はてなキーワード: 先入観とは
きっかけは些細なことで、本屋で大阪弁について書かれた本を立ち読みしてたら、大阪出身である著者は若い頃東京の大学に入ったとき東京の言葉が気持ち悪くて全く馴染めなかった、みたいなことが書かれていたこと。「東京の言葉が『標準』で関西弁はじめ地方の言葉は『訛り』」みたいな感覚が当たり前だったから新鮮だったし、興味を惹かれた。
それ以来東京弁という言葉についてなるべく先入観抜きで考えるようになったんだけど、いつの間にか「東京弁ってなんか田舎臭くないか!?」という疑念が膨らんできた。反対に関西弁にはなんだか都会的な雰囲気を感じるようになってきた。
なぜそう感じるのか、その理由について自分なりの仮説を書いてみたい。
関西弁は基本的に、その時代時代の都(平城京とか平安京とか)の言葉が周辺に伝播するかたちで形成されたものだと思われる。当時は大都市というのは首都ぐらいしかない。つまり都市の強い影響の下で形成されてきた唯一の日本語なのではないか。
言葉は常に変化するものだけど、都では代々都市で暮らしている人たちの生活感覚の中から生まれる、都市生活者の感覚にマッチした表現が定着していくし、そうでない表現はすたれていく。たとえば、人口密度の高い都会ではコミュニケーションにトゲがない方が都合がよい。だから言葉のサウンドが柔らかくなる。東日本でいうところの「じゃ」「だ」のような音は関西では子音や濁音が省略されて「や」になっているし、東で「〜っつって(と言って)」「買った」というところを西では「〜ゆうて」「こうた」というように、やはり子音や促音が避けられ、半母音や長母音になる傾向がある。この方が音の響きとして角が取れているし、反対に関東弁や東北弁はゴツゴツしていてがさつな印象を与える。
あと、直截的に表現せず、遠回しに伝えるやり方(「ぶぶ漬け」が実話かどうかはおいといて、ああいう話はその象徴だと思う)が発達するのも同じ理由かも。村上春樹(関西人)が雑誌のインタビューで「関西の人は十言いたいことがあったら五、六ぐらいだけ口にするけど、東京の人はそうじゃないからはじめはびっくりして、なんだここは、とおもった」と言っていた。
で、一旦「東京弁が標準」っていう思い込みがなくなって、「東京弁というのは単なる関東方言のひとつで、言葉それ自体に都市性が含まれてる日本語は関西弁くらいしかない」ぐらいの認識になると、「おめーふざけんじゃねーよ」「これまじすげーじゃん」とかいう東京風の言い回しがやたらダサく田舎臭く聞こえてきて困る。でも東京にしか暮らした事がないから東京弁喋るしかない。
では、世界最大の大都市であった江戸の言葉もなんらかの「都市生活的要素」を含んでるかというと、結果としてそうなったとは思えない。江戸の言葉がそうなったのは、逆説的だけど江戸が世界最大の大都市だったからだと思う。京都が中世の都市なら江戸はまあ近代都市というか、地方から人が流入して人口が爆発的に増えた。つまり、都市生活者が新しい表現を生み出し、その表現が定着して行くよりも遥かに速い勢いで、地方の農村から人が移住して来てめいめいが地元の言葉を持ち込んだので、結果として都市的な性質を獲得する事はなかった。そしてその流れは東京遷都と高度成長でさらに加速された。東北関東甲信越から農家の次男坊三男坊が大挙して上京してきたから。
東京は物質的には巨大都市だけど、言葉の文化でいうと「巨大な農村」なのかなと、そんなことを思うようになった。だから関西人がテレビで無理して東京弁喋ってるの見ると、なんだか妙な気分になる。わざわざそんな田舎臭い言葉、使わなくても。
ちょっとあれだよね。仲いい女同士だったら普通にそういう会話はあると思う。
男相手であっても、そういう会話をするような男女だって存在する。
まぁ胸においては、女も「男は女の胸を見る」という先入観がこびりついてるだろうし、
それ以上に同じ同性の女に胸の大小をねちねち指摘されるから更に気になるのだろう。
ここが大きいんじゃないかな。男は同性同士で肉体的な面では争わないが、女は同性同士で見た目や肉体的なことを
競争してる。アホらしいよね。
男だってあそこの大小や包茎か否かなどを多少なりと気にするけど大人になった後じゃ別に友人から指摘されたりしないでしょ?
自分自身のコンプレックスなだけで。そもそも下着に隠れてるし。
女は同性同士で胸の大小、スタイル、ファッション、メイクとか内心競争しまくってる。
男の目を意識する以上に、同性同士で張り合ってる。
一番の問題は、女自身が胸の大きさを気にすることよりも周りの女や男たちがそういうのを気にする風潮にあるんじゃないかな。
小学生の頃はかなり人気者の方だった。
中学から不良に目を付けられイジメられ、高校ではイジメは無かったが、少しでもDQNっぽい人がトラウマになり、
少数の固定友人とだけ連むだけになった。でもその頃はその友人らにすらどこか敬遠されたりもした。
それでも付き合ってくれた事は感謝。
飲酒や喫煙、ギャンブル、チャラい人、今でいうDQNをいろいろ嫌悪していた。
DQNグループに対して表面上はヘラヘラしてペコペコしていたが・・・
その反面、自分より劣ってそうな人には、イジメるわけではないし嫌いもせず親しくはしたけど
内心は見下してた最低なゴミ野郎だった。(自分より弱そうだから親しくできたのだろう)
女に対しても純情で、可愛くて清楚な見た目じゃないと駄目だと思っていて、
最近ネットでそういう風潮があるが、昔の自分を見ているようだ。
成績がいいわけでも非行するわけでもない。そういう立場だった。
(どちらかというとロキノン厨だった)
まぁそれらは置いといて、とにかく決まった友人以外の人との関わりに自分で壁を作っていた。
成人を迎えてから親に「お前は真面目すぎる。遊びを知れ」と言われた事もあり、
自分でも交友が狭い事が苦で、それからお酒をよく飲むようになり喫煙もはじめ
積極的に外で知人や友人らと交遊するようになった。
酷いときは連夜飲み屋に行ったり遊び歩きまくってた。いろんな人とも出会い知り合った。
成人過ぎると周りの友達は落ち着いていったのに、自分はその逆だった。
そのおかげか当時嫌っていたタイプの人間に対し先入観や固定観念は崩れ、
例えDQNと呼ばれるような人相手にでも恐怖も毛嫌いもなく接する事ができるようになった。
言わば昔自分が嫌悪していたタイプに自分がなったとも言うべきか。
あれから数年。今では落ち着いてプライベートはインドアでネット主体に
最近、ひしひしと痛感することがある。
「親しくなった友人に更に好かれたいのに、いつも敬遠されたり最終的に呆れられる」
いろいろ自己分析をする内に、その理由がハッキリ分かってきた。
・相手の事より、自分の話ばかり
・鈍感なせいかうまくボケたりツッコんだりできず、逆にツッコまれる
・相手の話を聞こうと集中しても話を整理して混乱して頭から何の話だっけと流れてしまう
(↑これにおいては、少ない言葉で何気ない内容のキャッチボールなら問題ないが相手が早く多く喋るとこうなる)
・些細な事を気にしすぎたりする。(嫌な事あるとすぐに友人にだらだら一方的に愚痴る)
・とにかく同じ話ばかり(前にも聞いたとよく言われる)
こんなところでしょうか。これはあくまで親しくなった相手に対し1vs1の時で
多人数の時は逆に黙り込んでしまう。
自分が好きだなって思える友人の特徴は、
・よく話を聞いてくれる
・話の切り返しが上手
・話題や心を引っ張り出してくれる
・空気を乱さない
・率先して自分の話ばかりしない(←カリスマというか別の理由で好かれてる人なら常に自分語りしていても好かれてるが)
こういう感じ。
10代の頃は先入観や固定観念の塊で、それを打破して一時期交遊も広くなったが、
落ち着いてネット主体の交流になったここ数年は、今度は自分のそういう面が原因で
人から好かれにくくなった。
元より好かれたいだなんて思ってなかったら楽だが、
常々人に好かれたい自分も人気者になりたいだなんて思っているのに、
悪い面が際立ってしまう。
問題なのは、付き合いが浅い人や、まだ心を許してない相手には自重もできるし、
表面上で割り切って付き合えるが、心を許せた相手には途端、自分の全てやボロをどんどん出してしまい、
徐々に呆れられる・離れられるということです。
人に対しての偏見は無くなったけれど、それだけじゃ良い人付き合いはできない。
ましてや好かれるということは、もっと別の所にも問題があるんだなと。
心苦しいけれど、きっとそれが自分というものなんだろうなと自負するようにもなってきた。
http://anond.hatelabo.jp/20110710020804
だいたいゆとり世代って何なのだ。別にゆとり世代という特別な性質がある訳じゃなく「近頃の若いもんは」の現代的用法だ。昔は「新人類」という言い方もあった。
そもそも昭和時代には「学校の勉強なんかできても仕事の出来には関係ない」と言われていた。だからたとえゆとり教育が量的に不足する物だったとしても、使える・使えないに直結するはずはない。
百歩譲ってゆとり教育が色々な意味で十分なものでなかったとしても、問題はゆとり世代側だけにあるのではなく、上司や先輩にもある。
上司・先輩にあたる30代後半〜40代は量的に潤沢な昭和20年代中盤〜30年代生まれのの先輩や上司から色々と指導を受けることが出来それを自分の物とすることが出来た(悪いところも含めて)。
一方30代後半〜40代は自分たちが上司・先輩世代になる過程で、日本は少子化が進みそもそも部下・後輩世代が少なくなり、部下・後輩指導を実践するチャンスを失った。
さらに悪いことに産業構造や技術の変化・革新で、自分たちが受け継いできた物が一気に陳腐化した。
人口減少と技術革新を所与の条件として業務プロセスを改訂しなければならないのに、多くの企業では旧態依然とした仕組みを崩そうとしなかった。いや、できなかった。再構築しようにも、対応する力などないのだ。50代の人なら逃げ切りを考えるだろうし、40代の人は自分で仕事をしなければならないので部下指導などやってられない。30代は非正規が多く死にかけている。要するに部下・後輩に対する指導力は消滅した。
ゆとり世代の人はそれより上の世代の人と比べて能力が劣ることはない。経験がないだけだ。ゆとり世代に対する揶揄とはいわば経験がないことについて責められているようなものだ。
そして、これは誰かのせいではないのだが、若い世代の人が成長するまで待つ時間的余裕が圧倒的に少ない。
しかし経験がないことは有利でもある。今、日本は、過去経験したことのない時代に突入している。経験という先入観に従っていては、為すべきことを見誤る可能性がある。
もちろん旧世代の持っている経験が全く役に立たない訳ではない。そういうのは上手く聞き出して利用してやることだ。
私は40代の社会人としてゆとり世代の方を適切に指導できなくて申し訳なく思っている(もっとも、指導する能力も不足しているのだが)。
ゆとり世代の方は決して腐らず、学び続けてほしい。
ちょっと元増田の話とはずれるんだが。
白熊先生は、アニメやラノベで少女が増えてい事実を指して「消費される少女」としてブログ記事を一本書いている。
けれどね、肝心なことには触れない。
実際に市場が存在し、法律で規制しなければならないほどに顧客が多いこと。
中小企業(特に建設業界で多いらしいが)の社長なんかが、中学生や小学生を買う事実や、その裏で自分の娘を可愛がる事実。
そういうことは置いておいて、仮想の少女を消費するオタクの異常性を説く。
面白いよね。
男性に対して先入観が無いと言えば噓になるかもしれませんが、基本的に男性に対して女性に対する接し方と
同じように接する事しか出来ないだけです。ちなみにレズと言う訳でもないと思います。
男性に対して親身になって相談に乗ったり、バカな話もしますがどうにも恋愛感情というものが抱けないんです。
この私のセクシャリティ?無性愛?は一つの私の悩みでもありますが
この悩みに起因する出来事に対して母から責められるのがどうしようもなく辛いんです。
三十路過ぎてデキ婚がみっともないと思うか、三十路過ぎて独身の方がずっとみっともないと思うかは
個人の価値観の違いでしょう。
おまえの自慢話は「眼鏡かけてカメラ持ってる出っ歯のアジア人がいたから日本人だと思ったらやっぱりそうだった」というレベルでしかないんだよ。
それはファッションや行動様式でしょ?
それまで含めていいなら俺はもっとわかるよ。
これでも最近かなり似てきつつあるけど。
生身の顔つきだけの話をしてるの。
だから生活文化が日本人とほぼ同じである在日の例を挙げてるの。
1まで戻って説明さすな馬鹿。
それで全ての日本人が区別できると思うの?
始まったよw
0.「日中韓の顔って見分けつくのかな」
1・俺「韓国人は大体分かるよ」
2・馬鹿クン「そんなの分かるわけが無い!キーッ」と絡んでくる
3・俺「たとえば現にこれこれこのように当ててきたよ、思い込みじゃないよ」ときっちり説明
立場が苦しくなると
相手の発言に「絶対」とか「全て」とかを勝手に加えて否定するという
結局、金本くらい分かりやすくないと区別できない程度の話なんでしょ?
つまり「韓国人ガオ」という一種のステレオタイプがあることを認めたわけだ。
俺が言ってるのはその話。
「日本人ガオ」「中国人ガオ」というべきステレオタイプは俺には思いつかないけど
何故か韓国人には「韓国人ガオ」というべきパターンが見受けられて、
別個の韓国人、別の顔した韓国人でもなんとも言えないパターンを感じる。
この感じはさっきも言ったとおりアサリの判別に似てるが。
以上のことに、何か遺伝子分布とか生物学的な理由があるとしても俺はそれは知らんし興味も無いけどね。
日中と韓の区別がつくってだけの話で
馬鹿クンが何故これほど感情的にしつっこく食って掛かるのかわからん。
だから判断できるって言ってるじゃん。
オウムかお前は。
ずらっと並んで、判断難しいのは1ページごとに1人か2人ぐらいって感じ。
でもお前は納得しないんだろ?
より具体的な過去の実例の話をしてあげても嘘だ嘘だしか言わないんだから。
いみねえじゃん。
彼は今をときめく民主党幹部E氏とは新人議員時代から親交を築き、
そのような彼なので、福島の惨状、特に福島の児童に差し迫った危機について、
政府部内(文部科学省)に再考を促すように進言したいのであるが、
彼自身、本当に「安全」だと信じ切っていて疑っていない。
「政府公式見解が絶対、マスコミは誤報だらけでいいかげん」という先入観が強い。
うっかり「今からでも20ミリシーベルトを再検討すべきだ」と進言すると、
長年の友情が瓦解しかねないので、どうしても彼に苦言を呈することが出来ない。
本当は自分の友情云々よりも福島の児童の安全を優先すべきなので、
その点では「卑怯者」という自分への批判は全くもって当然であり、返す言葉はない。
ただ、感じるのは、彼は結婚はしているが子供はいないし、今後も作るつもりもないという。
なので、幼児持ちの自分と、子無しの彼とでは、「原発への安全係数が違ってくる」、
これは致し方ないのかもしれない。
本当は子有りのキャリア官僚に知己があればいいのだが、そこまで親しい友人はいない。
先日もこんなことがあった。
原発について「煽るな」「そんなに危なくない」と報じている某週刊誌の記者と、
彼の紹介で飲む機会が出来た。
彼はその記者のことを事前にこう紹介していた。
「この記者は原発についてはド素人で、なのでゼロから原発を取材したから、
この雑誌社の記事は極めて客観的になっているんだ」、と。
しかし、自分は思うところがあったので、その記者に面会するやいなや、こう切り出した。
「貴社の原発報道スタンス、あれは他誌が反原発に走ると睨んで、あえて逆張りに走っている、
一種のポジショントークでしょ?」
そうするとその記者は悪びれずに「あはは・・・ばれちゃいましたか」とあっさり白状した。
そう記者が白状したときの、彼の苦虫を潰したような顔を忘れない。
雑誌社の「ポジショントーク」を見破れない見破れない官僚って、相当ナイーブ過ぎるんだが、
それとも「役所発表は絶対」という原理主義世界観が、認知的不協和(=見たくないものは見えないことにする)を
引き起こすのか?
※先に言っておきます。文中に「一般人」と多く表記していますが、辞典などの本来の「一般人」とは意味合いが違います。完全に私目線であり、私が「一般人」と思えば私以上の悩みを持っていても「一般人」ですし、私はどんなにすごい人間に見られていたとしても「一般人」以下だという先入観があります。それを理解したうえでアドバイス下さい。
以下本題↓↓
26歳男です。
小学校・中学校で苛められたことがあり、一度友達だと思っていた人みんなに裏切られたことがあります。
高校は、知り合いの全く居ない遠い高校を選び、小中学校で苛められた原因をなるべく取り除きました。もちろん自分を押し殺して言いたいことを言わない消極的な改善方法でしたが、それでも過去のように苛められることは無くなりました(いじられる程度はよくありましたが)。
それ以降もなんとか努力して、苛められないように、見た目・ファッション・センス・言動・癖・趣味・立ち振る舞い等を改善して一般人と同じように見てもらえるようになりました。
ですが、過去にたくさんの友達に裏切られたせいか(言い訳かもしれません。自分でも本当の原因はイマイチよくわかりません)、人を信用することが出来ません。
好かれたい願望があるので、形式上の友人は何人も居るのですが、彼等のために一肌脱ごうとか言う気には全くなれません。私のために何かしてくれても、恩返ししなかったり、等価と思われるお返しを嫌々しています。
もちろん本音で話しあえる友人は一人も居ませんし、人間関係の根底に
「どうせいつか裏切るんだろ?」
といった考えがあります。裏切られることも踏み入られることもとても怖いです。
友人はみんな一般人(に見える)なのですが、そもそも一般人全般を好きになれません。
私を苛めたり見放した人たちと同じである一般人に、逆恨みではありますが一種の憎しみがあります。
だから、つい利用してしまったり恩をあだで返すようなことをしてしまいます。これは、すでに癖になっており無意識のうちにそれをしてしまう自分が居ます。
「やっぱり一般人は怖い。信用できない。」
と思ってしまいます。頭では自分が悪いと分かっているのですが。
恋愛等、異性関係についてもがっつりと人を信用することは出来ず、
「俺のこと好き?」「俺居なくなったら悲しい?」
彼女には尽くす方なのですが、その考えも「彼女に喜んで欲しい」からでは無く「彼女にこんなお洒落なことや感動させることが出来る自分すごい。まるで一般人の様だ」といった自己満足です。
結局友人も彼女も心からは愛することが出来ず、一定距離を置いて演技として仲いいふりをして、一般人みたいに仲良く出来る自分に酔っては、後で自分はなんて性格が悪いんだと自己嫌悪します。
自分の命をかえりみず誰かを助けに行くなんてことは、友人・恋人・嫁・家族・自分の子供、誰であってもしないと思います。そんな状況になったことは無いし嫁・子供も居ませんが。
失恋も何度かしていますが失恋の原因の多くは、私の浮気(誠実さやバレる恐怖よりも、複数の人に必要とされたい願望が勝ってしまう)・構ってちゃんな性格をウザがられる・「実は私のこと好きじゃないでしょ?」とか言われて別れるのが理由です。
又、基本的に相手のことを考えずに、自分の理想とする奉仕方法で押し付けた奉仕をするので、見当違いだと言われたこともありますし、友人・彼女が凹んでいても、どうやれば助けれるかではなく、どうやれば嫌われないか・今以上好きになってくれるかをコンセプトにした考え方なのでアドバイスが的外れだと言われたこともあります。
本当に自分でも良く分からないのですが恐らく、「誰から見てもハイレベルで輝かしい一般人以上の人間に見え、自分は全く傷つかない安全地帯で居るにも関らず、かなりたくさんの人に必要とされて献身的に愛情を注がれ、その愛をいつでも裏切れる状態で、例え裏切ったとしてもそこで献身的な愛が途切れることが無い状況」こそが私の目指す所のような気がします。
ただし、精神的にかなりの臆病者で傷つきやすく、挑戦心もかなり弱いため一般人にはどうしてもなれそうにありませんが。
かなり長々支離滅裂な文章で性格や生い立ちを書きましたが、ここからがタイトルにある質問の本題です。
最近、私の演技や性格の悪さを見抜き叩かれることがありました。その叩かれた内容が的を射ており、かなり焦りましたし傷つきました。
理由は2つあり、実は多数の人に演技だとバレているのではないか?ということと、私も出来ることなら人を心から信用したいし本当に愛せる人も欲しいと思ったことでした。
しかし、人を信用しようと頑張ってみても、怖くていまいち信用できませんし、自分のデリケートな部分や悩みは誰にも言えません。
それに、やはり人を試すようなことをしてしまうし、傷つかないように壁も無意識に作ってしまいます。言動にも必ず逃げ道を作りますし、人の気持をいちいち確認しないと自分を保てません。でも、確認したところで、嘘ついてるようにしか思えないし、ちょっとでも嫌われたような素振りがあるとその都度凹みます。
誰かアドバイス下さい。
【インタビュー】セコム創業者 「草食系」という言葉に「嫌な言葉だね」[11/01/31]
1 :やるっきゃ騎士φ ★:2011/01/31(月) 14:56:18 ID:???
セコム創業者で取締役最高顧問の飯田亮氏は、日本に初めてセキュリティ事業を導入して、
さらにその事業対象は、警備から防災、医療、介護、情報まで拡大し続けている。
新規事業を次々と生み出してきた飯田氏は、“日本発ビジョナリー・リーダー”の代表格とされる。
* * *
--今はビジョンがないまま、日本社会全体が疲弊しているように見えます。
特に最近の若者たちは、仕事や出世、私生活での「欲」もなく、新しいことに挑戦しようとしない
一方で、企業は急速にグローバル化しているのに、若者は海外へ出たがらないなど採用面で
ミスマッチが生じている。
飯田:「草食系」? 嫌な言葉だね。メディアも含めて世間が「今どきの男は……」と言い過ぎだよ。
そんなおかしな言葉は使わないほうがいい。
企業も「最近の社員は海外に出たがらない」なんて言う前に、無理やり海外でも地方でもどんどん
出せばいい。
だいたい、無駄な情報が多すぎるんだ。あまりいろいろなことを知っちゃったら、
俺のやっていることはつまらないのでは、と思ってしまう。それよりも、訳もわからずジャングルに
入ってみたら、ジャングルの面白さがわかるかもしれないじゃないか。第2次世界大戦時に編成された
米軍日系人部隊・米陸軍442連隊の合言葉である“Go for Broke.”(当たって砕けろ)の精神だよ。
--しかし「当たって砕けろ」を実践するには、やはり「自分は何をやるべきなのか」というビジョンが
必要では?
飯田:そう。大人はよく若い人をつかまえて
「世間はそんなに甘くない。正しいことをやっても通らない。損するだけ」なんて小賢しいことを
言うけど「正しいことは通る」「正しいことを貫け」となぜ言わないのか。
ソースは
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/business/financial/489140/
関連スレは
若い奴がだらしないのは認めるけどさ
若い奴が欲を求めることを否定する年配者もいるって事実にも触れろよ。
そんな年配者に影響を受ける若い奴がどうしようもないとは思うよ。
でもさ年配者が押さえつけて押さえつけて若い目を潰しているのも事実だろ。
以前に元増田が自分の采配の加減で大幅に予定をずれ込む仕事を入れた。
→いい加減な元増田は自分で仕事の管理が出来ていない。せめて被害被らないようにちゃんと予防線張っておかなければ。
(元増田が若い頃同様に上司の作業ミスを被ったが泣く泣く我慢したりしてたとしてもそれとこれは別の話)
・言った言ってないの話になる
・すぐにトイレにいく
余りの頻尿なら企業医に元増田から相談。業務に支障が出ているため。
水を控えるように個人的指導。上司に報告。
まあね、どんな事言ったって
元増田がそういう先入観を醸し出しながら日々パワハラしてるからやる気レスになってるのでは。
尚、全ての上記の項目は女じゃなくて男にも当てはまるよ。頻尿の珈琲中毒のおっさん多すぎ。
女がどうの。すぐ辞めるからどうの、っていうバカな理由しか見付けられない程度の頭の悪さなんだから
もうちょっと謙虚になって同僚との仕事の進め方を変更したらいいと思うよ。
どこの人かしらんけど、理性的な人が多い職場だと男女の別で何かが変わる訳じゃない。産休があるくらい。
単に元増田の職場が男性優位土壌で成り立ってるのと、元増田の性格が悪いだけだ。(増田で箇条書きしちゃうくらいだからね!)
でもそれ認めちゃうと惨めになるから性別のせいにしたいんだよね。で、お母ちゃんみたいに甘えさせて欲しいんだよね。よちよち。
厳しいけど、最終的には外国人もアメリカ的な振る舞いを覚える事を当然とするし、
一方日本では、どれだけ「日本的な振る舞い」を覚えたとしても、
随分言い切ってるけど
どういった・どれほどの体験に基づいての発言なのこれ?
そしてそれは一般化できることなの?
与太話やステレオタイプでない真面目な話をするつもりなら
アメリカのどの都市に何年滞在すればアメリカ人を語れるのか謎なわけだが
一体何州のどちらに何十年住まれたんでしょうね?日本では何県に何十年?
データも無くそんな一般法則もどきなんてなかなか語れないと思うけど
このお方は更に凄くて
とおっしゃる。
こりゃ大変だよ、アメリカに住むだけじゃ終わらなくなる。
就活時の業界への関心の有無が明暗の分かれ目だといつも言えるかどうかというのは疑問で。
客観的に見れば、人も羨むような難関企業にするりと入ってしまったのはいいけれど、
自分の実力と会社の期待の乖離を埋められずに苦悩してけっきょく潰れてしまったという話であって。
この増田さんがIT業界に対する興味・関心が1でもあればモチベーションを奮い起こしてこのギャップを乗り越えられたはずだと信じたいのは分かるんだが、
スペシャリストよりもゼネラリストを育てたがる日本企業の慣習からすれば、その人の意向や能力を一向に配慮されない人事権が振るわれることなんて山のようにあるわけで。
いざ希望する業界の希望する部署に配属されるという幸運に恵まれたとしても、
何年かして合理的な理由もないのに興味がなくまったくやる気の起こらない仕事内容の部門に配属されたら、そこであなたは退職しなければならないのかって話になってくる。
個人的な意見でいえば、それがどんな内容の仕事であれ、1程度のやる気を自分の中に見出すことは難しくないように思えるし、
たとえ膨らますことができたとしても開始時点は1であり、期待される仕事の水準が高すぎては動機が膨らむ以前に重圧に潰されるのでけっきょく同じことなんじゃないかと。
ちょろっとやってみたいな程度の動機がいかなる重圧を乗り越えられるほどの力を発揮し得ると考えてしまうのは、たぶんそれを持たなかった者の幻想であり言い訳だろう。
そもそも世の中で興味も関心もゼロの職業に就いた人が必ずしも不幸かといえばそうでもなく、
志望動機がないどころかこれだけは死んでもやりたくないと忌み嫌っていた親の仕事を家族のために無理やり継がされた人が、
その仕事を日々こなしているうちに、自分がまったく知らなかったその仕事の面白みややりがいを見出して、
事と場合によってはこれこそ自分の天職ではなかったのかと気づいてしまうようなケースすらあるわけで。
視点を変えれば興味や関心が0ということは何の先入観も期待ももたずにフラットな状態でその仕事に向き合えるという利点もあって、
その業界に対する志望動機といえるものが100あったとしても、それが具体性を伴わない幻想やら漠然とした憧れで構成されたものであったら、
甘ったるい夢や幻想を現実にぶち壊される苦悩というものを味わうことになるし、実際に希望した業界に就職できたはずなのに幻滅して辞めて行く人も多い。
あらゆる物事はケースバイケースであるといってしまったらもう身も蓋もないんだけれど、
たぶん優先度の高さからいえば、動機そのものよりも、自分自身の正体をどのぐらい知っているかのほうが重要なんじゃないのかな。
本当にやりたいことにしかがんばれない人間もいれば、まったくやりたくなかったことにも面白いと思える部分を探し出してがんばれる人もいるし、
実力不相応の難関企業に入って期待に応えられず潰れていく人もいれば、多々益々弁ずで期待が大きいほど自分の実力以上の力を発揮していくタイプの人もいたりして。
動機が0か1かは万人にとってはそれほど決定的なことではないのではないような気がするな。
自分がどういう状況ならがんばれたり、がんばれなかったりする人間かをどの程度正確に把握しているかが、幸不幸の分かれ目になったりするんじゃない?
もっとがんばれると思ってたのにがんばれない人もいれば、もっとがんばれるはずなのに自分を過小評価して小さくまとまってしまってるもったいない人もいたり。
まずは、自分自身のことは自分でもよく分からないものだという自覚を持つところがスタート地点。
試してみないと分からないことは、世の中にはたくさんあるし、いちばんよく分かっているはずの自分自身のことでもそれは例外じゃない。
そういう文脈でいえば「自己分析なんて意味ないから辞めちゃいなよ」という識者の意見は傾聴に価するもので、
分析するに足るだけの十分な判断材料がないのに自分自身が何者かと問い詰めたところでドツボにはまるだけだよね。
わかんないものはわかんないんだし、わからないことは試すことで確かめるしかない、と割り切ることも大事で。
やりたいことを目指さないと不幸になるというバイアスがかかると、そのことで自分自身の本質を見誤った行動をとりつづけて、
それはそれでかえって不幸に陥る人もいるんじゃなかと思って、ちょっとおせっかいで書いた。