はてなキーワード: しまとは
ヤフコメとかTwitterとかで水季勝手すぎ!とか振り回されすぎ!こんな脚本ありえん!もうこの脚本家のドラマは見ない!!!っていう意見が沢山あった。
自分は医療職でありまぁ歴はそれなりにあってドラマを見てるとあーそーそーこれこれ!って思える場面がかなりあり家族の言葉とかにはもうほんと納得していた。
人の死の場面に立ち会うとほんと綺麗な終わりなんて全くない。そもそも死ぬ人は自分が死ぬなんて思ってないし最後の瞬間まで生きてる。
最後の瞬間まで生きて生きて止まるっていうのに近い感じ。
死に向かって生きているはずなのに誰もかれも死ぬって思っていない。水季だってそうだったはず。
だからせっかく宿った命を自分が育てていきたい。でもこれからある大好きな彼氏の将来を決めてしまうようなことはしたくない。
水季と夏がその判断をしたのは大学生。そんなあと先のことまで考えてはいないだろうしこれからの将来なんてそんなまだまだ子供の2人に想像できるはずがない。
産みたいけど彼氏のこれからのこととを考えた時にもうあの判断しかなかったはずだ。
これから彼との人生は違っていくけど自分と子供の2人であれば生きていける。
そしてようやく好きな人もできてこの長い長い先にもしかすると津野くんとの未来も見えた矢先に病気の判明。
ほんと告知を受けたら頭真っ白だったはず。そして真っ先に考えたことが子供のことだったろう。
死を宣告された人たちは子供がいると子供を第一に考えてた。私が死んだら子供は大丈夫かな。。。ってもう何度も何度も聞いた。その度に医療者としてとても辛かった。
確かに勝手に産んだ。でも死ぬなんて思ってなかった。残された子供がいつか父親のことを知ろうとするだろう。自分の死だってきっとどんな形であれ夏は知ることになるだろう。
なら知った時のために手形を残すというのは自然のことじゃないだろうか。血のつながった子が孤立しないようにしてあげたかったはずだ。
https://x.com/env7QunqSci1E1z/status/1838742209103028282?t=iKhkxHZKi7-hUY4S5W71uQ&s=09
これほんま酷い。
近所のこども食堂が次々閉店してる原因は一人で来る男のせいだという決めつけから始まり、思っている、かもしれないというただの妄想の発表会。
こいつがこども食堂の運営者だったとか、お店の人と仲が良くて裏事情を聞いてしまったとかなら分かるけど、それならそうと言うはずだからこれはガチの妄想発表会。
「本当の理由は違うと思ってる」ってお前はどういう立場で書いてんだよと。過去ポストを漁っても女性がーばっかで子どもの話とか一切してないから多分独身。
ゆっくりと距離を取る:女性との距離をゆっくりと取り、女性に背を向けずに後退します。
目を合わせない:女性を威嚇するつもりであっても、女性と目を合わせるのは避けましょう。女性にとってこれは攻撃的に映ることがあります。
静かな声で話す:女性が近くにいる場合、自分が敵ではないことを示すため、静かな声で話しかけるのも効果的です。
決して走らない:女性は驚異的な速さで走ることができ、背を向けて走ると追いかけられる可能性があります。
防御的な姿勢を取る:地面に伏せ首を守りうつ伏せで膝を抱える姿勢を取ります。死んだふりをして女性が興味を失うのを待つのが有効な場合もあります。
横だが、オレは個人攻撃はしないポリシーなのでスルーしてしまってるが
時々は「君はモテないからって女に逆恨みしてるだけだろうが!」のように罵倒したくなるねw
すごくわかるし、高齢者の自殺原因の「病苦」ってそういうことなんだろうな、と思ったりもする。
自分が自分でなくなってしまって、本来なら傷つけなかったはずの人を傷つけてしまうようになったなら、もうそれは肉体だけ残して死んでしまったのと同じだ。そうまでして生きれば生きるほど、いずれ抜け殻の肉体の方も「早く死んでくれればいいのに」と皆から疎まれるようになって終わりだ。周りの人にそんな思いをさせたくない。
コミュニケーションを円滑にする工夫として、結論から話すことが挙げられやすいが、むしろコミュニケーションを阻害する結果になる人もいる。
結論から話すことを意識して徹底してるらしい後輩がいる。が、この後輩、論理的に物事を考えられず、かつ伝える力も弱い。
例えば「今からGoogleの窓口に連絡したい」と結論から話されるとする。「え、なんで?」となると同時、頭の中にはGoogle関連のサービスとそれに付随する業務が思い浮かぶ。普通はこのプロセスが会話を理解する上で助けになるから、結論から話すことは一般的に有益だ。
だが後輩の場合「Windowsがさっきから強制的にシャットダウンしてしまう」とくる。関連性が全く分からないので、もっと聞き返す。そうして何回もやり取りをして、どうやらGoogleスプレッドシートを開いた時にPCがシャットダウンする確率が高いということを知る。だからGoogleの窓口に連絡したい、ときたわけだ。文章にすると短いが、ここまで理解するのに死ぬほど問答をしている。
ツッコミどころとして、まずPCが強制シャットダウンされる理由がスプシだと思えないし、そうだとしてもGoogleに連絡するのもだいぶ飛躍してるし、日本法人でもなく本社に連絡しようとしてるし、というのはある。
しかし問題はこの話を理解するのに15分ぐらいかかったことだ。結論から話されたことで、余計に頭の中にバイアスがかかった。最初から事象だけを話してくれていればもっとすぐに理解できたと思う。
このような経験が多くあったので、今は「相談の時はまず起こった事象を時系列で話してくれ」と言っている。それでも時間がかかるけど、最初に掲げた結論と整合性を頭の中で考えながら聞くより認知負荷が低い。
合わない物事とか概念とか意見とかがある。目に入れることも文字に書くこともしたくないあれやこれやが。
見てしまったらその度に脳と心臓と胃がどろどろによどんでこの世のすべてが嫌になるようなあれやこれや。
SNSとかネット上で見てしまった時にはひたすらそれを見るに至った己の浅はかさを悔やむ。あのアカウントを見なければ。あの時クリックしなければ。
ましてや金払って買った本のなかにそういうものを見たときのどうにもならない後悔と自己嫌悪をどうすればいい。これに金払ったのか。というとてつもない後悔。
事前に内容をよく調べなかった自分が悪い。と思っても身体の中のよどみは止められない。これに金払ったのか。数百円でも取り返したい。
また電書というのがたちが悪い。あんなもので収納スペースを埋めないで済んだのはメリットかもしれないが、紙本なら物理的に捨てて抹消することが出来る。でも電書は物体が無いかわりに購入履歴に残り続ける。非表示にはしたけど、見えてないだけで残っている。店で買ってたらレシートも捨てられるのに。紙本なら返品も可能か?電書は一度読んだら返品(返金)不可なのか。読んだと分かるのか。そんなシステムなのか。
日頃は電書を便利に読んでいるが、まさかこんなことでデメリットを感じるとは。
まあSNSで見ても本で見ても解決法は基本的に変わらない。時薬。ときぐすり。
気分が落ちたとき好きなもの見たり聴いたり食べたりして気持ち紛らわすのも場合によってはアリだが、往々にしてこういう時は好きな物事を100%楽しむのは難しい。
最終的にこういう気持ちをなんとかするのは時が経つことなのはもうずっと前から分かってる。だから時が経つのを待つしかない。これまでの何十回と同じように。それは分かってる。
端的に言えば
・他責的
・受け身
・コミュニケーション能力低め
・仕事が遅い
・たまに寝てる
・質問の仕方が悪い
・物覚えが悪い
・仕事出来ないくせに喋り方が偉そう
・雑用が嫌い
うん。
よくある好かれない新人のテンプレみたいな奴で、1周回って面白い奴なんだけど、やっぱ毎日コイツの相手してるとしんどくて少しずつ嫌いになってくるんだよな。
まあ本人なりに頑張ってるんだろうなって分かるんだけどさ、その頑張ってる感の出し方が足りてないんだよね。
電話を積極的に取るとか、ちょとしたことでもとりあえず報告していくとか、そういった「ガムシャラにやるぐらいしか出来ないからガムシャラにやってます!」みたいなポーズを取るのが下手。
あとまあ一番困るのが抱え込みまくって自分の頭の中が時系列さえグッチャグチャになってから周りに相談してくる。
そうやってギリギリまで溜め込む理由はよく分からんから邪推はせんのやけど、なんとなく「チームに貢献したくて頑張ってる」というよりも「自分が傷つきたくないから」なんだろうなと感じるんだよね。
学習能力においても、自分で鍛えるべき部分と他人に鍛えてもらった方がいい部分の切り分け、セルフトレーニングとパワーレベリングの使い分けが下手な印象がある。
総じてヒューマンスキルが低いっていう悲しすぎる現実に行き着くんだけど、これについて俺は脳のバグで「畜生、コイツはきっと俺達のことが嫌いだから牛歩戦術で俺達を苦しめたいんだ」みたいに勘違いしそうになる。
そんなことはなくてただただコイツは学生時代に目先の勉強を最低限こなしていくことしか学んでくなくて、生活・人間関係・学習の効率化を意識せずに暮らしてきてしまっただけの愚鈍なだけの人間なんだってことは分かるんだよ。
分かるんだけどさ、職場で今更になってヒューマンスキルを鍛えるとかしんどすぎて戸塚ヨットスクールみたいな所に投げ込むしかないけどパワハラになるからってことで皆苦しんでるのが今の時代なわけよ。
いい年した成人同士が「知ってる?夜ふかしするより少し早く寝たほうが、脳のホルモンバランスがよくなって仕事が早く終るから結果として遊ぶ時間も増えるし、気持ちが前向きになって毎日が楽しくなるんだよ」みたいな話したくねーわけよ。
本当にどうしようか悩んでる。
悪い奴じゃないのは分かるんだけど、好きになるにはちょっとしんどすぎる。
嫌いになりたいわけじゃないんだけど、やっぱどうしても少しずつネガティブなイメージが溜まってきてしまう。
どうしたらいいんだろうな。
そもそもコイツが変えるべき部分って自分で意識して自発的に変えないと身につかないような部分ばかりだもの。
要は人間として自立するための課程の取りこぼしっていうかさ。
これはある。俺TUEEE!自体は爽快で良いんだけど、俺TUEEE系のなろう小説ってだいたい主人公がイキり出すんだよね。それ、俺らの嫌いなDQNムーブじゃんか
あまりにもイキりムーブが標準になりすぎて作者と読者の感覚が麻痺してしまったのか、最近は作中で「良い人」扱いされてる主人公の言動やふるまいまでイキってきてる
標準的な俺TUEEE系主人公(常軌を逸してイキってる)と比べたら確かに抑えてるんだけど、実社会のDQNと同程度にはイキってますよと。現代日本から転生したって設定なんだから、主人公の倫理観が現実の倫理観とズレてるのはダメだろ
これは一人の男として増田に聞くんだけど、AIイラストって抜ける??
自分が作ってないからそこの興奮込みとかならわかるけど、消費者オンリーの側からするとやっぱり人が書いたイラストの方が良いと思ってしまうんだよね
なんというかAIは安定して80%出してくれるんだけど、人間は下手とか上手いとか関係なしに120%が出るときあるじゃん エロって万人受けよりも尖ってたほうが抜ける気がしてさあ
LINEマンガをよく利用しているのだが、ピントのずれた感想コメントに頭をかしげることがある。
和菓子屋で働く主人公がパチンコ帰りに手を洗わず団子をこねた結果、食中毒を発生させてしまう。
主人公のことを煙たがっていた店の主人は、営業停止になった責任を負わせて主人公をクビにする。
「食中毒というのはウソで、主人公を追い出したいがための口実では?
いやいや、その読み方は無いでしょ。
途中に主人公が団子をこねている様子がアップで描かれているんだから。
映画でもそうだが対象をアップにするからには、必ず意味があるのだ。
チェーホフの銃ってあるだろ? 発砲されないライフルを舞台上に置いてはいけないってやつ。
LINEマンガの感想コメントって、こんな感じの変なツッコミがすごく目立つ。
中高生くらいの頃って、重箱の隅をつつく指摘が賢いって思っちゃうんだよね。
疑う余地のない部分をとりあえず疑ってみせる感じ。
映画セブンの犯人は実はモーガン・フリーマンなんだよ的なやつだ。
最近夫が太りすぎていて、すごく嫌だ。
結婚相談所で婚活を経て結婚したのだが、その当時でも身長161cmで体重が90キロ(多分過少申告)ほどあった。
40になるまでに体重を落とす事を条件に結婚し、五年ほど経つ。
カロリーを意識した食事を一緒に取っていたら、私の体重は減ってしまった。
40歳を過ぎても夫は痩せる事なく、太り続けている。どうみても100キロ超えている体型になっている。
そりゃ隠れて清涼飲料水飲んだり、お菓子食べたり、仕事中の食事に菓子パンだの食べていたら痩せる訳がない。
私がコートを着込んでいる日でもTシャツを着て、汗をかいていたりするのも嫌だ(太っているから暑いらしい)。
夫は過去に鬱をやっているので、この状況をキレ散らかしたいけど、それでぶり返しても嫌だなぁと思って強く出られない。私のストレスは毎日蓄積されてる。
成功者の伝記や、ドラマの主人公などに自分を重ねすぎて、人生に求める平均点を無計画に上げてしまったタイプ。
学校の教師なんかが「とにかく夢を持て、君も立派な人間になれるぞ」なんて無責任に言うのを鵜呑みにしてしまった人間の成れの果て。
よくよく考えれば、教師なんて自分は残業代も貰えずに最低賃金未満で働いてくるくせによくこんなことが言えたものだと気付けなかった思考力が哀れ。
テレビゲームの世界ではコントローラーを握ってるだけで皆世界を救った勇者になれるけど、現実にいる自分はその他大勢の村人であるという客観的視点を持つ才能がなかったのも哀れ。
テレビを見ながら1時間で偉人の人生を追った所で、自分は1ミリも偉くなってないってことに早く気付ければよかったね。
想像力や分析能力の欠如により現状に対しての不満ばかり漏らし、その考えを自分の人生にも当てはめてしまったタイプ。
あらゆるものに対してとりあえずケチをつけておけば何となく「評価が出来た」という気分になれるという楽さに溺れてしまったのが敗因。
存在し得ない最高の状態からの減点で何でも測るので、何が起きても常に不満しか持てないという悲しい生き物。
ゼロから数えてどれぐらい積み上がっているのかを数えればいいものを常に100点からのマイナスで数えるのでいつまでも満足できない。
このタイプはたとえ95点の人生が手に入っても、「マイナス5点の人生」として数えて「ああ、俺の人生の価値は0にさえ劣る・・・」と嘆き始めるのだから相手にする価値が全くないと切り捨てていい。
子供の頃にちょっとしたことで表彰されたりしたのをいつまでも覚えているようなタイプ。
言ってしまえば「クラスで自分しかビブラスラップを演奏してないから身内じゃ一番ビブラスラップが上手い」のを「俺はこの街で一番音楽の才能があるのだ」と勘違いしてしまうようなホームラン級のアホ。
幼児的万能感とも言えるものが精神の根底にビッシリと根を張っており、それを下手に取り除けば自我が崩壊してしまうレベルだから外側からの治療はもはや不可能。
死ぬまで「子供の頃、俺にはとんでもない才能があったのに、努力が足りずにその才能を無駄にした」と言いながら現状を否定し続けるのである。
自分の人生がどこまで上手くいっても「俺の才能が完璧に活かせたらもっと成功した」と言い続ける絵に描いた餅の囚人である。
この3タイプ、どれもどうしようもなくしょーもないのだが、一応救われる方法はある。
それは自分の人生に対して無駄に高く見積もるのをやめ、その上でゼロから数えて自分の人生の価値について考えるだけでいいのである。
飯は食えてる。
家はある。
身体は動く。
ある程度自由。
とりあえず明日はくる。
そういったことに対して少し高めに加点していってやればあっという間に人生なんて「70点/100点」ぐらいにはなる。
その現状を「よっし!とりあえず70点あるならええやろ!俺にしちゃ立派や立派!」と言えばいいだけだ。
これは別に無理やりでいい。
筋トレ中に限界だと思っても無理して笑えば脳内麻薬で痛みが吹っ飛んでワンモアセット可能になると同じ状態だ。
無理やりでいいから「俺の人生70点ぐらいある!70点もあるんだから十分じゃないか!」と思え!
俺がそうだった。