2011-08-24

東京生まれの自分にも東京弁(≠標準語)は田舎くさく聞こえてしまう。

きっかけは些細なことで、本屋大阪弁について書かれた本を立ち読みしてたら、大阪出身である著者は若い頃東京大学に入ったとき東京言葉が気持ち悪くて全く馴染めなかった、みたいなことが書かれていたこと。「東京言葉が『標準』で関西弁はじめ地方言葉は『訛り』」みたいな感覚が当たり前だったから新鮮だったし、興味を惹かれた。

それ以来東京弁という言葉についてなるべく先入観抜きで考えるようになったんだけど、いつの間にか「東京弁ってなんか田舎臭くないか!?」という疑念が膨らんできた。反対に関西弁にはなんだか都会的な雰囲気を感じるようになってきた。

なぜそう感じるのか、その理由について自分なりの仮説を書いてみたい。

関西弁は基本的に、その時代時代の都(平城京とか平安京とか)の言葉が周辺に伝播するかたちで形成されたものだと思われる。当時は大都市というのは首都ぐらいしかない。つまり都市の強い影響の下で形成されてきた唯一の日本語なのではないか

言葉は常に変化するものだけど、都では代々都市暮らしている人たちの生活感覚の中から生まれる、都市生活者感覚マッチした表現が定着していくし、そうでない表現はすたれていく。たとえば、人口密度の高い都会ではコミュニケーションにトゲがない方が都合がよい。だから言葉のサウンドが柔らかくなる。東日本でいうところの「じゃ」「だ」のような音は関西では子音や濁音が省略されて「や」になっているし、東で「〜っつって(と言って)」「買った」というところを西では「〜ゆうて」「こうた」というように、やはり子音や促音が避けられ、半母音や長母音になる傾向がある。この方が音の響きとして角が取れているし、反対に関東弁や東北弁はゴツゴツしていてがさつな印象を与える。

あと、直截的に表現せず、遠回しに伝えるやり方(「ぶぶ漬け」が実話かどうかはおいといて、ああいう話はその象徴だと思う)が発達するのも同じ理由かも。村上春樹(関西人)が雑誌インタビューで「関西の人は十言いたいことがあったら五、六ぐらいだけ口にするけど、東京の人はそうじゃないからはじめはびっくりして、なんだここは、とおもった」と言っていた。

で、一旦「東京弁が標準」っていう思い込みがなくなって、「東京弁というのは単なる関東方言ひとつで、言葉それ自体に都市性が含まれてる日本語関西弁くらいしかない」ぐらいの認識になると、「おめーふざけんじゃねーよ」「これまじすげーじゃん」とかい東京風の言い回しがやたらダサく田舎臭く聞こえてきて困る。でも東京しか暮らした事がないか東京弁喋るしかない。

では、世界最大の大都市であった江戸言葉もなんらかの「都市生活的要素」を含んでるかというと、結果としてそうなったとは思えない。江戸言葉がそうなったのは、逆説的だけど江戸世界最大の大都市だったからだと思う。京都中世都市なら江戸はまあ近代都市というか、地方から人が流入して人口が爆発的に増えた。つまり都市生活者が新しい表現を生み出し、その表現が定着して行くよりも遥かに速い勢いで、地方農村から人が移住して来てめいめいが地元言葉を持ち込んだので、結果として都市的な性質を獲得する事はなかった。そしてその流れは東京遷都と高度成長でさらに加速された。東北関東甲信越から農家の次男坊三男坊が大挙して上京してきたから。

東京物質的には巨大都市だけど、言葉文化でいうと「巨大な農村」なのかなと、そんなことを思うようになった。だから関西人テレビで無理して東京弁喋ってるの見ると、なんだか妙な気分になる。わざわざそんな田舎臭い言葉、使わなくても。

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