はてなキーワード: カムフラージュとは
自宅のアパートのエレベーターがですね、ドアに透明部分が付いていて、フロアから箱が、箱からフロアが見えるタイプなのです。
自室のある階まで上がって行く途中、各フロアの様子が見えるワケですが、もし、怖いモノが見えたらイヤだなぁ…と。
死体とか転がってたらイヤ過ぎる。
…いや、死体だけならまだしも、一緒に殺人鬼が佇んでたら怖いなんてモンじゃない!
目が合った日にゃ、降りる際に 別の階のボタンをカムフラージュとして押して逃げねば!
そこまで頭回るかな!?
…いやいや、むしろ途中の階に居るよりも、エレベーターが着いた自室の階に居た方が怖くないか!?
ゆっくり停止するエレベーターの窓に、殺人鬼の顔。最悪の御対面。
必死に「閉」ボタンを連打するよね。相手側の「▽」ボタンとの連打合戦だよね。相手が「ハイパーオリンピック」の名手だったら困るよね。
…いやいやいや、到着した階に殺人鬼が居るんだったら、むしろ外の様子が見えないドアの方が怖いのか!?
心の準備が全く出来ないから。開く前に確認できないから。いきなりだから。
その上、相手側は 自分のフロアに来るのが分かるわけだから、待ち構えることが出来る。こっちが一方的に不利過ぎる。
開いた瞬間、グサーッだ。ジャストタイミングで、グサーッだ。相手が「ハイパーオリンピック」の名手だったら困るよね。
ああもう!透明関係ない!エレベーター自体怖い!!
……って、コレはエレベーターがどうとかじゃなくて、殺人鬼が怖いのか??
だって、エレベーター降りた後、自室のドアを開けたらグサーッでも怖いし。トイレのフタ開けたらグサーでも怖いし。
うん、殺人鬼怖い。
あと、「ハイパーオリンピック」怖い。
戦争責任者の問題
最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見かときくようになつた。
そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れられない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏(ほきよう)につとめていたのであろう。
少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。
ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最小限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。
もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からもくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
また、もう一つの別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたらとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(ぜいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。
こんなことをいえば、それは興味の問題ではないといつてしかられるかもしれない。たしかにそれは興味の問題ではなく、もつとさし迫つた、いやおうなしの政治問題にちがいない。
しかし、それが政治問題であるということは、それ自体がすでにある限界を示すことである。
すなわち、政治問題であるかぎりにおいて、この戦争責任の問題も、便宜的な一定の規準を定め、その線を境として一応形式的な区別をして行くより方法があるまい。つまり、問題の性質上、その内容的かつ徹底的なる解決は、あらかじめ最初から断念され、放棄されているのであつて、残されているのは一種の便宜主義による解決だけだと思う。便宜主義による解決の最も典型的な行き方は、人間による判断を一切省略して、その人の地位や職能によつて判断する方法である。現在までに発表された数多くの公職追放者のほとんど全部はこの方法によつて決定された。もちろん、そのよいわるいは問題ではない。ばかりでなく、あるいはこれが唯一の実際的方法かもしれない。
しかし、それなら映画の場合もこれと同様に取り扱つたらいいではないか。しかもこの場合は、いじめたものといじめられたものの区別は実にはつきりとしているのである。
いうまでもなく、いじめたものは監督官庁であり、いじめられたものは業者である。これ以上に明白なるいかなる規準も存在しないと私は考える。
しかるに、一部の人の主張するがごとく、業者の間からも、むりに戦争責任者を創作してお目にかけなければならぬとなると、その規準の置き方、そして、いつたいだれが裁くかの問題、いずれもとうてい私にはわからないことばかりである。
たとえば、自分の場合を例にとると、私は戦争に関係のある作品を一本も書いていない。けれどもそれは必ずしも私が確固たる反戦の信念をもちつづけたためではなく、たまたま病身のため、そのような題材をつかむ機会に恵まれなかつたり、その他諸種の偶然的なまわり合せの結果にすぎない。
もちろん、私は本質的には熱心なる平和主義者である。しかし、そんなことがいまさら何の弁明になろう。
戦争が始まつてからのちの私は、ただ自国の勝つこと以外は何も望まなかつた。そのためには何事でもしたいと思つた。国が敗れることは同時に自分も自分の家族も死に絶えることだとかたく思いこんでいた。親友たちも、親戚も、隣人も、そして多くの貧しい同胞たちもすべて一緒に死ぬることだと信じていた。このばか正直をわらう人はわらうがいい。
このような私が、ただ偶然のなりゆきから一本の戦争映画も作らなかつたというだけの理由で、どうして人を裁く側にまわる権利があろう。
では、結局、だれがこの仕事をやればいいのか。それも私にはわからない。ただ一ついえることは、自分こそ、それに適当した人間だと思う人が出て行つてやるより仕方があるまいということだけである。
では、このような考え方をしている私が、なぜ戦犯者を追放する運動に名まえを連ねているのか。
私はそれを説明するために、まず順序として、私と自由映画人集団との関係を明らかにする必要を感じる。
昨年の十二月二十八日に私は一通の手紙を受け取つた。それは自由映画人集団発企人の某氏から同連盟への加盟を勧誘するため、送られたものであるが、その文面に現われたかぎりでは、同連盟の目的は「文化運動」という漠然たる言葉で説明されていた以外、具体的な記述はほとんど何一つなされていなかつた。
そこで私はこれに対してほぼ次のような意味の返事を出したのである。
「現在の自分の心境としては、単なる文化運動というものにはあまり興味が持てない。また来信の範囲では文化運動の内容が具体的にわからないので、それがわかるまでは積極的に賛成の意を表することができない。しかし、便宜上、小生の名まえを使うことが何かの役に立てば、それは使つてもいいが、ただしこの場合は小生の参加は形式的のものにすぎない。」
つまり、小生と集団との関係というのは、以上の手紙の、応酬にすぎないのであるが、右の文面において一見だれの目にも明らかなことは、小生が集団に対して、自分の名まえの使用を承認していることである。つまり、そのかぎりにおいては集団はいささかもまちがつたことをやつていないのである。もしも、どちらかに落度があつたとすれば、それは私のほうにあつたというほかはあるまい。
しからば私のほうには全然いい分を申し述べる余地がないかというと、必ずしもそうとのみはいえないのである。なぜならば、私が名まえの使用を容認したことは、某氏の手紙の示唆によつて集団が単なる文化事業団体にすぎないという予備知識を前提としているからである。この団体の仕事が、現在知られているような、尖鋭な、政治的実際運動であることが、最初から明らかにされていたら、いくらのんきな私でも、あんなに放漫に名まえの使用を許しはしなかつたと思うのである。
なお、私としていま一つの不満は、このような実際運動の賛否について、事前に何らの諒解を求められなかつたということである。
しかし、これも今となつては騒ぐほうがやぼであるかもしれない。最初のボタンをかけちがえたら最後のボタンまで狂うのはやむを得ないことだからである。
要するに、このことは私にとつて一つの有益な教訓であつた。元来私は一個の芸術家としてはいかなる団体にも所属しないことを理想としているものである。(生活を維持するための所属や、生活権擁護のための組合は別である)。
それが自分の意志の弱さから、つい、うつかり禁制を破つてはいつも後悔する破目に陥つている。今度のこともそのくり返しの一つにすぎないわけであるが、しかし、おかげで私はこれをくり返しの最後にしたいという決意を、やつと持つことができたのである。
最近、私は次のような手紙を連盟の某氏にあてて差し出したことを付記しておく。
「前略、小生は先般自由映画人集団加入の御勧誘を受けた際、形式的には小生の名前を御利用になることを承諾いたしました。しかし、それは、御勧誘の書面に自由映画人連盟の目的が単なる文化運動とのみしるされてあつたからであつて、昨今うけたまわるような尖鋭な実際運動であることがわかつていたら、また別答のしかたがあつたと思います。
ことに戦犯人の指摘、追放というような具体的な問題になりますと、たとえ団体の立場がいかにあろうとも、個人々々の思考と判断の余地は、別に認められなければなるまいと思います。
そして小生は自分独自の心境と見解を持つものであり、他からこれをおかされることをきらうものであります。したがつて、このような問題についてあらかじめ小生の意志を確かめることなく名まえを御使用になつたことを大変遺憾に存ずるのであります。
しかし、集団の仕事がこの種のものとすれば、このような問題は今後においても続出するでありましようし、その都度、いちいち正確に連絡をとつて意志を疏通するということはとうてい望み得ないことが明らかですから、この際、あらためて集団から小生の名前を除いてくださることをお願いいたしたいのです。
なにぶんにも小生は、ほとんど日夜静臥中の病人であり、第一線的な運動に名前を連ねること自体がすでにこつけいなことなのです。また、療養の目的からも遠いことなのです。
では、除名の件はたしかにお願い申しました。草々頓首」(四月二十八日)
女に対して積極的でない男が魔法使いになったりすると「痛い」「キモイ」と叩かれ、「引っ込み思案にならずに手当たり次第手を出してみろ」「いつまでも理想の相手を追い求めるなんてどこまでドリーマーなんだ」と嘲笑される。
そして実際に誰でもいいような相手に手を出してみた奴がいればこの有様だよ。
要するにコミュ力だのジェンダーだののもっともらしい議論は全部「キモイ」という感情論をカムフラージュするためのものだったんですね。
どうせ叩かれるなら無理に彼女作ろうとしなくていいやと決意を新たにした今日という日でありました。
http://anond.hatelabo.jp/20100920105754
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20100920105754
俺が元増田ではないことはわかるように書いたつもりなのだが、誤解している人がいるようなので、違うと改めて言っておく。
あとこの記事は「悲劇の主人公気取り」というよりも皮肉のつもりなので心配ご無用。
それにしても「非モテであることを選んだ」とか言われてもねえ。男子校→理工系みたいな人生を送ればどうしたって確率的に非モテ人間は現れますが。それこそなりふり構わず手当たり次第に声をかけまくったりでもしなければね。それも自己責任なの?ようわからん。
ブクマより。
いやお前「付き合おうつったけど別にコイツと付き合いたくはなかったしー。あーマジで鬱。なんでこうなったんだろ。これが妥協っつーの?」なんて言う人は肉食だろうが草食だろうが男だろうが女だろうが叩かれるだろ
そうだよ。そんなの当たり前じゃないか。にもかかわらず非モテはそういう風に振る舞えと、つまり「好きでもなくても手を出せ」とか言われてきたわけで。言った奴はきちんと落とし前つけろやと言ってはいけないかい?
20世紀まではまだまだロマンを維持しようという傾向がみられるが、
21世紀になってから、お下劣や本能的な表現が増え、完全にメルトダウンしている。
誰だ日本をこうしたのは。
<1995>
1 91.7 CRAZY GONNA CRAZY trf 1995/1/1
2 65.4 晴天を誉めるなら夕暮れを待て ASKA 1995/1/1
3 62.2 あなたを感じていたい ZARD 1994/12/24
4 58.9 Tomorrow never knows MR.CHILDREN 1994/11/10
5 56.4 たぶんオーライ SMAP 1994/12/21
6 50.4 everybody goes-秩序のない現代にドロップキックー MR.CHILDREN 1994/12/12
7 44.6 カローラIIにのって(トヨタカローラII CMソング) 小沢健二 1995/1/1
8 30.9 恋人たちのクリスマス マライア・キャリー 1994/10/29
9 30.8 ゆずれない願い/あの日の二人はもういない 田村直美 1994/11/9
10 26.1 息子 奥田民生 1995/1/15
11 24.9 めぐり逢い CHAGE&ASKA 1994/11/16
12 24.2 ロード~第三章 THE虎舞竜 1995/1/1
13 20.2 幸せをつかみたい 広瀬香美 1994/12/1
14 19.9 春よ、来い 松任谷由実 1994/10/24
15 16.7 MOTEL B'z 1994/11/21
16 16.6 愛のために 奥田民生 1994/10/21
17 15.8 輝いた季節へ旅立とう 松田聖子 1994/12/1
18 15.7 恋しさと せつなさと 心強さと 篠原涼子with t.komuro 1994/7/21
20 14.3 DA.YO.NE EAST END×YURI(from T.P.D.) 1994/8/21
<1999>
1 50.0 ラストチャンス Something ELse 1998/12/23
2 49.7 I HAVE NEVER SEEN 安室奈美恵 1998/12/23
3 32.8 光の射す方へ Mr.Children 1999/1/13
4 28.2 Automatic/time will tell(12cm) 宇多田ヒカル 1998/12/9
5 21.4 White Key 鈴木あみ 1998/12/16
6 19.5 遠くまで 稲葉浩志 1998/12/16
7 16.8 BE WITH YOU GLAY 1998/11/25
8 14.1 Automatic/time will tell 宇多田ヒカル 1998/12/9
10 10.3 Happy Happy Greeting/シンデレラ・クリスマス KinKi Kids 1998/12/9
11 9.1 カムフラージュ/Winter Lovers 竹内まりや 1998/11/18
12 8.2 僕はここにいる 山崎まさよし 1998/11/11
13 7.7 黒いブーツ~oh my friend~ SOPHIA 1998/11/26
14 7.1 冬のうた Kiroro 1998/11/21
15 6.7 beauties-beauty eyes-/ジェラシー FANATIC◇CRISIS 1999/1/1
16 5.8 SNOW BLIND 野猿 1998/12/16
17 5.6 からっぽ ゆず 1998/11/11
18 5.6 パフィー de ルンバ Puffy 1998/12/12
19 5.4 snow drop ラルク・アン・シエル 1998/10/7
20 5.3 二輪草 川中美幸 1998/1/1
<2004>
1 22.3 ね、がんばるよ。 KinKi Kids 2004/1/15
2 15.4 世界に一つだけの花(シングル・ヴァージョン) SMAP 2003/3/5
3 10.0 掌/くるみ Mr.Children 2003/11/19
6 6.3 桜 河口恭吾 2003/12/10
7 5.7 ヨロコビノウタ モンゴル800 2003/12/6
8 4.7 メリッサ ポルノグラフィティ 2003/9/26
9 4.6 愛が呼ぶほうへ ポルノグラフィティ 2003/11/6
10 4.5 Choo Choo TRAIN EXILE 2003/11/6
11 4.2 SWEET CANDY RAIN YOSHII LOVINSON 2004/1/9
15 3.5 また あした(また あした/一日の始まりに.../しあわせの風景) Every Little Thing 2003/11/12
17 3.0 悲しみをやさしさに little by little 2003/12/17
18 3.0 Dear Friends/It's My Way day after tomorrow 2003/12/17
<2010>
GIFT~白~ 関ジャニ∞(エイト) 12/23 116814
GIFT~赤~ 関ジャニ∞(エイト) 12/24 114402
GIFT~緑~ 関ジャニ∞(エイト) 12/25 114001
はつ恋(完全生産限定/Tシャツ&ドレスステッカー付盤) 福山雅治 12/16 33370
PRECIOUS ONE 茅原実里 12/23 9804
君にサヨナラを(初回生産限定盤) 桑田佳祐 12/09 8375
WISDOM feat.ILL-BOSSTINO,EMI MARIA SEEDA 12/23 5853
この愛を捧げて(A盤) THE ALFEE 12/16 5752
まもりたい ~White Wishes~(DVD付) BoA 12/09 5062
君がいるから(初回生産限定盤) 菅原紗由理 12/02 4712
R.I.P./Merry Christmas BUMP OF CHICKEN 11/25 4562
From Dusk Till Dawn abingdon boys school 12/16 4090
THE GENERATION ~ふたつの唇~(DVD付) EXILE 11/11 3817
Loveless(初回盤A) 山下智久 11/18 3434
能動的三分間 東京事変 12/02 3119
逢いたくていま MISIA 11/18 3068
ヒーロー/明日へ(初回生産限定盤A) FUNKY MONKEY BABYS 11/18 2714
スノープリンス(初回盤) スノープリンス合唱団 12/02 2686
YELL/じょいふる いきものがかり 09/23 2658
You & Me 田村ゆかり 12/16 2457
BANDAGE(初回限定盤) LANDS 11/25 2410
Poo/Chuai mad noi Neko Jump 12/23 2363
バッカ、お前バッカ。
いっぺん作った網の使い方間違えたら、怒られるのは網の使い方が悪かった検事さんだよ今のところ。
あ、分かったじゃあ、別の方法にしよう。
男も女も頭からすっぽりニカブかぶって、身長もうまい事布の下でカムフラージュして、
レイプ犯が実際襲ってみるまで男か女か分からないようにすんの。
要は、男が~とか女が~とかどうでも良いんだよ。
単純に犯されて暴力(性暴力振るわれると同時に、暴力も振るわれてこれが結構なトラウマになる)振るわれて、
人間不信になってる被害者が受けている心理的圧迫をあんまりにも分かってない人間(男女問わずだけど、どっちかっつーと男)が多すぎるから、
男も女も皆関係なく襲われたら、どちらの性からも性犯罪者への措置に対する声が上がって、
まともな世論になるだろうと思ったんだよ。
http://d.hatena.ne.jp/takerunba/20090116/p2
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/takerunba/20090116/p2
まず、男女関係が焦点なんで、研修を受ける人の性別で見られるところが変わります。
本人が男
本人が女
グループディスカッションの主目的は、いろんな要素の混じった問題で、あえて綺麗じゃない問題(生命の危機、弱みに付け込んで性関係を要求、不貞などの要素の混じった問題)を出して、条件も示さずに混沌した状況の中から適切な論点を設定して合意に到達出来るかといったあたりかと思いますが、その他にチェックされてるポイントがあるよというお話でした。
本当にこんな人事がいてこんな研修が行われていると本気で信じる人がいると困るのでネタばらししときます。中の人は、人事ではなく事務系ですらなく、ただのエンジニアです。これを書いた目的は、
A男さんという人がいます。
A男さんは品行方正で勤務態度もよく、誰からも好かれる好人物です。
しかしA男さんには一つだけ一般的ではない特徴がありました。
彼は自分以外の人を殺さないと生きていけないのです。
生きていけないというのは、本能レベルで殺人欲求がある人物です。
さて、A男さんは会社の帰りにちょっと人が殺したくなりました。
もちろん社会的には許される事ではないのでその欲求を抑えようとします。
しかしA男さんはこのまま抑圧すれば自分をも殺してしまうでしょう。
どうしても欲求を抑える事が出来ず、駅からの帰り道に前を歩いていた女性、B子さんを殺してしまいました。
A男さんは殺人欲があるという以外は理知的な人間なので自らの行動をカムフラージュします。
A男さんは自分の欲の為にCさんに迷惑をかけてしまったという自責の念がありながらも欲求を満たせたという満足な気持ちもありました。
しかし法治国家のシステムはさすがに効率よく機能し、A男さんの行動は発覚します。
週刊誌やワイドショーなどでもズバッと非難され、世を騒がす大事件になったのです。
優秀な警察の捜査により過去に同様の犯行を重ねていたことも発覚し、「被告の犯行は自己の欲求を満たすための犯行で、動機は自己中心的
で非道。酌量の余地はない」という様なありきたりな文句を並べ、めでたく死刑となりました。
話は変わって……
ここにA男さんの事件を報道するワイドショーや新聞を見ながら恐い時代になった物だとつぶやくC郎さんという人がいました。
C郎さんも品行方正で勤務態度も良く、誰からも好かれる好人物でした。
A男さんと違いC郎さんには殺人欲求などなく、日々平穏にくらしています。
もちろん財布が許せばの範囲ですが豪勢にステーキでも食べたい気分です。
しかしC郎さんはこのまま我慢すれば空腹感で夜も眠れません。
どうしても欲求を抑えることが出来ず、駅の近くのステーキハウスで特選ロースステーキ270g(\2,980)を平らげました。
C郎さんは自分の欲求の為に三重県松阪市の牛の命を断った、牛さんに迷惑をかけた、などとも思わず満腹感に浸りながら帰りました。
しかし、薄給のC郎さんが次の日から財政難になったのは言うまでもありません。
さて、A男さんは法によって裁かれC郎さんや一般市民は悪いヤツは居なくなったと安心して眠れるようになりました。
もちろん社会道徳的に、とういより法律と言うモノが有る以上、人間同士が形成する社会という集団の一員としてA男さんは裁かれて当然でしょう。
しかし、両者の違いは殺した対象が人間か牛かという事であり「自分が生きるために他の生命を奪った」という点では変わりません。
なぜ人はダメで牛はokなのか?
人間同士が安心して生活出来るためのルールを守らなかったから裁かれた、という理屈はわかります。
でもA男さんにとっては、自身の生存に関わる大問題であるし、そもそも「そのルール」を守る事を契約してこの世に生まれてきた訳ではありません。
A男さんを裁くことこそ裁く側の身勝手な都合ではないでしょうか?
正義ってなんでしょうか。
「多数派の都合」が正義でしょうか?
それを全くの自己批判も無しに振りかざしていいもんなんでしょうか?
A男さんを裁く側は「君には悪いけど我々にとってあなたは脅威だから、我々の都合で死んでもらいますよ」と言うべきじゃないでしょうか?
裁判官はA男さんを「自己中心的だ」と断じました、なるほど彼はは自己中心的ででした、でも裁く側は自己中心的ではないでしょうか?
そう問われた時、我々は有効な反論を持ちうるんでしょうか?
中二っぽいとは思うのですが、最近こんな事が頭から離れません。
#つーかもちろん、僕にはそんな欲求ないですよ