はてなキーワード: 男性学とは
「貧困の男性は友人関係も、同じ貧困の女性と比較して半分くらい」これを差し置いてなぜフェミニズムに責任を負わせるんだろう。結局は女性にケア役割を押し付けようとしてる。男性も対男性ケアを分担すべきでは。
まず「誰かと愛し合いたい」と「モテたい」は違うと思うのだけど。誰からも愛されなかった絶望の先が、飢え? 食べ物の話なら飢餓のあとに絶望がくると思うけど性は違う?/非モテが性的指向?(追記しまくり)
「女性が家父長に指図されず好きな人と結婚したいのは支配欲でしょうか?」愛するパートナーが欲しいという欲求と”女を獲得したことで社会への承認欲求を満たしたい”という欲求をすり替えて議論を進めてる
子供が産めないという一点で「なら無理」って散々男性に言われてきた経験から、非モテ男性も女性を選択してるのでは?って思うんだけどなあ、非モテの男性とも複数つきあったけど非モテの人ほど子供欲しがったよ
ここまで考えてるのに何で以前からある男性学を無視し続けるのだろう。なぜ男性学には興味を持たないのだろう。男性学ではだめな理由を今度書いてください
弱者男性が生きづらいのは女性のせいでなく社会のせい。なぜか社会を叩かずに女性を叩く。ここまで執着するのは異様。その社会形成には自身に巣食うマチズモも関わっているから社会批判を避けたいのだろうが。
この人のいう「モテ」とはなんなのか。一般的な女性が考えるモテとは異なっている可能性があるのでは。正社員の席と比較しているが、その「モテ」を女性は本当に必要としているだろうか。
すごい全く理解できない何が言いたいのかもわからない。。非モテ男性は責任転嫁する(容姿や環境のせいにしやすい)、他人と比べやすい、ってことだけは何となくわかった。男性の方が競争心強いからかなぁ。
私、非モテのデブスなんだけど、セクハラには結構な頻度で遭うわけ。それを「求められている」と言われても。あと「モテ」≒「愛されたい!」だと、他者の関与がいる。愛したい、なら、まあ自己完結できるよ。
「擁護ではありません」と念入りに前置きして長文で煙に巻けば誤魔化せると思っているのかもしれないが、フェミサイドの原因を女性/フェミニストに押し付ける非道な言い分でしかない。
誰からも愛されないってそんな特別なこと?なぜそれを受け入れられないの?自分が愛されないことはおかしい!という前提があるんじゃないかと思ってしまう。
筆者の書くとおりに加害がなくなったとしても「モテ」というものから自身が自身を解き放てないとこれらの問題は終わらないと思う。
大変なこともあるだろうけど男性同士でどうにかしてねという感想しかない。女性は女性で自分たちをケアしたり身を守るので精一杯なので。
わかるとこもあるけど、並べ立てた「女性が性的に求められやすい」証拠は、「女性は性だけを目的に人格を無視する侮辱を受けやすい」証拠にもなりうる。非モテが喉の渇いた人なら、泥水を始終かけられてる人もいる
弱者男性が傷ついた妖精みたいな言い方してるけど、彼らが持つ加害性をないことにしてないか?あいつらが女にTwitterではものすごいセクハラパワハラ嫌がらせグロ画像送ってるの皆知らないんだな…
女性の容姿についてさんざん好き勝手をいっておいて、自分が容姿のことをいわれると死ぬほど傷ついてしまう人たちが「非モテ」の多数派と認識している。よってまるで支持できない。
「恋愛」の「権力勾配」を直視できないフェミニズムって存在価値ないよね。というかフェミニズムが最も逃げている部分。提示されると男性性とかホモソを言い訳にして責任から逃避する。
女性の恋愛は妊娠や一度受け入れた後の暴力、別れに逆上され殺される等身体的なリスクが高いことも踏まえて考えてほしい 侮蔑や嘲笑は止めるべきだけど、普通に接すると恋愛と勘違いされてリスク上昇する難しさも
女性が受けている不平等な扱いや蔑視、現実に起こった暴力を、男性の「モテナイ」と同格に語るのはなんで?「モテたら」男女平等で公正だ、という話なの?ジェンダーによらない平等な権利の話をしてるんだけど...
女性に相手にされない医者が集団強姦した事件あったけど、セックス以外に楽しいと思える趣味を見つける努力してくださいね。オツムが弱いからセックス以外に楽しいと思える趣味が見つからないのかな?
「相手を人として敬意を払う」というのは他人と親しくなる(相手に理解してもらう)ための本当に最低のラインなんだけど、最後まで読んでも女性に対する敬意が微塵も感じられないよねこの文章。
モテたがるのは別に良いが非モテは差別!女は特権階級!という言説は在特会と同レベル。ストーカー被害者も強者になる弱者男性論はカルトだね。非モテ女性を晒してこき下ろす男性がいる以上、彼女らにも救済はない
「フェミが力を持つ前インセルは静かだった」んな訳ない、普通のマチズモ同様女性を見下して当然の世情では区別つかなかったに過ぎない。事件に抗議するのを弱者男性差別扱いしてる層が多いのに"中立になれ"っても…
「フェミ」って呼称で手垢が付いた感じがもう自分的にダメだなー。法制度でテコ入れとか条例とか議席が増えたよとかならトップダウンで男女雇用均等が進んだなって可視化するけど、マクロな社会運動でスピとか占いとかもいけるクチのリテラシーでフェミニズムを扱われることに少し抵抗がある。
あと田中さんとか、男性学もまだあんまり浸透してない。だから社会学の肩身が狭いかんじ。増田で散見するかぎりは。
ジェンダーギャップが大きすぎるのも、2021年現在のバックラッシュがすごくて女性が少し暴力性をおびて、とりあえずマジョリティもマイノリティも同じテーブルに着くとこから始めたらどうだ?といういち女の意見。
社会学者のことをバカにするアンチフェミの方々は、男性学のことも学問とお認めにならないと思いますが、
弱者男性が男性学やメンズリブにアクセスしてたら、それなりに具体性や根拠のある議論になっただろうと思う。
でもそんな弱者男性は皆無かつ、自分の弱者性について具体的に語ろうとする弱者男性が少なかったせいで
弱者男性の定義も曖昧になり、弱者男性を自称する人に共通する課題とか全然見えてこなかった。
「お気持ち」が数件出たまでで、根本的な解決に結びつかず、残念でしたね。
弱者男性が自分の窮状を「女の高望みが男の条件を爆上げし非モテが救われない」「フェミニストは自分の性別の差別にしか声を上げず弱者男性を救わない」とか女のせいにしまくってんのは見て見ぬ振りで、
結局何が望みなんだと問われて「女をあてがえなんて言ってない、ただ俺達の存在を認めてくれればいい」と言い出すと全力でオ〜ヨチヨチとあやし出す。
直前まで女に救いを要求していたのに、「救ってくれなんて言ってない」とかいう歴史修正を簡単に受け入れて、
「じゃあ女叩きやめろ」という意見には「フェミニストは偽善者!行政が救えない本当の弱者には冷淡!何故ならフェミニストは差別主義者だからだ!」と大人数で非難。
で、旗色が悪くなってきたら、「男性は自殺率が高い」だの「性役割を担わされることへの圧力が強い」だの、「これが弱者男性の現実だ!」と突然非モテ論を封印し、弱者に限らず男性全体が晒されている問題だけをピックアップした記事を持ち上げ始める。
それこそフェミニストやらジェンダー学者やらが男性学として散々論じてきたことなのに、それは無視して
「フェミニストは弱者男性にキモいと言った!」とどこかの誰かの発言を根拠に大合唱。
いやいや、弱者が困ってんなら優しくするのは問題ない。むしろ褒められるべきことだよ。
問題はお前ら、ホッテントリに上がってるまとめ系ブログ記事の女をマンコ呼ばわりしたりバカ呼ばわりするような発言は無視するよな。
それどころか、女は感情的だから云々とか賢ぶって差別丸出しのブコメつける奴もいるよな。
そういう連中には何も言わない、それどころか嬉々として加担することさえあるのに、自分はリベラルやフェミニストに何を要求してんの?
「弱者男性も救うのが真のリベラルだ!ネットのフェミニストは偽物だ!」ってドヤ顔で言うのはいいけど、じゃあお前は真のリベラル・真のフェミニストとして、はてな村で野放しになってるあからさまな性差別に対して何をやって来たの?
というかそれ以前に、お前は真のリベラルなの?それともリベラルを腐したいだけなの?後者なんだったらお前は一体何者なんだよ?
女の顔色をチラチラ窺ってる暇があったら男同士で連帯して助け合うための方策を考えろよ。
そこで「男はジェンダーロールのせいで他人を頼りづらいから無理」とかのたまうならもう二度と「弱者男性はジェンダーロールから降りた存在」とか言うなよ。
横弱者男性だけども
男性学が扱うところの男性が男性ゆえに抱える生きづらさや葛藤を持ってるいる人たちの中で、特に経済的に困窮して、社会的に孤立しているが故に、社会的ケアを必要としている人が、差別意識や偏見に晒されずになればいいと思ってる
男性学が扱うところの男性が男性ゆえに抱える生きづらさや葛藤を持ってるいる人たちの中で、特に経済的に困窮して、社会的に孤立しているが故に、社会的ケアを必要としている人が
フェミニズムは一人一派であり、個々人の思想には定義付けは難しい
それでも社会は、個々人意見を聞いて出来ることは擦り合わせて、出来ないことは寄り添う
それと同じことをするスタンスを持ってみては?
このような差別の透明化をするなら人から話を聞く意味がないし話をするがわも意味がない
もしくは、差別は無かったでいいでしょう
執着するのはそれは差別じゃないが言い足りないのかも知れないけど
これとかだろうな
https://www.google.com/amp/s/forbesjapan.com/amp/30764
男性学が扱うところの男性が男性ゆえに抱える生きづらさや葛藤を持ってるいる人たちの中で、
特に経済的に困窮して、社会的に孤立しているが故に、社会的ケアを必要としている人たち
こんなところでいいと思うのだけど、みんなどう思う?
男性学ってあるやん
当事者でもないのに訳知り顔で太田啓子あたりの書籍を推して、男性性から降りようとかいうの、全然的外れだよね。
女性から男性になったトランスジェンダーの人(FTM)が、男になってわかった男のつらさについて語る動画。
https://www.youtube.com/watch?v=XgwhFFL2LIE
忙しくて動画見てる暇がないって人に箇条書き。
1. 生きてるだけで不審者
3. マジでちやほやされない
4. マウントの取り合い
語っている本人は、女性にモテる中性系女性から陽キャ男性になったので、今流行りの弱者男性視点ではないのに注意。
3は、陽キャが言うとモテないという意味になるけど、本質は自分から声を上げないと異性からも同性からも社会システムからも放置される、という孤独の底にいるのがデフォということ。
4~6は、従来の男性学でいう「男性性」の悪しき習慣だから、これを降りればというのはわかる。
7は、まあ男女のコミュニケーションの話なので置いておく。
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。