はてなキーワード: にんげんだものとは
※若干ネタバレ注意
原作未読ながら、僕は家族(主に嫁)と一緒に楽しく視聴していた。
娘二人もYouTubeで「恋ダンス」を覚えて踊ったりと微笑ましい光景が広がっていた。
しかしだ。逃げ恥の最終回を見終わってもなんだかモヤモヤしている。
というかそれまであった、他人の恋愛を眺めてほんわかする感、がなかった。
原因は一つで、みくりの可愛らしさがあまり伝わってこなかったこと。
これまで彼女は津崎平匡の不器用、鈍感、強情、卑屈な側面に付き合ってなおかつ彼と一緒に
あまつさえ彼の初々しさを気に入り可愛いとまで表現する心の広さ。
ここまで付き合ってくれる女性は現実にいないだろう、と僕は感心しきっていた。
この「男の弱さ」に向き合ってくれて、かつ逃げないでいてくれる女の子は可愛く見えてくる。
しかし、副業に手一杯となり津崎に冷たく接する彼女の姿があった。
そして彼女は、止めにするなら今ですよ、と逃げ腰になる。
みくりの態度はまさにかつての津崎の姿であり、彼がみくりを慰めるのはなるほど成長の証でもあった。
んだが、なんていうかもにょる。
津崎はみくりと一緒になるために慣れない家事をこなそうと頑張り始める。
でも家事に取り組む津崎を褒めるみくりの姿が見当たらない。
どうやったら家事が上達するだろうか?と考えるのがみくりのキャラクターじゃないの?
(確かぎょうざ作らせて、案外なんでもできそうとか言うてたやない)
まぁぶっちゃけると、みくりが定職について頭いっぱいになり津崎を放置する未来、というのが
ちょっとやそっとじゃ変わらないだろうから、面倒だなぁ、と感じてしまった。
話し合いも気力と体力がいるからね。
あとはダブルベットを置こうと提案する津崎に対し、別々がいいと言い切った彼女の姿勢も後押しをしたね。
だけど今からイチャラブ生活を始めようと期待している津崎にそう言い切れるみくりの強さが
やっぱり面倒だなと思えてしまった。
僕は今まできっと彼女の母性的な側面に癒やされていたんだ、とそのとき気づいた。
実際はそうではなくて、みくりは何事も真面目に取り組む人で、家事代行を全力で行った結果に
あのような素敵な奥様像を見せてくれたわけだ。
お金という対価がなくなった今、彼女のあの母性を感じられなくなるかもしれない。
これから津崎とみくりは何度も話し合いを重ねて夫婦を超えていくんだろう。
その点に続編への含みとかドラマ性がある。
だけどきっと今後は面倒な人間性の折衝があるんだろうなーと想像してきつくなってしまった。
そういうのはリアルで十分に体験しているのでファンタジーが欲しいのよ。
何が言いたいかというと
男は皆マザコンさー
一億総活躍社会じゃねーのかよ。
事業継承して住民雇用して仕事して税金納めてやるって言ってるのに日本は何が不満なんだ?
何が税収アップだよクソ。
田舎だから子供保育園にいけるけど、家族サービスできねーじゃねーか。
不倫してもいいし賄賂受け取るのもどうでもいいから操法大会やめろよ。
ふざけんな日本。
総務省に言ったら「自治体の判断に任せてます」とか言うらしいな。
かといって、市区町村とか都道府県レベルでもたらい回しにされるんだぜ。
止める気ねーだろ。組み体操と同じか。なにが「止めるのは簡単」だ。
じゃぁやめろよ。今やめろ。1年だけでもやめてみろ。
あのな、これからの時代、なんでも同じようにはできていかないんだよ。
一人一人の負担が増えるの。10人でやってたことを1人でやらなきゃいけないの。
お祭りの神輿かつげないからもう神輿もやれないのに、なんで操法大会はあるのよ。
子供産んで育てなきゃなんねーのに、なんでホース持って無駄に走らされるんだよ。
PTAからなにからなにまで負担が一人にのしかかるレベルなの。
消防士来るまで待ってたら火災や災害が酷くなることもあるからな。
目の前で誰か困ってたら助けるよ、にんげんだもの。
だが操法大会テメーは別だ。無駄すぎ、負担させすぎ、時間かけすぎ。自己満乙。
あと、行事多すぎ。○○式はもうやめろ。
神事か!お祀りか!誰のための式典なのあれは。
費やしたのか思い知らされて虚しくなるだけだわ。
多分俺は20年やらなきゃいけないしな。
準公務員である消防団員に給与払えよ、フードチケットみたいなもんでいいから。
不倫したり賄賂受け取ったりウチワ作ってるやつ見繕って国会議員を半分位クビにすりゃ財源作れるだろ。
もうね、毎年書こうかと思うよね。
http://anond.hatelabo.jp/20160215171759
■「消防団」を含む日記 - はてな匿名ダイアリー
http://anond.hatelabo.jp/keyword/%E6%B6%88%E9%98%B2%E5%9B%A3
■「消防団員」を含む日記- はてな匿名ダイアリー
http://anond.hatelabo.jp/keyword/%E6%B6%88%E9%98%B2%E5%9B%A3%E5%93%A1
http://anond.hatelabo.jp/keyword/%E6%93%8D%E6%B3%95
(追記)
二番煎じだった。
http://anond.hatelabo.jp/20160221170911
ラッパ隊も可哀想だよな。
欧米の古典を読んでいると、ギリシャ・ローマ時代の偉人の格言の引用に頻繁に出会う。
先日読んでいた本で引用されていたのが、
"et nihil humanum"
という言葉で、紀元前2世紀のローマのテレンティウスが書いた喜劇の冒頭の一節だそうだ。
「エット・ニヒル・フムマム……人間的なことはどんなことでも自分とは無縁ではない」
という意味だという。
つまり、酒を呑むことも恋をすることも、他人を羨ましく思うことも誰かを助けてやりたいと思うことも、
すべてひっくるめて人間の行為であり、それは自分とは無縁のことだとは思ってはならないという、
この言葉は、ヒューマニズム=人間主義のモットーとして欧米でよく知られているという。
「つまづいたって
いいじゃ
ないか
にんげんだ
もの」
相田みつをのこの言葉も、近年よく日本人が引用するようになった。
そこに、一時期もてはやされた相田みつをのこの詩が日本流のヒューマニズムのモットーとして
利用されるようになった機縁がある。
西洋から移植されたヒューマニズムが日本人の中に根付き、そこに相田みつをの言葉がピッタリとはまるようになったのだろう。
彼等の根っこには、ギリシャとローマという、合理主義的で民主主義的な、今の時代を覆う思想の花開いた文明がある。
だから深みがあり、強い。
それに対して、日本人、いや、韓国人も中国人もベトナム人も、王による独裁的な支配を当然とする思想を
二千年間信奉してきたために、近代までの思想に、現代の思想に利用できるものが少ない。
よって深みがなく皮相的だ。
http://blogs.bizmakoto.jp/teppeitakahata/entry/20694.html
この解決法、万人には勧めない。
自分は挨拶とか敬語とか、一般的な常識はおさえているが、細かい性格の人には不快感を与えるようだ。
何かに集中しはじめると崩れていくし、待ち合わせには遅れる。
打ち合わせなど、絶対に遅れてはいけない場合、30分前から近所をウロウロしている。
最近になって軽いADHDらしいと悟ったが、だからなんだ、という話なので保留。
とりあえず、社会人として、飛び込んでみるがいい。
だが、これから書く三点は忘れるな。
1:
飛び込んで失敗するのは、二人までにしておけ。
三人目でお前の個性が潰れ、四人目で自己嫌悪で鬱になり社会から消される。
2:
怒っている人の本音は
が半分で、
「『こいつは人に不快感を与えている』のがわかるのを我慢している状況が不快だ」
がもう半分。
3:
怒られて「ああ、自分のここがいけないんだな」と、毎回反省できるか?
それなら、お前は生きるのが下手なだけで、人としてはまともだ。
本当に怒られるべき人間は、自分のどこかがおかしいことを認めない。
2chまとめによくいるだろ。
だめなら飛び込まなくていい場所を探せばいい。
きのうの増田の続き。
http://anond.hatelabo.jp/20140223194724
国が年金システムを維持するということは、その60,70の団塊に報いるというモチベーションなのだろうか。若い世代から尊敬も得られないし、せめて年金は維持してあげよう。みたいな。もしくは失敗だったと認めたくなくてズルズル続けてるだけなのか。
でもその結果、無理がたたって現役世代が大変なことになってるわけだ。納付率もガンガン下がるし。年収400万以上の未納者に強制徴収するらしいね。あちらを立てればこちらが立たず。そんなんだからますます世代間対立は深刻化するし尊敬も減る。悪循環。
win-winになるためにはどうしたらいいか。無理かな。
収入あるひとは年金の支給額を減らせばいいんじゃね?強制徴収と同じ論理で。その代わり、団塊はこんなに国に対してがんばったんだよ貢献したんだよアピールを国策でやる。たとえば義務教育の中に入れるとか。靖国神社で団塊の世代コーナーを作って祀るとか。ALLWAYS三丁目の夕日3を作るのに国がカネ出すとか。それで尊敬の念の底上げを図る。カネは減るけど名誉をあげるから許して。みたいな。二階級特進。
話かわるけど、いま国会や地方議員の集票のメイン世代は中高年だけど、でも、その中高年の意思として「若者や未来への投資をしよう」ということがあっても良いわけだよね?でもそうなってないよね。つまり凡人には他の世代に気を配れるほど余裕や大局的視点はないということだ。特にに団塊は年上を敬う教育うけたわけだし。
だから政府がその大局的視点に立ってコントロールする必要があるんじゃないか?でもそうなってないのは、win-winなんてどうでもよくね?おれら政治家は票さえ集まれば安泰だし。という考えで政治が動いてるからなんだろうなぁ。みんな日和ってんだなー。にんげんだもの。
良心の呵責を利用するのはどうだろうか。「中高年たちの、若者や未来への投資をしようという意思をくみとって、年金改革をします」と切り出すとか。それはまるで、電車で「本日も乗車マナーにご協力ありがとうございます」とか、トイレで「キレイに使ってくれてありがとう」と張り紙してあるのと同じ戦略で、明示的に表立って言われたらどちらかというと「若者を蔑ろにする」なんてお行儀の悪いことは言いづらいわけで、そういった良心を刺激してみるテスト。
でもまあ、年上を敬う教育うけてきた人たちだから、ふつうに真顔で「若者なんかよりも年上敬えよ」って言うだろうけど。
八方塞だよねぇ。死にたくなるよね。
「win-winとかwwwwww共産主義かよwwww」みたいなノリなんだろうかなー。みんな幸せになるなんてファンタジーなのか。せめて一部だけでも幸せになるために奴隷がいるのか。
少々マニアックな言語が解せて、その言葉が母国語のサイトで買い物をする。
しかしどうにもこうにも、ニントモカントモ、買っちゃう時がある。にんげんだもの(みつを)
ポチった時は興奮状態。けど、熱しやすく冷めやすい物欲は時間の経過とともに沈静化していく。
やがて後悔の念が頭をもたげてき、必死に「あの買い物は正しかった」と自己肯定を図る。でも、玄関先で商品を受け取る時には氏にたい気分になっている。
ここが米国なら、ハート・ブルーのキアヌ・リーブスみたいにマグナムを空にぶっ放している。日本に生まれて良かった。
「ぜ、全部ECサイトが悪いんや!」
なまじインターネット普及以前を知っている世代なので、クリックちょんちょんで地球の裏から買い物ができてしまうシステムが恨めしい。
届いた段ボール箱と体育座りで向き合っていると、身辺整理という言葉が脳裏をよぎる。探さないでください。違う。
売ろう。自分を、じゃなくて届いた商品をネットオークションで売ろう。
引きこもり少年のオカルト趣味を満たす、クーリングオフみたいな便利な仕組みなんて海外にはない。もうオークションしかないっしょ(白目)
損切りは嫌だ。足が出ない程度の値段で売りたい。
商品代金・送料・関税・消費税・通関手数料・オク出品費用諸々のコストを勘定して出品価格を決める。
買ってもらえないだろうなと思いつつも出品。
売れた。
出品した当日の晩に売れた。
衝動買いした、家に眠っている他の商品も出品した。
今度は多少マージンを乗っけてみた。
売れた。飛ぶように売れた。
何で割高なのに買ってくれるんだろう?
グーグル先生と一緒に考え、以下の2点が原因なのではないかという結論に至った。
1. 英語圏の商品じゃない
2. 並行輸入品が売られていても、すんごい高い
倍値以上することも珍しくない。
ここまで考えて気付いたのは、語学の習得が少なくないカネを生むこと。
政府筋によると、政府は有識者と報道機関の誤報について近く研究会を設立する意向を明らかにした。研究会の名称は「虚偽報道および偏向報道に関する報道機関の責任と税のあり方」。
かねてから報道機関の恣意的な報道や虚偽報道、所属職員の給与が著しく高い点が一部国民の間で問題視されていた。将来消費税を増税した場合、現状では国民の理解が得られない可能性が高く、増税に対する批判をかわす狙いもあると見られる。
具体的な課税対象と課税方法については今後研究会で検討するが、報道機関の規模および所属メディア、報道の質に応じて区分を設け、課税金額を決定する方式が有力と見られる。また、政府が強力に推進したい法案を積極的に啓蒙した場合には、その割合に応じて課税額を減免する制度も盛り込む方針だ。仮に導入された場合、税収は「20兆円から30兆円ほどアップする」という。
国民の間からは「社会の木鐸たる報道機関の意義を報道機関自らが問うべきだ」といった意見や、「マスゴミざまあww」といった声が上がった。
報道関係者からは「報道の質を更にあげる良い機会だ」という声が上がる一方、「これまで間違ったことのない者が石を投げなさい」「まちがったっていいじゃないか にんげんだもの」と開き直る者もいた。また、この報道に関してある報道機関の社筆は「懲罰的課税であり大変問題だ。偏向報道をすることが唯一の楽しみなので年寄りから楽しみを奪わないでほしい。導入されたとすれば倍返しする。やられてなくてもやり返す」とコメントした。
板本偽太夫(亰都大学教授 公共シイッター学)の話「報道の自由を損なう可能性が極めて高く、現行憲法では違憲になる可能性があるだろう。もっとも、政府はうわなにをするやめくぁwせdrftgyふじこlp」
「自分は必ず正しい」「正解してる自分しか他人に見せてはならない」
その場合は、せっかくこういったアドバイスを目にしても、内心では
ていうことになってるから、自分が同じように行き詰まるまで、自分も同じだってわからなかったりする。
どうしてそんなに"自分が正解してるかどうか"にこだわるのかな。
そのこだわりを無くしてあげるにはどうしたらいいんだろう。
1つ目は「今落ち着いて考えると、当時はそのわがままを少しも言えなかったことがつらかったのだな」ということです。
「子育ては大変でグチ言いたくなることが必ず出てくるから、あらかじめ相談できる人が必要だよ」
と、ちょっとだけ先輩ぶってみたかったのかもしれません。
私は周りが気になりすぎてひとりで溜め込んでしまい、
体調を崩してしまうという本末転倒をしてしまいましたが、
子育てには「愚痴とか言い訳を言ってもいいじゃないか、にんげんだもの」って開き直ることが必要になることが多いです。
あと、愚痴を言っても受け入れてもらえると相手を信じることはもっと必要だと思います。
それは弱さじゃなくて強さだと今なら思います。
私は開き直りもできなかったし、夫をはじめとして周りの人を信じることもできななかったので弱かったと思います。
もう1つは不安だったりうまくできないのはあなただけではありません。みんな不安なんです。
できなかった私が言うのもズルいですが、一歩踏み出せば多分周りの人もわかってくれると思います。
あんまりがんばれって言うのも変ですが子供のためにも強くなってください。応援してます。
ただ、そこに映るものを自分の主観によって決定するわけじゃなくて、そこに映るものの“意義”を自分の主観によって決定するものだと私は思っているのです。
自我たる私は、窓の外を見て他なる存在を認識する。そこで決められているのは、その存在の意味だとか、私にとって何であるのかということだったりするのね。
だから、存在自体をどうこうできるわけではない。私は他者としての世界を見た瞬間に、最早存在を認識せざるを得なくなってしまっているわけなんだ。
例えば、あなたは大きな世界を「意識的に見ない/見えていないことにする」ことは可能だと述べたけれども、これにしたってすでに存在を認識しているから可能なことでしょう?
私が私を意図的に誤魔化すことができるのは、対象となる存在を認識しているが故だもの。対象がなければ、私は何をすることもできない。
で、存在を認識したからには、私は対象を分類しなくてはならない。にんげんだもの。認めるのもいい、誤魔化すのでもいい。とにかくカテゴライズするわけだ。
そこです。
その一点に置いて、自分から見える世界の有り様は決まると思うので、
「何が見えるか」までを自分で決める必要は無いのです。
そういう意味では、厳密には意識を閉じた状態でも外の世界の影響は受けている。
だから、言葉の使い方を誤っていたのは私だったかな。
自分を主体とした時に、「何に意味を見出すか?」という視点で考えると
意識を閉じた状態においては、世界に意味付けするのは自分の視点しかないわけです。
意識を開いた状態では、「他人の意識による意味付け」を考慮する必要が出てくるので
「自分視点ではこう見えるけど、他の人は違う捉え方をしているかも」という発想が生まれる。
使い古された言い方をすると「思いやり」
自分視点にこだわり過ぎてるかな?
横増田さんから突込みがあったが、「内包」の言葉使いには私も違和感を感じた。
大きな世界のうち、見える範囲だけを小さな世界のものとして受け入れ/認識するということかな?
横増田曰く
人は、大きな世界を、小さな世界にカテゴリー(いわば窓)を作る(別記する)ことでしか認識できないのだと思う。カテゴライズこそが人間の認識方法なのだと。
窓の概念はすごくしっくりくるけど、
本当に全てを知りたがっている人なんているかねぇ?
本能が正常に機能する人は知りたいことを知れば満足するという意味かw
総体について。
人も土地なども等しく外界の存在を内包するけれど、人は分類して敷居を作ってしまう。土地とかはそういったことがないように思うんだ。
微妙にわかるような気もするけど、危うい概念のようで不安感があるなぁ。
内包=概念化と言い換えられるなら、分類=言語化って言い換えても良いのかな?
総体というのは、意識による範疇化をせずに、小さな世界=大きな世界となるとなるようにそのまま受け入れる感じ?
漫画(鋼の錬金術師)からの引用になってしまうけれど、「一は全、全は一」という言葉がある。
私はありのままの存在をありのままで感じてみたい。小さな世界でありながら大きな世界となって、境界なく全てを俯瞰してみたい。べつに理解はしなくてもいいんだ。
溶けてみたいのかもしれないなどとも思ったりする。
境界のない世界観というのは、己の存在すら認識できない(自分と世界の境界が不明)と思うので、
「これ」を認識しているのは何者か?というパラドックスに囚われてとても怖い思いをすると思うのだけど。
あ、日が変わった。