はてなキーワード: 美少年とは
Vtuberがリアリティショーだ、いやリアリティショーではない、といった議論を最近見るのだが、個人的にはリアリティショーから業界の中では一番離れたところにあるものだと思っているので、かなり驚いている。
まず、YouTubeにしろニコニコ動画にしろ、アイドル系配信者に求められているのは結局顔である。Vtuberが登場する前から、顔出しせずにイラストを貼って、それを自分のアバターとしている配信者だって多かった。そのくらい顔が影響する。のし上がるのに一番必要なのはトークやゲームスキルではあるけれども、それはある程度のいい声と顔が揃った上での条件だ。
全くの顔出しなしで活動する、というのも今の時点では難しい。有名になってオフ会やイベントをするとなれば対面せざるを得なくなる。飛び抜けた美形とまではいかなくとも、人並み少し上くらいの顔は求められる。そういう世界だ。
とある人気の歌い手グループのメンバーは、大昔に流出した顔写真が今もリプライによく貼られている。彼がどんな発言をしても、「でもこの顔だよw」と何時迄もバカにされる。よくある話だ。
Vtuberではそれがない。昔に配信者をしていてVに転職した為に顔バレしている人たちもいるが、Vtuberとして活動をする上では顔を出さなくても活動ができる。とびきりの美少女/美少年になることができる。単なるトークスキルと歌唱力だけで活動することができる。
某ブログではもこうを比較対象に出していたが、全くのナンセンスだと思う。彼は芸能人で言えば芸人のジャンルに属する配信者であり、Vtuberはアイドルに属する配信者だ。彼に求められているのはリアクション芸やぶっ飛んだ発言であり、美声や美貌ではない。求められている力もファン層も全く異なる。
そして何より、Vtuberはキャラクターだ。絵師が描いたアバターに、声優が声を吹き込むことで生まれている。学級委員長や吸血鬼やお姫様や天使や魔女や錬金術師といった基本設定がある。配信で日常のことを話したとしても、それはそのキャラクターの背景として受け入れられる。二次創作にしたって、描かれるのはそのキャラクターだ。本人ではない。誹謗中傷を受けたとしても、相手は声優の声と切り取られた日常しか知らない。良くも悪くも、Vtuberはキャラクターの壁に守られている。
従来の配信者の方が、よほどリアリティショー的だ。顔と声を晒した上で、自分はこういう人間ですよ、と演じている。バーチャルの皮をかぶることで、むしろリアリティショーから離れているのだと思う。その上で日常を娯楽として消費することを批判するのなら、アイドル系配信者、しいては配信者全体を批判すべきだ。Vtuberだから現れた問題ではない。
思いついたことを書くだけ。
旧来のジャンプ的少年漫画の王道文法と呼ばれる要素の一つに、社会性のない獣のような主人公が成長して(ある程度は)人間的になっていくというものがある。ドラゴンボール、スラムダンク、キングダムとかチェンソーマンとか色々。約ネバもかな?
成長前の主人公がそういう風に書かれるのは、少なくとも文法成立の初期の頃は、子ども(クソガキ)のふるまいを誇張して描いていたからだと思う。
元はそういう子ども向けのコンテンツで、読者は主人公のふるまいや考え方に感情移入していた。
具体的な対象者は、まずは小学校低学年くらいの階級構造があやふやな時期の子ども全体。彼らの世界は上も下も決まってなくて、全員がわがままで、ボスザルになれる可能性を秘めている。
次に、小学校高学年くらいの、ボスザルに憧れることができるレベルの、ガキ大将文化圏の強者群。ここでナードや賢しらぶった子ども(=ガキ大将文化圏における弱者)はふるい落とされる。
中学校以降となると階層構造はどんどん細分化されていって、真の意味で感情移入できる人間はごく一部である。
その頃には二次性徴とか諸々により価値基準が変わってきて、ガキ大将主人公に感情移入できてる奴の方がやばいわけだが、それはここでは置いとく。
中学生以降になっても(むしろなったからこそ)そういうガキ大将主人公の漫画を楽しめるのは、他人事をフィクションとして楽しめるようになるからである。だから女子中学生もジャンプを楽しめるわけだ。
感情移入とはいかないまでも、まぁ話は面白いしいいか、ってなものである。
ところで、鬼滅関連の記事かTwitter投稿か何かで見たのだが、今の小学生はジャンプを読まないそうである。何を読んでいるのかというと、コロコロとかだそうだ。ジャンプは中学生のお兄さんやお姉さんが読む雑誌らしい。
個々の能力にもよるだろうが、小学生くらいだと感情移入できないと物語を楽しめない子が多いだろう。(感情移入がほとんど無くとも物語を楽しめる小学生は、漫画雑誌など読まなくても他のフィクションを楽しめるのだ)
つまり、今の小学生はジャンプの主人公に感情移入できないのである。
ジャンプの王道(やエロ)を楽しくありがたく読んでいるのは、中学生~中年のお兄さんやおっさんなのである。しかし、彼らも感情移入して読んでいるわけではない。(そういう人間もいるかもしれないが・・・)
ちなみに、ナードと賢しらぶったガキと女の子、お姉さん、おばさんは、名探偵コナンを読んだ。基本は頭脳戦である。コナンはアンチガキ大将な者たち(今やそちらの方が多数派である)を取り込んで覇権を取れたのだ。
また同時に、お姉さんやおばさん、爽やかな男子諸君はスポーツをやる作品を好んだ。乱暴ではないが、パワーが正義であり、勝ち負け目標がはっきりさせやすい。そういえばコナンもボールを蹴ることがある。
不幸なのは、スポーツものが今どきのほとんどの人間にとってファンタジーであることだ。とりあえず野球やろうぜってな時代ではないので、真っ当なターゲットは食指を伸ばさず、結果としてスポーツものは非公認ソフトBLとして扱われることになった。
ここで鬼滅である。
炭治郎(主人公)は作中で関わった人物のほぼ全員から愛され慕われている。
主人公が普通に頑張っていたらみんなにモテモテ、などというとまるでなろう小説のようだが、炭治郎は精神性も行動も実に真っ当であり、納得感があるのだ。
炭治郎は無知な田舎者だが(そこが"王道でありながら"と言われる所以かもしれない)普通の社会性はあって、道徳面では模範的とすら言える。人として備えているべき慈愛に満ち、努力家で、真面目ながら寛容。
彼は人間としてシンプルに魅力的で、そばにいてほしいタイプなのである。
不思議なことに、フィクション(特に少年漫画)において最初から人間として魅力的な主人公というのは中々いない。なぜか。
主人公はどこかしらに問題を抱えていて(社会常識がないとか非モテであるとか)、それを解消していくことが成長であると、文法によって決められたからだ。漫画ではなくとも、物語というのはそういうものである。
良い映画の主題は「自分は何者なのか」という問いかけに収束すると何かで読んだ。これは人々が普遍的に感じている(感情移入できる)哲学的な命題であって、映画の中では様々なドラマを経て主人公なりに「自分は何者なのか」という答えを見いだす。
それに依ると、鬼滅にこの主題はほぼ存在しない。主人公の家に伝わる教えによる未知の能力というフックは途中に入るものの、その話題は全く重視されていない。
炭治郎は、そんな大げさな悩みを持ったりしない。「俺はこんなものだ」と割り切って「自分にできることを真面目にやろう」なんて考えている。目的は常に「妹を人間に戻すこと」という、哲学的でも何でも無い現実的な物でしかない。
インターネットの影響は大きい。宣伝だとかバズだとかの話ではなく、インターネットが人々に与えた影響だ。
今やネットによって全世界基準で自分の順位のようなものが何となく分かってしまうようになった。自分より強い奴は山ほどいて、社会に向かって怨嗟の声を垂れ流している情けない大人もいっぱいいる。
「自分は何者なのか」が主題として機能しなくなってしまった。「俺はこんなものだ」と思わざるを得ない社会なのだ。
今の子ども達にとって、どうあがいても未来は暗いのだ。それがもう嫌と言うほど目に見える今の世界で、獣が人間になり大望を成し遂げるというフィクションはファンタジーに過ぎるのである。
一方で、目標に向かって自分ができるだけのことを精一杯やっている炭治郎の愚直さは真似できそうである。そして、作中ではその姿がひねくれた大人(柱)たちを無言のうちに説き伏せ、主人公を応援する側にシフトチェンジさせる。
今の時代、大人も子どももみんな人間関係に疲れている。努力が報われ、ついでに周辺環境を居心地良く改善していく姿は誰にとっても魅力的に映るだろう。
慈愛に満ち、努力家で、真面目で、他者に寛容な人間というのは、既存の作品では大体理不尽な目にあってきた。
それがモブであれば理不尽に死ぬ役だし、ネームドであればトラウマを負って冷笑系とか陰のあるタイプになった。それらの作品の主人公はわがままであり、理不尽に負けない強い者であって、慈愛や寛容は弱さであった。
炭治郎は、物語の最初の最初に理不尽な目にあって復讐を誓うわけだが、それでも慈愛と寛容、真面目さを失うことはなかった。むしろ、それしか持っていないと自分で言っている。
炭治郎の師匠たる鱗滝さんは、初見の炭治郎のことを評して「こいつは優しすぎてジャンプ主人公にはなれない」というようなことを言っている。(曲解ではないと思う)
その鱗滝さんの薫陶を受けた最も優秀な弟子であるところの錆兎は、炭治郎とは真逆で非常にマッチョなジャンプ主人公思考である。「男なら死ぬ気でやれ!優しさなど不要!」みたいな感じのことを言いながら急に殴りかかってくる。
炭治郎はその錆兎に努力の上で勝利して修行編は終わり、かくして時代に即した新タイプの主人公が生まれたのである。
彼は修行の後の最初の試練で打ち潮(修行によって身につけた特殊な技)を繰り出し、「俺にもできた。修行は無駄じゃなかった」と涙する。いい話である。
アニメ派の人にはネタバレになって申し訳ないのだが、錆兎が死んだ理由は他者を生かすためであった。古い主人公時空に生きる錆兎は、慈愛と優しさを持っていたが故に理不尽な死を遂げたネームドキャラだったのである。
鬼滅が女性人気を得たのもむべなるかな。
自分の子どもでも彼氏でも旦那でも父親でも、乱暴で直情的な猿よりも真面目で優しい男の方がいい。(比較論である。個人の趣味は置いておく)
男は猿だった時代を楽しむこともできるわけだが(何なら郷愁を感じもする)、ほとんどの女の子は猿に迷惑をかけられたことしかないだろう。なお、一応言っておくとワイルド系とかオラオラ系と猿は違う存在である。
旧来の主人公的な存在といえば、伊之助はまさにソレである。どうやって感情移入するんだと思うかもしれないが、たぶん昔の子どもは彼に感情移入できていたのだ。
実際、伊之助はサブキャラとして一つの人気を確立している。普遍的な人間的成長のカタルシスを端々で見せるからである。ほわほわ
ただし、伊之助には旧主人公的でないところもある。それは顔が良いことである。
伊之助は全く以て迷惑で嫌われ者の要素しかないキャラなのだが、顔の良さがギャップになるのか、女性人気が結構高い。実際、アニメの実況では14話で顔が出た瞬間に手のひらを返して興味を持ち始めた人を結構見かけた。
顔がいいだけの生意気なガキが、成長して徐々に素直になっていくのである。そりゃ人気もでる。
一方で、旧来の猿型主人公というのは特段美少年だったりはしない。たぶん、見た目は本質的な魅力ではないという思想があるんだろう。男はロマンチストなのである。
炭治郎は今のネット時代に即して「自己を保ち、できることから愚直に始めなさい」と示した。そうすれば、今の自分なりに良いところまでいけるはずだし、周辺環境をよくできる(かもしれない)というわけだ。
元々時代に即しておらずいびつだった"王道"にメスを入れて見事解体して見せた鬼滅であるが、果たして続く作品は出てくるだろうか。
視野が広くなったが故に個人レベルではむしろ可能性が閉塞されたネット時代である。この時代に生きる子ども達に未来への希望を与える作品が現れれば良いと思う。
ウリにされている話をしていたので、
と思ってた。
その時のイメージは、
ただそれだけだった。
なので良い意味で期待裏切られた。
てっきりシェフ服の上から筋肉が盛り上がってるじゃないかと心配だったんだけど
漫画の読みすぎだったみたい。
何よりぼさぼさの長髪がすごいよかった。
非常に整った濃ゆいお顔なので、髪の毛が影になって
髪を1つにくくるシーンにどきっとした。
よく男性が、女性が髪をかきあげたり、髪をアップにしてうなじがいいと
やー納得しました。
そしてマッチがすごく苦手なのですが、服を脱がない限り
シェフに骨抜きにされました。
で早速インスタに飛んで、ムキムキの美ボディに玉砕。
でも、どうしても怖い。
お顔が整っているので余計に怖い。
マッチョ好きの女性はたまんないだろうけども、母親が愛読していた
萩尾望都の美少年漫画を子供の頃から読んでいたので、ただただ男臭さが怖い。
昔は、男のすね毛も許せなかったけども、大人になって
幻想は捨てた。
ただやっぱりいまだに、男の裸もマッチョボディーも苦手なんだよ。
ともあれ来週も楽しみです。
違うようだけど、これはこれでアリ。
いちごちゃんの探偵への恋愛感情は原作にもないしいらなかった気もするけど
それにその設定がないと、ただのうるさい女の子になっちゃうからなあ。
ありがと