はてなキーワード: 福田恆存とは
それまでふぞろいの林檎たちや岸辺のアルバムくらいしか知らなかった山田太一だが、
昨年、NHKで再放送されていた「男たちの旅路I~III」を初めてみて、山田太一の世界は奥深いと、認識を改めたのを覚えている。
ある種、衝撃を受けた。
「男たちの旅路I~III」は戦中派のイメージが強い鶴田浩二を山田太一が説得して、鶴田の初テレビドラマ出演となったいわくつきのドラマだった。
このドラマのすごさは、戦中派の鶴田あるいは特攻世代の鶴田の、ある種、ブレない、英霊に操を立てる保守の固まりみたいな偶像を粉々に砕いたところだ。
戦中派保守というと、三島由紀夫や吉田満といった1920年代半ば生まれで、10代の思春期に国家への忠誠を純粋培養で叩き込まれた世代。
その世代のブレなさに憧れて、保守を自認しているのが、昨今のなんちゃって感の強い保守たちだ。どんなに差別的な発言をしても非を認めず一貫している、みたいなアレも含めてね。
特攻で死んでいった仲間に義理立てして結婚も恋愛もしないという役柄(鶴田)だったが、死の病に直面した部下の女性(桃井かおり)に愛を告白され、戸惑いながらも、一線を越えようとしない。山田が脚本のなかでやってのけたのは、そうした戦中派世代のこだわりを、戦前派の世代(ドラマのなかでは上司として登場する池辺良)がなんで抱いてやらんのだ、お前は分別のかたまりだ、と一蹴するところだ。
池辺良の役柄には、戦争中、終戦直後に上官の立場として、清濁を飲み込みながら必死で生き延びてきた池辺自身経験が反映されている。
また大正昭和初期にモダンなカルチャーを受容する過程を経て、いつしか日本社会全体が国家主義へ傾倒してゆく日本の変遷をまざまざとみてきた世代でもある。その世代から下の世代としてみる、特攻世代というのは、若者の思い込みの強さを強く感じ取っていたに違いない。人の考えも社会も時が経てば変わる、それを知っているのが戦前世代。それに対して、敗戦後に変貌した日本社会を目の当たりにした戦中派は、国を信じて死んでいった仲間を忘れることはできない。
そうした世代間のギャップが、鶴田を悩みに悩ませる演出によって見事に表現されているのが、男たちの旅路第3部最終回だ。
このドラマを通じて、鶴田浩二に興味を持った俺は、八千草薫と共演した【シャツの店】もぜひ見てみたいと思った。
また、保守というのが、靖国神社に強いこだわりをもつ戦中派の前の世代として、戦前派の保守というものが存在していたことにも思い至り、改めて福田恆存なども読んだりしてみた。昔の保守を知れば知るほど今の保守がばかばかしくなった。
山田太一のものの考え方でいえば、第二部で描いた「シルバーシート」は圧巻だった。老人が都電車庫に立てこもり反乱を起こす。あえて社会に迷惑をかける意図的な行動に出た。
有形無形に、社会に迷惑をかけるな、と社会から言われ続ける老人の気持ちのやるせなさをここまで訴えかけるドラマはない。
誰しも、迷惑をかけずに老後を過ごせるなんて、誰にもわからない。認知症になるかもしれないし、長い闘病や介護で社会に負担をかけるかもしれない。
立てこもる老人たちを説得する役を演じた鶴田浩二に対して、笠智衆がいう。あんたには若いからわからないのだ、老人になったときはじめてわかるときがくる、と。
大人の分別という鶴田の説得が通用しなかったという、ここでも出てくる鶴田の敗北の演出もさることながら、老いて初めて分かる、というリアルなセリフが心に残った。
高倉健と大原麗子という因縁の二人(参考:居酒屋兆治)を軸に、やっぱり山田は高倉健の偶像を破壊するような脚本を書いている。
リゾート法によって急速に全国で展開されたテーマパーク開発はバブル経済の華だった。
炭鉱の閉山で疲弊する地域経済の起爆剤としてテーマパークを呼び込む北海道の炭鉱の町。
しかしバブル崩壊に伴い、計画が構想され、着工寸前まで来たものの撤退を迫られることになったのが90年代初頭の社会像だった。
町の期待をよそに、寡黙なキャラの高倉が現場担当として町にやってきたことから、開発会社の本社からは撤退の後始末を、という隠れた命題を高倉に任せたのではといぶかる町。そんななかでも、慣れないサービス業に苦心し、町を盛り上げようと市長を応援する高倉健の姿は、居酒屋兆治で演じた姿とはやはり違う。
阿部寛は、若い頃に、建設現場社員というチョイ役で出演したこのドラマから多くのことを学んだ、とどこかで言っていた気がする。
「ふぞろいの林檎たち」もすごいドラマだった。大学生役の中井貴一が初めての風俗でテコキで抜いてもらった挙句に、風俗嬢にこんな仕事やめなよと説教するシーン。リアルにおっぱい出しているのも80年代らしい。こういう演出はもう昨今のドラマではありえないだろう。
長くなった。
ともあれ、大きな存在が亡くなった。
ここ5年くらい、脚本を書いておらず、闘病を続けていたと聞く。
合掌。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1162964
小生と旧仮名遣いには近付かないようにしてる
旧かな使ひは見かけたら二つ向こうの山まで逃げる案件
確かに「正かなクラスタ」とその周辺はいっつも論争してて、巻き込まれたら面倒臭いから近寄りがたいイメージがある。
もし本気で歴史的仮名遣(旧かな、正かな)を布教したいのなら、そんな印象を撒き散らし続けてる時点で戦略的には失敗だよなあ、と前から思ってる。
個人的には、歴史的仮名遣は現代仮名遣いより技術的にまともだと思ってるから尚更。
「正かなクラスタのことは嫌ひでも、歴史的仮名遣は嫌ひにならないでください!」とでも言っとけば良いのかな。
「本物の旧仮名遣い」って何なんだろ? 山岡士郎さんに頼んだら見せてくれるのかな?
冗談はさておき、字音仮名遣を守ってなくても和語の仮名遣がきちんとしてるなら、広義の歴史的仮名遣に入れてあげてほしい。字音仮名遣も「春」は「シユン」か「スヰン」か、「共」は「キヤウ」か「クヰヤウ」か、なんて具合に何が本物か追求しだしたらキリが無いし、いろんな流儀に寛容になっとく方がみんな気楽。
http://anond.hatelabo.jp/20160904033715
選定基準は
・読みやすい
・有名で、他の本や映画に出てきがち
ド名作。読んでおくと伊坂幸太郎の『陽気なギャングが地球を回す』がもっと楽しい。
早く来てくれオーバーロード。
③永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編カント(訳:中山元)
「本邦初訳」作品。古典新訳文庫ならでは。イタリアっぽいユーモア。
エログロ。
『藤野先生』も『狂人日記』も入っていてお得。訳者の村上春樹と中国の関係についての研究も面白い。
誤訳が多いらしいが、すごく読みやすかった。他の訳では通読できなかったと思う。
訳者は元国際プラトン学会会長(2007~2010年)で、解説の量がすごい。
読んでおくと、あの映画とかあのミステリーとかのネタ元なので捗るはず。
⑩闇の奥 コンラッド(訳:黒原敏行)
『地獄の黙示録』の原作。個人的には「叡山の僧兵の大将」中野好夫の訳より好き。
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①グレート・ギャッツビー(村上春樹翻訳ライブラリー)フィッツジェラルド
村上春樹の訳が好き。
『英文の読み方(岩波新書)』など、英語の読み方の著作に定評のある行方昭夫の訳で。
野村萬斎が自ら演ずるために、河合祥一郎に新訳を依頼しただけあってとても読みやすい。
『月下の一群』の堀口大學の訳で。
⑨カフカ-ポケットマスターピース-01-集英社文庫ヘリテージシリーズ
小説家の多和田葉子の訳で。『変身』は先に別の訳を読んでおいた方が新鮮かも。
⑩マーク・トウェイン-ポケットマスターピース-06-集英社文庫ヘリテージシリーズ
はてな民ならハックルベリーは読んでおきたい。柴田元幸の訳で。
―――
かつてある作家をめぐる言説に対する批判への反論で「かの作家は死を贈与した!(ドヤァ」と発言し諸方面から人間性を疑われた藤田直哉氏が、2015年3月11日にTwitter上で3.11追悼式に対する疑義を唱えはじめた。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575529749969289217
2万人近くの死、というのも、よくわからない。交通事故であれなんであれ、人が死ぬのは哀しいだろう。しかし、知らない二万人よりも、家族とか親しい一人の死の方がつらくないかね。これは、俺が非人間的な感性だからなんだろうか。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575530332390297600
集団の死を、集団で慰霊するということの意義が、リアリティを持った形で想像できないというか、それは一体どういうことなのか? っていう本質が未だにわからない。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575531644360204288
親しい人を喪った人の気持ちを想像する。これはわかる。それが数万人分。これ、脳の容量超える。そして、普段、その辺でやっている知らん人の葬式にもそう感じなきゃならんのか、でも現にそう生きていない。では、日々の死者や遺族の悲しみに、差をつける根拠はなんぞやってのが、わからなくなる。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575533582023786496
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575534421018804225
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575535179709739009
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575538080834318336
ちゃんと書くか。災害や死者を名目に、個別の生を生きていて、それぞれ違う死に方をした人間をあたかも一つの何かのように扱い、追悼の名目で、国民の想いを勝手に決められた時間に同期させられるのが、ぼくには不愉快。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575543420544020480
@seiichitsuchiya私は、「何故黙祷を罵倒する必要があるのか」に対し、14:46を黙祷の時間と定め、一斉に行うという行為に、国家の共同体意識形成の問題を感じたからだ、と理由を説明しております。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575553783884873728
いや、死者のことを本当に思ってたら、違う時間に違う亡くなり方をそれぞれにしたことも知っているわけでしょ?それに対する追悼の意図だとすると、地震発生の時間に代表させることについてどう考えてるのか、純粋にわかんないのよ。儀式だから、決まってるから、という理屈はわかる。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575556640000315392
それだったらずっと黙祷するのかという意見が来てるけど、本当に死者を想って悲しんでいる人は、毎日仏壇拝んだり、考えたりしてるんじゃないの。年に一回思い出したように黙祷するだけで済んじゃうのは、本当には同じように悲しくはないからなわけでさ。その上で、儀式には有用性があるんだろうけど。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575573893911560192
なぜ、黙祷の時間は地震発生の14:46からになったのか。説1、誰かが決めた。説2、勝手に決まった。2なら、皆がそれに従いながらも理由を説明してくれないのが、単純に不思議(外国人が、儀式に疑問を素朴に持つ感じを想像してください)
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575584772249931776
で、説1で、合理的に説明がつきそうなのは、「一回で済んで、みんなで一斉にできて、異論が出なさそうな時が地震発生時だから」。これは納得いくんだけど、なんか生者の都合でインスタントにやりましょ感が出てしまってて、その上で死者への想いをとうとうと語るのもうそ寒い感じがする。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575598071440019456
死者がどう思うか考えろとか、言われるけど、死者は何も思わないし、感じないでしょう。そうではないという宗教観があるのは知っているし、死んでみないと分からないんだけれど、ぼくはその前提で話をしている。その上で「死者」をどう捉えるかがこの社会に及ぼす影響のことを考えてる。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575599212928241664
死後の生があると信じたい遺族の方の気持ちもわかる。幽霊的な存在の感覚を持ってしまう人たちの気持ちもわかる。ぼくの発言が、その人たちを傷つけている、と言われれば、そのこともよくわかる。しかし、死者は、「本当には」傷つかないし、冒涜されたとも思わないだろう。生者がそう感じるだけで。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575599516314796032
土屋さんのツイートを見て、不安になってきた。これって、死者が「本当に」感じたり、考えたりする前提の話だったの? そうではなくて、遺族などが哀しみなどから生み出す錯覚であり、代弁者が勝手に気持ちを捏造したりして政治的に利用するなどで、生者に影響を及ぼすから注意っていう話じゃなくて?
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575600381717180417
だから、儀式が、生者の世界でどのような機能を果たしているのかを考えたうえで、「いるのか?」ってぼくは問うているんだけれど。まぁ、ぼくの儀式嫌いは元々で、まぁ、形式的な儀式を根拠なく反復することそのものが生理的に嫌ってのはある。なんか、心が籠もってない感じがするし、形式そのもので。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575601520592318464
福田恆存なんかは、例えば葬式は、別に、心なんかなくたって、その形式を演じること自体に意味があるんだ、周りが「死を悲しむ演技をする」ことが重要なんだというんだけど(「民衆の生きかた」)。むしろ個人的感情は抑える方がいいなんて書いてあって。その形式こそが「感情の真実性」を保証する、と
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575602024709910528
俺はそうは思わないが、まぁ、どうも、儀式は「説明できないけど必要」と思っている人が多いようなので、ぼくは少数の、アンチ形式主義の心情主義者として生きて行こうと思いますけど、つまりこれ、「真実の感情」が型を必要とすることは、「型」こそが「真実の感情」を作るということでもあるよね。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/575602827705233408
だから、集団を弔うようなセレモニーがどんな形であるのかには、敏感であってもいいと思うんだけれども。感情がセレモニーを生んでるんじゃなくて、セレモニーが感情を創り出す効果もあるってわけでしょ? 俺が気に食わないのは、それ。
順番に整理していきたいが、明確に断言できるのは、藤田氏の想像力のなさと狭量さである。
藤田氏は、3月11日14時46分に追悼をおこなうことについて、「それぞれ違う死に方をした人間をあたかも一つの何かのように扱い、追悼の名目で、国民の想いを勝手に決められた時間に同期させられる」「なんか生者の都合でインスタントにやりましょ感が出てしまってて、その上で死者への想いをとうとうと語るのもうそ寒い感じがする」ものであり、そこには「国家の共同体意識形成の問題」が孕んでおり、「遺族などが哀しみなどから生み出す錯覚であり、代弁者が勝手に気持ちを捏造したりして政治的に利用するなどで、生者に影響を及ぼすから注意」すべきだと疑義を表明している。
……え? 藤田氏って追悼式が政治家が政治的に利用するためにおこなうものだと本気で思ってるの? マジで? そう思った根拠ってなんなの?
「追悼式を決まった時間におこなうことで追悼感情が統一的に形成される」という仕組みが、国家が国民感情を統制するときのそれと同じものであるというのは真っ当な指摘なんだけど、それは理屈でしかないでしょ? たとえば、あくまでたとえばだけど「3.11を忘れないために、今後は○○の政策を~」みたいなことを言い出したのなら別だけど、藤田氏はそういう具体例あげてないよね? 追悼という行為の儀式性と政治性を混同してない?
……とまあ、藤田氏の言動からは「追悼式は政治家が政治に利用するための欺瞞的なものだ!」という副音声が聞こえてくるのだが、あれこれ言葉を駆使しているようにみえてその根拠は一切ない。藤田氏の完全な妄想である(根拠がないという意味で)。
また、14時46分に追悼をおこなうことを「死者のことを本当に思ってたら、違う時間に違う亡くなり方をそれぞれにしたことも知っているわけでしょ」と批判しているが、そもそも「死者が死んだ時間ぴったりに死者を悼まなければならない」という規範があるわけでもないのだから、14時46分に死者を悼む行為が「本当に思って」いないと判断する根拠がない。その理屈なら、「いつ追悼してもその感情は本物である」という理屈だって成り立つはずだ。
その他、「日々の死者や遺族の悲しみに、差をつける根拠はなんぞや」「本当に死者を想って悲しんでいる人は、毎日仏壇拝んだり、考えたりしてるんじゃないの」「年に一回思い出したように黙祷するだけで済んじゃうのは、本当には同じように悲しくはないから」「死者への想いをとうとうと語るのもうそ寒い」と言っているが、これもよく読むと藤田氏自身のバイアスが満載である。
「3.11追悼式で生まれる追悼感情は嘘である」という視点には、「感情には嘘の感情と本当の感情の二つがある」という先入観が存在する。感情に嘘も本当もないでしょう、とこの増田を書いている私なんかは思うわけだ。よしんば、それが追悼式がなければ生まれなかったものであったとしても、おこなわれたことで生まれる感情は実際にそのひとのなかにある感情である。
ここまではまだよい。藤田氏は元から作家の死を贈与したなんてぬけぬけと言い出すわ、自分が言い出した伊藤計劃以後論に批判が飛んできたら反論を書くのではなく「じゃあお前が考えろよ」とかTwitterでくだを巻き出すわ批評家としては全く能力のない人間であるが、そのことに藤田氏に責任はない。人間の能力には限界があるのだ。
だが、上記のようなバイアスに藤田氏が無自覚ななか他人を攻撃し始めるのなら話は別だ。
追悼式が追悼感情を惹起する機能があるとして、そこにある感情が偽物であると断言することの暴力性を藤田氏は考えなかったのだろうか。
そして、その暴力を振るう対象である、今日14時46分に追悼の念を掲げる人間のなかに、被災者遺族が、知人や友人、家族を失った人間がいる可能性を想像できなかったのだろうか。
藤田氏は、「今日14時46分に黙祷をした(あるいはツイートした)人間」全員に対して「バカタレ」と言ったのである。
藤田氏は、藤田氏のなかにあるバイアスに無自覚のまま、藤田氏の主観的判断による「偽物の感情」を持った人間を「バカタレ」と罵る、想像力が欠如した狭量な人間である(それ故個人的には絶対に関わりたくないので増田に書かせてもらった次第だ)。
でまあ、もしこれが藤田氏に届いたとしてもあいつは「そんなことは言ってない! 被災者遺族のことを侮辱する意図はなかった!」とか言い出すに決まってるんだけど、意図があろうとなかろうと文言だけ読めばそうなるんだよ。てめえ批評家を自称しておきながらそんなこともわかんねえのか。主語大きくすんなって批評家でもない俺だって何かを主張するときの基礎だって知ってるよ。そんなこともわかんねえからてめえは批評家としてクソだって言ってんだ。
いやー、「死を贈与した!」とか言っちゃうひとは本当に他人の感情にみじんも興味ないんだなーってのがわかって大変ありがたいです。藤田氏は本当にクソだ。ありがとう藤田氏。おまえは二度と信用しない。
あとさ、地震を「加害者」って言っちゃうのはちょっと……いや、まあ、物事を擬人化して理屈づけようとするのは悪い事じゃないか……うん、別にいいと思うよ。ひとそれぞれだしね。
1.「限りなく透明に近いブルー」 村上龍
5.「国のない男」 カート・ヴォネガット
7.「夢渓筆談」 沈活
8.「神は妄想である―宗教との決別」 リチャード・ドーキンス
11.「冬の夜ひとりの旅人が」 イタロ・カルヴィーノ
12.「高い城の男」 フィリップ・K・ディック
13.「しあわせの理由」 グレッグ・イーガン
16.「きつねものがたり」 ヨセフ・ラダ
20.「フェルマータ」 ニコルソン・ベイカー
21.「四十七人目の男」 S・ハンター
22.「逆転世界」 クリストファー・プリースト
24.「謎の女」 福田恆存
28.「神秘の島~ミステリアスアイランド~」 J・ヴェルヌ
29.「連射王」 川上稔
34.「ほとんど無害」 ダグラス・アダムス
35.「黄落」 佐江 衆一
38.「リレイヤーⅢ」 鴻上 尚史
39.「糞尿大全」 柳内伸作
40.「十六の話」 司馬遼太郎
45.「穴」 ルイス・サッカー
46.「宇宙の戦士」 ロバート・A・ハインライン
47.「ギャシュリークラムのちびっ子たち」 エドワード・ゴーリー
50.「伊平次とわらわ」 坂田靖子
51.「食肉の帝王―巨富をつかんだ男 浅田満」 溝口敦
52.「だれも知らない小さな国」 佐藤さとる
55.「楽園の知恵」 牧野修
56.「鳩どもの家」 中上健次
57.「古事記」 倉野憲司
60.「魔獣戦士ルナ・ヴァルガー」 秋津透
66.「モルグ街の殺人」 エドガー・アラン・ポー
67.「世界の中心で、愛をさけぶ」 片山恭一
69.「百頭女」 M・エルンスト
74.「不可能性の時代」 大澤真幸
79.「他人をほめる人、けなす人」 フランチェスコ・アルベローニ
80.「星虫」 岩本隆雄
83.「おとなもブルブルようかい話」 木暮正夫
84.「ヨーロッパ文学講義」 ウラジミール・ナボコフ
85.「サマー/タイム/トラベラー」 新城カズマ
87.「死の蔵書」 ジョン・ダニング
88.「死のロングウォーク」 リチャード・バックマン
91.「フロイト先生のウソ」 ロルフ・ゲーデン
92.「ライ麦畑でつかまえて」 J・D・サリンジャー/野崎孝訳
94.「針の上で天使は何人踊れるか」 ダレン・オルドリッジ
95.「歴史」(上・中・下) ヘロドトス
97.「愛はさだめ、さだめは死」 ジェイムズ・ディプトリー・ジュニア
98.「幾千の夜を越えて」 神月摩由璃
100.「アルジャーノンに花束を」 ダニエル・キイス
先夜、晩酌が過ぎたのか茶の間でうたた寝し、つけっ放しにしたテレビの吹き替えの声で目を覚ましました。ぐずぐずと瞼を閉じたままでいると、耳にヘンリエッタだの、アンジェリカだのと呼ばれる少女たちの会話がとびこんでくる。スパイ物だろうか?それともテロリスト物だろうか?
いずれにしても武器を使った先頭場面が登場するヨーロッパ映画に相違なく、さて、どんな女優たちが出ているのか、と目を開けてぎょっとした。画面に映っていたのはアニメ。しかも少女たちは目が大きな、いわゆる”萌え系”のキャラクターだったからである。
これって、何なのだ?本腰を入れて見る間もなく番組が終了したため、ネットでこのアニメについて検索して、さらに驚いた。アニメに登場する少女たちは全員サイボーグという設定。時代背景は偽史が絡んだ現代イタリア。某公益法人が、事故で瀕死の重傷を負うなどした少女たちを集め、人体改造と洗脳を行い、反政府組織に対する非合法活動に就かせるというのが物語りのあらましだった。
少女たちは家族との別離と身体の劣化を、運命として甘受せねばならない。また、彼女たちには男性の担当官がついて、男女間にはフロイト風に「転移」した感情の縺れが出来上がってもいるらしい。オタク世代のアニメ文化もここまで複雑で高水準になったか。
実は私はかねがね、オタクや腐女子と呼ばれるアニメやゲーム漬けの若者が増殖することに、かすかな懸念を抱いてきた。このままオタクが増え続ければ、しまいには大事な決断や、国家的な戦略策定の場面で、私たち日本人は道を誤るのではないか、と。
たかだかアニメやゲームで何を大げさな、と考える向きもあるかも知れない。だが、オタクたちの「萌え」志向や世界観が世の中で支配的になれば、私たちはますます内向し、衰弱して、リアリズムが貫徹する他国の人々に軽んじられるのではないか?いや、冗談ではなく、私はそう考えるのだが、ただ、これにはちょっと説明が必要かも知れない。
文芸について考えれば、私たちは小説や批評を読むことによって、暗々裏に人生の悲哀や生活の真実を知り、また生きてゆくための規範や行動の基準のようなものを学ぶ。ときどき人生の切所で小説の一節が脳裏に浮かんだり、敬愛する文学者の誰それが立ち向かったと同じように、人生に立ち向かおうとしたりするのはこれである。
しかし、こうした功徳は文学のみならず、ある日くちずさんだ流行歌の一節だったり、映画や芝居の登場人物の台詞だったり、さらにいえばマンガやアニメの一シーンであっても同じだろう。
例えば、つらい毎日に挫けそうになったとき、「立て、立つんだジョー!」と『あしたのジョー』の段平オヤジの督励が聞こえてくる、などと言えば人は笑うだろうか。鈴木清順監督の『けんかえれじい』には「可愛そうってことは惚れたってことよ」という漱石から転用された台詞が登場するが、そうした台詞で自分自身の恋愛や結婚の行方を納得する男女だって多数いることを私は知っている。また周囲に振り回されたあげく、鶴田浩二をまねて「右を向いても左を見ても、人生まっ暗闇じゃござんせんか」と呟く人がいるが、私が言いたいのは要するにそういうことだ。
ここにあるのは自らに何らかの役割を振り、その役割によってようやく自分たり得る私たちの姿である。よく「とり換えのきかない自分」などと言うが、胸に手を当てて思いいたせば、私たちは常に何らかの役割(人格)を自らに振ってその場その場を生きている。自分とはその意味で他人なのだ。
まことに「人間この劇的なるもの(福田恆存)」で立場が人を作るというが、家では頑固オヤジであっても、会社に行けば部長なら部長としての振る舞いがあり、学校の先生であったならば先生としての行動がある。また老母に対しては、よき息子、娘の役目も勤めねばならない。
こうした前提を認めれば、オタクや腐女子では「萌え」が判断の基準になり、行動の準則になることは明瞭だろう。しかも彼らはどっぷり浸かったゲームやアニメの世界を生きて、いま、ここにある現実を生きようとしないように見える。そしてその結果、例えば外国人との交渉で、会社や国の命運をかけて決断せねばならぬときに、ついついリセットできるゲーム感覚で、鼻面を引き回されることだってまま起こり得る。
とはいえ、うたた寝から覚めて見たアニメに驚かされたように、オタク世代もリアルの構造が私たちと違い、異なる感受性によって動く頭を持っているだけ。実はむしろ今のリアリティーに適応した世代なのかもしれない。年寄りが若者たちに文句を言うのは、古代メソポタミア文書以来、普遍的な話らしいから、私の懸念は愚かな繰り言なのだろう。
とここまで書いてふと思い出した。百年に一度と喧伝される経済危機の中、財政出動を決意した政府が、世界に冠たる日本のアニメ文化を発信するためアニメの箱物を作るという。ふむふむ。要するにすでに私などが思うよりも、ずっと世の中は進んでいたのだろう。切所ですでに「萌え」は老人により先取りされているらしいのだ。これがうたた寝から目覚めた私の短絡や懸念と重ならぬことを祈りばかりだ。
それはね、一口にはいえないとっても根深い問題であってね、日本語の歴史そのものと非常に関係してるわけよ。詳しくは、大野晋とか福田恆存の本なんか読めばいいんだけど、旧字旧カナを使う人はちゃんとそれぞれの理由があって排除すべきではないわけね。例えば、宗教、つまり仏典やキリスト聖書なんかは断然旧字旧仮名の古語文体で読まないと駄目って人がいるのよね。「はじめに言葉ありき」なわけで、特に新約聖書の文語訳なんかは、日本語の形成に非常に非常に大きな影響をあたえたわけ。おいらなんかも、さすがに新かなで書くけど、一部の漢字はいまだに旧字体で書くんだよ(「惡」とかね)。そういう風に覚えてきたしいまさら変えられないよ。
ただ、惜しむらくは旧字旧仮名ってのは残念ながら体系的に統一されてないんだよね。「The 日本語とその統一的な表記」ってのは残念ながら、敗戦以降にやっと確立したといっても過言ではないのよ。英語圏のやつらがシェイクスピアをそのまま読めるのと比べてなんたる無念さ(まあやつらも古英語は読めないだろうが)。だから、おいらは新字新かなを選ぶ。とくに日本語はもう日本人だけのものじゃなくて、外国人が学習している国際的な言語だから、いまの基準からなるべく変えるべきではないと思うんだよね。外国人のために。
だからさ、今「旧字旧仮名使ってるやつなんなの?」って思ったんなら、ついでにわが身を振り返って、あなたもなるべく正しい日本語表記を使うよう心がけてほしいのさ。ら抜き言葉使ってない?「すいません」って言ってない?方言を使ってない? すこし考えてほしい。