はてなキーワード: 無用とは
何度でもいうけど「子宮をもたされた女性がセックスしたいときだけセックスできて、産みたいときに産めて、育てたいように(国の金で)育てられ、そして働きたいように働ける世の中」だったら
ジェンダーフリーだの二次元の抑圧攻撃だのの区別なんていらないんだよ。
女子供を搾取対象、痴漢「プレイ」の対象に押し込め、性犯罪者(教職にまで多い)を野放しにしておれたちは知らんもんね!って口を拭っている社会が女性に無用な圧をかけてしまっている。
圧をかけられたら「実在女がフリーセックスも裸族もできないまま彼氏・夫にまで母親役おしつけられてぬかみそ臭くされてるのに虚像女は乳袋着てフリーセックスでレイプ目でダブルピースでハピエンかよクソ男が脳みそ沸いてるのか」って女がぶちぎれるのは当然だ。
それをいつまでもグダグダと、議員になってまで男の権威にしろ性欲(表現の自由w)にしろ、正当性がありもしない理由で押し込めようとしてるから別物だの180度違うだのとみえてるわけ。女はずっと同じこといってんだよ。実在女の受けてる抑圧・差別から目を逸らすなって。
そんで180度違う(?)どっちのジェンダー論も全く口に出さないサイレントフェミニストには、だまーーーーって非婚化と少子化で反抗されてるんだよね。そりゃだれだって性別女ってだけで人生まるごと搾取されたくないもんね。
放置してたら狂人が起こすようなトラブルを次々に生み出すので、狂人扱いされると言うか、それこそが狂人そのものです
ルパンのモノマネがうますぎたらその人はルパンになるわけで、狂人たろうと狂人としての振る舞いをしているのだったら、それは狂人です
もしプーチンが自分のことを正当な行いをやっているつもりで、狂った選択の連続をしていたのだとしたら、それもまた狂人です。
その人がどのように思考しようが、言動が全てです。プーチンが本当に狂っていなければ、戦争は起きませんでした。
彼は国のトップで頭いいから深遠な思考をしていて、我々凡人にはわからない深い考えがあるんだ〜。っていう、浅すぎる考え方よー
まあ、あなたがそうだとは言わないけど、偉い人が言ってるんだから間違いない。みたいな論拠はやめておけよ
プーチンの言動を養護するなら、プーチンには我々にはわからない考えがあるんだ!とかいうアホ理論じゃなくて
ちゃんとプーチンの思考をせいりして、それが正当であることを示さなければだれも納得しないし、プーチンは狂人
てか、プーチン狂人とまでは言わんけど、まともな政治判断はできてないし、その政治決断のせいで無用な血を流してる時点で、全然養護できないからな。
朝から悲しいニュースを目にしてしまい、衝動的に日記を書いている。
何があってどんな思いだったかなんて、本人にしか分からないだろう。
人が自ら死を選ぶと裏があるのではないかと騒ぎ暴こうとする人が出てくるが、それを言ったところで故人は戻ってこないし、悩んだ末のその人の決断を蔑ろにする行為ではないだろうかと私は思う。
事件性があるのならそれは警察や司法の領域であり、伝えたい何かがあったのならそれは報道の領域である。ただ画面の中のあの人を見ていた第三者の私は死を悼むしかない。
自死はいけないこと、その前に何か手段があったのでは、なんて人は言う。
LINEやメール、電話など様々な手段の相談窓口があり精神科も増えている昨今だが、結局のところ困り事を話したり、薬を飲んだり休んだりはできても、自分の悩みを誰かが解決してくれる訳では無いのだ。
芸能人、一家の大黒柱など、様々な属性ゆえにそもそも福祉に繋がることも躊躇われたり、自分で解決せねばと抱え込んだりしてしまうこともあるのかもしれない。
流行病で息苦しい世の中も、責任に押しつぶされそうな立場も、自分だけで精一杯な社会も、何もかもが原因に思えてきてしまう。
こうしてあれこれ書いても、憶測であり無用であり今更なのである。
「ウクライナはジャベリンのおかげでロシアの侵略を阻んだ。ジャベリンはゲームチェンジャーだ」みたいな報道を山ほど見たんだけど、既視感があるなと思ったらナゴルノ・カラバフ紛争で「ドローンはゲームチェンジャー」、アフガン戦争で「スティンガーは……」と、マスコミお得意の「話を極端に単純化してわかりやすくする事で視聴者の感情を煽る商売」なんよな。
定期的に盛り上がる「戦車無用論」なんかも、戦車の存在理由とか効果について、素人がわかった気になりやすいからなんだろうな。 「そういう兵器がある」ってこと自体が素人によく知られているとは言えない自走砲の無用論とかIFVの無用論ってあまり目にしないもの。
「ええとですね、
どれくらい大きいか?まぁパッと見て工場かな、と思ったくらいの大きさですね。
警察の人には詳しく話しましたけど、動画全体で会社名等を伏せる様子がなかったので
クリーンルームを通る様子が映されました。
何の食品か?うーん、あまり言わないよう指示されてるんですけど、特殊な食品ではないですね。
どこのスーパーでも売ってるような普通の食品です。大体の人が食べたことあるんじゃないでしょうか。
日本全国どこでも買えるか?いやぁ、そこまで言われるとわかりませんけど・・・
(証言者の横の男が質疑を止める。当該の施設、企業については現在調査中であり、
無用な風評被害を避けるため固有名の特定に至るような質問を控えるよう委員達に注意する)
「ああ、すいません。ええと動画の続きですけど、製造ラインの頭から工程を順番に
映していくんですね。
教育ビデオでやってたような「〇〇ができるまで」みたいな感じで。
機械が食品を洗ったりカットする工程や、食品がコンベアで移動する様子が
順番に映されました。
で、このまま製品として完成するところまで見せるのかな、と思ったら
途中の機械の所で止まるんですね。
この後の描写がなんかしつこく丹念に映されたんですけど、
ロットっていうんですかね、食品を一定数成形して次の工程に引き渡す、
その後ライン全体が止まって、その機械を分解、清掃してまた組み上げて、
というところまで映して動画は終わりました。
私の感想?
うーん・・・強いて言えば最後に映った機械を主役にしたアダルトビデオ、ですかね。
(一同、笑う)
WWIで戦車が登場してから何年も経っていない戦間期には既にあって、何度も繰り返し現れてるけど、戦車の無用さを理解するそこらの馬鹿とは一味違う俺、みたいな人が言っているだけじゃなくて、砲兵が
「演習すると片っ端から対戦車砲で食われるじゃん。 だから対戦車砲を自走化(=戦車駆逐車)したら簡単に無力化されて電撃戦とか無理じゃん」
って言うし(WW2の米軍に戦車駆逐車がいっぱいあるのはこのせい)、航空は航空で
「戦車というものは正面以外の重装甲は重量的に無理な以上、脆弱な上面を狙えて高機動大火力な空飛ぶ対戦車砲たる攻撃ヘリに無力化されて終わりである」
とか言うし、歩兵は
結論→妻は暴力的でもないし、増田が最後に付け加えているように穏やかな人だと思う。増田がそう思う方がおかしい。
世の中には人様の家族に無用に攻撃的になる人がいる。例えそれがある程度ならば許容されることでも攻撃する人はいる。それが婆ちゃん。で、あなたは知らないだろうけど(知ってたらごめんね)普通に子供連れで歩いてるお母さんはそういう無用に攻撃的な人に多くぶち当たるし、こんな風に言われる回数は多くなる。
その度に瞬間的に言い返せなくて、悔しい思いをしているんだったら言い返した方が全然その後の精神衛生上良い。しかも、婆ちゃんは言い返されるなんて思ってないから、ぎょっとしてこそこそとその場を立ち去ったりして、結局大きな喧嘩がその場で起きない。だから、言われたら言い返した方が得。喧嘩になったとしても、普通に逃げるか録音するか警察呼べば良い。とにかくその場で瞬間的に言い返せたのであれば、そういうことまで想定できる頭と肝っ玉はあるはず。
この場合たぶん妻はそう言う人間に多くぶち当たった時に、「言い返せば良いやん」って結論づけてそれを行動に移してる人なので、攻撃的な人ではない。正当防衛。それなのに、何にもわかってない脳内お花畑平和ボケ夫から「暴力性」だのなんだの言われる筋合いはない。
しかも、吐き捨てるようにと言っているが、具体的な差別な言葉(死ね、障害者、つんぼ等)言ってるわけじゃないし、普通に正当防衛。
で、最後の一文に「でも実は暴力的なものを内側に抱えている」とかなんだとか言ってるけど、そもそも人間は暴力的なものを内側に抱えている。それが正しい時に正しいタイミングで引き出されるかどうかだけの違い。自分の子供馬鹿にされて言い返さない人こそクズ。
……………で、↑これを書いて、いやいや自分の子供馬鹿にされる以前に道で歌うな、とかいう機能的非識字の典型みたいなやつ出てくるけど、「ガランとした道だったので」って文言ちゃんと読もうね。
というよりも、残り時間の少なさにいよいよ危機感を覚えるべきときに来ている。
正直言って、このまま死んでもいいぐらいにどうしようもない人生だ。しかし折角だから最後に創作活動を多少なりともやっておきたい。
逆になんということだ俺は天才だったのか!と人生が突然に開けだすのも悪くない。
どちらにしろこのままある日突然死んでからなんということだ俺は何者だったのだろう?と悩んで消えていくというのはどうにもしっくりこない。
そもそもをして我々の人格なるものは全身の神経の電気刺激の集合が、しっくりくる状態を求めて相互作用を繰り返した結果なのだ。
よく言う食欲や性欲についても腹が満たされればしっくりくるし適度に股間の勤労意欲を満たしてやるのがしっくりくるということだ。
さてさて、そうは言っても何をすればいいのか。
子供の頃はゲームなんぞを作りたいと思っていたが、私が今までに遊んだ俄作りの素人ゲームなんぞは100を超えようが、それらについて言えるのは本当の天才が不断の努力の果てに作り出したもの以外はクソであるということだ。
私は過去に一度や二度ゲーム作りに挑んだが天才でないのも努力家でないのも明らかであった。
次に絵や漫画も却下である。これもまた天才か不断の努力かの賜なれど、私には到底そのどちらもないことを人生が証明してきている。
音楽や芸能の類も同じく運動も駄目でそもそも手先が不器用であり物を作るのには向いてないし、感覚器官が全体をして曖昧模糊としているので料理やら目利きやらも不得手である。
文筆とは時として天才たちがその天才性を抜き身のままに振り回すための土俵であるとも扱われがちだが、実際にはどちらかといえばあらゆる才能の土俵から追い出されたハグレモノの集まる無能無才が暮らす創作界のスラムである。
持って生まれた能力も努力も足らぬ私は当然のようにこのスラムにふらりとやってきて、そこで海の物とも山の物ともつかぬ某方をどうにかこうにかして有象無象をあれやこれやするのがお似合いなのである。
全くもって文筆とは素晴らしいもので、たとえば「それはそれは見事な紅葉の山」という言葉だけで「それはそれは見事な紅葉の山」を表現できる。
もしもこれを絵で描こうとすればどれほどの能力と時間を有することか。
背景画像の集合からピッと貼り付ければいいではないかと思う横着者のもおろうが、それを探してくる手間さえなくただ「山」と書けばそこに「山」が現れるが筆しらべの秘術である。
全くもって人生において遊ぶことと無能なりに食っていくことに大忙しの貧乏暇なし無学慌ただしというものだ。
才能がなければただ遊ぶということにおいても無用の時間をもって大したことも出来ぬままにいくら時間を使っても付きぬものだから創作に使っていられる時間など人生のうちの極々一部となる。
そうなるともういよいよペンを持って事を為す以外の道などないのだ。
たとえば俳句など読んで見ればわずか17文字おきに一作品が出来上がる。
全100作の俳句をつなげた一世一代の詩集を認めんと心に決めれば原稿用紙にして4と1/4で済むわけだ。
掌編小説などは原稿用紙に5枚でいいし、短編で10枚、長編でも50枚も描けば十二分に両足を突っ込めるというものだ。
原稿用紙50枚!と聞くとなんとも驚きだがなんのことはないツイッター3回で原稿用紙1枚なのだからツイッターを150回だ。
ナンセンス小説であれば「イヤー!アイヤー!チョイヤー!ドッカーン!」なんて引き伸ばしの擬音を次々に入れれば簡単に稼げるものだ。
官能小説であれば喘ぎ声や擦れ音で半分埋めるのが実にシズル感があると推奨されている。
こうなればもう簡単だ。
3作も書きあげれば(なんとツイッター500回程度でいいのだ!)もう十分、「やあやあ我こそ物書きなるぞ!我の才能が偶然この時代に噛み合わぬゆえもう諦めて余生はくだらん仕事をして糊口を凌いで残った時間はひたすら遊んで過ごそうと思ふ」と言い張れるのだ。
まずは自分が主人公のノンフィクション半生伝記を人知れずかきあげて、手塚治虫なりヘンリー・ダーガーなりを気取ってこっそりとHDDの奥に仕舞い込んでしまうのだ。
最後に自分の理想とする社会についての妄言をあれやこれやと書き連ねたらもう3作だ。
あっという間である。
後半の2作を適当なライトノベルなりハヤカワなりの賞に応募して、一次予選で落とされて帰ってくればもう残りの生涯は自由である。
「俺は自分に秘められた才能を試し終わったのだぞ。誰が文句をつけるものか。天より預かった才能は地に返してから死ぬべきだが、それが元より無いなら自由に生きるのが当然だろう」と堂々とぐうたらぐうたら暮らせるのだ。
さあ自由になるために筆を取ろう。