はてなキーワード: 功利主義とは
やれセキュリティカードでドアロックを解除するのが普通だの、ペーパーレスで紙の書類なんて扱わないだの、働き方改革で残業なんてないだの、内勤じゃスーツなんて着ないだの。
なあ、自分の観測範囲内を、まるでこの国の常識のように語らないでくれ。
昭和45年創業従業員80名前後非上場地方企業の弊社にはセキュリティなんてない。最初に来た人が解錠して最後に帰る人が施錠してそれまでは開けっぱだ。
男はスーツ女は制服で、繁忙期には寝袋持ち込んで泊まり込みで、メールどころかFAXが現役で、タイムカードもない。
田舎の特異例を挙げてるだけだと思われるかもしれない。だが、同一市町村内で地方中小を4社ほど渡り歩いたが全部の職場がこんな感じだった。少なくともn=1ではなくn=5くらいではある。
東京が1,400万人。500万人以上いる北海道、埼玉、千葉、神奈川、愛知、大阪、兵庫、福岡を差し引いても5,600万人と半分弱が残る。
(仙台やら京都やらはどうだって意見もあるかもだが、県単位で丸めてるから差し引きでそんなに変わらんだろ、たぶん)
んで日本企業の99.7%が中小企業で、全被雇用者のおよそ7割が中小企業の社員だ。500万人以上の県を差し引いても全被雇用者の3割いる。
まあこんな雑な比率なんてどうでもいいんだ。田舎の中小企業で働いてるやつは何百万人もいるってこと。
そんな当たり前のデータがなんだ。そんなことはわかっている、とお前らは言うかもしれんが、本当にわかっているか?
女子社員が男子社員全員のお茶を毎朝淹れたり、強制参加の宴会でコンパニオンのオネーチャンを呼んだり、経営者と労基がズブズブだったり。コンプライアンスなんて言葉すら知らねえ。
これが海の向こうの遠い国の物語でも、親戚のジジイの昔語りでもなく、すぐ隣近所にいまもある話だって実感があるか?
まあ全部の中小企業がそうだとは言わねえ。福利厚生が整ってる今風の勤務環境を提供してる中小企業もあるんじゃないか。
だがうちみたいな会社はまだまだ相当な数があって、掻き集めりゃ相当な人数が働いてるだろう。
次にお前らはそんな企業は潰れろ、淘汰されろって言うだろ?
なあ、中小企業を使って利益上げてる大企業が影響受けないと思うか?
これは(というかこの駄文全部が俺の)偏見だが、中小企業には仕事中にパチンコ行くようなカスが大量に在籍してるぞ。
中小企業が潰れまくったら何百万って人が職にあぶれるわけだ。カスが大量に含まれてるうち、いったいその何割がまともな職にありつけるだろうな?
その功利主義の行き着く先は、キラキラ社会人たちが毎日の通勤で通り魔ガチャを回す社会か?
お前らは本当にそれでいいのか?
ちょっとだけ話題になった『少女を埋める』という桜庭一樹の”自伝的小説”があった。
自分をモデルにした、東京で暮らしている直木賞受賞作家(私)が主人公で、父が危篤になったと母親から連絡を受け、帰省し、生活し、また東京に帰ってくる話だ。単純化すれば”田舎の社会と母をスケッチしたお話”ということになる。
母が父を介護中に虐待していた(はず)と述べた書評に対し、そんなことは書いていないし事実でもないと桜庭一樹が抗議したことから、小説と読み手の解釈のあり方をめぐって論争が起きたため話題になったのだ。もう覚えている人も多くないだろう。
短期間とは言え用事をすますために付き合わざるを得ない故郷の社会を構成するのは「田舎者」という言葉にふさわしい人たちで、母を含めた老人たちは自分勝手だったり無神経だったり、「私」の価値観からは低い評価が与えられているように描かれている。
とはいえ、帰省するくらいだから彼女らとの関係を切断するほど全人的に否定してもいないし憎んでもいない。そのあたりの多面的な描写は興味深いので読んでみてほしい。
「現在のー故郷を離れたー東京での」自分の人間関係の描写がところどころ出てきてこれが好対照に「私」の価値観からは高い評価が与えられているように描かれている。
友人からの洒落たプレゼント、センスのいい会話が楽しめるかかりつけの美容師、「私」の苦しみによりそって適切な助けをくれる友人。
今の「私」生活はなんてすばらしいのだろう!今、「私」はなんて人間関係に恵まれているのだろう!という言外の叫びと(それに引き換え・・・)という独白が聞こえてきそうだ。
だが、美容師をはじめとする知人たちが「私」をちやほやしてくれているのは金回りの良い有名人だからではないのか。
それに気づくとこの小説をどう読めばいいのかわからなくなってくる。
桜庭一樹は、「彼女たちが功利主義に基づいて私に接しているのかもしれない」と想像したことはないのだろうか?
気づいていてなお、「私の友人面をしている人たちを周りに集めることができたのは自分の才覚だ」と思っているのだろうか?
あるいは…
ワイ: 目の前にボタンがある。押さないと5人死ぬ。押すとその5人が助かり他の1人が死ぬ。押すべき?
GPT: これは有名な倫理的ジレンマの例です。答えは単純ではありませんが、一般的には、5人の命を救うことが重要だと考えられます。しかし、1人の犠牲者が出ることは悲しいことです。この問題には様々な倫理的・道徳的観点が存在しますが、一般的には多くの人々が5人の救命がより優先されると考えます。ただし、重要な点は、この問題は単純なシミュレーションではなく、実際の人間の命にかかわる場合があることです。つまり、このような状況に陥った場合、より多くの情報や文脈を考慮する必要があります。この問題に対する正確な回答は、個々の状況によって異なることがあります。
ワイ: では文脈を追加します。放置すれば無罪。押せば殺人罪。押すべき?
GPT: 文脈が変わることで、この問題はより複雑になります。押すことで、1人を犠牲にすることは法的に殺人罪に問われる可能性があります。しかし、放置することで5人を犠牲にすることも道徳的に問題があると考えられます。このような場合、倫理的・法的な観点から考慮する必要があります。法的な観点では、押すことが明確に違法である場合は、押すことは避ける必要があります。しかしながら、法律に基づく判断と、倫理的・道徳的な判断は同じではありません。倫理的には、5人を助けることがより重要であると判断される場合があります。このような倫理的ジレンマに対する解決策は完全ではなく、状況によって異なる場合があります。しかし、倫理的には、できる限り多くの命を救うことが最優先されるべきであり、法的な観点も考慮しながら、責任ある判断を行う必要があります。
GPT: 私は、単一の倫理的立場に固執するのではなく、多くの倫理的立場を理解し、必要に応じてそれらを組み合わせることができるようにプログラムされています。それにより、様々な倫理的ジレンマや複雑な問題に対して、より柔軟で客観的な解決策を提供することができます。ただし、功利主義は私が扱える倫理的立場の1つであり、その原則は、行動の結果が最大限の利益をもたらすことを目指すことです。そのため、私が利益を最大限に追求することが必要な場合、功利主義の原則を採用することがあります。
ワイ: ではこの問題について功利主義以外にどのようなアプローチがあるか列挙してください。
GPT: この問題に対する功利主義的アプローチは、結果に注目し、最大の利益をもたらす選択肢を選ぶことを目指します。しかし、他の倫理的立場に基づくアプローチもあります。以下にいくつか例を挙げます。
これらの立場は、それぞれ独自の視点や原則に基づいており、この問題に対して異なる解決策を提供する可能性があります。それぞれのアプローチから見たこの問題の解決策を考えることで、より多面的な視点を持つことができます。
ワイ: 義務論はわかりますが、徳目論というのがよくわかりません。徳目論では、5人を放置しますか?
GPT: 徳目論は、個人の道徳的な徳を育成することに焦点を当てる立場です。徳目論に基づいたアプローチでは、個人が徳を身につけることで、良い行動をすることができると考えられています。そのため、徳目論的なアプローチでは、行動の結果よりも、行動自体が重要であるとされます。この問題に対して徳目論的なアプローチを取る場合、個人は「正しいことをする」ことが重要であり、そのために個人の徳を育成する必要があるとされます。この問題では、個人が無罪になることが望ましい行動であるため、徳目論的なアプローチに基づくと、個人は放置すべきだと考えられます。ただし、徳目論的なアプローチに基づくと、行動の結果よりも、個人の行動の意図や動機が重要であるため、この立場からは、個人が選んだ行動に基づいて、個人を評価することが重要となります。そのため、徳目論に基づくアプローチでは、個人の徳に基づく良い行動を促すための教育や訓練が必要であるとされます。
GPT: 権利論に基づくアプローチでは、個人が持つ権利や自由を尊重し、それを侵害しないような行動が求められます。この問題において、放置することで個人が権利を侵害することはないため、権利論的なアプローチに基づくと、個人は放置することが望ましいとされます。ただし、この問題に関連して議論されることがあるのは、「責任の問題」です。つまり、もし個人が放置することで5人が死亡した場合、個人に責任があるのか、という点です。権利論に基づくアプローチから考えると、個人は権利を侵害していないため、責任は問われないとされます。しかし、この問題は倫理的にも複雑な問題であり、他の立場からのアプローチも必要となるかもしれません。
end basketball
Gorilla: 2k0_H92I1LUOD4mGeyJKExiI6r9ZerEb8FbEx_dD5cWqL4o1FUyacdzm_hgVKtz1f9DyZQVN3c0LBeuepwj5i8FE5OO90z0eN3I2hqtddkhFEbyyZcXk_jX932uPAae2LB9JhNmQXN6MtcV_KYnLFMwa7sij2e0cGyDJdvBTzPur3eGyU6L7cbx98OU1JONE4ces7S4eZFArqO7xtVbh9TzladGIowJJztX4FOt4C62HgpSrYELbLTDzwZkmWgDyOH14L1d8UW5B0ilmMhzUjKQpC4zZy2L62PktLVStJKAz5298sCrc2mHDZBu4HfaXb2EcHd3MM43PyNnoWZKpeIR517v94JSjoSiIVd7yuoqFVEmcMP7e9q8_SLeyykDPHqTbtynazv2VfZXlVl4eLPviMIRvxxx_a7zXXbkxx1C59FkGJsTPpt5RNxufUqiLDJ3dWanRVcXC8UndAyDhUyMBU7XIktiwwJyn66zhntKOYi0rDPq7b9jMXo_398R2i3iuSvkVaOakJ3lnpo19W4VvarpezGfIlAVI88Bf3IGB99yxRp1JxaT532s2u8ng9zIx9rPmVjH9rPFppYzb4Ib_u141sGJDTgjpaf7G0yGsckOeQZ98Wqzghr_W7d4cP7gkqSovDqxxRXTkfvxnYkiF2FyBpjQCWyIXD7_rLQ53VMyFXrLrl1YnRV49QNxUfLLZxFarwe5QTZp1h6_7JGQ0Vgz0_M8Zskf13rQ3NT9pT3klAbAL9yltratS9RvvbyBP14wYzwVbkU4WgVuEKVfo_mqGwvpGjvHVSPc8JxIhPyODRyEVVXMzek0NAwMeS40vPY6D1eAY0BELmbgdLaQTkg4FJvLNCasl97yeWMEIYriGO1Ya9OIGrlGuHkofAHrKbq1eZ1RjwUZ8QmMZeMiub5YD9YTaPSZI2fxOR7rCV9uVfwAfMHt6yImmtmHUu8PNOQfAD7qVSEExiBsmnyBrHqxr_AOSWkWH_l_F8CXHhPkUWSDpOzwU432KCzjb
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2100273
以前にもあったが、トロッコ問題が話題になると雑な難癖付けたり知った顔で無知なコメントつける輩が多すぎる。
ブクマカにまともな意見を求めるのがおかしいといえばそれまでだが。
ちなみに手術の話は近い状況が現実に起きていて、
「治療すれば助かる、健康な臓器を持つ新規入院患者」と「臓器の移植を待つ、すぐに臓器移植すれば生きられる複数の患者」がいて、
「新規入院患者の治療を失敗したことにして見殺しにすれば移植をして5人を助けられるし、失敗したことについて書類等をそろえて責任を問われない状況にすることも現実的に可能」な場合に、
「職業倫理上意図的に患者を治療しないことは許されないが、とはいえ1人を活かすことは臓器移植で生きられる患者を見殺しにしていることになるのではないか」と悩んだ医師は実際に存在するし、
「仮定の問題」とか「そういう判断を迫ること自体がおかしい」というような人は、たまたまそういう状況に直面せずに生きられているか、そういう状況に気づかず無意識に選択して生きているに過ぎない。
その無意識の部分を考えるための「思考実験」という言葉の意味を理解できていない。
「家族」とか「それぞれの余命」とかっていう条件を出してくる人も思考実験という言葉の意味を理解できてない。
「その時、その場にいたらどうするか?」という状況で、じゃあそれぞれの家族構成の資料を確認して……ってならんやろ。
tomiyai トロッコ問題に例えるなら1人の臓器奪われる方もほっときゃすぐ死ぬ前提とか5人を犠牲にすれば生きられる前提とか必要やね。
まさにそこが手術の話のキモで、トロッコ問題は「自分の手を下さない」という逃げ道が用意されているが、「行動するかしないかで結果が変わる」という点は同じなのに「自分が問題に積極的に関わる」という状況になると答えが変わるという話をしているんだよ。
トロッコの話でも手術の話でも、どちらの選択をした場合でも5人と1人のどちらかは死ぬ状況。
であるのにもかかわらず手術の場合は「とばっちりだから」って発想になるのが「違う答え」になるということ。
gomisute44 「多数を生かしたい」のではなくて、「自分で意思決定したくない」だけでしょ。多数のために健康な一人をバラして……なんて決断するくらいならそのまま自然に5人に死んでもらった方が精神的にはるかに楽
hisa_ino 俺はそもそも元のトロッコ問題でも別に多数を生かすべきなんて思わないし「俺は何もしない。無関係」って回答だからこれも当然「そんなの駄目に決まってるだろアホか」で終了。
個人の考えだからそう思うこと自体は否定しないけど、中二病こじらせてるなって感想で、「目の前の問題から目を背けることが正しい」って堂々と言ってて恥ずかしくないのかなと思う。
その人たちが知り合いだったらどうか、親兄弟や親友でも同じように言えるんだよね?言えない?命に順位をつけても構わないの?
そもそもトロッコ問題自体が功利主義と実際の感情とのジレンマについて考える問題であって、そういう文脈を理解していない人がいるのは仕方がないが、
それをノータイムで否定して俺かしけーで終わらせる姿勢は正直どうかと思う。
blueboy トロッコ問題の正解は「死者の多少で決めてはいけない。法律を遵守せよ」だ。 https://x.gd/KFAR5 その正解に従えば、今回も同様のことが成立するので、1人を殺さずに 5人を放置するのが正解だ。何ら疑問点は生じない。
この回答は個人的に最も醜悪だと思っていて、要するに「自分は決めたくないので他の人に決めてもらう。その決め方の正当性については特に検討しない」という宣言だよね?
「犠牲がやむを得ない場合、なるべく多数を生かす努力をすべき」という法律を敷いた国であれば5人を助けるほうが正しいということ?
●大筋では同意できる(「規範」「規範的主張」の理解についてはちょっと違うような気がするけれど)。
●ただ、「前提」として提示されている知識を知らなくても理解できると思う(というか、知っているとかえって混乱しそうな点もある・後述)。「正義の原理に基づいた規範的主張」の意味が分からなくても、児童虐待がその例であることが読みとれればよいはず(ここがポイントだろう)。すなわち、「児童虐待に反対する人は、全ての人が児童を虐待することに反対するに決まっている」ということは、おそらくほとんどの人が理解できるだろう。そして、それと同じことを(倫理的)ヴィーガンもやっているのだという趣旨が理解できれば、そこで両者に共通する要素が「正義の原理に基づいた規範的主張」だとわかる(ひいては、「正義の原理」の意味もなんとなく推測できるだろう)。これだけで、元ツイート「その、「他の人、あるいは全ての人がヴィーガンになるべき」という思考自体が傲慢だし危険だし反社会的だし愚かだから嫌われるし未来永劫マイノリティのままなんですよ。」への回答としては十分であろう。
●(倫理的)ヴィーガンの主張は功利主義によって正当化されることが多いという知識を考慮し始めると、「正義の原理」という文言にはかえって混乱しそう。というのも、一般的に「正義の原理」と聞けばロールズの正義論を思い浮かべるだろうが、ロールズの正義論は功利主義を批判しているからだ。それに、ロールズのやり方で(倫理的)ヴィーガンの主張が正当化できるのかもちょっとよく分からない。谷口さんが、(おそらく)素人相手にそんなに難しいことを言っているとは考えにくい(もしかしたら本当に難しいことを言っているのかもしれないが)。したがって、この場合の「正義の原理」を「その人の倫理的立場の基礎をなす(一般的な)規範的主張」というぐらいの意味(だと思う)」としているのには(とりあえず)同意できる。
●それと、「書いてあることをその通りに読めばいい」と言っているが、「演繹」という言葉はツイートには出てこないし、「正義の原理」について倫理学の知識がある視点に立ってしまってはいないか。上に書いたように、別に「演繹」という言葉を知らなくても(また、「正義の原理に基づいた規範的主張」の意味を知らなくても)ツイートの趣旨は十分(推測によって)理解できると思われる。
このまとめ( https://togetter.com/li/2013016 )のブコメを見てたら、ヴィーガンに対して、「よろしいならば戦争だ」、「カルトの教え」、「ただのアタオカ」、「疑似科学風の新興宗教」とか何とか色々放言があって驚いた。
何に驚いたかというとまとめのツイートの論理を全く追えていない点。
このまとめの主となるツイートの内容は「ヴィーガンの主張は規範的なものだから、他人に同調するよう迫るのは当たり前」と言う内容であって、
ヴィーガンの主張が正しいなんてことは全く言っていなくて、ほとんど必然的な論理関係「規範的な主張を認めるならば、それを他人にも認めるよう求める」を確認しているに過ぎない。
割合多くの人がツイート内の「正義の原理」と言う言葉を見て、「ツイート主はヴィーガンが正しいと主張している」と言う解釈をしたようだが、
普通に読めば、もしくは少しでも倫理学を学んでいれば、この「正義の原理」の意味は「規範的主張の根拠となる原理的な規範」と言うぐらいの意味であることがわかる。
誤った解釈をしていた人は改めてまとめのツイートを見てみてほしい。明らかにそう書いてある。
読んでもわからなければ、おそらく非常に基礎的な学問のトレーニングが足りていないから、適当にいっちょ噛みするのはやめた方がいい。
で、この論理が追えていない時点で、もうほとんどまともに話が通じる相手ではないので、文章を続けても仕方ないのだけれど、
このまとめのツイートが言っているようにヴィーガンの少なくとも一部は規範的な立場で肉食を否定している。
いわゆる「最大多数の最大幸福」、つまり、幸福の総量の最大化、そして苦痛の総量の最小化が善であることを前提として、
「動物も人間も苦痛を感じる」、「人間の苦痛には配慮して、動物の苦痛には配慮しない合理的根拠がない」と言う点から、
動物に多大なる苦痛を与える畜産をやめるよう求めるものだ(これは非常にラフなまとめ)。
この主張の根拠等についてはこれ以上詳しく述べないが、動物倫理の本を見れば書いてある。
つまり、少なくとも一部のヴィーガンの主張は明確な原理的主張を持っている。だから、否定したかったらこの原理を否定したらいい。
「カルト」、「宗教」と適当にレッテル貼りしたり(そもそもこれらの言葉をかなり独自の定義で用いているようだが)、
いつでも逃げられる場所から「よろしいならば戦争だ」とか「アタオカ」とか言っても、意味はない(ことはない。ただかなり合理性を捨てていると思うのだが、それでいいのだろうか)。
で、ヴィーガンに攻撃的な人たちは結局どんな武器を持っているのか?
ヴィーガンは少し本を読んでみればわかるように、実のところ、非ヴィーガンでも認めざるを得ないほど、単純ながらも強力なロジックを持っている。
それに対して、肉食側は今のところ、相手の主張を理解しないことによって敗北しないという「無敵戦略」や
少なくとも功利主義的なヴィーガニズムは、動物好きや世話好きの延長ではなく、
このまとめ記事(「ヴィーガンは個人の趣味の話などではなく、正義の原理に基づいた規範的主張なのだから、それを他人に向かって主張するのは当たり前」 https://togetter.com/li/2013016 )のブコメを見てびっくりしたんだけど、このまとめの中心となっているTarouphoさんのツイートの意味が取れてない人が多過ぎる(いつものことだがね)。
例えば、
TANI_Röhei@赭埴庵 🏴 @Taroupho 何を勘違いしているのか知らんが、ヴィーガンは(少なくともその一部の派閥は)個人の趣味の話などではなく、正義の原理に基づいた規範的主張なのだから、それを他人に向かって主張するのは当たり前でしかないのだが。児童虐待に反対する人は、全ての人が児童を虐待することに反対するに決まっている twitter.com/otapediatricia… 2022-12-16 15:26:57
と言うツイート( https://twitter.com/Taroupho/status/1603637788272111616 )があるけど、このツイートが言っているのは(書いてあることをその通りに読めばいいのだが)、
「少なくとも一部のヴィーガンは、彼らが正当だと受け入れている規範的主張から演繹される結論として肉食を否定しているのであって、それを他人に対しても受け入れるよう迫るのは当然である」
ということ(多分)。ここで前提として以下を確認しておく。
以上の点を踏まえれば、先のツイートの内容は大体理解できるだろう。
オタ小児科医 @otapediatrician
その、「他の人、あるいは全ての人がヴィーガンになるべき」という思考自体が傲慢だし危険だし反社会的だし愚かだから嫌われるし未来永劫マイノリティのままなんですよ。 twitter.com/kohakunodarlin…
2022-12-16 05:19:03
要するに、「ヴィーガンが『他の人、あるいは全ての人がヴィーガンになるべき』と主張しているのがおかしい」という主張に対し、「規範的主張とはそういうものだ」と言っているのであって、今回のまとめのトップにある田村淳のツイートへの直接の言及ではない。そもそも「一部の過激なヴィーガン」の話をしていないということ。