間の巻き戻し」だと思う。
ちなみに、量子力学的な現象はナノメートルオーダーのミクロでしか起きないので、「歴史を変えるほどの変化が歴史に起きるの?」という疑問を持つ人もいるかもだけど、これは「十分ある」。量子力学が日常スケールに影響を与える簡単な例の一つが、放射性物質の崩壊だ。放射性の原子一個がどのタイミングで崩壊するのかは量子力学的事象なのだけど、その結果出てくる放射線は日常スケールにも影響を与えうるんだよね。つまり、アレキサンダー大王の体内の自然由来の放射性物質が、偶然アレキサンダー大王を癌で早死させるタイミングで放射線を出した結果、アジアとヨーロッパの交流が格段に少ない歴史を歩んだ21世紀が来る可能性も全然あるわけ。早死するのがアレキサンダーでもカエサルでもヒトラーでも良いし、今の歴史で無名の誰かが癌死を免れて長生きした結果歴史が変わるのでも良いんだけどね。そういう現象自体はレアだけど、全人類、全動物で起きるその手のイベントがカオティックに影響し合うので、再構築から100年もすればなかり違う歴史になるんじゃないかなって個人的には思う。
@kis (id:nowokay) さんの以下の記事についてです。
https://nowokay.hatenablog.com/entry/2021/09/25/042831
ブコメにもあるようにちょっと内容が雑というかわかりにくいせいで賛否両論になってしまっていて、もしかしたら近いうちにアンサー記事が出るかもしれませんが、自分自身の理解を助けるためにも言わんとしていることを推測しつつ、自分の認識もまとめておこうと思い書くことにしました。明らかに誤読してそうな箇所があれば、指摘してください。
まずは前提を書いておかないと論点がぼやけると思うのでいちおう。
その他の前提:
2000年代に入って関数型プログラミングが脚光を浴び始めたのは、コンピュータ資源が潤沢になりパフォーマンスをそれほど気にしなくってよくなったことが大きな理由ではないか、という認識があります。
関数型プログラミング言語の内部実装を読んだことがないので推測ですが、データを不変にするということはその都度メモリ領域を新たに割り当てることになり、そのオーバーヘッドがプログラムのパフォーマンスに影響を与えるので、パフォーマンス要件がをシビアな場合、どうしてもメモリ割り当てや計算効率を考えるとミュータブルにせざるをえないと思います。が、ウェブアプリケーションに限っていえば、データベースアクセスやネットワークアクセスのレイテンシが大きいので、そうした相対的に細かいオーバーヘッドを無視しても(大抵の場合は)問題にならなくなった、というのが「時代」の流れなんだという認識です。
いっぽうで別の観点もあって、REST API や FaaS が一般化して、関数単位で処理を分割し、アプリケーション外部に配置することが当たり前になってきた現状があり、マイクロサービスのようにアプリケーション自体もモジュールの一単位として考えると、アプリケーション内部のモジュール同士でも関数ベースでやりとりする形になっても不自然ではないと考えられます。
元記事にもありますが、RPC の派生(実装?)として生まれた Java の CORBA や Microsoft の DCOM みたいな振る舞い付きのオブジェクト(コンポーネント)を共有しようという世界観は廃れ、REST API のような単一の振る舞い(エンドポイント)とそれにひもづく JSON のようなデータ構造のみを受け渡すやり方が一般的になったアプリケーション間通信の潮流と、計算機資源が潤沢になって再度脚光を浴びた関数型プログラミングが、レイヤーの違いを飛び越えてひとつになろうとしているのではないか、と。
つまり、元記事に書かれている「時代に合ってない」というのは、「データ構造と振る舞いが一体となったオブジェクト」のような「なにか」は、そうした背景があるために、どこにも存在する必要がなくなってきているのではないか、と解釈しました。
なので、以下のコメントはちょっと論点がずれてると思いました。
はあ?「再利用する方法としてはWeb APIが主流」って、その中身をオブジェクト指向で設計することは、全く矛盾しません。 部品化の単位は、慣習や柵などで大きく変わります。オブジェクト指向とはほぼ無関係です。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4708813645995359202/comment/suikyojin
なんでサービスとして外とやり取りする話とサービスの内部設計の話をごっちゃにしてんだ。なんか理解度が怪しくない
https://b.hatena.ne.jp/entry/4708813645995359202/comment/ssssschang
たしかに、アプリケーション単位とアプリケーション内部のモジュール単位とでその表現形式を合わせる必要はないんですが、元記事の言わんとしていることはこの一文に端的に表れていると思います。
ソフトウェアの記述をまとめるという視点では主にステートレスな関数を分類できれば充分で、データと振る舞いをまとめたオブジェクトというのは大きすぎる、システムを分割して管理しやすくするという視点ではオブジェクトというのはライフサイクルやリソース管理の視点が足りず小さすぎる、ということで、オブジェクト指向の粒度でのソフトウェア管理は出番がなくなっているのではないか、と思います。
「オブジェクト指向でなぜつくるのか」という本がありますが、「え、いまどきオブジェクト指向でつくらなくない?」っていつも思います。内容的には、もうほとんどはオブジェクト指向関係ないソフトウェア工学の紹介になっていますね。
当該書籍は読んだので後半はまぁわかるんですが、前半は「え、いまでもオブジェクト指向でつくるのが主流じゃないの?」って思ってしまいます(オブジェクト指向の定義が「データ構造と振る舞いが一体となったオブジェクトの集まりとしてソフトウェアを組織化すること」なのであれば)。
Joe Armstrong が "Why OO Sucks" を書いたのが2000年とのことなのですが、そろそろこうした議論は収束に向かってほしいと個人的には思います(とっくに収束していると感じている方もいらっしゃるでしょうけど)。