はてなキーワード: ブラックホールとは
ボカロの歴史についてはドにわか…というのもおこがましい、ドシラソファミレドにわかだ。
初めて聞いたボカロは覚えていないが姉がイカサマライフゲームを聞いていたのが最後の記憶
昔、学校でミクが流行っていたから初音ミクプロジェクトミライを買ってもらった。
今思えばこの頃の環境が一番オタクに優しかったな、カースト上位が全員オタクだったから
やってみて好みだなって思ったのがささくれPとピノキオPだった。これが出会いだな。
母親に頼んでスマホを貸してもらって、ピノキオピーのマイリスを見たそのときの最新投稿が頓珍漢の宴だったのをよく覚えている。
ピノキオピーは曲が多いから、アルバムのクロスフェードで大体の位置を記憶していた。
個人的には漫画が好きだ。comic and cosmicの発売がすごく嬉しかったのを覚えている
引っ越しで環境がかなり変わったことがあって、そのときは、ちょっと周りにトゲをばら撒くような歌詞が自分の心を守ってくれるような気がした。
だからはっぴーべりーはっぴーとか、人間なんか大嫌いが好きになった。
このあたりの曲は言葉を選んで強いことを言っているから、言ってやった!感が強くて、歌っていて気分が良い。
うっせぇわが流行ってるのってそういうところあるんだろうなって思う。
関係ないけどadoはマジで歌が上手いから消費される歌い手にならないでほしいし、語彙がちゃんとしている上で言葉の強い歌を歌ってほしい
それからしばらくして、生活に少し慣れてきたときには何気ない歌に励まされた。
あと本当に辛いことがあったとき、今でもネガポジを歌ってしまう。
最初期ピノキオPの何気ない素朴な歌詞がすごく好きだ。今も。それが強い気はする。
ピノキオピーの好きなところはやっぱり歌詞だ。曲調も好きだが。
いろいろあるんだけどレアノの毎分毎秒毎時間感動してられないものとかブラックホールヶ丘商店街のアイスの棒のあたりとかの素朴さが好きなんだ。
そういう歌詞の身近さが、最近のピノキオピーでは少なくなってるきがしてさみしい
どうしてちゃんのテーマとかどうなのって言われそうだが最近のピノキオピーの歌詞のリフレイン率はヤバい 体感だけど
404もリアルにぶっとばすも愛されなくても君がいるもちょっとキャッチーじゃなくリフレインしている、その隙間にもっと、もっと自我をさらけ出してほしいと思っちゃうのはオタクのキモくてイタい欲求なんだとは思う
でも正直言ってさんさーら!では感動した、ARuFaを表現する言葉の巧みさに脱帽した
全部好きだけど、友達百人できる?できないのところが彼らしくてやっぱり好きだなと思った。
彼の夢と希望と少しの諦めと内輪ノリがないまぜになったような言葉遣いは沁みる。
インターネット上の元気いっぱいバカ真面目バカARuFaを体現した歌が良かった。
MeiMeiみたいなユルさとはじめまして地球人さんを聴いたときのワクワクが同時にきて、ちょっと嬉しかった。
俺としては一番ピノキオピーがとっつきやすいキャッチーさとひねくれ感と共感を上手く歌にできているのがはじめまして地球人さんだと思ってて、本音を言うとこの時期にコンパスの楽曲提供を依頼されて欲しかった この欲求は無茶すぎるけど
でしゃピノもよかったピノキオピーが調整する声が好きだがね、可愛くて聞き取りやすくて
今ちょっとマイリス見に行ってらリアルにぶっとばすが99作目だった、マジ!?100作目は祝いたい
散文すぎるが次100作目ってわかったらもう言いたいことなくなった、とにかく大好きだピノキオピー…アンタのポップな曲調、内面に迫ろうとしたり、どうでもいいことを急に言ったり、たまに説教臭いことも言う、距離が近いけど頼れる先生みたいな歌詞が好きだ。これからも作曲していってくれ…頼む…生きて作曲してくれてありがとう
生まれてから高校卒業までを過ごしたこの街は県庁所在地というだけあって都会機能の一揃いがひとつまみずつ鎮座している
それは物理的距離や交通の不便から他の同規模以上の都市に気軽に移動できない(できてしまわない)ことの裏返しかもしれない
他市町村から吸い上げていてこれかとも思うが、東京という巨大なブラックホールを抱えたこの国では仕方のない自己相似なのだろう
学生時代は米より安いパスタを茹でるか、白飯おかわり無料の店へ行くか、絶食して寝るかの3択を繰り返していた
自炊は1人ぶんをつくるのが一番高くつくのを知った数年だった
逆に言えば数人分であれば外食よりも随分と自炊のほうが安くすむ
父の料理趣味もあって、よほど忙しくなければ外食をしないのが「うち」の不文律だ
日曜にもかかわらず年度末の怪物に忙殺されてしまった料理番が「昼は適当に食え」と令を発した
自分の食べるものを自分で決めなければならなかったのは、あるいは決めさせてくれたのは実に1年ぶりだった
町並みを夔動自転車で少しぶらついて、ふとオメガラーメンの真っ黒な看板が目に入った
オメガ系が「向こう」の学生街に入学当初なかったので私は仲間連中と駄弁りながら私鉄を乗り継いで「無謬屋」へ行ったものだった
去年「あるオメガ系チェーンが意識高い系ビジネスと悪魔合体した地獄のような店を47都道府県全部に展開する」と報じられた
実際我が街にも一軒建ったものの、開店早々食中毒によって閑古鳥を鳴かせていた
しかしまともなオメガラーメンを食べるに県境をまたぐ必要はない
ここは田舎でも都会でもないのだ
地下鉄やイタリアンファミレスこそないが、オメガ系の名店は数年前から既に「墓所」「縹渺」などがある
本家系列の店で修行したオーナーの腕が絶品と聞いたことがあり、私は好奇心とともに最後尾になった
完食した
「無謬屋」さえ引けを取ると思った
美味しかったのは確かだ
だけれど、学生時分に掻き込んだ思い出とは体験として異なっていた
歯の裏にこびりついた甘ったるい余韻に多幸感ではなく、くどさを覚えた
「実はね、わたし最近○○くんにハマってて」友人にそう打ち明けると決まって「なんで今更?」と返された。私の推しは、あまりにも有名だった。
けれど、そんなことを聞かれてもわからない。推しとの出会いは運命だった。あの日、ほんの一瞬、画面越しに目が合ったあの瞬間、頭の中で何かが弾けた。私の意思とは関係なく目が否応無しに彼を追ってしまう。あの日の彼はブラックホールのようだった。それまでの私が知る彼とその日の彼は何かが違った。
この本の主人公あかりは、推しに出会った時の私そのものだった。
部活が終わると一目散に家に帰って推しが出ているテレビ番組を見た。お年玉をはたいて買ったライブDVDを、時間があれば何度も再生した。CDが発売される月は友達との遊びを我慢してどうにかその費用を捻出した。推しのために、生きていた。すごく楽しかった。
けれど、幾ら推しを推している時間が楽しいからと言っても、私にも "私の" 生活がある。
気づけば高校三年生になっていた。志望大学はどこで模試の判定は何で偏差値は幾つで… その頃からクラスメイトは自分のことを "ジュケンセイ" と呼び、周りも私たちのことを "ジュケンセイ" として扱った。私もとりあえず、自分のことを "ジュケンセイ" と呼ぶようになった。
けれどいつまで経ってもやる気は出なかった。正直、自分の将来なんかよりも推しの方が大切だった。大学受験は刻一刻と迫っているのにも関わらず、推しに縋って勉強から逃げた。大学には落ちた。自業自得だと思った。自分のことを "ジュケンセイ" だと呼ぶことは出来ても、 "受験生" にはなれなかった。
「折角、良い高校に入ったのに。」
気を使って言わなかったけれど、きっとみんなそう思っていたんだと思う。「地頭が悪いわけではないのだから頑張ればそれなりの所に行けるのに、どうして頑張らないの?」担任には遠回しにそう言われた。本当にその通りだと思う。頑張りたいとは思っていた。でも、推しの方が大切だった。何で頑張れないのか、自分でもわからなかった。
推しに出会って一年が経った。周りがみんな所謂「良い大学」への進学を決める中、なんて自分はダメな人間なんだろう、と自分で自分に落胆した。推しに縋って生きていたそれまでの自分を心底殴ってやりたかった。
推しに縋って生きた先に待っていたのは、社会の歯車に組み込まれた「わたし」の凋落だった。
苦しかった。このままで良いわけがないこともわかっていた。人間とは不思議なもので、自分にラベル(私にとっては地元で一番の進学校に通う勉強が出来る子)が貼られると、そのラベル通りの人間になろうとするらしい。"良い大学に行くために"浪人をした。高校三年生の時よりもちょっとだけ、頑張った。ラベル通りの人間にはなれなかった。
結局、滑り止めとして出願した今の大学に拾って貰った。首の皮が一枚繋がった。私は、あかりにならずに済んだ。(と思いたいだけなのかもしれないが)
こんなにも自分は怠惰で堕落しているのに、親が私の事を見捨てず変わらず接してくれることが苦しかった。なんでこんな自分に出資をしてくれるのか、わからなかった。リターンなんて何も無いのに。この先必ず廃業すると分かりきっている企業の株を親に買わせているようで、辛かった。自分が詐欺師にでもなったかのような気分だった。
未だに私は推しのことは相変わらず大好きだし、推しに縋って生きていたあの時と同じように狂ったように愛を叫んでいる。けれど、何かが違う。
大学生になった。
詐欺師から普通の人間になりたくて、必死にもがいた。辛い、もう辞めたい、と周りに弱音を吐きながら何が何でも良い成績が欲しくて必死に授業に喰らい付いた。二年前、私がなれなかった "受験生" になったかのような気分だった。気がついたら死ぬ気で喰らい付いた授業で優秀作品に選ばれていた。やっと人間に近づけたかもしれない。そう思った。
推し、燃ゆ。
こうなっていたかもしれない私の、話。
私の推しは今日も変わらず画面の向こうで笑顔を振りまいている。そんな推しをぼーっと眺めながら今日も私は目の前の課題に取り組む。
またOuter Wildsベタ褒め記事が出ていたのでクリスマスに金をブラックホールに投げ捨てるヘタクソの救済のために来ました。
ゲームの腕に自信がない人は買うな。
何とかなる難易度、そのうち慣れるとか遥かに低く見積もって書いてるのは腕自慢か人が騙されるのを見て喜ぶ詐欺師か時間が無限にある人かみんなが自分と同じ腕前だと思ってる天然だから。腕に自信がない人とか1度のプレイに何時間もかけられない人は絶対やらない方がいい。なんとかならねーよあんなもん。傑作ゲームの前にイライラ死にゲーであることもちゃんと書こうよ。
あれは難易度が高いのではなく操作性が商品として世に出すレベルに達してないやつだから。
記事で言われているようないい部分は確かにあるけど不便性がそれを遥かに上回ってるから。
名作なのは間違い無いけどさも誰でもクリアできます五万本買えみたいな顔で万人に勧めるな。マジで。
・国内メーカーの普通のゲームみたいな「画面に映るキャラを操作する」タイプしかやったことない人は高確率で挫けると思う。やったことあっても挫ける。
・宇宙船の着陸が難しい。なんか軽い。強くぶつけると壊れる。毎回強くぶつける。着地の正解が全然わからん。着陸くらいオートでやってくれ。
・星ごとに違う重力で毎回ジャンプとか距離感も何も把握できずに死ぬ。ゲーム中の操作の大半はこのイライラジャンプアクション。点々に配置された足場をフワフワイライラしながら渡る。落ちたら頑張って足場に戻る。戻った頃に時間制限が来て死ぬ。星によってはそもそも足場に復帰できなくて死ぬ。渡るより死んでる方が多い。この操作クリアできるできないはさておき楽しいの?邪魔じゃない?探索だけさせてくれない?イージーモードつけて?
・スタート地点から他の星に移動、長々移動して死んだ場合でも戻るポイントが一番最初からなので気の短い人にはお勧めできない。死んだ後のムービーも繰り返すと長く感じるのでせっかちは死ぬ。
・酔う
雰囲気自体はすごくいいから宇宙漂ってるだけで満足とかインターステラーっぽい体験がしたい人にはオススメ。
先が気になるワクワクより操作性への憎しみが上回ってリタイアしたけどクリアできる操作性(難易度とは絶対に言わん)だったら信者になってたと思う。
魔法に制限がなく単なるデウス・エクス・マキナとしてしか機能してない感じ
なぜかプリンだけ都合よく開発されていない
王様が執務室で王冠つけっぱなし
なぜ揃いも揃って両手持ちで剣道型?
つまりここまで雇える主人公の総資産額が億超えてるがぜんぜん語られてない
ついに携帯電話登場
もうなんでもいいでしょ
物質に対する概念がいい加減なのに、なぜかウルフの在庫に関しては現実感を重視
クラーケン登場だけで海路封鎖されて物価が跳ね上がるから普通に商売したほうが早いと思う
身分が身分だけに囲い込みも簡単なはず。なぜ犯罪行為までする必要性があったのか
みんなで鍋を囲む風習が地中海気候の地域にあるの? 熱海付近と勘違いしてない?
ここまで見てもくまにした理由がこれっぽっちも見当たらない
斬新で強烈なCMが多い近年の日清にしては大人しいほうだ。薄味といってもいいかもしれない。
カップヌードルシーフードの新具材「ほぼイカ」を全面にPRするCMになっている。
同種のCMというと、キムタクがやっていたコロチャーを思い出す。
それはいいとして、件のCMは前半がアニメーション、後半が実写という構成。
アニメーションのパートは早見優の夏色のナンシーの「恋かな 恋じゃない」を替え歌にした「イカかな イカじゃない」というフレーズに合わせて、プールの飛び込み台からシーフードヌードルのキャラクターが飛び込んでいくさまが可愛らしい、キャッチーな映像だ。
じっと目を凝らして見ていなくても、この前半部分については見覚え、聞き覚えがある人は多いと思う。
そして後半では、早見優本人が出てくる。
早見優はカメラ目線でカップヌードルシーフードを黙々と食べている。
一見何気ないシーンだ。
しかし、よく見ると本当に黙々と麺を食べ続けているのだ。数秒間の間に何口も。苦にしない様子で。
確かにカップヌードルの麺はよく噛まなくても食べられる部類のものではあるとは思う。ただそれにしても早見優の食べ方は尋常ではない。
麺を口に入れてはまた口に入れる。その繰り返し。口内がブラックホールになっている。
人ってこんなに食べられるんだ。
ブラックホールに引き延ばしてもらうと長い男になれるってもっぱらの噂やで