はてなキーワード: 手前味噌とは
タイトルの通り。
二次元エロは好き。男性向け最高。BLも嫌いじゃない。GLはちょっとよくわからないけど絵面は綺麗で好き。サンキューDMM。ネット最高。
でもAVはギリ。モザ無しは微妙。音声は消す。風俗レポは好き。ネタAVも面白くて好き。
シモネタも楽しい。仲の良い友だちだからこそ言えるしょーもないシモネタ大好き。コロナで会えないけど、カラオケや完全個室で話すしょーもない小学生レベルの下ネタだけでガンガンお酒が飲める。今だにいちご100とか太臓で笑える友達ありがとう。笑いすぎて頬が引きつって腹筋がまさに崩壊するレベル。会社では絶対にできん。
でもリアル交友関係のカレカノ事情はキッッッッッッッッッッッッッッッッツイ。一ミリも聞きたくない。
生々しい。これにつきる。同僚や友達のそんなこと聞きたくなかった。私は女だけど男同士でもこんな話するの?それともたまたま私の人生にいた周囲の女性がこんななの?
「ヤッてる途中でゴムが外れてさ〜」「昨日シたんだけど身体怠くてヤバいwww」「彼氏がすごいSで中々イカせてくれなくて…」
毎回「ちょw生々しいwwwてかそれ私に言っていいの?wwwww」って軽く牽制してみるが皆「私らの仲やんw」「処女じゃないんだからw」で終わる。
手前味噌で申し訳ないが、私は軽んじられているのか何なのかだいたいの人に「話しやすい」と言われる。だからなの??????
こう……毎回架空のものに対してノリノリでしょーもない下ネタで楽しんでいると、ふとした瞬間に「この子はそこまで喋っていいんだ」となってリアルな情事話にスライドする。
一応「いやリアルはちょっと…」って言うけどね。言うけどだいたい「え!?さっきまで話してたじゃん!?」ってなる。
違うんだー違うんだよー。フィクションは楽しめてもノンフィクションは違うんだよー。
でも中々わかってもらえない今日このごろ
先ほど、面白いツイートが私のTLに流れてきたので私見を述べる。
『新聞、月5,000円も払って昨日のニュースが紙で届くってやばいな』(原文ママ)
このツイート自体は確か面白いな、と一笑に付したが、そのツイートには大量の同意・賛辞のリプライがぶら下がっていた。
"5,000円で油を取る紙を買っている"
"ぼったくりだ"
やはりこういう意見は少なくないな、と気づかされる一方で一つの疑問が浮かんだ。
"この新聞批判をしている方々の何割が自分の金で新聞を購読している、ないし購読したことがあるのだろうか?"
夜討ち朝駆けという言葉は古い価値観かもしれない。しかし、身を粉にして社会の情報そのものを自らの五感で直接インプットし、それを文字でアウトプットする。そんな自分の仕事にやりがいを感じ、自身のジャーナリズム精神にも誇りを持っているつもりだ。
それでは「新聞こそが公正で正確な情報を素早く伝えるツールとして最も優れている!」と言いたいのか、と聞かれると答えはNOである。
インターネットメディアの急速な発展と共に情報が世界を巡るスピードは目に見えて早くなった。
地球の裏側で起きていることがリアルタイムで手元の端末で確認できる。
何十年も前の『正確・早い・多い』という新聞優位性を持っていた情報の三種の神器は既に別媒体(主にインターネット)に負けているのだ。
実際に私も
こんな記事を書きたいからこういう方からこんな話を聞きたい、と結論ありきの取材を行い結論ありきの記事を書いたこともある。
上司からこういう紙面を作れ、と命令を出され自分が紙面に載せたい情報を翌日に回したこともある。
新聞記事には、偏向とまではいかないまでも記者自身や会社自体の色眼鏡を通したバイアスがかかっているのだ。
しかし、「新聞こそが公正で正確な情報を素早く伝えるツールとして最も優れている!」わけではないにしろ「読む価値があるか」と言われれば声を大にしてYESと叫ぼう。阿呆でなければ。
なぜならば、新聞紙の必要性を語る上で最も大切なのは、その色眼鏡の良し悪しだからである。
新聞は、政治の右派左派、経済の支持不支持、社会記事の着目点。会社によって特色があり、多くの記事は記者の名前が載っている。それぞれの記事が会社としての社会的責任と個人としての社会的責任を抱えた上でなんらかのバイアスをかけられて掲載されている。
自分で直接見聞きしたものを除いて、新聞・ニュース・SNS・人伝の情報に至るまで。
全てがその経路の中であるいは削られ、あるいは付与され、或いは歪められるのだ。ここに例外はない。
(手前味噌ではあるが)優秀な能力を持った記者が他にはない一次ソースから仕入れた情報を提供する。
色眼鏡を通しての内容であることを理解さえしていれば極上の情報であることに違いはないだろう。
さて、私が言いたいのは「新聞を取れ」ということでは断じてない。
なぜならば、そもそもその色眼鏡に対して価値を置いていない人間(以下、阿呆)には新聞というのは豚に真珠もいいところだからだ。
阿呆はいいように削られ付与され歪められた情報を信じ哀れにも踊らされる。新聞を読んだとしても、新聞に踊らされるだけだ。
TwitterでもFacebookでもYahooニュースでもまとめサイトでもYouTubeでもテレビでも新聞でもなんでもいい。
あなたが情報を入手しているツールはどれほどまでに信頼できるものなのだろうか?
そもそも新聞の特長を情報の正確さ・スピードだと考えている人間にはどれほどの情報リテラシーがあるのだろうか?
私が投げかけたいのは、そういうことなのだ。
さて、こういうのは自分は大丈夫だ、と思っている人間の方がよっぽど危険だ、というのはよくある話で。
「なるほど、確かにその方面で働いている人は正鵠を射た発言をするなあ」
そもそも、この記事の冒頭に引用させていただいているツイートのリプライ欄には、新聞が不要だとする内容と同じくらい、新聞の必要性について肯定的な意見を述べているツイートがあるのだ。
いったい、この記事を読んだ内の何割が
と疑問に思い確認し、
とそれを検証しただろうか?
改めて、私が言いたい情報リテラシーとは、そういうことなのだ。
阿呆は鏡の向こうにいる。
ちなみに、そもそも私は新聞記者だ、というのも真っ赤な嘘である。
以上。
中学の頃から腐女子でずっと二次創作をしており、pixivやらTwitterやらでアカウントを転々としつつ、オンライン上のみで活動をしてきた。
描く絵は一枚絵ばかりであり、漫画は簡単な4コマくらいしか描かなかった。
イベントでは買い専に徹し、自分が同人誌を作れるという発想も無く、「漫画や本を作る=とても大変なこと」だと考えていた。
しかし、3年ほど前に某ジャンルに強くハマり、初めて私は「推しカプの本を作りたい」と感じた。
そのジャンルは知名度は高いが、女性向けとしてはマイナー寄りであった。
だが、活動している人はそこそこいた。というより想像よりたくさんいて喜んだ覚えがある。
最初は今まで通りオン専で活動するつもりだったが、自分の作品が今までより良い反応をもらいやすいとだんだん感じるようになった。
今思えば、手前味噌だが私の画力が当時のジャンルの中でも中の上くらいだったことと、貴重なカプ者としてありがたく思ってくれる人達がいたことが理由だと思う。
その時の私は良い評価をたくさん頂けたことで自己評価が高まっていた。
今の自分なら漫画も描けるのではと思って制作した推しカプ漫画も、無事多くのブクマやいいねが頂けた。
丁度ジャンルに来て1年くらいだったと思う。
同人誌の作り方を調べ、とあるイベントを目標に計画を立てて制作を始めた。
しかし、本の執筆は自分が想像していたように大変なことだった。
ネットにあげていた漫画は所詮1〜2pほどであったが、こちらは一気に10倍のボリュームを描くことになる。
上手くまとめないとページが足らなくなったりグダグタになったりする。話の流れで苦手なアングルも描くことになる。などなど…
描いている最中で何度も「本当に面白いのか」「この絵おかしいけど直せない」と虚無に陥りながらなんとか描き続けていた。
自分の絵が嫌いになりそうにもなった。
一方、私が本を作ろうと思い立った半年ほど前に新規の人がジャンルに来ていた。
その人は私と同じオン専であった。しかもTwitterのみでしか活動していない様であった。(以下Aとする)
Aとは私のアカウントをフォローしてくれたことをきっかけに相互となり、絵をいいねしあってたまにリプを送るくらいの仲となった。
彼女の描いた絵は私と同じくらいの評価をされていた…と最初は思っていた。
彼女の絵は、私における「今回は特に反応が貰えたな!」と感じる量のいいねやRTをコンスタントに稼いでいた。
さらにフォロワーもじわじわ増えていき、いつの間にか私の何倍にもなっていた。
私が思う以上にAは絵が上手かった。
私が苦戦しながら原稿を描いている間もAは絵の投稿を続けていた。
最初は私もAの絵をありがたくいいねしていたが、そのうち彼女の存在が私の自信に影を落とすようになっていった。
話は戻るが、なんだかんだで原稿は完成し、サークルとしてイベント参加することを達成した。
私の本を買いに来てくれる人がいたこと、今までネット上でしか知らなかった人達と実際にお会いできたこと、差し入れをいただけたことなど、嬉しいことがいくつもあった。
本の感想をくださる方もおり、喜びのあまり何度も読み返した。本をきっかけにフォローしてくれる方もいた。
何もかもが初めての体験であり、イベント後も1人ずっと感動していた。
また、同人誌の執筆など自分にはできないと考えていたため、自分やれば出来るじゃん!と自信がもりもり湧き出ていた。
そんな時にふとAのTwitterアカウントが目についた。そのフォロワーやいいねRTの数の多さに、途端に自尊心が急降下した。
自分はpixivやTwitterをまめに更新し、本を作ってイベント参加もした。
なのに彼女はTwitterでしか活動せず絵を上げるくらいで呟きも少ないのに私よりずっとずっと多くの評価をされている。
そこが私には許せなかった。
私は必死で漫画を描いてたのに。特に締め切りのない絵を描き散らしてるだけで。調子に乗ってるんじゃねーぞ。とも感じた。
Aは絵を描いているだけで調子もクソも無いのにそう感じていた。
そのうち、この感情はAだけでなくオンライン上の狭い範囲でしか活動していない人全てに向かうようになった。
今まで仲良くしていた人達の活動履歴を探り、オフライン活動のある人としか仲良くしないようになった。
評価の量は自分の技量の問題であるし、本を作ろうと思ったのは自分で決めたことで、それで苦労をしたのも自分の技量のせいである。
Aを含めた「オンライン上でのみ活動する人々」には何も関係のないことである。
なのに私は彼らのことを「オフライン活動をする度胸のない奴ら」だと感じている。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200416-00000561-san-bus_all
今だこんな事を言い出しているのだから救えない。
しかし経済同友会にしろ経団連にしろ、世界のこの手の似たような連中にしろ、この様な手前味噌な利益追求のみをした連中が、医療や保険にも口出しして削減させ、このコロナ禍の遠因になったのだから皮肉だよね。
イタリアの医療崩壊にしてもその構図だし、日本でも医療や保険方面の改悪もあったわけなのだから。
何にしろ今後世界は色々な意味で過剰なグローバル化からローカル化に向かうのはこのコロナ禍でさらに加速するだろうし、今の過剰なまでの株価のみを重視した社会も見直されるきっかけが来るかも知れんね。
今後はそのローカル化の経緯で中国経済も悪化する可能性も普通にあると思うし、場合によってはこんな連中こそ糾弾される可能性もあるかもね。
インディーズ時代からずっと応援してたバンドが最近売れつつある。
テレビにも出る機会が増え、日を増すごとにファンが増えていってる。
昔はキャパ200人のハコですら埋まらなかったのに。すごいな。
ずっと売れて欲しいと思ってたけど、最近ファンが増えれば増えるほどもうファンやめようかなと思うほど辛い。
「推しが売れると自分から遠い存在になってしまって空しい」的感情じゃない。
バンド名で検索すれば、毎日のように好きなバンドがつまらないオタクのおもちゃにされてるのが目に入ってきて辛い。
売れるってこういうことか。
推しの地元の友達とのオフショットや卒アル写真、過去のSNSでの発言や元カノとのプラベ写真まで掘り返されておもちゃにされてる。
有名人には何をしてもいいと思ってる奴らの大喜利ほんとにつまんねーんだよ。
古参ファンが「手前味噌ですが最近の新規ファンにわかりやすく○○をご紹介します。
こういうところがキモいけどそこは見逃してやってね^^;」的に
推しをサゲて貶しながら内輪ネタ満載にキモいプレゼンしてるのも吐き気がする。お前誰だよ。
検索避けもせず性欲丸出しにして発情してるミーハーなおばさん、
毎日無断転載していいね稼ぎしてるキモオタ、出待ち自慢、死んでくれ。
いくらミュートやブロックしようとそういう人はこれからもどんどんわいてくる。
私は愛国心というものにやや抵抗があるのだが、内心を分解すると、愛国心は利己主義に繋がりそうだという感覚が基本にあるからだと思われる。
利己主義とか言い出すと言葉が強いので反発を喰らいそうなのだが、実感はもうちょいふにゃふにゃで、
「人間、何やかんやで自分が所属してるグループや地域や国はエコヒイキしちゃいがち。
それを予防するために、普段から自分たちのことは意識して厳しく見るくらいで、バランスがよくなる。
愛国心とかはむしろ自分たちを甘く見る理由になりやすいから、警戒しておいた方がいい」
という感じだ。
これは、政治的な主義主張や、国際的なパワーバランスみたいなデカい話よりも、「手前味噌や自惚れはちょっと恥ずかしい」という日常感覚の延長にある。
他人に己を自慢すること、また他人にアピールせずとも内心で自惚れているのは格好悪い、というのが心の根っこの辺りにある。
更にその延長で、「人間はついつい自分に甘くなるから、自分に厳しく他人に甘くしようと意識して、やっと客観的には公正に近くなる」というわけだ。
この「自分に甘くなることに備えて、常に謙虚を意識しよう」って感覚は、百パー的外れではないはずだ。(そう思ってること自体、自分に甘いのかもだけどね)
世の中を見ても、信頼されていた人が身内や自分自身については甘いことを言って株を落とすケースや、中立なふりをしてポジショントークしまくってる人は多い。
私自身も、友達と喧嘩したり、同僚内で立場が悪くなった時に無理な自己弁護をしてしまい、五年後とかにやっと頭が冷えて「あの時の自分クソダサかった~はずかし~謙虚さ足りね~!」となった思い出は無数にある。
学校やら物語やらでも、自分に厳しく他人に甘くは基本的に良いこととして語られてきた。
その一つは、最近よく話題になる、「楽しく生きるには自己肯定感が大切なのに、欠けている人が多く、獲得するのも難しい」という話。
自分に厳しく他人に甘くという意識は、たぶん自己肯定感を削るだろう。
私は「人間は自然と自分に甘くなる」というのを前提としていて、
つまり「人間は自然と自己肯定感過大になるから、それを謙虚さで縮めて、ちょうどよくなる」というのに近い理屈なわけだが、
自己肯定感はそうそうデカくならねえよ、となれば前提から崩れる。
実は昔から自己肯定感を獲得するのは難しいのか、時代の流れで得づらくなっているのか、ネットで声をあげるのは情緒不安定な人が多いから自己肯定感欠けがちに見えるだけで実社会では自己肯定感デカい人が多数派なのか、気になるところだ。
また、「国を愛して力を貸すことは、自分じゃなく周囲のために力を貸そうって感覚だから、利己じゃなく利他だ」という反論もできるだろう。
これは、「己」や「身内」をどこで線引くかという話だ。
私の線引きは、どういう規模の話をしているかによって変わる。
国際的な話をする時は、だいたい日本までが身内だと思っている。
身内に厳しく他人に甘く、よって愛国心は厳しく見た方がいい、という感じである。
だが日本社会だけの話をする時は、個人や家庭や企業などの単位が身内で、他の個人や企業や日本社会全体が他人とすることが多い。
この規模での身内に厳しく他人に甘くというスタンスは、社会貢献や、福祉推進をしましょうって形になる。
日本社会を上手いこと回そうぜという意識なので、これは愛国心推進と言ってもいいと思うが、そう呼んだり呼ばれたりすることは少ない。
(実際、セーフティネットやベーシックインカムの議論で、愛国心というワードが出ることは多くないはずだ)
自分はだいたいこういう感じなんだけど、世の中的にはどうなんだろう。
利己主義・自己愛・自惚れなどが強くなりすぎないよう普段から自戒しとこう、自分に厳しく他人に甘くいこう、その一環で愛国心は警戒した方がいい、ってのはどんくらい同意されるんすかね。
20代女同士の友人である場合、食事・遊びの際の支払いはおそらく大多数が「割り勘」となるだろう。
どちらかの誕生日や何かしらのお礼等のイレギュラーなケースを除けば大体がそうだと思う。
かく言う私も外食であればそうなる。私は酒を飲まないので、のんべぇとの食事であれば飲酒する友人が少し多めに支払うことはあるが、概ね対等・平等・公平だ。
だが、その均衡がどういうわけか狂う場面がひとつだけある。
あまり得意ではない、あるいはまったくしない友人等が自宅に来ると料理を振る舞う。
一人暮らしを始めた当初に「遊びにきて」と私が誘い、以降この“食事会”は3~6ヵ月のペースで、もう5年程開催されている。
このところは友人の誰かが「○○のうちでご飯食べたい」と言い出して開催する流れが多い。(つまり、私が“招待”しているわけではない)
そんななか、彼女等はいつも食事代を支払わない。正確に言えば、最初の数回以降、支払わなくなった。
友人等がやって来る際に私がしていることは以下の通りだ。
・当日朝までに食材の買い出し(人数にもよるが、大体6,000円~9,000円)
・友人の到着までに調理(だいたい4~6品)
・友人等が帰ったあとの片付け
昼にやって来て19時前に帰るのが定番のパターンであり、その間に様々な話をするが、帰る間際になってもそこにいる友人1~3人、誰の口からも「いくらか出すよ」の「い」の字も出ないのだ。
始めの頃は違った。「一律で1人2,000円(3,000円だったかもしれない)お金を出すよ。もし多かったなら次回の資金に回して」と友人みずからルールを決めて数回の食事会を過ごしていた。それが、いつのタイミングからか改定されていたのだ。
食事会に参加していない友人も交えた会話のなかでの彼女(前述のルールを決めた張本人)曰く「デザートは私が買ってくの。それでトントンになるから」とのことなのだ。
たしかに食事会の計画中に「ケーキは私が買ってくね」と宣言し、実際に人数分買ってきてくれるが、「それでトントンにする」とは一言も打ち合わせしていない。
デザートが1人600~700円、3人分なら2,000円ほどになり、なるほど友人は食事会開始当時とおなじ金額を支払っているのだろうが、私は6,000円~9,000円を費やしているのだ。その金額そのものをまったく補えていないではないか。
重ねて言えば、私の超個人的な意見ではあるが、訪問時の手土産はマナーであって「トントンにする」材料ではない。買ってくるように、と指定されたものでなければ勘定に入れるべきではないと考えている。
前回までは改定ルールが適用されていたので、私はつい先日の食事会は以下のようにした。
「トントンにする」材料がない友人等はどうするのだろうか? と半ば試すような気持ちで友人2人を迎えた。
結果……彼女等は、やはり「いくらか出すよ」の「い」の字も出さなかった。
誤解が生まれないように注をつけるが、友人等は決して常識外れではなく、育ちが悪いわけでもない。頭も良いほうだ。
冒頭に書いたとおり外食であれば割り勘であるし、いくらか自分のほうが多く負担すべきと思う場面ではそれを申し出たりもする。
だのに、私の家での食事だけ、どうしてこうなってしまうのだろうか。
私が自発的に「きょうはお金を出さないで」と言ったときがある。友人の誰かの誕生祝いをした際などは祝うべき友人だけでなく皆からも受け取らなかった。
また、私の実家に友人2人(食事会にもっとも来ている)を過去2回招いた際はすべて私と私の両親が持つ「おもてなし」であった。
たった数回ではあるが、それらを経て私から提供されるものがすべて私持ちであると勘違いした?
②ただただ度忘れしている
食事会が始まった当初のルールや、当日にすべき支払いを忘れてしまっている。
私は金銭を請求する等の行為は一切しないので(借金取りのようで卑しく感じるため)、リマインダーもおらず疎かになる。
料理をほとんどしないがゆえにその食事に必要な金額をかなり低く見積もっており、支払う必要もないと感じている。
友人等はアイドルの追っかけや二次創作等、なにかとお金のかかる趣味を持っている。
私の家での食事会は、改定ルール(もはやそれさえ改定されているが)であればどんなお店よりも安く遊べるので“上手に利用している”。
またしても注をつけるが、私は決して友人等からもらえなかった数千円が惜しいわけではない。
そもそも金銭的に厳しければ食事会など開かないし、それなりに資金があるからこそしっかりとした支度をするのだ。
納得ができないのは、
・どんな事情であれ同い年の友人からの“タダ飯”に平気でいること
・それを繰り返すこと
なのだ。
家に遊びに来てくれるのは嬉しい。手製のご飯を「おいしい」と食べてくれるのも嬉しい。「また作って」と言ってもらえるのも嬉しい。
だが、その嬉しさだけではやっていけない。
私が切り出さなければならないのだろうか。どんな理由があるかも分からない(ほとんど分かっているが……)のに、数千円をケチケチと追いかけるような真似をしなければならないのだろうか。
数年前からの不満がとうとう一杯になってしまった。「また作って」の「また」は一生来ないかも知れない。
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9/16追記
たくさんアドバイスをありがとうございます。ずっと抱えていたモヤモヤを吐き出すためアカウントを取得し初めて投稿したので、こんなにお声が返ってきたことに驚いています。
①私がなぜそんなにおもてなしをしているのか
「変なものは出せない」「やるからにはキチンとしよう」という意識からです。
前述のとおり食事会の始めのころは一律の出資額がありました。「一律2,000円(3,000円?)」と決めたのは友人ですので、2,000円出してもらうに相応しいものを継続している、という認識でいます。
「言えばいい」「どうして言わないの?」とたくさんお声をいただきましたが、お金の話はやはり切り出しにくいです。
食事会とは別の場面でも「チケット代○○円だったからね」→「いま細かいお金ないや。後で良い?」→忘れられる、というケース等あります。何度も「ねぇ○○円だよ」「○○円ちょうだい」と言うのは(言ったことはありませんが)ほんとうにしんどいです。
そういった経験から「ひとり○○円ね」と発することにも抵抗を感じます。チケット代等ならまだしも、かつて友人が決めた一律額や私がした買い物の金額となると、よりハードルが高く感じられます。
私が払う立場の際は、たとえば映画のチケットを買っておいてもらった場合、会ってすぐか、席に腰を下ろしてすぐに支払っています。
食事会をするメンバーとは別ですが、友人宅で手作りご飯を頂いたこともあります。その際はケーキを持参しつつ2,000円受け取ってもらいました。自分がお金の請求に苦しむ性分なので、金額が分かっているものはすぐに出す準備をし、分からないものは気持ち多めにして先回りの形を取りがちです。
繰り返しになりますが、もらえなかった数千円そのものが惜しいわけではありません。食事会の半分以上が“タダ飯”なのにいまなお続いているのも、金額そのものが惜しいわけではないからです。
とはいえ、“タダ飯”を平気でする友人に「どうして?」「なぜ?」と疑問が湧いてしまうのも止められません。
③今後について
20代半ばを過ぎ仕事に自信がつき始めた頃、現役で東京大学に通う男性の筆下ろしをした。3本。手前味噌だが私は容姿に優れている。胸こそ味気ないCカップだが、顔面や頭身の良さには自信がある。有名私大卒業後、外資系企業に勤め現在の年収は900万。正直何も苦労したことはないし、自分にも自信がある。モテる。
困ったことに、童貞が好きで仕方ない。どれだけ社会的にステータスが高かろうが、心が優しかろうが、性行未経験の男性には全く敵わない。なぜ童貞たちは童貞であることを恥じるのか。ああ、その恥じらいさえも愛おしい。
童貞であれば誰でも愛おしく思える訳ではない。大きく3つのポイントがある。まず一つ目は「今現在、童貞である」という状態を説明するに十分なエピソードを有していることだ。具体的には、湧き上がって仕方がない性欲を我慢してまで何に時間とエネルギーを費やしていたのか、いかにこの対象に価値があるかを語れるかが重要になる。私が嗜好する東大生の場合はそれが勉強だ。デートの際、行為に移る前は必ず、どれだけ勉強を頑張ったのか、それはどれだけ大変なことだったのかを話してもらう。自分が頑張ったことを話し褒められると、自然と彼らは自信を持ち始める。お姉さん褒めて、と言わんばかりに模試の順位自慢まで始められた日にはたまらなかった。
2つ目は圧倒的な最高体験を積んでいることだ。申し訳ないが自堕落な生活や平凡な人生を歩んできた童貞には、一切の愛情が湧かない。自他共に「凄い」と思える成功を納め、一見誰もが羨む人生を歩み始めているものの、「童貞」である自分を恥じながら生きる。このコントラストがたまらない。お姉さんはついつい「そんなことで悩んでいたの?可愛いね」と、内腿を濡らしながらハグしてしまう。
3つ目は上手くSEXが出来ないことだ。技術革新に繋がる高度な研究をしている彼や宇宙の流れを解析している彼も、難しい数式や言語を扱えても自分のおちんちんはハンドルできない。いざ行かん!と張り切って出陣するものの、結局最後はお姉さんに手綱を委ね甘えん坊やになってしまうんだからたまったものではない。これもある意味コントラストだろう。一生懸命な様子で初めてを経験しているこの子の頭の中には、たくさんの学が詰め込まれている。それなのに上手く自分を扱えないなんて!お姉さんがお手伝いしてあげる!と、我慢できなくなる。
男は竿ではない、才能と努力だ。これは竿的な意味ではなく、これまでの人生でいかに自分と向き合い研鑽を重ねたかということだ。貴重な青春時代に全力で何かに挑戦しその成果を納めた竿君たちは童貞であることを恥じる必要は全くない。恥を知らなければいけないのは努力を怠り自分に甘く生きてきただらしのない男たちだけだ。努力出来る人間と自分に甘い人間、どちらの方が多くの女性にとって魅力的であろうか。これは決して童貞に限った話ではないのだ。
エリート童貞好きは大変だ。私は歳をとるためいつまでも若い男の子に相手にしてもらえない。また、無事筆下ろしをしてしまったら彼はnot anymoreだ。自分で自分の宝物を手放す寂しさを感じ続けなければいけない。いつまでも続けることができない有限性も熱くなってしまう理由の一つかもしれない。
童貞のみんなには女の子を気持ちよくさせる方法を調べる前に、目の前にある自分がやらなければいけないことを確実に行い、旗を高く掲げ、そこへ全力疾走してほしい。ゴールについた時にはきっとステキな女の子があなたの隣にいるから。
カボチャの旨味の美味しみに
すっかりハマってここんとこずっとカボチャ多目よ。
スプーン一杯で1日の野菜350グラムノルマは楽勝って感じの、
この上なくこんなに簡単に野菜が摂れちゃっていいのかしらって思うぐらいよ。
何故なのかは分からないけど、
このカボチャ率は高いわ。
肉よりもカボチャ!って感じ。
たまにエラー画面でお目見えするシナモンを見ると思い出して涙が出ちゃうわ。
ご、ごめんタマネギ刻んだせいよね。
涙拭くね。
そんなわけで、
う、うまい!って
ってややこしいわーい。
うふふ。
味見も兼ねて頂いたわよ。
美味しくできてルンルンだわ。
もちろんそれも消化しなくちゃだけどね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
https://anond.hatelabo.jp/20190801112840
↑買いましたここまで↑
さらなる貴重なご意見ありがとうございます。
「ウケる~(バズって)よかったね」とのことです。
→私は平日日中の分は夜まで残してもらって一向に構わないが、
妻としては気後れするところがある。
・幼子二人がいる状況では、少しでも手間を省きたい。
・上述のような心のもやもや/引っ掛かりを購入することで解決したい。
ということで、購入の方向で決定です。
食洗機の話題から夫婦関係、家事育児問題まで幅広くご意見頂き、
皆さんのご家庭の状況も少し垣間見ることができ、
(余談ですが個人的に思ったのは、手洗い好きが思ったより少ないな~という点です)
また、増田を書くのは初めてで読みづらくなってしまったかと思いますが、
「導入すべきか」→「導入」という結論に至りましたので本件は
同じようなご家庭の参考になるかなーと思っています。
それではさようなら~
↑妻に見せましたここまで↑
貴重なご意見ありがとうございます。
洗濯(平日夜)、掃除(週末)は率先して私がやっています。(もちろん妻もやってくれます)
→上の子(保育園)の送り迎え、お風呂に入れる、薬を飲ませる、寝かしつけ、やっています。
もちろん一緒に遊ぶことも。子供の状況や時間をみて、こちらを優先し、家族が寝たあとで
洗い物をしています。手前味噌ですが、一人で一日中子供の面倒を見ることも何ら苦では無いです。
※上記のようなコメントを読むとテレビで見るような家事育児をしない夫って
導入して手洗いと併用すれば、という建設的な意見も頷けますし、
妻が欲しいを言ったものを買わなかったことってあまりないので、結局は買うことになりそうですが、
・設置スペース
→我家のキッチンは
シンク/作業台?/コンロの順で並んでおり、設置するとしたらシンクと作業台の間になります。
そうすると、シンクと作業台のやりとり(野菜を洗って作業台上のまな板に移すとか)が分断され、
少し不便かな?と。
↑追記ここまで↑
・核家族
・子供2歳、0歳
しかし、我が家の食器洗い(含む台所周り掃除・ごみ処理など)は
なんの苦もありません。
よって、私は食洗機いらない派なのですが、妻は欲しがっています。
食器洗いが嫌いな妻としては……
・私(夫)が大変そう。(上述の、私が食器洗い好きだというのは説明済み)
食器洗いが好きな私としては……
・手洗いに対して時間がかかる。
手洗いなら平均10分、1日分ためたとしても20分で終わる。)
(私は洗う食器が少しでも出たら洗いたいので、
それならば食器洗い好きとしては、手洗い一本で良い)
・騒音
夏も近づく八十八夜~
ヘイヘイヘイ!
なんとか間に合って降車口のブザーを押して「乗りまーす」って運転手さんに知らせてたんだけど、
その様子がまるで
バラエティー番組とかでよく見る、
クイズ対決中の芸能人が遠くから走ってきてカメラの前のピンポン押す様に似ていてちょっと笑っちゃったわ。
あるいは、
ビーチフラグで猛ダッシュで走ってフラグ取りに行く感じの様にも似ていたわ。
もうすぐ夏ね!
しかしあれよね、
違うナシゴレンじゃなくてなし遂げてないの間違いだったわ。
のこり3日あるし、
もう今日は終わったも同然なんだけど、
でもおかげ様でしっかり睡眠は取れてるような気がするわ。
久しぶりにお料理もしたし、
どちらでもいいんだけど美味しいんだからね!
手前味噌なんだけど、
って味噌味じゃないんだけどってもうややこしいわっ!
あんまり家に調味料がないので塩コショウかお醤油でキメちゃうわ。
それでも美味しいわよ。
今日も何かスーパー寄って美味しそうなものがあったらまた料理したいわね。
ついてるわー。
そう!
でも大丈夫だもんね!
そんなこともあろうかと結局オンデマンドで観れるようにしちゃいました!
それはそれでいいんだけど、
これを一気にまた消化するパワーが必要ね!
それもゴールデンウィーク中なし遂げたい事の一つね!
もうさやりたいこと思い付いても忘れちゃうので、
うふふ。
最寄りの駅なんだけど、
もうどうしてもどうしてもお蕎麦食べたくて、
駅員さんにお蕎麦だけ食べに改札入っていいですか?
それ以来たまにそうやって改札入れて貰ってお蕎麦を食べるのが美味しいのよねこの背徳感!
夜は早くに締まってしまうので、
なかなか朝寄ることもできないから、
ゴールデンウィークならではよね!
うふふ。
白アスパラが美味しそうだったので、
半分サラダにした残りをホワイトアスパラウォーラーにしました!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
※ この私見はすべて、twitter上で喪女と名乗ることについてに限定したものです。
10日くらいに、新しいtwitterアカウントを作った。リア垢オタ垢美容アカ勉強アカ裏垢… いろんな種類と界隈を選べるtwitterの世界で、わたしは新しいアカウントで、恋活界隈に片足を、そして喪女界隈に片足をつっこむことにした。
ウィキペディアで“喪女の定義”という項目を見ると、4つの条件が明記されている。①交際経験が皆無 ②告白されたことが無い ③純潔である(処女) ④恋愛感情をもたれたことが無い
これと同時に、「誰が喪女を名乗ることを許されるのか」という論争も触れられている。
ここで論点となるのが、「ネ喪」の存在だ。ネ喪とは、上記4つの条件を全て満たしていないが故に、本来は喪女を名乗ることが出来ない女性たちだ。しかし、それにも関わらず喪女を自称する場合にはネ喪だとカテゴライズされる。
4つの条件のうち満たしているのは「純潔(処女)である」というものだけで、彼氏は過去にふたりいて、告白は片手ぶんの男性にされ、これらから予想するに恋愛感情を持たれていた。しかし、喪女を自称している。
新しいアカウントを作るより前から、喪女の定義についての論争が絶えないことを知っていたので、bio欄には“セカンド喪女”と書いた。手前味噌だが、なかなか良いと思う。
わたしは9年前を最後に彼氏がおらず、最後に告白されたのが8年前で、それゆえ8年前から恋愛感情を抱かれたと確信したことはない。
わたしとしては正直、自分が喪女だろうがネ喪だろうがセカンド喪女だろうがどうでもいい。酷く綺麗事のように聞こえるだろうが、わたしはわたしだからだ。
しかし、わたしのなかで渦巻く感情を、同じような感情を持つ人と共有したい。
わたしは、8年間男性に選ばれない人生を過ごしてきた。それが9年、10年…と続いていくであろうことも、ぼんやりと予感している。
そういうことの辛さだったり、鬱憤や開き直りを共有できる女性かどうかは、“喪女の定義”を満たしているか否かでは測ることができない。したがってわたしは、ツイートの言葉とそこに現れる感情を読み取って、フォローをする。いいねをする。
自分のbioにセカンド喪女と書くのは、自分の状況を誰にでもある程度まで察させる言葉だと思うからである。しかし、ツイートでは自分を形容するのに喪女という言葉を使う。セカンド喪女という言葉が自作であり、また文字数の観点から、喪女という言葉を用いるのがいちばん便利だからだ。
いちツイートを切り取ってみれば、わたしがbioでセカンド喪女を自称していることは意味をなさず、わたしは分かりやすいネ喪となる。わたしのツイートは、そういった意図の有無に関わらず、冷やかしやマウンティングだと捉えられる。
それが、人を傷つけているのだという。
理解はできる。
ある特定の条件を満たす人たちを名付けるという行為は、「わたしたち」と「あのひとたち」を明確にすることであるとわたしは考えている。強い言葉を使うと、分断だ。
この行為には往々にして、「本当の〇〇とは何か」という論争がつきまとう。本当の日本人とは?本当のファンとは?本当の喪女とは?
「本当」を自称できる人々は、強い。揺るぎないアイデンティティと、言葉から香る正当性に支えられるからだ。自然と人々のあいだの団結も強まる。故に「本当」の人々は、さらに声高にその根拠を叫ぶことができる。
一方で、マージナルな位置に存在する人々はそうはいかない。意見や感情を主張する前に、そのアイデンティティを確かにすることに注力しないといけないからである。「本当」の人々の揺るぎなさと相対的な弱さに、どうにもならない焦燥を覚えたり、傷つくこともある。
わたしの個人的な意見としては、そこで停滞していたくないのだ。ラベリングやカテゴライズを飛び越えて、感情を共有したい。
そう考えている人は、少ないだろうか?
冷やかしやマウンティングのために、心にもない理解や同意のポーズを取るのは論外である。心が貧しい。
しかし同時に、強者の立場を利用して分断の線をはっきりと引くのも、同じくらい受け入れ難いことだ。
喪女を自称する人々は、自分のことをある種の弱者だと自虐することや、恋愛経験がある人を強者とみなすことが多い。これは「本物」と「マージナル」の強者と弱者の関係とは全く逆で、それゆえにこの「強者」の構造が見えづらくなっている部分があるはずだ。
なんだかとりとめのない文章になってしまったが、わたしが感じているのは「ラベリングではなく、その考え方や抱いている感情で相手と向き合うほうが心地いいのではないか?」という簡単なことだ。
新参者のわたしが、長く続く論争に注ぐのは油でも水でもないはずである。
これを読んでくださった方が、こういう考えの人もいるのだと知ってくれるのであれば嬉しく思う。