1 まず最初に断言しておこうか。
パチスロを(習慣的に)「打つ」ことと「打たない」ことを比較したら、
「打たない」方がより良い。
そんなことはわかっている?
うん、そうだろう。
そんな義務はない。
道徳的にも、法律的にもパチスロを打ってはいけない義務があるとは思えない。
誰も決して打つなと俺に強制していない。
3 パチンコ、パチスロを打たない人が打つ人に対して言うセリフの代表的なもの。
「パチンコ、パチスロは必ず客が負けるようになっている。わざわざ金を失いにいくようなものだ。
打ちに行っているやつはバカだ。」
これ自体は確かに正しい主張ではある。
だが、これをスロ打ちの人間への批判の論拠にする奴は救いようの無いバカだ(俺もお前も思ってるよな?)。
「必ず客が負ける」というのはあくまでも最終的な収支の話だ。
一回一回の勝負では当然勝つこともある。
たとえ設定が1であったとしてもだ。
そして俺自身を含めスロを打つやつのほとんどは直前の勝負の勝敗しか頭に無い。
パチスロを打つかどうかは、「打ってはいけない」という決まりを守るかどうかと言う問題じゃない。
勝つ可能性も負ける可能性もあるが、「打つ」と「打たない」どちらを選ぶかの「選択」の問題だ。
曲がり角を左に行くか、右に行くかという選択と同じだ。
打たない方が良い理由は、「どんなに勝っても意味がない」こと。
スロで勝ちまくって、あぶく銭が増えまくっても俺自身を取り巻く現実はほとんど変わらない。
パチスロでどんなに勝ちまくったとしても、結局手に入るのは金だけ。
それも「あぶく銭」、重みを感じられない金だ。
だが、それが何だろう。
出来ることは物を買うことだけだ。
自分自身の人格、周囲の人間の人格、嫌な社会、自分の過去、未来、職業を直接変えられない。
クソみたいな現実を変える力は、自分自身の行動にはあるが、スロで得るあぶく銭にはない。
あぶく銭は現実を変えない。変えてくれない。
5 お前はスロット打ちの習慣を断ち切ることができるはずだ。
お前は過去にスロットを打ってはやめる、また打つを繰り返してきた。
年単位で打たなかったこともあれば、数ヶ月だけのこともあった。
やめるために重要なことは今日一日、その日一日だけに着目することだ。
明日、あさって、来月、来年、スロを打つかどうかはその時期が来た時に自分にしか「選択」できない。
とりあえず今日だけは打たないを積み重ねれば良い、というかそれしか出来んやろ。
パチスロという博打に対する自分自身の感情、考え方をもっともっと理解すれば、
より楽にやめられるだろう。
6 パチスロを打ちたがっている自分へするべき問いかけは「負けたらどうするの?」もしくは「負けるかもしれないぞ?」
ではない。
「勝ったとしてメリットがあるか?」、「あぶく銭を得る必要があるか?」だ。
あぶく銭を得て、それを使って買いたいと思っているものの価値を見極めることだ。
俺自身を含め博打をする人間は往々にして、本当は必要ないものを得ることを博打をすることの言い訳にする。
理由があるからパチスロを打つのではなく、パチスロを打ちたいから無理やりあぶく銭を得なければならない理由をでっち上げ、
自分を納得させようとする。
7 「勝ったとして、このクソみたいな現実が少しでも直接変わるだろうか?」でも良い。
今現在の自分はもう既に必要なものを十分に持っていることを思い出せるはずだ。
8 矛盾しているように聞こえるかもしれないが、
「パチスロを打つことをしないようにしよう、我慢しよう」という考え方をしてはいけない。
「しないようにしよう」と考えているつもりでも、結局パチスロという博打に意識を向けている。
最初は距離を置くために考えていたつもりが、結局打つべき理由を考えてしまう。
当たり前だ。
パチスロをやめても、今までパチスロで埋めてきた「暇な時間」というものは消えない。
何らかのことでそこは埋めなけれならない。
ほぼ一年中、さらに一日中営業しているパチンコ屋は手っ取り早くその暇を埋めさせてくれる。
そこが罠なのだ。
「パチスロをやめる」=パチスロを「しない」ではなく、パチスロ以外のことを「する」ということに意識を向けなければならない。
これは必ずしも言うほど簡単じゃない。
パチスロ打ちにとって、パチスロは色鮮やかで華やかな映像で映し出され、パチスロ以外のことは灰色で塗りつぶされた廃墟の映像に映る。
機械の前で延々とボタンを押しながら不毛な博打をする自分は理想じゃない。
それこそが、パチスロをやめるべき理由の最たるものかもしれない。
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