はてなキーワード: 新古書店とは
http://ebook.itmedia.co.jp/ebook/articles/1109/06/news064.html
出版社からスキャン代行業者への質問状を全文公開、潮目は変わるか
等々の反応が見られるわけだが、ここで合法的な自炊業者を作るにはどうしたらいいかと言う事を考えてみる。
なお
と言う意見は、権利者が「そんなもん許諾した覚えはねえ」と言えば終わりなのでその説はとらない。
というか件の質問状「依頼者に私的使用目的であると申告させています。」と言う言質を取って非許諾リストを送りつける前段であろうから近々破綻するだろう。また日本の著作権法はオプトアウトは不可である事も考慮が必要である。
自炊業者が合法的になるには
これは、とりあえずいろいろな法律家が頭を悩ませたがどうやら判例から言っても揺るぎそうにない。なので、私製複製の範囲をなんとかして広げてやることを考える。唯一何とかなりそうなのが
第五条の二
著作権法第三十条第一項第一号及び第百十九条第二項第二号の規定の適用については、当分の間、これらの規定に規定する自動複製機器には、専ら文書又は図画の複製に供するものを含まないものとする。
で、この著作権法第三十条第一項第一号及び第百十九条第二項第二号の規定と言うのは
第三十条 著作権の目的となつている著作物(以下この款において単に「著作物」という。)は、個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用すること(以下「私的使用」という。)を目的とするときは、次に掲げる場合を除き、その使用する者が複製することができる。
1.公衆の使用に供することを目的として設置されている自動複製機器(複製の機能を有し、これに関する装置の全部又は主要な部分が自動化されている機器をいう。)を用いて複製する場合
で、第百十九条第二項第二号はこの三十条の罰則規定になる。つまり、今のところ、図書については「公衆の使用に供することを目的として設置されている自動複製機器」でコピーする行為も私的複製の範囲に含まれるのである。
ただこの条項、文化庁のページにこんなもんが乗ってる(PDF注意)ように、書籍出版協会、雑誌協会は廃止したいみたいでロビー活動を実施中なんで下手するとどっかのどさくさに紛れて廃止されてしまう可能性もあったりするがそれはとりあえず置いておく。
するとどういう方法論が考えられるか、だが…素直に考えると、たとえば書店・新古書店の店頭に裁断機とスキャナとパソコンが用意してあって自分で読み込んで持って帰るのは合法だし、裁断済みを固定してレンタルしてるレンタルショップがあって、その店頭にスキャン装置を置くと言うのも、まま合法であると言う考え方になる。内容は全然違うが、書店の店頭にコピー機があるのと一緒だからだ。
実際には、裁断済みの書籍を、装置にセットしないと外れないクリップで束ねて貸すような業態が考えられる。
貸した書籍をばらばらにされると商売あがったりなので、クリップは特殊な構造にしておき、店頭に設置してあるスキャン装置に入れ、USBメモリなんぞを差し込んで書籍を挿入すると、後は装置が自動的にクリップを外して読み込んでデータをUSBメモリに書き込むと言う一連を商売にする。書籍は一冊数十円でレンタル、装置使用料は一回100円のような形にすればいいのではないか。コミックなんかは一冊数百円なので10回ほど回転すればいいとか考えれば全く楽な商売であるが、正直極悪、流行したら出版業界を根絶やしにするに近い事になり、出版社も対抗して儲けにならないぐらいまで価格を下げ、焦土作戦のような事を決行して日本の出版業オワタ、結局最後は焼け野原が広がり誰も幸せになりませんでしたと言う事は目に見えているので可能性としてはありだが実際にやる会社はなかなか出ないだろう。また始めた直後に訴訟を起こされて大変なのは目に見えているし、専用の装置の開発などある程度の初期投資が必要になるので、先駆になる企業はなかなか現れないだろうと思う。ただ一度合法になれば爆発的に増えるだろうが。
またこの形だと店頭に足を運ぶ必要がある。ではどうするか。
完全にオートメーションにしてしまって、自分で自動複製装置を操作して複製した、と言う建前にするのである。
自分で専用の箱に組み込んで送ると、現地ではそれがラインに投入される。ラインの中では人の手を介さずに自動的に全てが処理され、データはレシピ通りに本人の所に届く。トラブルがあった時は多少人間が関わってもいいだろう(装置のメンテナンスをしていると見なせないか?)
ただこれも一つ無理があって、宅配業者がどうしても間に入ると言う事だ。たとえ宅配業者が投入した後ラインが自動的に処理するように作られていたとしても、宅配業者が自動複製装置への投入を代行したことになってしまうのではないかという事である。なかなか厳しい。
また多種多様な本、完全なんて無理にしても、多くを自動処理なんてできるのかといえば相当金をかけても難しいと思う。
と言うわけで、この抜け道だと宅配型のサービスは不可能である。
また店頭型もやり方を誤るととんでもないしっぺ返しを食って大変なことになるだろう。
次に著作権者に許諾を取る方向を考えてみる。許諾さえとれればいくらやっても問題は無い。
まずは「そんなことが可能なのか」という話から入る。
今回の記事
http://ebook.itmedia.co.jp/ebook/articles/1109/06/news064.html
にもう一度注目して欲しい。賛同しているひとがずらずらと並んでいる。しかし。これは出版社や出版点数に対して、決して多くはないのではないかという印象を抱かないだろうか?
私は自炊という行為についても、きちんと紙の本を購入している限りであれば、賛同する出版社や者は多いのではないかと見ている。
そういった事を期待して、
許諾の形式を柔軟に
と言うのと
と言った形で段階を選べるようにしたり、多少たりとも権利者にバックがあるようにして、権利者は一度売った権利でまた金が得られるようにしておけば、かなり許諾はとれるのではないだろうか。
これは大変地味な作業だ。特に当初は大変である。ただ許諾を得たなら、それだけで大変な武器になるのは間違いない。まただんだん一般的になって行き「あの作家の本は自炊サービスを利用出来ない」と言った話が広まれば圧力になりらだんだん楽にはなるだろう。
また、必要であれば
http://www.bunka.go.jp/1tyosaku/c-l/index.html
著作権者不明等の場合の裁定制度
もできる限り利用していく。はじめは行政の壁があってなかなか大変だろうが、大量に出していけば行政も対応せざるを得ないだろう。少なくとも著作権法を改正させるよりはよほど現実的な対応だ。
従来は書籍名で管理すると、完全に真っ黒の商売なので変に突っ込まれることからそういった管理は限定的だったが、このようにデータベースにすれば、書籍ごとに(著作権者への権利支払い料金も含め)価格を設定することもできるかもしれない。
そしてデータベースはWebで検索できるようにしておくほか、依頼があった物は一つずつ検査をして許諾有り無しを仕分ける。
あるいはお客が領できる許諾判別サービスなどを利用して、そこでチェックしてリストを添付させるなどとすればいい。誰の家でもある日常の道具、バーコードリーダーがつながるようにしておけば照合作業も楽に出来るはずである。チェック漏れや許諾がない書籍については実費で返却と言う事にする。
価格は従来の非合法なサービスよりも高くなるのは間違いない。しかし、許諾を受けて合法であると言う錦の御旗を掲げれば、利用者もなんのひきめを感じることなく堂々と利用出来るし、また、その効力でそれ以外は非合法と言い切る事ができる様になる訳である。
ユーザとしては、すべて丸投げすることはできなくても、これで多くの書籍が一度に片付けばかなり便利なのではないか。抜けた奴は自前でスキャンするか、スキャナのレンタルサービス、自炊スペースなどを利用する方法である程度カバーできる。
やはりサービスで一番難しいのはなんと言っても著作権者の許諾である。なので結局ぽっと出のベンチャーがやるのはよほどの後ろ盾がない限り難しいだろうなと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20100818231642
2004年に解決済み。今図書館に歯向かうような身の程知らず、恩知らずな作家はいない。
最初は2000年頃、新古書店問題に絡んで貸与権の問題が出て来た物。日本ペンクラブが書籍にも貸与権を認めるよう求めていた。
ところが、推理作家教会が図書館にまで難癖を付け始めた。2002年から2003年にかけて推理小説作家が大挙して図書館への抗議声明を発表する異常事態に陥った。
これを2004年の春に日本図書館協会が一喝。推理作家の主張に何らの法的根拠がない事を示し、図書館業務へのいわれなき誹謗中傷に手厳しく反論した。作家からの再反論はなく(論争が続くと思われたのに、拍子抜けだ!)、攻撃がぱたりとやんだ。
図書館は教育と文化の発展の為のアーカイヴとして存在するのであり、作家の生活の為にある物ではない。推理作家の要求は正当性のない物で、図書館業務の崇高な使命を理解せず、私利私欲の為に図書館の独立性を侵害しようとする試みだった。文化の火を護れるかのたたかいであったと言える。もっとも数々の圧力に晒されながら文化を護り通して来た図書館に負けは最初からなかった。
いまや図書館というのは出版社の得意先の一つとして成立してしまうほどに「規模が縮小された」市場であるとともに、しかし図書館の利用者は出版業の縮小とは反比例して拡大されているという現状から顧みるに、
司書らの図書物品に対する管理がおざなりになっているというよりは、「そういった利用者がいたとしても、看過せざるを得ない」状況なのだ、という認識がまず一つ。
そして、マナーの徹底素晴らしき事哉、だがそれを徹底されると困るのが「出版社」な訳で、本一冊に対する利用者の数を無限に出来ないような施策はこれまで何べんも行われてきたわけだ。
デジタルな書籍であればコピー制限、物理的な書籍であれば…新古書店を会社ごと買い取ったりとかあったね?
つまり、だ。マナーとして本を汚さないのは当たり前だが、本は「消費」されないと出版社側としても困るわけで、市民が本に金を使うことが図書文化を維持する方法でしかないのなら、増田が怒るよりも現状放置した方が効果的ってこった。
自分のやった行動を覚えていて、それをきっちり相手のことも考えて反省しまとめるなんてのは意外と難しいんだが。すっかり読んじゃったじゃねえか。
おまえいい増田だな。
関係あるかないかはわからないが、俺なんか普通に本屋じゃ立ち読み押しのけまくり。一冊しかないのを立ち読みされてることあったけど容赦なく声かけちゃうよ。そんなんじゃ入荷数の少ない田舎の本屋というサバイバル空間は生き残れない。さらに新古書店だとよくあるね。もうずばり「それあなた買いますか」つって。別に悪いことじゃないと思うけどな。買うんだったら「いえ、買います」って言われてるだけだし。その直後自分の中のamazon注文メモに粛々と加えるだけ。
つまり、その点については別に気に病むことはないんじゃね?
深夜のガキ市中引き回しについてはたぶん誰が言ったって納得できる答えなんてわかんねえと思う。本当のことがわからないかぎり。だけど、増田みたいに考える人間がいるから、ある程度世界は正常にまわってんじゃね?って気はする。その考え方は大切だっておもうがね。
一時期引きこもったりしてしまった。(http://anond.hatelabo.jp/20090222004116)
お前は俺か?中学から高校に入る頃の、俺が書き込んでるのか?と言うぐらいお前は俺とかぶる。従って、その頃の俺と似たような状況だと勝手に仮定して思いこんで書くぞ。だから違ったら無視しろ。読まなかったことにしろ。そうしてくれないとかなり恥ずかしい。俺は「小学校五年から中学ほぼすべてを不登校」で過ごした増田だ。学校に行ったこともあったが、ほとんど保健室或いは特殊学級、相談室などにいただけだった増田だ。
とりあえずここで俺がこの増田を読んだのも何かの縁だろう。ということでレスをしておく。
今となってはなんで不登校になったのかすら完全にわからなくなてもうだめ
不登校というのは、理由がある方が珍しいのでそんなことは気にしてはいけない。というかよく某不登校支援の名の下に活動している団体を中心に宣伝されている「今の教育システムが会わなかったので不登校になっている人間は不登校になったのではない、不登校を選んだのである」とか「不登校になった子は今の教育システムの型に入りきらない才能を持っている」と言った宣伝は、有り体に言って親が自己肯定するために作られた作り話か、特殊な例だけ抜き出したファンタジーだ。全く気にする必要はない。
親が、自分の子育ては間違っていなかった、と思うための慰めの言葉と理由付けだ。それ以上でもそれ以下でもない。
従って、本人がそれらの言葉に踊らされて「世の中の不登校の人間はみな立派に理由があるのに(或いはいじめなどのわかりやすい理由があるのに)、俺は理由がない」などと悩む必要などない。
自分は、不登校になったのはいじめが原因だったのだが、不登校仲間、と言ってはあれだが、親が不登校の子供を持つ親の会、的なありがちな団体に入っており、その関係で再び交流を持つようになった親友がいる。
「増田君はいいよね、ちゃんとした理由があって。僕にはそう言うちゃんとした理由はないから」
一瞬意味がわからなく、一体何が良いだよ、と思い、激しくフラッシュバックして、パニックを起こしかけたことがある。しかしそんな彼の表情を見ると、すごくつらそうであり、自分は何も言えなかった。
そして、彼も俺も、母親からも「お前は不登校になったんじゃない、選んだんだ」と言われていた。
これは一種の劇薬、いや麻薬といってもいいか、そのときの自己を肯定することには非常に役立つ魔法の言葉だ。しかしその魔法が切れると、もはや重荷でしかなくなる。そして一人深く考えるうちに、だんだんそれは孤独を生んでいく。つまりこう考えてしまうのだ「同じだと思っていた不登校の人たちは、実は同じではなく選んだ人たちで、自分は選んだわけじゃないから、あの人達のようにはなれない、だから僕はだめなんだ」と。
そんなわけあるか。細部は違えど、みんな一緒である。選んだ奴などほとんどいない。選ばされた奴らばかりだ。
誰も不登校になろうとしてなるものはいない。そう言う人間はこうしたことで悩んだりはしない。だからそのときの限界だったなにかがはじけた結果、最悪の事態から自らを守るための行動が不登校だ。したがって不登校は結果でしかなく、そこに理由などはない。なぜか?物事は理由が分かれば8割方解決したも同然であり、理由が分からないので問題の根本解決ができないからだ。そして、解決ができなかったから、その問題から自分を守るための行動が不登校である。有り体にいって学校から自分を守るための行為だ。従ってほとんどの場合不登校の理由などわかるはずがない。理由が分からないことが、解決できない大きな要因だったのだから、理由が分からないのは当然だ。それを「理由がない」と勘違いしてはいけない。火のないところに煙は立たないとか言うが、世の中のすべてのことに原因がないことなど、存在しない。ただ発覚するか、しないか、分かるか分からないかの違いだけだ。
同じように「不登校になった子供は、そうでない子供では経験できない特別なものを得ているのです」「不登校になっても、一つの分野、たとえばゲームだって、漫画だっていい、誰にも負けずに打ち込めるものがあればいい。そしてそれは必ずある」なんて話も問題がある。このあたりはある程度事実であり、確かに普通の子供では理解できなかった部分もたくさんあったと思う。その点で、経験と失った者がうまく釣り合っているのではとすら思う。が、しかしこれは結果論でしかない。つまり「あぁ、あの時の経験が役に立ったな」と後から思うことだ。おそらく今悩んでいる元増田氏が俺ぐらいの年齢になって初めて感じることだろうと思う。従って、「不登校時代の経験や打ち込んだことがが役に立った」なんてことを今の当事者である元増田氏が感じられないからと言って、悩む必要などない。逆に、それらをその当時に分かったような気になっている奴がいたとしたら、そんなものはよほど特殊な例か、分かった気になっているだけだ。
つまり何が言いたいかというと、理由がわからないことなど当たり前なんだよ。よって、それで負い目を感じる必要などない。その点で元増田氏は九割九分特別などではない。。効果が後から出る。だから自分が馬鹿か天才かなどと言うことは、今は本人はわかりはしないのだ。今のありのままで感じるほかなく、それで必要以上に、自らの存在意義すら問うほど悩んだり評価したりしないことだ。
ちなみに、勉強についてだが…「勉強などいくらでも取り戻せる」と言ってる奴がいるが、それは無理だ。不登校である間に仲間が得ていたはずの経験が全くないので無理だ。と思っている。が、それは結局のところ「あいつは工業高校に行ったが、俺は商業高校に行った。従って俺はあいつが持っている工業高校の知識がない」といった程度ではないかと最近思うようになった。つまり道を違えただけだ。
だから同じ知識を得ようとしてもそれは難しい。自分なりに新たに勉強していくしかない。ついて行けない部分があるなら、そのたびに勉強して補っていくしかない。それは地道な作業だが、仕方がない。こういう言い方をすると反感を買うが「違えた道の知識を後から勉強していくことは、大人になればよくある話」である。これを今言って聞かされても分からないだろうとは思うが、特別なことではないと理解して欲しい。
先ほど話に出した親友の不登校の奴は、その後高校に進学後、国立大学で工学を学び、就職した。勉強ができなきゃ、そんなところには行けないはずなのだが、しかし今でも「あの時にやっていれば違ったかもしれない」と言っている。かく言う俺もそうだ。あの時にやっていれば、と思うことが多々ある。そして、そう思ってない不登校の人は今まで会ったことがない。
だが、この喪失感は不登校であろうとなかろうと、大なり小なりいずれ誰でも持っているものだ。つまり「あの時工業高校に進んでおけば、工業のことも分かったのに」といった程度のものと同一だ。ただの後悔である。
ならば、どうするか、それは一つしかない。つまり「やるしかない」のである。「そういうもんだ」と思って「やるしかない」のだ。積極的になれば大抵何とかなる。そして、そんな風に理論武装をしないといけないほど、学生時代の、ある特定の部分がすっぽりと抜けている、と言うことは喪失感があり、負い目であり、自信をそぐ原因であることは事実である。しかしそれにつきあっていくほかない。「そういうもんだ」と思ってつきあって、その上で「やるしかない」のである。後悔は先には立たない。そして、大抵の後悔など屁の足しにもなりはしないし、猫の手ほども役になど立たちはしないのだ。また、この場合、今元増田氏の段階で反省してもあまり役には立たない。
自分の親友は、この不景気になって、真っ先に首が切られると思いこんでいた。不景気になったとたん、ああおそらく俺はすぐに首だ、とまっさきに落ち込み、次はどういう職を探そうかと、肩たたきが始まってない段階から話していた。そこまで自信が持てないでいたが、結果は会社の中で肩たたきが始まった頃、期待の若手社員として唯一、会社の長期的な産業構造の変化に対応するための新規事業開拓の開発チームの重要な部分を任されたそうである。これは彼の性格によるところもあるだろうが、我々(と言ってしまって良いのかわからないが、少なくとも俺は)不登校ということを経験している人間は、そして特に、その深淵をのぞき込んだことがある者は、おそらく一生これとつきあっていかなければならない…と思っている。「思っている」というのは、俺もまだこれらに決着がついてないからなのだが。
それ以外は、もはや普通の勉強について行けない人間の勉強法と同じだと思う。おそらく意欲が低下するのは、できる自分がうまくイメージできないからではないだろうか?とか、塾や家庭教師などの専門家の知恵を借りて見るだとか(不登校に限らず、病気などで遅れる子を復帰させるノウハウを持った人はいるはず)、とにかくわかりやすそうな本を探してまず理解して、そこからとっかかりを探すだとか、そう言う普通の勉強法だ。
そう言ったことの専門家でもない俺が、一番安くすぐにでもできそうなことをあげるとするなら、元増田氏が高校生以上であれば「大人なのためのやり直し化学」とか「やり直し数学」とかそういう類の新書が結構でているので、それをBOOKOFFみたいな新古書店で買ってきて(大体100円)、とりあえず読んでみるのがおすすめである。(が、俺は勉強ができる方ではないので、このあたりについては何とも言えないのだが…)ハンデとしては勉強法を学ぶ時に不登校だった人間だと勉強法の確立から始めなければ行けないことだが(つまり俺だが)、そこは本当に自分なりのやり方を見つけるしかないのでやるしかないとしか言えない。何度も言うようだが、自分は勉強ができる方ではなかったので。
まぁつまり、長々と書いたが、言いたいことは「気にしすぎ。俺もそうだった。とりあえず肩の力抜けよ」と言うことである。
っていうかかなり恥ずかしいなこれ…全く的外れだったらどうしよう…そんときはさっくり無視してほしい…
いい整理だと思うけど、古書店は大型小型の区別の問題とちょっと違うかも。
ブックオフ的なシステムか否かは店の大きさとはまた違う分類が必要っぽい。
もっとも、あんまり小さなブックオフってないし、中規模のブックオフでも本のバラエティ度ってのは高いから、単に「新古書店」っていう区分でよさそう。
新刊書店と新古書店の問題には思うところがある。「新刊はコンビニで十分」という意見はなかなか極端でナイスだ。元増田はちゃんと反論してくれるのがいいな。もっと意見を聞かせて。
さて、書き込みを読んで思ったことを箇条書きで。
元増田は商店街の(小さい?)本屋、およびやや郊外型の中規模書店を何軒か回ったとのこと。
書店は「パターン配本」が普通なのね。取次が作る「この本を並べるとよく売れると思います」のパック。
配本基準はいろいろだけれど、たとえば「小さい書店向け新刊パック」的な配本もある。書店はそれを並べれば、新刊書店として押さえるべき新刊は基本的に押さえている品揃えになる。
とくに小さい書店は手堅く売れる本を置きたがるもので、個性的な品揃えの棚を作る余裕はない。本の利幅ってすごく少ないしね。
それに昔は書店って手堅い商売だったから、商品知識や本への愛情は別として「とりあえず本屋でもやるか」で開店したところもそれなりにあるわけ。「誰が本を殺すのか」では「パパママ書店」って呼ばれてるタイプね。
(そして今、そういう書店は元増田のお望み通り、どんどんつぶれてるわけですが)
そんなこんなで、「規模が同じなら、どの書店に行っても同じ本しかない」状態が普通になっちゃってる。問題は問題なんだけど、売れる本と売れない本がはっきり分かれてる今、そこを変えるのは難しいんだ。
なので近隣でいちばん大きな書店になかったら、もうほかの書店へは行かず、注文かAmazonかブックオフを使うのが効率的になっちゃってるんです。
新刊書店は新しく出てきた文化を紹介し、古書店はその中から厳選された文化を守っていく。これがお互いの立場なんじゃないかな。
一言ですんでしまった……でも私はそう思う。
になったので今はここまで。
とある本が読みたくなって本屋に探しに行った。
一般の文芸書で、そこそこ有名な作家の本だがベストセラーとまではいかず発売は2年ほど前。まだ文庫化はされていない。
このタイプの本は、そこら辺の本屋にはまず置いていないということを思い知った。
私の行動範囲(原付で移動できる程度の距離)には、商店街の本屋さん、やや郊外型の中規模書店がいくつかあるがその何れにも無い。
ふと思い立ち、ブックオフに行ってみた。
そこでやっと発見。
どういうことなのだ。
新刊で購入しようと思っていた人が新古書店に行かないと本が見つけられないなんて、新刊業界(?)の連中は恥ずかしくないのだろうか。
ついでにブックオフでいろいろ本を見てみる。
すると、100円コーナーにもかつてのベストセラーや名作漫画、絶版でamazonでも手に入らないような本が並んでいるではないか。
あの時興味はあったけど買い損ねたあの本、ベストセラーになってから買うのは悔しくてツンデレ的にスルーしてたあの本も100円。今なら気軽に買える。
皮肉なことに本の中身をチェックしないブックオフこそが、逆に「文化」を保存し伝えているのだ。
http://b8270.at.infoseek.co.jp/cho-c.html
出版社とそれに乗せられた作家連中はこんな痛い呼びかけをしちゃっているが、ブックオフの方にしかあんたらの本がないというのはどういうことなのだろうか。
ただ新刊漫画を売り捌くだけの場所。
今後新刊の本屋で生き残るのは、大都市の中心や郊外にある品揃えが豊富な大型書店とamazonだけだろう。
文化はその気のないブックオフが守り伝えてくれる。
売れる新刊本はコンビニででも販売すれば十分だ。
9/24追記:
http://anond.hatelabo.jp/20080924005214
誤字修正&思ったより見てくれた人が多かったんで追記しといた。よければそっちも見てくれ。
9/26追記:
http://anond.hatelabo.jp/20080926053616
もう一回追記。
たぶんこれでおしまいにします。読んでくれた人どうも。
私が所属するの大学の研究室は、今年で教授が退官するので引き払われることになった。そして研究室を明け渡すために大掃除をしてみると、漫画の山がたくさん出てきた。そこでそれを、某チェーン新古書店に引き取ってもらい、売れたお金は打ち上げ代にしようという話になった。
そして早速出張買い取りを呼び、漫画の山を査定してもらうことになった。ろくに整理されてない漫画の山を手早く捌いていく買い取りの店員。私はその手際の良さを見ながら、この本が店に並んで売れたとしても、作者には何の貢献もしないんだということに、ささやかな罪悪感を抱いていた。
査定の最中、買い取りの店員と少しばかり話をしたが、彼はこう言っていた。「漫画は宝ですから」
そして査定が終わり、明細を見せてもらう。
全部で400冊近く漫画があったが、売値は合計で7000円程度だった。殆どの本は10円の値段しかつかなかったのだ。
10円の宝、そしてこれが新古書店に並び売れたとしてもその宝を創ってくれた作家には何の貢献もなく、私も店員もそれを承知している。それでも、私も買い取りの店員も、ひいては新古書店も誰も損をしない。このもどかしい矛盾と罪悪感はどこへやってしまえばいいのだろう?
漫画は、本は、売ってしまった方がよいのだろうか?捨ててしまった方がよいのだろうか?
私には分からない。
こういうのを読むといつも思うんだけど、作家の人って「欲しくても手に入らない」人の気持ちを考えたことあるのかな。森氏は売れっ子だから刷り部数も多くて品切れ絶版もないんだろうけど、世の中そんな作家ばかりじゃないし、新刊は復刊されず中古が高騰している物故作家だっていっぱいいる。
欲しいときに欲しい本が手にはいるならいつも新品を買ってもいいと思うが、そうでもないのだ。中古品に回らないように燃やせ、って、そりゃないぜ。製品としての本は不要な人から欲しい人に回ってけばいいんじゃないの、と素朴に思った。今の新古書店はそのルートがうまく出来すぎていて、それが旧来の著作権で食べている人には不愉快なのかなあ。少なくとも自分は古本でしか読めない本を探すのにアマゾンユーズドとブックオフがなかったらとても困る。