はてなキーワード: 世俗とは
ボヘミアンラプソディは見ていない。
かといって嫌いでもない。興味がないのだ。
興味がない人間がわざわざクィーンの映画を見てもしょうがないと思ってるから見ない。
なので映画自体は見てないのだが、ボヘミアンラプソディーを見て褒めてる人を見ると嫌な予感がするのだ。
どういう予感かというと、昔流行った音楽映画アマデウスを褒めていた人間に感じるのと同じ下品な感性である。
知らない人のために説明しとくと、アマデウスとはモーツァルトとサリエリの映画である。
音楽家として世俗の成功は納めたが凡人のサリエリが、天才モーツァルトの才能に嫉妬し、
まるでゴシップ週刊誌のような筋書きである。しかし昔これがヒットしてしまったのだ。
こうしたゴシップ趣味のフックで引っ掛けていくしかないのが悲しい現実である。
さて、ボヘミアンラプソディーだが、どうも感動したとか言ってる人の感想を見たり聞いたりしてみると、
ソローキンのみならず、20世紀以降のロシア文学は、19世紀のパロディであるといっても過言ではないと思う。
そもそも、ロシア文学においては大元のプーシキンが西欧のパロディをやっている。というよりも、プーシキンを読んでその背後にある西欧を読み取るのが正しい読み方。
プーシキンのすごいところは、パロディや翻案でありながらオリジナルを凌駕しているところ。
オネーギンなんかもジュコフスキーからの引用が多く見られる。また、本来韻文においてはヒロイックなテーマが選択されるという常識を破り、世俗的な恋愛を描くというメチャクチャ実験的な小説だったということも補足します。
つまり、ソローキンはなんら実験的なことをしているわけではなくロシア文学の定石をやってるだけで、なんら評価されるべき手法を用いているとは思えません。
彼の新しい点としては、単なる下ネタを文学に偽装して増田みたいな人にありがたがらせたということかな。
ロシア語読めればわかるけど、彼のスタイルは19世紀的で一見すると伝統的な文学に読めてしまうんですよ。
確かにその点は新しいと思うけれど、それが優れているのかはビミョーです。
ロシアの諺に、背広を裏返して着ることは新しいけれど、それはすでに衣装の体をなしていないというのがあるけど、まさにそれだと思いますね。
一般的に無敵の人という単語から連想される枠組みからは外れているが、実際には高学歴の無敵の人予備軍、及び実質的な無敵の人はかなり多い。というか、知り合い見てると高学歴な人間ほど多い。自分なんかより遥かに学歴の高い人が特にそういう傾向にある。
少なくとも自分の知る高学歴の無敵の人予備軍全員に共通しているのは、アカデミアや学問に病的な関心があって、かつそれで食っていけなかったか、食っていけそうにないという点だ。
ましてやイスラム文明なんか専攻してたくらいだから、まともに働くことに耐えきれなくなって、世俗の事なんて全てどうでもよくなっていて、彼の脳内ではもう無価値だったという意味では失うものは何もなかった、無敵の人予備軍だったということなのではないだろうか。
仮にそうだとしたら、そういう人間が殺人を犯す前に最後にした事がはてな村なんて場所での大暴れというのは、凄く悲しい話に思えるが、まぁ知り合いも酒に逃げたりしているので似たようなものかもしれない。
私はどのような人間になりたいのだろう。
学問にばかり興味があり、それにのみ没頭するのは何だかつまらないように感じる。
自分のことを、何かの啓発本に載っているような「目的をもち人生の充足を感じる人間」に落とし込むのは嫌な気がした。
それは、いわゆる青臭さであり、第何次かのイヤイヤ期であるのかもしれない。
何回イヤイヤ期を経れば私は幼子から大人へと進化するのだろう。
万物に秀でたいのか。
そのためには、全てにおいて人より上でなければならないのか。
あれでは勝てないけど、自分にはこれがあるからいい、とは思えないのか。
自分は嫌に幼い。
そのくせ妙に大人ぶる。
賢そうに振る舞おうとする。
それが無様だ。
しかし、周りに賢いだの秀でているだの思われるのが常であるような気になっている。
実際今まではそうだった。
周りの方が圧倒的にレベルが高い。
生半可、半分もないだろうと思うほどの気持ちと、かけらもない努力の量で、学者になりたいなどとほざく。
そのことへの罪悪感。
切迫感。
学者になりたいという人間は、皆勉強が好きで、得意で、積極的に動けて、自分はこれが得意というある程度の自負があり、しかし自負が誇大にならぬよう、常に自分がその分野ではどこに立っているのかを弁えている。
本当か?
と、思っているからこのざまだ。
義務だの破棄だのしているから、ないように思ってがんじがらめだ。
背伸びした速度では、何も身に付かず結局遠回りだ。
一冊でいい。一章でいい。
本を読み進めるべきだ。
音楽聴いてもいい、途中で休憩して遊んでもいい。
結局自分に課しているのは自分で、責めているのも自分で、脅しているのも自分でしかない。
誰もお前に正しいことは教えてくれない。
これもまた、やる気になるおまじない程度で、自分の期待を裏切るのかもしれない。
それでも進まなくては。
進むことであり、伸ばすことはついてくることだ。
才能などないかもしれない。
それを神様が選んだだの、自分は特別な人間だだの言うのは、いい加減やめてしまえ。
結果だ。お前の考える物語は、見てきた物語は、後付けの、それの説明でしかないんだ。
そう思うしかない。
https://wirelesswire.jp/2018/01/63045/
それでも出生率が増加する理由は、二つ考えられる。一つ目は、ユダヤ人は子孫繁栄してゆく家族を築くことをとても重視しており、家族が仕事よりずっと大切だと考える人が多いことである。
二つ目は政治的な理由である。イスラエルは民主国家であり、現在二十数%のイスラエル・アラブ人口が過半数を超えればユダヤ人国家ではなくイスラム国家となってしまう。したがって、たとえ世俗派のイスラエル人であってもユダヤ人口増加率がアラブ人口増加率を上回らない限り、ユダヤ人国家は存続できないという恐怖観念を抱えているという。
とある。
世俗の人たちは聞こえるか聞こえないかの音量の声でお互いに悪口を言い合っているようです
その時私には怒りが生じますが、無我と言い聞かせることで忍耐、つまり冷静であろうとしています
大体同じことを世間様に申し上げるのです
「私を嫌う世間の皆様が幸せでありますように。私に悪口を言いたければ言ってください。ただし私はお付き合いいたしません。皆様が幸せでありますように」と
昨日駅のプラットフォームであまりに悪口を言われたので大声でこのことをお伝えしました
ありとあらゆる機会で悪口を言われるというのは
具体的にどういう事かと申し上げますと
数年ぶりに行った眼医者で処方された目薬を受け取るために薬局に立ち寄った際
そこでの薬剤師が笑顔で応対してくれながら「出たなこのボンクラめ」「これだけ言うのにまだ黙っているか」とおっしゃってました
数年前の私はおそらく無自覚にこの方を不愉快にしていたのでしょう
買い物に行くため原付を運転時、信号待ちで左端で待機した時、道路中央で先に待っていた中型バイクに並ぶ形になった際
青信号でバイクが発進時に「殺すぞ、クソ」とおっしゃっていました
後から来た私が並んだのがこの方は気に入らなかったのかもしれません
あとこれは女性の方、若い方に多いですが電車に乗り込むと「気持ち悪い」「消えろ」とおっしゃっていました
悪を為さず善行を積むという生き方は私には生意気だと世間の方は非難したいようです
我々は世間の厳しさの中(悪口を言い合い苦しめ苦しめられる世界)で必死に生きているのに
お前は大した社会貢献もせずに楽に生きようとしていると
ずるいというのが世間の方々の言わんとしていることのようです
何の不安や苦痛もなく出かけ行動できるのが当たり前だと思っていました
ですがそれは恵まれた子どもが甘受できる特権のようなもので実際は今体感しているのが現実の姿なのかもしれません
私はとても恵まれていたのでその特権が子どもを過ぎた年齢になっても与えられていた、言い方を変えれば甘やかされ、守られていたと考えられます
大人と呼べる年になっても制約なく、つまり悪口を言われることなく行動できる人間は、世間に染まり悪口を言い言われる輪に参加しているタイプか、悪口を言わせないだけの貢献をしているタイプか暴力を盾に自身を守っているタイプなんでしょう
1番目と3番目は耐えられません
そして2番目は私がそうあろうと精進したところで彼らは認めません
私の結末がどうなるかは分かりませんが、現実的に考えて現状のまま生きながらえるか私が世間に屈して悪口に身を落とすか、絶望して自殺するかのどれかなんだと思います
別に私は潔白だとか世間は醜いだとか間違っているとかそんなこと主張するつもりは全くないです
ただ欲を言うと気に入らないならさっさと殺してくれればいいのにと思います
結末の選択肢の中に現状のまま生きながらえるというものが入れれるようになったのは瞑想と仏教の教えのおかげです
以前の私なら悪口に対し恐怖しパニックになって震えて自室に籠もることしかできなかったでしょうから
仕事を一生懸命し、家事をきちんとし、他者の世話もそれなりにできるようになったのは慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想のおかげです
自分は生きる事から解放される自由まではまだ求めていない世俗人。
ああ鬼ごっこ良いなあ。
そして夕ご飯になったら家に帰って、そしたら美味しい料理が待ってるんだ。
それだけなんだ。
100年後や200年後、ロボット産業の発達でそうやって生きていける人が大半になるのかなあ。
うらやましいな。
ところかわって兄の俺は、相変わらず家で世俗にまみれない快適な時を過ごしていた。
俺は重い腰をあげると、しぶしぶ玄関に向かった。
念のため、覗き穴から来訪者を窺う。
思わずため息をついた。
そこから見えたのは弟だったのだ。
やれやれ、どうやら鍵を忘れて出て行ったようだな。
ここで深く考えずにドアを開けてしまったのは、我ながら迂闊だった。
覗き穴ごしからは気づかなかったが、肉眼で至近距離ともなると一目瞭然である。
弟ではなく、弟に変装したドッペルだ。
「バレンタイン……」
そう言うとドッペルは、おずおずと俺の前に箱を差し出した。
やたらと煌びやかなラッピングに対して、箱そのもののデザインはひどくシンプルである。
言葉が少なすぎて確信は持てないが、バレンタインと言っていたのでそういうことなのだろう。
俺はこの箱の中身、ひいては“意味”を考えていた。
答えはすぐに導き出された。
これは弟のチョコばらまき作戦の一つで、俺も候補に入れたってわけだ。
だが、弟の思惑を俺は知っているので、普通に渡しても受け取ってくれるはずがない。
そこでドッペルを介した。
俺は見分けがつくので、ドッペルだと気づいてチョコを何の疑いもなく受け取る。
これが罠なのだ。
弟に変装したドッペルは、後に俺にはチョコを渡していないとしらばっくれる。
そうなると、俺の受け取ったチョコは弟から貰ったという扱いにされてしまう。
そして、俺は弟に高いものを買わされる、と。
随分と回りくどい真似をしてきやがる。
だが、所詮ガキの浅知恵だ。
「ドッペル、これを受け取る前に確認しておきたいことがある」
「な、なに?」
「いま、お前は弟の姿に変装しているが、弟ではない。ドッペル、お前が俺にくれるんだよな?」
ただつき返すだけでは弟への報復にはならない。
モノは貰う、だがお返しはしない。
しなくていいように、弟があげたなどという可能性を完全に無くす。
「う、うん」
「よし。念のため、包みにお前の筆跡で書いてもらえないか? 『マスダの兄ちゃんへ、ドッペルより』って」
言ったとおりのことを包みに書いてもらい、俺は粛々と受け取った。
ところ変わって弟のほうでは、タオナケとの熾烈なチョコの押し付け合いが始まっていた。
「欲しいよ。ホワイトデーに何も返さなくていいならな! そういうタオナケこそ、俺から貰っておけばいいじゃないか」
戦いは拮抗していた。
タオナケには超能力があるが、「念じると5回に1回、無機物を破壊できる」というもので使い勝手が悪い。
下手に弟のモノを壊せば、お返しどころではなくなる可能性がある。
弟はドッペルを身代わりに有耶無耶にするとは言っていたものの、あくまでそれは最終手段だ。
それにチョコの押し付け合いごときで、仲間にそんなことはしたくない程度の情はある。
そもそも互いがチョコを欲していない時点で、この勝負は不毛でしかなかったのだが。
そのことをミミセンが指摘するまで、二人の戦いは続いた。