はてなキーワード: 学位とは
新型コロナの感染拡大で卒業式中止が相次ぐ中、3月頭にうちの大学も中止の決定を下した。学位授与も無くなり、学位記は郵送となる。
SNSでは同じように卒業式中止に嘆く声が多くあった。特に女子の悲しみは大きかった。
私も例に漏れず、知らせを受けた時はどうしようもないくらい悔しい気持ちになった。勢いに任せて天使にラブソングをの嘘字幕動画を作ったくらいだ。
7月に袴の予約会に足を運び、カタログを見たり試着したりして自分好みの着物を予約していた。高校生の頃から袴を着ることが夢だった私は当日が楽しみで仕方なかった。
髪の毛もヘアセットが出来るように伸ばした。
友人とも一緒に写真撮ろうねと約束していたし、友人の袴姿を見るのが楽しみだった。
しかし無くなってしまった。なんでどうしてと訴えたくても、元凶がウイルスでは怒鳴り散らそうがSNSで悔しさを訴えようが伝わらない。
長い髪は性に合わないので泣きながら2日後にヘアカットの予約を入れた。
次の日の朝にはレンタル業者にキャンセルの連絡を入れた。幸い私が予約したレンタル業者はキャンセル料なしの全額返金で、記念撮影のみのプランを検討しているとの事だった。
美容院に行き、卒業式が中止になってしまった事を伝えると「うわ〜やっぱり中止?残念やねぇ…」と言われた。
少し違和感を感じた。
Twitterでは「やって感染拡大したらどうしようも無い」「英断」「仕方ない」等ツイートされているのを見て心がモヤモヤした。
とある掲示板の卒業式中止に関するトピでは「まあ何十年か経ったらいい思い出になるよ」という書き込みを見つけ、今までモヤモヤしてた気持ちが一気にイライラへと変わった。
「残念だったね」「まあ仕方ないよ」「いつか良い思い出になる」等々、慰めのつもりでかけてる言葉なのは十分分かっている。分かってはいるが、そんな言葉で気持ちが落ち着くようなことでは無いのだ。少なくとも私の気持ちは落ち着かない。
この日の為に準備してきた事が全てパーになることは勿論、友人との最後になるかもしれない交流が無くなってしまったのだ。
確かに人生という長い目で見ればこんな事ほんの一瞬でしかないだろう。しかしこの瞬間は二度とないのだ。少なくとも私は一生悔しい思いをしながら生きるだろう。
部外者からの無責任な慰めの言葉にはいい加減鬱陶しさを感じている。
慰めで心が救われるならとっくの昔に救われている。しかしそれが効かないのが現状なのだ。
「それは残念だったね」と言ってウイルスが消えてくれたら良いかもしれない。卒業式が突如決行になったら喜ぶ。しかし所詮無責任な言葉でしかない。言っても十分な心の癒しにはならないし、ウイルスは感染を拡げるばかりだ。
今私が望むのは、そんな言葉をかける余裕があるのなら落ち着いてからでも卒業式を計画して晴れ姿を披露できるようにする事、それだけだ。
もう恥ずかしくなってきたので簡潔にまとめる。
とにかく、着れないと思っていた袴が着れるのが嬉しかったのに中止になってやだな〜ってなった。
でも着たいので写真は撮ることにした。むしゃくしゃしたので即スタジオを予約した。ほぼ日アルバイターの勝利。
不要不急の外出を控えることに対して
なんでしわ寄せがハレの日に…というモヤモヤした気持ちがある。なんでクルーズ船からパブに行ってるんだよ…
学位もいつ来るかわからないので、袴着て学位持って卒業報告できないのがな〜あんまりだな〜
という。
マスクはかなりの花粉症なので死活問題です!買い占めんな!泣くぞ!
以上です(おわり)
数日前までなんとか開催する方向だった学位授与式が、ついに息絶えた。
県内も何校か中止って言ってるもんな、ウチも時間の問題だろうな〜…と覚悟はしていたが、いざ本当に中止になってみるとなんだかポッカリ穴が空いたような気持ちになった。
数日経ってはじめて、「かなしい」と思った。
大学生活に思い出がたくさんあるかといえば、実はそういうわけでもない。
サークルはほぼ幽霊部員みたいなものだったし、学部でもとくべつ仲の良い友達ができたわけでもない。
私はオタクをしているが、オタ活での方が様々な出会いがあったし、学んだことがあったな〜なんて思うくらいだ。
袴を着て、みんなに会えないからだ。
ご覧いただいている方は
「なんだそんなこと」とお思いになるかもしれない。
そんなことである。
成人式も卒業式もスーツで出席するつもりだった。家庭の事情というやつだ。
でも振袖を着てみたいという気持ちはあったし、女袴にブーツで卒業式…なんていうザ・ハイカラな格好には、幼いころから憧れた。
憧れたけど言えなかった。
けれども憧れていることを家族は察していたので、
- とりあえず国立大は低所得/高所得に関わらず完全無償化しよう
- 地域格差なくすため国立大学をネットで卒業できるようにしよう
- 教養学部とか要らない。最優先は世界に倣いITとMBA。出来るならエンジニア兼起業家になってねって話です。でも向き不向きと興味があるので一通り学習した後に好きな道にそれぞれが進むならシナジーがあっていい
- 最終的には英国のOpen Universityみたいに自然科学の学位がネットで取得できるようにしよう
- 図書館などのインフラは都市部しか期待できないのでそれを埋める必要投資をしよう。子ども1人1台PCかタブレット。それが無理ならそういう施設を国営でやろう
- 私立はネットで卒業できる学部なら支援金オッケーにしよう。ただし、Fランや専門学校みたいなことやり出さないよう監視しよう
関連増田: 大学教授は教員。大学は専門家を育成するところ
これに対して付くトラバがさ、
「いま現在の研究者を支援・育てなければ、イノベーションは〜産業創出は〜、国際競争力は〜」とかではなく、
【金持ちが有利なことには変わり無いから就職出来ない】
えっ・・・ちょっと理解に苦しむ、こんなのは一部だけだよね?って思ったが
(https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20200212111557)
上記を見て納得
知識というのは自分の食い扶持を作り他人を助けるためのもので
社会選別のためのものでは本来ない
「贅沢品」かつ「ステース」で、
仕方なく嫌々「やってさしあげるもの」なのだ
シンプルに言えば大多数の人は教育を欲して無い、強制されただけで成長する気はない
しかし、それなら高等教育を無償化しなくていいじゃん?とはならなんと思う
物作りをしたい/学ぶことが喜びになる
子ども/若者/中年/老人/障がい者に適切に高等教育が届くよう完全無償化すべき
米国の University of the People や 英国の Open University みたいなネット大学をサクッと作ろう
嫌々仕方なくとかポジション取りがゴールの者ばかりが高等教育を受けても
イノベーション以前の問題だと思う
関連増田:
博士課程の修了がおおむね決まった(公聴会が無事に終わった)んだけど、まさかこんなところまで来てしまうとは思わなんだ
ていうか学部から博士までずっと東大だし工学系だしバイオでも無いのにこの時点で内定がないやん!どうしてくれんのこれ(憤怒)
ポスドクで様々な成果をあげて栄転する人もいれば、そううまくはいかず、アカデミックを辞めてしまう人もいる。
何が両者を分けているのか考えてみる。分野にもよるが、ある程度は共通していると思う。どちらかというと理系寄り。
→これは大きい。採択されるということは有望な研究者という証にもなるし、研究費をもらいながら自由に研究できるので、成果もあがる。
→ネットワークが広がるので、共同研究などに発展しやすいし、顔を知ってもらえるだけでやはり違う。機会を活かせるかはその人次第だけれど。
→ホワイトなラボで、自由な研究時間があるのはやはり強い。ブラックだととてもとても大変。
→博士課程と同じような研究を続けていては先細りする。博士課程を始めてから5年くらい経つと、世界の研究の動向も変わる。また、同じ分野で出せる成果もだんだんとインパクトが減ってくる。ポスドクで新たな研究に取り組めないと、今後取り組むのはもっと難しくなる。
以上を全部満たさなくてもいいが、全てを満たしていない人は、やはり厳しい。
なってみると、向いている仕事もあるし、こりゃダメだなこともあった。
知らないことを知りたい、というのは工学部では異端扱いされてつらい。
なんというか、働いても働いても楽にならずなんだよね。
国立大の研究室みたいに、一人が論文書いたらずらーっとメンバーが連名になるみたいなシステムに乗っかれないキャリアを選んでしまったんで、論文リストが増えない。
ちなみに学位取った教員とはいろいろあって仲違いしたので縁がない。
国内会議と国際会議のリストは山ほど増えるが論文がなかなか書けない。
書くのに体重が5kgくらい変動したりする。
たしかに未知の結果を出そうとして計算したり、実験したいするのは楽しい。
でも、論文にまとめようとすると頭がフリーズするんだよ。何かが足りないんだけど、それを頭が拒否してる感じ。
そんなことをよく言われるが、人は社会的生き物。
そうはなかなか変えられない。
運動できる・できない。成績良い・悪い。
昇進する・できない。
結婚・未婚。
子供いる・いない。
、、、、と思っていたのだが、気付いたら終わっていた。
その時点で、就職していった同期とは、人生の距離が大きく離れて、比較不能になった。
研究世界では、業績第一。もちろんここでも、比較がされるわけだが、
不幸にも自分には研究の才能がなかったようで、博士課程をドロップアウトした。
この時点で、就職した友達とはくらべものにならないくらい低待遇で、
誰とも話さず、ゆっくりと山を登る行為が自分に向いているようにも思えた。
山小屋で会った人々とはもちろん会話し、楽しい時間を過ごしたが、すべて一期一会。
お名前を聞いたり、連絡先を聞くこともなかった。
本場のアルプスに登りたいと思った。
そこで、スイスにある大学や企業の募集を調べて、Research Engineer職に応募しまくった。(学位はもってないのでポスドクは無理)
運よく、自分のもともとやっていた研究分野で募集があり、大学に雇ってもらえた。
赴任のための旅費も出してもらえて、ただでスイスに行け、ついでに給料ももらえた。
で、4年働いて、山にもいっぱい登って、
雇われたプロジェクトも終わりにさしかかり、どうすっかな?という状況。
ボスからは博士取れば?と言われていて、それも一つの道だなぁと思う。
でも、つきものが取れたように、学位そのものへの関心も失われて、
その場その場でなにか面白いものと出会ったら、そのときの刺激に合わせて生きていくのでもいいかと思っている。
いい人と巡り合ったら何歳でも結婚するつもりだし、
人生設計はないけど、プライドもないので、困ったときにはどんな仕事でもやるつもり。
数ヶ月前に書いたものがいきなりホッテントリに上がっていてびっくりした。どうして?
たしかに指摘されているように、タイトルが悪かったかもしれない。
私だってもちろん人とは比べてしまいますよ。私も社会の中で生きてるので。
だから、比べないというよりは、他の人の幸せのゴールを否定するわけではなくて、
他の人の幸せのゴールを無批判に自分の幸せのゴールに設定しないようにしよう、
自分で自分の幸せは何かを考えて生きよう、と思ってるということです。
もちろんハッキリ言ってしまえば、世間一般の評価軸で見れば、明らかに昔の友達と比べると私は下ですよ。
非正規雇用だし、日本に帰って職があるかわからないし、今後スイスで暮らしていけるかもわからない。
でも、週末にちょっとツェルマットへ、みたいな生活は自分にとって、すごくいい暮らし。
どうせ通常のゴールにたどり着けないなら、違うところを目指してみようというだけの話です。
自分はバリエーションルートを行こうと。なんかそんなイメージです。
自分は自分の幸せのためにがんばるし、面白いことを見つけてそれを手に入れようとする。
でも、それが世間一般で評価されているもの、みんなも欲しがってるものであることもあれば、
そうじゃないこともある。それだけのことです。
オタクみたいなもんですよ。鉄オタにとってとても価値のあるものがあったとして、
それはアイドルオタにとって必ずしも価値があるものとは限らない。逆も然りです。
もちろん生きていくためにお金は必要だし、まだまだ山も登りたいし、時間もほしい。
さらに自分が知らない面白いものがあるなら、それに出会ってみたい。
もう少ししたら、親の介護だとか、自分が病気になったらとか、いろいろな問題が発生するんでしょう。
だから、ほんとのタイトルは「自分の人生のオタクになると幸せ」って感じですかね。
スイス、生活費高いけど、給料も高いので、自炊して節約して暮らせば、日本に戻っても当座しのげる程度に稼げるからいいよ。