はてなキーワード: 商店街とは
眠れないので、誰にも話したことのない話をする。それは僕の人生についての話だ。
僕の一番古い記憶は、二歳のときのものである。祖父に手を引かれた幼い自分が、夏の祭ばやしの中でぼうっと立っている。そんなはっきりとしない風景のような記憶。
その夏祭りと同じ年、祖父はまだ50代という若さで死んだ。大の酒飲みでもあった祖父が居酒屋からの帰り道に道路のど真ん中で泥酔して寝ていたところ、通りかかった車にひき逃げされたのだそうだ。犯人は結局見つからず、警察の役人的な処理の仕方に家族は憤りを感じたらしい。そういうこともあり、僕の一番古い記憶は、僕がもっている祖父に関する唯一の記憶でもある。
ただ、この祖父との夏祭りの記憶はおそらく後から作られた記憶なんじゃないかと、僕自身は思っている。なぜなら、祖父に手をひかれている記憶のなかの「幼い僕」は、記憶の観察者である「僕」のほうを見ているからである。ふつう自分自身の記憶であれば、自分の顔がその記憶の風景の中にあるはずがない。僕が一番古い記憶だと思っているその祖父との思い出は、一人称の記憶ではなく、三人称の写真的な風景なのだ。多分、祖父が死んでずっと後、僕が物心ついた頃に祖父との夏祭りの写真をみせられたか、もしくは親類が思い出を語ってくれたことで自分の中で作られた記憶なのではないかと思っている。
祖父に関するもう一つ記憶に残っている話がある。それは僕の父が語ってくれた父の記憶だ。祖父がひき逃げされた数ヵ月後、御巣鷹山の日航機墜落事故がおきた。日本中の人々の関心を呼んだその事故の報道を見ながら僕の父は一人の目撃者や証言者もなく数ヶ月で忘れさられてしまった祖父の事故を思い、命の価値は同じはずなのにどこか不公平だと感じたそうだ。その話を父から聞いたのは僕が中学生くらいのときだったと思う。多くの人の命が失われた大きな事件なのだからそんな田舎のひき逃げ事件より注目を集めるのは当たり前じゃないかと、思ったのを覚えている。
僕の話に戻ろう。祖父との夏祭りの記憶の次に覚えているのは、幼稚園の庭のすみで幼なじみの男の子と二人、もくもくと遊んでいる僕の姿だ。これも記憶というより、印象といったほうがちかいかもしれない。幼稚園では他にも友だちがいたはずなのだが、僕はいつもその幼なじみとばかり遊んでいた。他のこどもたちは幼稚園の庭の真ん中でみんなで仲良く遊んでいる。ただ、僕とその幼なじみだけが庭のすみっこで別のことをして過ごしている。そういう記憶だ。
僕は自分がマイノリティであるという漠然とした自意識をもっている。そういう自意識はおそらくこの幼稚園時代からもっていたのではないかと、特に理由もないのだが、なんとなくそう思う。はっきりとは覚えていないのだが、そんな幼稚園時代を過ごしたという印象だけ残っている。
その後僕は幼なじみと同じ小学校にあがった。幼なじみをKと呼ぼう。小学生になった僕はKのほかに、新しくJという友達ができた。Jは別の幼稚園に通っていたのだが、帰り道がKと僕と同じなので自然と仲良くなったのだと思う。なにをして遊んでいたのかはあまり具体的に記憶にないが、学校の帰り道やお互いの家、近所の公園などで過ごしていた記憶がある。たぶん、他のこどもたちも同じように過ごしていたんじゃないだろうか。幼稚園のころよりかは幾分交友関係が広り、幾分マイノリティでもなくなった。
だが、マジョリティではなかった事だけは確かだ。小学生だったことがある人はわかるかと思うが、子供のなかでは子供なりのカースト的な階層があるものだ。上位階層に所属しているのはもちろんスポーツが得意な子供達である。野球やサッカーではエースで、なおかつ顔がカッコイイというWという同級生がそのカーストの頂点で君臨していた。僕は早生まれということもあってか運動がまるきりダメで、そのためカーストの中では下位に位置している存在だったが、意識して階層の外にいるように、つまり上位のやつらやその友人たちとはあまり接触しないように過ごしていた。交友関係が広がったとはいえ、マジョリティだとは言えない存在だった。要するに僕の自意識はマイノリティのままだったのである。
スポーツがまるでダメと書いたが、そのおかげでマジョリティになれなかった僕はスポーツというものに対してどこかしら卑屈な感情をもっている。マジョリティへの嫉妬が、スポーツができないという事に転嫁され、それがスポーツそのものへの憎悪に近い感情になり、その結果スポーツは僕にとって禁忌になった。自分がどこからしら劣っているのはスポーツができないからであり、その元凶であるスポーツには近寄ってもいけないという発想である。運動ができない子供はみな同じような感情を抱くものなのだろうか? スポーツが僕の中で禁忌であるというこは特に誰にも話したことはないので、他の似たような子供はどう感じているのか正直よくわかない。
これは成人した後、それも社会人になってからの話だが、会社の同僚と学生時代の部活の話をしているとき、僕はおどけた調子で「運動したら負けだと思っている」と当時ネット上で流行していた言葉をもじってスポーツに対しての卑屈な感情を冗談めかして言ってみたことがある。だが、その時話をしていた元サッカー部という同僚がそれを素直に受け取ってしまい、おそらく彼には僕と同じようなスポーツに対してのコンプレックスがないのであろう、結果、彼の気分を害してしまった。その人自身は運動会系というより文化系の人間だったので、僕の原体験を共有できるものと勝手に思ってしまった自分が悪いのである。スポーツに対して当たり前のようにコンプレックスをもたない人間を目の前にし、自分はやはりマイノリティなのだと再認識をした。
僕達の育った町は自然あふれる田舎でもなく、かといってビルが屹立する都会でもなく、よそから引っ越してきた人達がつくったマイホームが国道や鉄道沿いに立ち並ぶ、いわゆる郊外と呼ばれる場所だった。「だった」と過去形で書いたが、現在でもその風景は変わっていない。駅の前には商店街や、小さな個人書店や、同級生の親がやっている歯医者。国道沿いにはファミリーレストランや大きめのおもちゃやさん、そして西洋の城を中途半端に模したラブホテル。この国のどこででも見られるような平凡な風景だが、誰にでもそうであるように子供の頃の僕にとってはそこは唯一の場所であった。
他の小学校のことはよくわからないが、僕の通っていた小学校には他の町に遊びに行ってはいけないという「きまりごと」があった。僕の家は隣町との堺がちかく、同じ町の友達の家に遊びに行くのにも隣の町を一部横切っていったほうが近いといったようなところに僕は住んでいた。「きまりごと」はまもらないといけないと素朴に信じていた小学生の僕は、友達の家に行く途中隣町をちょこっと横切るだけでも、ちょっとした罪悪感を感じていたものだ。まして電車にのって別の町まで買い物に行くなどどいうのは親同伴でなければ許されない事だと、そう固く信じこんでいた。
(断章)
1 :可愛い奥様:2010/07/16(金) 12:17:44 ID:b88RvtgP0 私は今「オバサン」生活が楽しくてたまりません。 実は私は若い頃からあまり恋愛に恵まれず、片思いや辛い恋ばかり経験してきました。 辛く苦しい恋をする度に「ああ早く楽になりたい」と思っていました。 そして辛い時に町で「オバサン」を見ると妙に幸せそうに見えて (実際にはご苦労もあるのでしょうが)、とても羨ましく思っていました。 「ああ早くオバサンになりたい」「オバサンになって幸せになりたい」とずっと思ってきました。 そんな私もついに結婚、出産して子育ても一段落し 念願の「オバサン」になることが出来ました。 すっぴんでアッパッパー(部屋着のようなワンピースのことです)を 着ていても誰にも怒られません。 ママチャリでスーパーに行ったり商店街で買い物をしたりするのも好きです。 スケジュールに追われて疲れていた若い頃よりも何だか元気になってきました。 華やかなこともないし刺激もない平凡な暮らしです。 セレブな奥様の生活からはほど遠い暮らしですが、私は今とても幸せです。
自分も容姿がほどほど程度でものすごい巻き込まれ具合だった数年間を思い出した。
「派手でもなく(化粧すら20代後半になってやっとアレンジができるようになった)」
「遊んでもなく(ライブやコンサートにまだ行ったことが無い)」
それが「もてる」理由になり、そしてトラブルの引き金になって色々こじれた。
22歳で社会人になりたった3年で仕事2回も辞めさせられたな。同じ理由で。
美人ではなくても、こういう要素があると同じストーリーを辿るかもしれない:
・男女どちらに対してもオモテウラがない(これはあらゆる人に言われた)
・何かにつけて積極的ではない(受け身になりやすい)。
・男性の好む話題や興味が、本人の興味対象に入っている(「理解してくれるから嬉しい」らしい。私は元理系)。
・人情が厚い(ひどく言えばお人よしなんだけど、これは…私の基本だからなかなか捨てられない)。
あと、自分の場合いわゆる商店街の看板娘として身に着けた「気安さ」も引き金だったっぽい。
親が死んで店たたむまでまるっきり気付かなかった。
【2ch】ニュー速クオリティ:女子小学生「〜でさぁ、マジでさ〜」 男「うるせーよカス死ね」→通報
こういう話が出る度に「嫌な世の中だ」みたいな反応してる人がいるけど、「知らない人から話しかけられたら注意しろ」とか「知らない人についていくな」みたいな教育って何十年も前からあったじゃん。お前らがどんな子供時代を過ごしたかは知らんけど、少なくも俺の時は常日頃からそう言われてたし、そもそも、知らない大人から声をかけられる事自体、俺自身が何か悪戯でもしない限り滅多にない事で、声をかけてくる大人なんて、ご近所さんや母とよく一緒に行ってた商店街の店主、塾の先生みたいな顔見知りの人ばかりだった。
お前らは「普通に声をかけただけじゃん」とか言うけど、そこには「面識がない」っていうわりと重要な側面があるんだよ。もちろん、それで通報する事を肯定すべきかどうかは俺には分からんけどさ。とは言え、不審がられたくないなら、近所付き合いとか、あるいは地域的な活動にある程度参加して、親にしろ子供にしろ、顔を見ただけで「あ、この人はどこそこの誰々だな」くらいは判断出来る材料を普段から用意しとけという話だし、そういった地域ぐるみの生活が出来ないだろう都心部では、正直、一定の過保護さみたいなものには不可抗力という側面もあると思うんだよ。
貴方みたいな、きれいに長文をかけるヒトを尊敬するよ。自分はスゲー苦手。
昔の民度高い人たちは
商店街の八百屋とも「もっとマケテよ」と交渉したり(一方では協力もする)、
近所の子の迷惑を叱った(一方で世話もする)んだけどな。
ほとんどの人が声をあげなかった件。
当然抗議の方法がスマートで内容が解決方向へ向けてるのかが問われるけど、
今の連中が押し並べて黙りこくってるのは本音は自分の保身が第一だろ、おれもそうだけどさ。
価値観を広く認めにゃならんし最近は外国人も多いし文化の多様性ってやつさフッ、ってのが綺麗な理由の1つだろう。
あと、自分の頭をつかって考えることが面倒になった、という、家畜化しちゃってる連中。
鉄道会社が混雑緩和目的に運休・入場整理したり運行上間引き運転をしたい気持・理由はわかるけど、
そういうのを見越して職場の近くへ引っ越すとか、
金銭などの多少の犠牲を払ってでも
うまくそういうのに頼らず済むよう自己投資するしかないだろうね。
俺はメトロだけで通勤できる(JRだけも可、都営バスも使える)ところへ引っ越してから
普段も楽だし、震災のときも他の人たちより気を揉まずに済んだ。
世間みんなが住宅持ちだから、俺もローン組んで家買わなきゃ、株や投信やらなきゃとか
他の人と違う「ずるい」ことする奴は助けない、とかほざいてる連中は、
いざって時もどうせ大して助けちゃくれない(当然ながら、勝手の内容によってはハブられるべし、と俺も思うけど)。
庶民なんだからみんな鉄道会社様に頼るの当然だ・おとなのジョーシキ、といった意識、そもそもダサい。
連中の魚網に引っかからないように気を払うだけで
世間の他の連中より(相対的に)得できる・徳にもなるという、なんと楽なことよ。
震災で騒動を起こさなかった日本が外国から注目されています!っていう件で
便乗して「オマエラおとなしくしてろ、それが高民度ってもんだ」という酷い誘導がないことを祈る。
って感じで、長文を読みやすくまとめて書くのって難しい。。
今なお、商店街に店を構えていたり、住居として住んでいる人たちは、生存戦略の勝者なんよ。
商売していなくても生きていける。
ある意味勝ち組なわけで、そんな選ばれた人たちが、腰を低くして商売を続ける理由はあまりない。
生存戦略として、大手のフランチャズに加盟して、コンビニに転身した酒屋もいたし、郊外のロードサイドやショッピングモールに出店した本屋や靴屋もいたし、何も手を打たずに倒産して、街を出ていった人もいたし、それぞれが生存戦略にしたがって、行動した結果が、今のシャッター街だったり、歯抜けの駐車場だったりするわけです。
そこを活性化するとかいっても、どちらかというと勝ち組の地主さんしか残っていないわけで、その人にとっては、今の状況が一番収益が高くて手間がかからないのだろうし、新しいことをはじめるだけの探究心が残っていればいいのだろうけど、一定の年齢以上では無理でしょう。
個々の家とか店から見たら、今の状況は必然的な成功だけれども、駅前とか街の中心地に公益性があるとしたら、失敗なんだろうなと思います。
適当に祖母が話したことを書いておきます。裏もとってないし事実と異なることがあるかもしれませんがご了承ください。
当時中学校は市内に一つしかなく1100人ぐらいの生徒がいたらしい。
修学旅行?で東京や江ノ島に行ったが、その頃は人数が多かったので特別列車を仕立てていったらしい。
東京で一泊するとき、小さい旅館しかなくあちこちに分かれて泊まったそうだ。
江ノ島には大きい旅館があったので2つにわかれただけですんだとか。
現東武周辺は刑務所があったが、通学当時に工事が始まり更地にされてから再開発されたようだ。
家への近道だったため周辺を通過して帰ったらしい。
現在と違って他に建物もなく、フクロウがなく道を帰るのは心細かったそうだ。
更地になった後も数年広い敷地がのこり、商店街の男たちなどがでかい凧をあげていたと言っていた。
学校の生徒はほうぼうから登校しており、祖母のクラスには鬼怒川のへりに住んでいる生徒がいた。
その子の家は農家で朝が早く、徒歩で通学していたが、速く歩いても一時間はかかったそうだ。
昔っていつさ、ってのはあえてぼかして書く。というか私にもよくわからん。
ただ、相対的な話だけれども、錯覚かもしれないけれども、
私が思うに、昔のお客さんって結構手ごわかったはずなのよね。昔はお客さんが店主に負けないくらい賢かった、と。
知識の問題じゃなくて、信用できる人かどうかって見てたんだと思う。
なんせ比較対象が「ほかの店」じゃなくて「自分の家でやるのとどっちが楽か、得か」だったのだろうから。
だからこそ、お客さんをうならせるのって楽しかったのだと思う。
時間も手間もかかるけどやりがいがあったって、うちのばっちゃんが言ってた。(ちなみにうちは香川県)
そもそも客と対話するってのが楽しくないわけはないだろうな、と。
今から考えれば、ばっちゃんたちの時代は、恵まれてたんだともう。
で、今の時代はこうなるわけだ。
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20110915/1316084952
あのさー、うちの店、あなたが来たときに、本来はセルフサービスのコピー機、全部かわりにやってあげてるよね。儲けにほとんどつながらない収納代行だっていやな顔ひとつしないし、手が届かないところにあるおーいお茶の350ペットとか、パートのおばちゃんがよく代わりに取ってあげてるよね。なんでそこまでするかって言ったら「来てくれた」からじゃん。商売やってて「来てくれた」ら、それが理不尽な用事でない限り、できるだけのことはするよね。エアコンの修理依頼で来店ってそこまで理不尽な用事かな。
理不尽ではないと思うが、楽しくはないと思う。少なくともそれ単体を見たら。
nakamurabashiさんのように、コンビニの運営全体を考えて、こういう作業に「意味」を付与できないと、やってられないと思う。
あるいは、凡百のバイトのように、何も考えずに言われたことはそのままやるような思考停止したバイトなら平気なのかもしれないけれど。
nakamurabashiさんのように言われたら納得できるだろうが、
世間一般でいう「お客さんに喜んでもらえたらうれしいやん?」みたいなのは全然ピンとこない。
だって、お客さん全然感謝なんかしよらんやん? 当たり前のことやと思ってるやん?
「やらないと買わないから、来ないから」なんて後ろ向きな理由では私には耐えられん。
このあたりは向き不向きの問題でどっちが正しいとおかじゃないと思いたい。
ばっちゃんは2年前に腰がアレになって引退したけど、たぶんその前からやる気失ってたんだと思う。
恵まれた時代に生きていた人は、劇的に時代が変わらんと、もうがんばれないと思う。
プロ意識をしきりに強調されてましたけど、幸せな時代の人は、幸せな時代の意識のまま、客に文句言いながら、フェイドアウトしてくのでいいと思う。
まぁ実際には、国が悪いとか市が悪いとかジャスコ死ねとか言ってるので、私もnakamurabashiさんみたいなことを言いたくなったりもしますが。
でも、商店街じゃないけど、ラーメン屋がコンサルタントとか入れて、無駄にこぎれいにしたりして、「来店動機」だけがんばってるのとか見るとそれもどうかな、と思ってしまうわけですよ。
経営者としてはこっちのほうが正しいのかもしれないけど、それを認めると、社会がくそ、客くたばれ、経済嫌い、とか言い出しそうだから認めにくいよ。
ごめんよ。偶然そこに生まれてしまったんだ。農家の長男が偶然そこに生まれてしまったように。偶然に。
その事実を受け止めて商人として、生きていく道を究めることができたのであれば、商店街もそれを使う人たちもハッピーだったんだろう。
30年で街は変わってしまった。
渋滞していた中心地の道路はバイパスができて、渋滞は解消された。
実は渋滞は賑わいだったのだ。それがなくなったもの痛手だった。
それまでは、商店街に空き店舗ができるまでは、新たな出店ができなかった。
田んぼを埋めれば、それも容易になる。
新規参入者が恐ろしい数で増えた。
跡継ぎと呼ばれた子供たちは、街の変化をみて、どうするか身の振り方を小学生のころから考えていた。考えていなかったかもしれないけど、自然と選択肢は絞られていった。金がないからだ。
アメリカの大規模ショッピングセンターを見学に行った人、勉強会を開いて、ドラッグストア、コンビニという新業態を学んで、実践していった人たちだ。
この人たちは、その手の商売の研究をして、郊外に出て新しい商売を始めていった。
すでに20年前にはジャスコのような巨大新規参入者と地元資本として真っ向勝負をしていた。もしかするとすでに合従連衡の渦に巻き込まれたかもしれない。
その子供たちは、その背中を見て、それぞれ別の道を歩んでいった。
で、問題は残った人たちだ。
うまく立ち回った人たちは、商売を縮小して、土地と家を残した状態で廃業した。その子供たちは月給取りになって、街を出ていった。
何も手を打たずにうまくいかなかった人たちは、土地を家を手放すことになった。
どちらにしてもシャッターは閉まったままだし、空き地が駐車場になる。
あと、商店街というか旧市街地には、戦前の大地主の生き残りの人もいる。商業地は農地解放の対象とならなかったからだ。この人たちは、本業が地主なので、趣味のようにコミュニケーションの手段として店をやっているかもしれない。さらに土地持ちの人の相続が紛糾した場合、所有者が増えて、再開発は困難になる。
飲食や食品加工はそれなりに残りやすかったし、ただ仕入れた商品を売るだけの業態はなくなった。多少の技術がいる電気店みたいなのは、大手家電店の作業の下請けをやっていたりする。
育っていく過程で、衰退する状況にどう対処するかを考えたら、勉強して進学することも別の業態に対応できるように技術を身につけて別の職業に就くことは、順当な判断だと思う。
新しい道で生きていくよ。
ふるさとが濁った水で浸しになっている。
夜、曇天、何か目的があったらしい僕は、その流れに身を任せたり、たまに抗ったりして、母校へ向かう。
その母校は小学校だった。しかし、中で待ち受けていたのは中学校時代の音楽教師だった。
3年生の時に僕の部活の顧問となった当時25歳のその若い女性は、僕が引退するかしないかというところで妊娠が発覚し、僕らの年代が引退するに併せて産休に入った。
卒業してから顔を合わせたことのないその女性は変わらぬ姿でそこにいて、僕と再開した。
ここでわかったことなのだが、どうやらこの水浸し、僕と100人ほどの学生のしわざだということで、反省文を書かされることとなった。
そして通された部屋が近所のマクドナルドの二階席。そこで僕らは談笑しながら反省文を綴った。
ちらほら帰る人も出てきたあたりで僕も仕上がり、反省文も受理されて帰宅の運びとなった。
外を出れば未だに急流は衰えず、その流れに身を任せて自宅へと戻った。
なんと、僕が反省文も書いている間に黙って一家揃って引っ越したという。待ってるから早くおいで、と、電車で一本で着くから、駅の近くだから、との文面。
どこだかわからない。とりあえず自宅(小学校時に借りていたアパート)に向かう。
そこももちろん水浸しだが、家は原型をとどめていた。宛もない旅が始まる。
==ここで一度目を覚ます。暑くて穿いだタオルケットがテーブルにまで届き、コップが床に転がった音で目が覚めた記憶はある。しかし、治す気もせず、また眠る。目が覚めたのはここではないかもしれない==
場所はどこともわからない部屋の一室。水浸しどころではなく、潜らないといけないところもある。なぜいるのかはわからない。ところどころでアメリカ人とすれ違う。
「オー、ニホンジンtie’ヘンネー。ミズbeatAシノヘヤデ Sayカツnounテ デキマセ’ーン」とアメリカ人は言い、黒のパジェロJr.に乗っていずこへと去りゆく。
それを幾人か見届けた後、僕も部屋を出、家族を探しに歩く。
隣町の離れた森、小学校のとき、クワガタを捕りによく父と車で通った道を歩く。木を蹴るだけで、ミヤマクワガタがごっそり取れた、森。
そこに、駅があった。正確には、森は現実にあるが、駅は夢のなかだけ、そこにあった。駅名は覚えていない。
中は、山手線に走っている車両と同型だと記憶している。見た目はとても清潔で、人は4,5人ほどしか乗車していない。とても空いている。
そこの、緑のシートの座席に腰掛ける。このとき、僕はまだ全身水浸しだ。床もシートも濡れる。
途中下車をする。というより、手がかりもないので、ひと駅ひと駅虱潰しに当たるほかない。
確か、この駅に降りたとき、誰か女性と一緒にいた気がする。しかし、外に出たときは、僕一人だったはずだ。
駅の外に出るまでは、改札を抜けてからもうひとつ噛ませてあって、レストランやら、蕎麦屋やら並ぶ通りを抜けなければならなかった。
ここで、確か昼ごはんを食べようとするが、結局やめたのだった。
ちなみにこの駅、この町は見覚えがない。
外に出ると、森にあった駅の隣なのに、人が集まっていた。道路も整備され、郵便局も駅前にあり、商店街があり、生鮮市場もあった。
その風貌はいわゆる都心とは違い、たとえば温泉街のようなところだったり、たとえば小さい町の駅周辺だったり、そんな感じだ。たしかヤマザキショップもあった気がする。
そこの駅名は、よく思い出せないし、夢のなかで見た時も初めて見たとか、この世ではないどこかのような印象を持ったことは、覚えている。
名前は、人偏に鬼のような漢字と、『離』という字とも『雑』という字とも取れるようなものを、もう少し難しくしたような漢字の、二字で表記されていたはずだ。
そこのマーケットに足を運んで、いろいろ物色していたのだけど、食べ物が面白い。
全部現実のものより食材だけが大きくて、背負ったり両手で持たないと運べないようなものばかりだった。
面白いのだけど、仕入れてる人が持ってきた手羽先のから揚げが、持ち運ぶときに何度も地面を擦ってるのを見てしまい、がっかりしてマーケットを出た。
そして駅に戻り、電車に乗る。いくつもの駅を通り過ぎ、気が付けば300km以上は進んでいたのではないか。
このメールは、目を覚まして数時間経った今でもはっきりと思い出せる。
こんな内容だ。
僕ははっきりおかしいと思った。ここには電車一本では付かないからだ。
そこで僕は以前の森の中にあった駅で降りて、歩くことにした。
歩いて、歩いて、報徳の駅にたどり着いた。
ここも寂れており、ちょうど富士急行に乗り継ぐあたりのような駅の風貌だ。
これもまた、はっきりと覚えている。僕はここで何かに絶望したのだ。絶望しながらも、満足したのだ。あとのことは覚えていない。
目を覚ます。
時刻は8時40分を過ぎようかというところだ。
サンプル数が少ないので、傾向といえるかどうか微妙なところですが、ここ20年から30年の間にできた新興住宅地でのお葬式について書いてみます。
このパターンが多いです。地縁が強いわけでもないので、町内会レベルだと町内会長さんがあとでその事実を知ってお参りにくるくらいの付き合いなのかもしれません。
家族と身近な親族のみで行うと、お香典のやり取りも省略され、見栄とは無縁の葬儀になります。
大きな花輪が出ることもないですし、広めの葬儀場でポツンとみたいなイメージになります。
子供の会社関係者や子供の友人には知らせずにそっとしておく傾向があるのではないかと思います。この対応で参列者はほとんどいなくなります。
80歳以上の高齢者の場合、友人や元会社の知り合い、兄弟がすでに他界していることが多いです。なくなった故人は、そのような人たちの葬儀にはいったのに、自身が亡くなったときには、関係者は身内のみしか生き残っていないことがありえます。
となると、葬儀に参列するのは主に子供と孫ということがこれから時代、増えていくのではないでしょうか。
地縁が残っている農村くらいになってしまったかもしれません。自宅の広間と仏間をぶち抜いて葬儀をするとなると、いろいろと人手がいります。
そのような互助ができる素地がないと難しいでしょう。
かつて地縁があった商店街では、店を閉めてしまい、それだけの盛大な葬儀を出す余裕がないと思います。現役の会社経営者のような人たちはまた別でしょう。
最寄りのイオンまで車で1時間以上かかるけどそっちの周辺の方がかなり便利になってるんで若い夫婦は中間ぐらいの所に脱出してるっぽい。
昔から、そのコミュニティの異様な特性から「はてな村」なんて呼ばれているが、2chが板ごとに全然違う文化があるように、サービスごとにユーザーの特性が違う。だから「はてな村」というよりも「はてな郡」とよぶほうが実態に正しい。決してはてな州やはてな国でないのは、そこまでユーザーが多くないからだ。
#適宜追記修正します
#リクエストを受けて色々追記。
一応はてな郡の中心地。アメーバ州アメブロ市やライブドア州ライブドアブログ市やFC2州FC2市に比べて人口も少なく、セレブ(芸能人・有名人)も少ないが、ブログ創世記から有る古都のため、技術ギーク系・ネット文化系・社会科学系などで独特な文化を形成する。はてな郡の他の都市に比べやや教育レベルは高め。id:aurelianoやid:Chikirin、id:finalventなど一般人がアルファブロガー化しやすい一方で、森見登美彦、平野啓一郎、博多華丸・大吉、笑福亭鶴光の公式ブログがあることは意外と知られていない。著名人でここの市民っぽく振舞っているのはid:FUKAMACHIとかid:kawango(ドワンゴ州知事)ぐらい。ライブドア市やFC2市と違いスラム街(2chまとめブログ)や風俗街(エログ)は殆ど無いため治安は良い。ただしまれに放火魔(炎上マーケティング)がいる。
はてダ市の行政区。開設当初は喧嘩や暴動(炎上)や落書きが頻発しはてダ市の治安悪化の原因だったが現在は割と平和。Google合衆国からのはてダ市への訪問者を増やしている。Wikipedia国と競合するが、教育レベルは遠く及ばない。一時期はネット用語の流行の最先端であったが、近年は衰退している。近年はドワンゴ州ニコニコ大百科町とも競合する。
はてな郡最大の都市で玄関口。ライブドアクリップ市やヤフーブックマーク市よりも人口が多く、delicious市やGoogleブックマーク市に迫る。かつてははてダ市と同じような人口形成と文化だったが、人口の急激な流入により治安が悪化しており、教育レベルも低め。風俗街(エロホッテントリ)、スラム街(2chまとめブログ)や、ゲバルト(政治関連)や暴動(炎上)も有り、Twitter国と同じような問題を抱えている。
はてブ市の行政区。はてブ市内の流行が集まり、Googleニュース市やライブドアニュース市へ繋がる。基本的に住人ははてな郡の役人(はてなスタッフ)。
はてな郡最古の都市だが、近年はYahoo知恵袋市やOKWave市への人口流出が目立ち衰退している。最近は税金が安くなった(無料化)の影響かうごメモ村からの人口流入が目立つ。
はてな郡の中ではやや特殊な位置付け。はてダ市・はてブ市のベッドタウンであるが住民が偽名・匿名で生活している。そのため人口も不明。強いて言えば2ch国に近いが、人口も少なく地区割りも曖昧で住民の傾向もバラバラ。住民は匿名が前提のはずだが、閲覧者を集める目的で敢えて実名で生活するものもいる。
はてな郡の中ではのどかで田園風景が広がる。ここもはてダ市・はてブ市のベッドタウン。絵描き(イラスト系キーワード)や芸人(ネタキーワード)やカフェ(実況)も多く、人口の割には賑やか。近年はうごメモ村からの若い居住者もいる。女性も多い。Twitter国と似ていると言われるが別物である。
任天堂王国との連携(京都連合)により人口が増えている村。ハイク村・人力検索町以外のはてな郡の都市への人口移動は少ない。この村だけ突出して住民の平均年齢が低い。
はてダ市・ハイク村のベッドタウン。写真家が多く住んでいたが、最近はもっぱらアトリエという名の倉庫街となっている。
インフラが整ったオフィス街だが過疎化がすすみ空きオフィスが目立つ。オフィス街なのに村。Google Apps市と比べるまでもない。
人力検索町と並ぶ古都で、かつてははてな郡の中心都市の一つであったが近年過疎化がすすむ。
ハイク村から独立したハイク2村から更に分離独立した村。モバイラー向けの今風なコミュニティの割にいまいち地味な存在。
住民が買ったものを並べて売る商店街。モバイラー向けの今風なコミュニティの割にいまいち地味な存在。
はてな郡の自治体運営に唯一提言が出来る機関として設置されるが、基本的に不具合修正以外の要望はあまり通らない。
はてな郡内の通貨。1P=1円だが基本的にポイントから円の両替はできない。はてな郡内での買い物や住民同士の送金に使われる。
はてな郡内の贈答品。基本的に黄色だが他の色のものは珍しく送ると喜ばれるが、貰ってもなにか有るわけではない。地区によって価値が違う。
はてな郡の役人により設置された実験区。増田町も本来ここなのだが、近年は人口増加により特区的位置づけが薄れてきている。増田町以外の地域は過疎化がすすむ。
本格的な「こどもの国」として設立されたが、治安悪化(しかもリアルでも)が懸念され設立からわずか2週間で廃村。はてな郡の黒歴史の一つである。
アンテナ町に変わり新興住宅地として開発されたが、人口減少により廃町。
セカンドライフ国に対抗すべくハイテクヴァーチャル都市として開発されたが、人口が思うように伸びずラボ特区の一時自治区に格下げ。その後廃村。セカンドライフ国も規模的には市レベル(町レベル?)である。アメーバ州のアメーバピグ村は人口が増えつつある。
Youtube国への玄関口であったが、行政機能の停止により廃村。
俺、素人童貞、年齢=彼女暦ほぼなし。デートはあるけど、手をつないだくらい。いつもいい人で終わる。振られまくり男だ。
8月8日。被災地の石巻で災害ボランティアの最終日、石巻から仙台へ。
行ったことがある奴はわかるけど、結構たくさんボランティアっているんだ。
ボランティアが終わったというハイテンションがあったかもしれない。
ボランティアをした場所とは違うグループだったんだけど、気になってかわいいなと思っていた子に思い切って仙台の七夕を見てみないかと誘った。
ま、ナンパだな。上ずった声で緊張した。
同じボランティア同士、息があったというか、ノリでOKをもらった。
半ば強引だったかも。きっとキモイなんて思われていたかもしれない。
宿はどこのホテルもいっぱいだったけど、たまたまツインがキャンセルで空いていたんだ。
駅ロッカーで荷物預けて、商店街の七夕を見たり、匂当台公園で音楽を聴いたり楽しかった。
本当に手を出さなかったんだ。歩いているときは手もつながなかったし。
少し寝た後、夜中に起きてしまった。
悪いとは思ったが、
その子の寝顔を見て一人でオナニーした。
暑かったからか、ブラジャーが見えていたし、パンツまで手が届きそうで。
チンチン出しながらティッシュを探していると、その子、起きちゃった。
目が合って見つかった。
キャッと驚かれた。
事情を説明し、手を出さなかったし、いい人だから、いいよと言ってそのままエッチした。
どうせ一夜かぎりだと思ったし、中田氏した。
朝起きて、もう一発した。もちろん中田氏した。
チェックアウトの時間が近づいたので、急いで身支度して、駅でバイバイした。
俺はどうせ一夜限りだと思っていたし、こんな俺には無理な女の子だとわかっていた。
みんなからは不釣合いだと言われるに決まっている。
実は、お互いに素性についてはあまり話していなかった。
メアドだって交換していなかった。というより高速バスに乗り遅れないように急いでいたから忘れていた。俺の携帯番号を書いたレシートを渡していたけれど連絡はなかった。
やっぱりと思った。俺には無理な女の子だよな。あんなにかわいい子 夢だったんだ。
翌週、お盆前のこと。
その子が俺の会社に派遣社員として職場に入社してきて、お互いにガチでビックリ。
連絡がとれなかったのは携帯番号を書いたレシートを亡くしてしまっていたとのこと。
今ここ