2019-01-22

カジュアル死にたい

割と簡単に死にたくなる。

最初に死にたくなったのは親が死ぬのを想像したときで、その次が部活をやめたくなったとき友達から仲間外れにされるようになったとき受験不安だったとき、両親が喧嘩してるのを見たとき、母が死んだとき受験に失敗したとき浪人してるとき卒論が上手くいかないとき。死にたくなった。

悲しいときや辛いときだけじゃない。

みんなで遊んだ帰り道、すごく楽しかった日の夜布団に入ったとき燃える夕焼けを見たとき、夜中一人でキッチンに立つとき死にたいな、とふと思い出したように考える。

悲しいとき死ぬなら劇的に死にたいな、と思う。たとえば交通事故に遭う、通り魔に刺される。小さい頃はよく、家出中にそのまま死んでしまって後から発見されるっていうのを想像していた。

そうでないときは、今この場で消えてしまいたいな、というくらいの気持ち死にたい。もしくは、寝ている間に死んでしまって、いつまでも起きてこない私を心配した家族が私が死んでいるのを見つける。

私の死をみんなが悲しむ。私がいなくなって初めて、どんなに私が大切な存在だったか、どんなに良い子だったか、気がつく。死んだ私の前で私に生き返ってくれるように望む。目覚めない私を前に泣く。

死にたい」とGoogle検索窓に書いてみる。いのち相談窓口を紹介される。それを無視してYahoo!知恵袋や教えて!goo書き込みを見る。眺める。読みはしない。

うつ病診断や不安障害診断のチェックリストテストを受けてみる。重度の結果が出る。病院への診断を勧められるけれど、病院へは行かない。

私はうつ病不安障害なのかもしれないけれど、病院へ行けばそうではないと言われるかもしれないし、これはただの性格問題一時的気持ちの落ち込みなのかもしれない。あなたは正常ですよと言われるのが怖い。うつ病不安障害の人は自分健康だと思っていて、うつ病不安障害の診断が下されることが怖いらしい。だから私はきっと健康なんだろう。だから病院へは行かない。Googleでもう一度「死にたい」と検索する。

別に死んでしまいたいわけではないし、やりたいこともたくさんあるような気がするから長生きしたい。けれど先のことを考えると不安になってしまうし、失っていく若さのことを考えると未来が怖い。

楽しそうな友達が分からない。理解できない。なぜ彼らは不安なんて何もなさそうに毎日を過ごしていられるのだろう。でもきっと言わないだけで何か抱えているものは誰にでもあるんだろう。それでも私とは見えている世界が違うように感じる。他人のことが分からなくて怖い。

Twitterは見られない。

から死にたいと思う。

きっとただ考えることが面倒くさいだけで、ただ明日学校から帰ってきたら何をするかってことしか考えていない小学生時代に戻りたいと思っているだけなんだと思う。それが死にたい気持ちの正体なんだと思う。

本当は明日何がしたいかってことだけ考えていれば毎日は楽しくて十分なのに、考えることに慣れすぎてしまって、多くを望みすぎるようになってしまった。

からごくシンプルに、カジュアル死にたいな、と、ぽかんと思ってしまうのだと思う。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん