http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.perlassociation.org/2010/06/perl-trademark.html
一昔前の話題で「VPS」とか登録してたGMOとかその後どうなってんの?
あれはおkなのか?
http://d.hatena.ne.jp/minorito0411/20100613/1276443211
これのリンク先見て驚いた
はてぶもツイッターもしょぼすぎ
でも今だにime経由がこんなにいるのかよ
特定の集団においての「禁止」とは「許容できない」という意味でしかない。いわゆる善悪とは関係ない。道徳的に善であるように考えられることも規則として許容されないという事態は日常に稀ならず存在しているし、逆もまた然りである。
また教育による行動変容と禁止によるそれは同等ではない。前者は能動的行動変容を促す可能性があるが後者にはその効果が薄い。規則による禁止がそれ単体で十分な効果を発揮できるのは、禁を破った際の罰則の頻度と程度が十分に高い場合のみで、どちらかが保証されなくなれば規則は直ちに形骸化する。規則そのものはあくまでも外的な強制力でしかなく、基本的にそれ以上の効果を期待できない。
教育が有効に働けば教育を受けた当人の認知の変容が得られ、自発的な行動変容につながり得る。それは個人的な道徳規範となって外的な規律の如何に関わらず当人の行動様式を規定する。教育は特定の集団にとって望ましい行動規範を個々人の内面に植え付けることのできる手段だが、前提として程度の差はあれ受け手の能動的な参加を前提とする。自我が形成されつつある個人に対して、それが仮に不十分な自我であったとしても、特定の事柄に関する教育への能動的な参加を促すことは容易ではない。実施には多くの人的、時間的労力を要することが多い。そして試みのすべてが徒労となることも多い。
特定の行動に関して、規則のみで禁止することは容易いが有効性に乏しく、教育により変化を促すことは有効性は高いが実施が困難であるというジレンマがこの問題の背景にあるように思われる。そしてそれは他者の行動変容を促す上での普遍的な問題であるように思われる。
http://www.asahi.com/national/update/0616/TKY201006160235.html
> 県警や学校関係者によると、逮捕された生徒は口数が少ないおとなしい性格だった。被害者の生徒は活発だったといい、2人は入学時か>ら別々の友人グループで行動していたようだという。
そうねえ
ついったーはやってないけどさ
こんなレベルで何か性格が悪いの口喧嘩が得意の自負してる雰囲気があるけど
俺はこの程度の奴ならいっくらでも引き摺りまわして顔真っ赤にさせる自信あるよw
ごめん頭悪い子だったのか
俺はニューヨークだ。
ゲイリー・シニーズが好きということもあるけど、ニューヨークって大都市の孤独っていうか哀愁のようなものがあるんだよな。
P・オースターの作品を思わせるようないいエピソードとかもあって好印象なんだ。
あと他のシリーズが職場の人間関係に時間を割き始めているのに比べて、ニューヨークはわりとそういう感じが少ないのもいい。
ニューヨークの中でもシーズン1が一番いい。
おれは、天皇制支持している左なんだが、おれもネトウなのかな。ぶるぶる。
君の行動体系は見えやすい、非常に。