はてなキーワード: にんげんだものとは
ナイルの水の一滴。志賀直哉という小説家の短文なんだね。知らなかった。私には知らないことがたくさんあります。
うーん。ちょっと違うかな。
ただ、そこに映るものを自分の主観によって決定するわけじゃなくて、そこに映るものの“意義”を自分の主観によって決定するものだと私は思っているのです。
度々文面に登場する「小さな世界」。私は箱庭のようなものだと考えているのね。私という自我が立っていて、壁に外界と面した窓がある。
その総称を「小さな世界」と読んでいるのございますよ。
自我たる私は、窓の外を見て他なる存在を認識する。そこで決められているのは、その存在の意味だとか、私にとって何であるのかということだったりするのね。
だから、存在自体をどうこうできるわけではない。私は他者としての世界を見た瞬間に、最早存在を認識せざるを得なくなってしまっているわけなんだ。
例えば、あなたは大きな世界を「意識的に見ない/見えていないことにする」ことは可能だと述べたけれども、これにしたってすでに存在を認識しているから可能なことでしょう?
私が私を意図的に誤魔化すことができるのは、対象となる存在を認識しているが故だもの。対象がなければ、私は何をすることもできない。
で、存在を認識したからには、私は対象を分類しなくてはならない。にんげんだもの。認めるのもいい、誤魔化すのでもいい。とにかくカテゴライズするわけだ。
するとどうだろう、私は私という小さな世界の中において、認識した外部の存在の立ち位置を決めることになる。
「総体」について。
その上で私は、人と土地などの違いに主体性の強さがあると思うのね。
人も土地なども等しく外界の存在を内包するけれど、人は分類して敷居を作ってしまう。土地とかはそういったことがないように思うんだ。
だから、自我としての小さな世界と、外界から取り込んだ他者としての小さな世界が混合し始める。
その総称として「総体」という言葉を用いたんだ。謂わば、小さな世界でありながら、大きな世界を内に秘めているような感じ。
まあ、結局私は人でしかないのだから正確なところは分からないのだけれども。
私は、時を経て変質することはあるにせよ、
存在すること自体に一番意味があると思うなあ。
そうだね。存在ありきでなければ何事も始まらないものね。だから、純粋に『存在すること』にこそ根源としての意味合いが一番含まれているのだと思う。
ただね、私はときどき大きな世界に飛んで行ってしまいたいことがあるんだ。
言葉はいつも世界を切り取って明確にしてしまう。私は世界そのものを感じたいのに。
漫画(鋼の錬金術師)からの引用になってしまうけれど、「一は全、全は一」という言葉がある。
私はありのままの存在をありのままで感じてみたい。小さな世界でありながら大きな世界となって、境界なく全てを俯瞰してみたい。べつに理解はしなくてもいいんだ。
溶けてみたいのかもしれないなどとも思ったりする。
渇望しているわけでもないのだけれどもさ。
……頭捻って文を書いたつもりなんだけれど、どうにも的確に答えられていないような気がする。ごめんね。
キーボードを叩いていたら、何がなんだか分からなくなってきたんだ!
蒸し暑いのは大嫌いです。
性格が悪い人なんていないんじゃないか、と最近思うようになった。
人それぞれ違う傾向を持っていることは確か。
でもそういう一面だけを見て「あいつ性格悪い」っていうのはちょっと違うかな。
協調性がなくて無神経だけど優しい人、
利己的な行動が目立つけどじっくり相談にのってくれる人、
だらしないけど一緒にいるとリラックスできる人。
いろんな人がいる。
「あいつ性格悪い」っていう言葉が出る時は
本当は対象の評価っていうよりは自分の感情の方が大きくて、
要するに「俺あいつ好きじゃない」って言いたいんだよね。
(きらいきらい!むかつくむかつく!みたいな)
にんげんだもの、いいとこもわるいとこもあってあたりまえ。
けっきょく相性なのかなーとも思います。
「いやらしい目で見る」のはコントロールできない感情じゃないのか?
甘えてないで、なんとかコントロールして自制しろよ。
少なくとも相手に嫌な思いをさせないくらいの無表情を身に着けろ。
http://anond.hatelabo.jp/20071024050957
「影響というのはどういうことかに就て考える方が、独創的であろうとすることよりも遙かに大切である」
吉田健一って人が言ってた↑らしい。
誰でも何かから影響を受けてる。
その点では、人による差など無い。
だから、知能の差など無い。と言う事も可能。ではあるが・・
「影響というのはどういうことかに就て考える」力量の差が、知能の差だ、ということも可能なんだな、にんげんだもの。
優秀なプログラマであるほど、プログラムの難しさをよく分かっている。
一方、あまり腕前の良くないプログラマや、プログラムを少しばかりかじったことのあるITコンサル程「プログラムなんて簡単だよ。」って思っている。
こういう構造ってなにもプログラマに限ったことではないのだろうけれど、ハードウェアエンジニアよりはそういう風に思われやすいんじゃないかな。プログラマ(ソフトウェアエンジニア)は安く見られやすい。例えばテレビや自動車やエアコンを作るのは、具体的に何が難しいとは知らなくても、何となく難しそうだと皆思うだろう。
でもソフトウェアを少しかじったりした後の反応は皆違うんだ。Visual Basicで簡単な数当てゲームを作った後に人が思うことは違うんだ。結局Windowsだって何だって、その数当てゲームの延長線上にあって、そこには比較的簡単に辿り着けそうだと想像させてしまうんだ。しばらくプログラムを続ければその道のりの遠さにはすぐ気付くんだけど、そこまで行かないままにプログラムをしなくなる奴はたくさんいる。でもそういう奴らは業界には残っている。厄介だ。
プログラムの参入障壁が低いことは、一プログラマとしては喜ぶべきことなんだろう。確かにその参入障壁の低さのお陰で、世の中に革新的なサービスが次々と生み出されている。素晴らしいことだ。
だけど誰だって、難しい問題を解いたら褒めてもらいたいよ。ただただ仮説を立てただけの奴とか、結果をプレゼンしただけの奴とか、そういう奴が褒められていたら嫌な気持ちになるよ。
どのスパンで考えるかの話で、地球誕生、とか哺乳類出現、とか新人類出現からのスパンで見ればもともと人口の増え方が急激すぎる。このスパンで緩やかに減らすとか無理でしょう。
リンク先の「緩やか」か否か、ってのは、多分コントロールした結果減るのか、資源の枯渇やら戦争やら自然災害やらで絶滅的に減るのか、っていう違いを指してるような気がする。
個人的には、コントロールして減らすことすら無理だと思う。だってどっかのエロい人が社会システムやらなんやらを勘案して「緩やか」な人口減のためには来年の出生率はいくつですよ、って決めたとしたってそれに従うことなんかできないでしょう。にんげんだもの。
みつを