はてなキーワード: 通り魔とは
同胞よ、反応があって嬉しい。おれは野良の哲学愛好家だ。知的生命体の邂逅を描いたSFが好きだ。人類学が好きだ。歴史が好きだ。地学が好きだ。知的な駆け引きが好きだ。研ぎ澄まされた統制術が好きだ。肉体的限界を超えようとする挑戦が好きだ。地道な研究による技術の発展が好きだ。ユーモアが好きだ。人類の英知が好きだ。親が好きだ。兄弟が好きだ。兄弟の家族も好きだ。妻が好きだ。質や量を問わない様々な情報の統制機構がおれだ。おれは公私があって、人格を持っている。特に説明のない語は、現代日本語の辞書をググってなんとなく多数派なふわっと一般的な意味で捉えてほしい。誤解の可能性のある語や別の定義を仮託したい語は、云々とは、と書く。
早口っぽくて申し訳ないが、これはまもなく命を失う可能性のあるおれ個人の遺書であり、遺伝子であり、知性の漣を発生させる小石であり、財産相続であり、ディープインパクトであり、ネット上の記号であり、図書館のガラクタであり、くだらない承認欲求の衝動的発露なんだ。紙媒体にも書いたが近親者しか読まないだろうし、読まない可能性もある。肉体的末裔を遺せない知性的個人としては私(し)を遺しきれないと思ったんだ。悪く言えば知性的通り魔だ。すまない。
野良なので語の定義がガチャガチャだ。批評してもらえると嬉しい。
世界とは、場、範囲。すべての社会。ここでいうすべてとは、意識上、無意識下のみで、不可知を含まない、限定的な意味。社会とは、複数の個人の集まり。まるで機械のようにふるまったり、大きな個人のようにふるまうこともできる。個人とは、人類のうち、外的要因を受けて認知し、内的要因を加えて表現し、社会と取引する主観。個人は社会の主であり、友であり、子でもある。個ではなく個人とした理由は、時代的背景として保留したい。肉体的生命、人間、新人、ほ乳類、動物、生物とその無生物的ふるまい、無生物の生物的ふるまい、ミーム、知性体、人工主観、共有された主観などを考慮する必要性もあるが、保留したい。主観とは、客観に対する語であり、subjectや主体とは別け、現代日本語的に理解してもらいたい。機械とは、入力に応じて定まった出力を行う機構。
平和とは、状態。穏やかで、かつ調和が保たれている状態。穏やかとは、①不信、不満、不可逆性、不確実性を内的要因に含まない、個人の状態。②主体性をもち、共感しうる、個人の状態。③肉体的闘争の無い、社会の状態。不信とは、信用や信頼のないこと。不満とは、欲求や権利などが満足しないこと。主体性とは、意識上の表現を実現する能力や可能性。肉体的闘争とは、個人の臓器や器官の機能を減退させる、個人対個人、個人対社会、社会対社会の干渉現象。犯人逮捕、子の虐待、直接的死傷者が出る国家間戦争などを含むガバガバ定義。闘争とは、場の範囲を別ち干渉し合う現象。関連して、個人的闘争とは、感知と認知と表現の隙間や意識と無意識の隙間や主観と肉体の隙間などの、個人の内的な場に起こりうる干渉現象。教育、先入観の体感的獲得、気分障害、倫理観などを含むガバガバ定義。思考は個人的闘争である。意識とは、感知して統制できる一部の主観。調和とは、①主体性をもって個人たりうることを保証し合う社会。②内的要因と表現された自己疎外が正の関係にある、個人の状態。
狭い意味としては、調和の①の意味、複数の個人つまり社会が、互いを外的要因として認知し合い、内的要因を加えて表現し合うことに合意した状態。広い意味としては、調和の①の意味に加えて、穏やかの③の意味を含める。別の意味としては、すべての個人の人権が実現する世界の状態。世界平和の観測者は個人である。おれとあなたの世界平和は別だろうが不可知だ。
割と簡単に死にたくなる。
最初に死にたくなったのは親が死ぬのを想像したときで、その次が部活をやめたくなったとき。友達から仲間外れにされるようになったとき、受験が不安だったとき、両親が喧嘩してるのを見たとき、母が死んだとき、受験に失敗したとき、浪人してるとき、卒論が上手くいかないとき。死にたくなった。
みんなで遊んだ帰り道、すごく楽しかった日の夜布団に入ったとき、燃える夕焼けを見たとき、夜中一人でキッチンに立つとき、死にたいな、とふと思い出したように考える。
悲しいとき、死ぬなら劇的に死にたいな、と思う。たとえば交通事故に遭う、通り魔に刺される。小さい頃はよく、家出中にそのまま死んでしまって後から発見されるっていうのを想像していた。
そうでないときは、今この場で消えてしまいたいな、というくらいの気持ちで死にたい。もしくは、寝ている間に死んでしまって、いつまでも起きてこない私を心配した家族が私が死んでいるのを見つける。
私の死をみんなが悲しむ。私がいなくなって初めて、どんなに私が大切な存在だったか、どんなに良い子だったか、気がつく。死んだ私の前で私に生き返ってくれるように望む。目覚めない私を前に泣く。
「死にたい」とGoogleの検索窓に書いてみる。いのちの相談窓口を紹介される。それを無視してYahoo!知恵袋や教えて!gooの書き込みを見る。眺める。読みはしない。
うつ病診断や不安障害診断のチェックリストやテストを受けてみる。重度の結果が出る。病院への診断を勧められるけれど、病院へは行かない。
私はうつ病や不安障害なのかもしれないけれど、病院へ行けばそうではないと言われるかもしれないし、これはただの性格の問題や一時的な気持ちの落ち込みなのかもしれない。あなたは正常ですよと言われるのが怖い。うつ病や不安障害の人は自分を健康だと思っていて、うつ病や不安障害の診断が下されることが怖いらしい。だから私はきっと健康なんだろう。だから病院へは行かない。Googleでもう一度「死にたい」と検索する。
別に死んでしまいたいわけではないし、やりたいこともたくさんあるような気がするから長生きしたい。けれど先のことを考えると不安になってしまうし、失っていく若さのことを考えると未来が怖い。
楽しそうな友達が分からない。理解できない。なぜ彼らは不安なんて何もなさそうに毎日を過ごしていられるのだろう。でもきっと言わないだけで何か抱えているものは誰にでもあるんだろう。それでも私とは見えている世界が違うように感じる。他人のことが分からなくて怖い。
Twitterは見られない。
きっとただ考えることが面倒くさいだけで、ただ明日学校から帰ってきたら何をするかってことしか考えていない小学生時代に戻りたいと思っているだけなんだと思う。それが死にたい気持ちの正体なんだと思う。
本当は明日何がしたいかってことだけ考えていれば毎日は楽しくて十分なのに、考えることに慣れすぎてしまって、多くを望みすぎるようになってしまった。
改めて、この気持ち悪さを考えてみたが、学校のイジメの脱出方法の少なさを髣髴とさせるからかもしれない、という個人的な意見であるが。
学校のいじめの場合でも同じ事がおきる。加害者は複数いるためか、「俺のせいじゃない」、「俺は責任とらない」という。しかしなぜか「被害者が落ち度があったのでは」ということで「喧嘩両成敗」とかバカみたいなことを言う教師や大人がいるのだ。
「被害者がこんな服装をしていたからだ(大抵は良くある服装でむしろ地味)」、「隙があったからだ」、「こんな時間に出歩いていたからだ」、「一人で歩いていたからだ」など無茶なことをいう。
これは、あおり運転で追い掛け回された人も同じように謝罪させらるるような問題なのか?
被害者が謝罪するのは違う!と思う。被害者は守られるべきであり、加害者は更正できるような道にいくべき。
これも確かに。
今、関係者はおとなしくして「世間には、とっととこの事件を忘れて欲しい」と思っているのだろうけれども、被害者は忘れるもんか。
アイドルじゃなくても、我々も同様に、いつ被害者になるかもしれない。突然マンションに帰宅したときに、襲われ、加害者はのうのうとしているのに、被害者は名前も出され、顔出し、そしてなぜか”世間をお騒がせして申し訳ございません”と謝罪させられる・・・。
これでは異常だ。
努力したくないなんにもしたくない
親に高いお金払ってもらって塾だって行ってるのに隠れてサボって嘘ついて
大学受験しなきゃいけないのにどうしても行きたくない(めんどくさいから)し、生きてても楽しいことより辛いことのが圧倒的に多い
あと何十年も耐えられない
将来のことを考えなくちゃいけないのに自分の未来は真っ暗で考えるのが怖い
死にたいしか考えられないし常に自死の方法や前準備のことを考えてる。
一丁前に「周りに迷惑かけたくない」とか言って自殺しないクズ。早く死ななきゃいけないのに。
親に「死にたい」と言っても甘えだ逃げだちゃんと現実を見ろと言われる。まあそりゃそうだわな
でも死にたい気持ちは本物だしこの気持ちのまま生きるのは正味キツイ
無責任で不謹慎なことを言うようだが、今すぐ死ねますよどうですかと声をかけられたら喜んでついていきたいと思うしいっそのこと通り魔に一発で仕留められたいとも思う
無気力症候群というものに大いに当てはまる。きっとそんなのは思い込みで甘え怠けなんだろうが
寝たらまた明日が始まる
自分は最低だ
早く死にたいな
誰かがブラごとずりおろすの?通り魔じゃん…