はてなキーワード: ララァとは
これ https://akiba-souken.com/article/51350/
とか
これ https://pencroft.hatenablog.com/entry/2021/06/22/203412
とか。
こういうオーダーが出ているのかもしれないし、原作の残り部分でもギギとやらなかったのかよ?みたいにほかのマフティーのメンバーに言われてるみたいなシーンとかあるし、ケリアやエメラルダから寄せられる好意を露骨に鬱陶しがっているとかこういうテキストを書きやすい内容にはなっているとはおもうのだけどさ。
映画自体はそういうのじゃなくて、初代ガンダムでいうとハサウェイはアムロやシャアじゃなくて、ケネスやギギの中心にいるララァの役割の人間でなんつうかそういう童貞がどうのみたいな感じのストーリーテリングはされてないと言うのは見てる人はわかるわけじゃん。実際この感想書いてる人間でほんとうに原作読んでないやつってどのくらいいるのさっていう。だったらなんでこんなやっすい感想書くのさと思ってしまう。
たぶん半年とか一年後には続編がでて、ハサウェイの苦悩とかが描写されるわけだけど、そのときにもこんな童貞がどうのとか書くつもりなの?違うよね?ならなんで今こんなの書くのさ。ほんとね、もっといろいろと真面目にやろうよ。
もともと兄がガノタでファーストからZZは飛び飛びで見たりしててキャラクターの名前とか用語とかはなんとなく聞いたことあったりするレベル。
自分でリアルタイムでガンダムシリーズ見始めたのはSEEDくらいから。
GWにTHE ORIGINが無料配信してて見てみたら面白かったのでファーストの劇場版三部作を見た。
この後はZを見ると良いと思うんだけど数年前?の劇場版よりアニメ版のが良いのかな。そんで逆シャアとか見てからZZが良い?
昨日逆シャア見て面白かったしその前に無料配信してたF91も面白くてZ見てからそれぞれ改めて見直したい。
UCも一番最初のちょっと見ただけだし、公開になった「閃光のハサウェイ」は今自分が抗がん剤治療中で免疫力落ちてることもあって外出控えてるので見に行けないけど面白うそうで気になってる。
ゴールを「閃光のハサウェイ」として、0083とかもあるし、どういう順番で見ると分かりやすい?
余談で逆シャア見た宇宙世紀素人の感想だけど数十年したら超過激な環境活動家がシャアみたいなこと言ってテロリズム起こしそうだなって思った。
どんな時代も、時代を一歩すすめるような革新的な技術や考えを世に出した人(スティーブ・ジョブズとか)はどっかサイコパスっぽい面とか、紙一重なとこがあるという記事を読んだことがあって逆シャア見てたらシャアとかニュータイプってそんな感じの人なのかなって思った。そしたらアクシズにめり込んでララァはママになってくれるかもしれんかったのにって喚いてて、オリジン見てたときはシャアっておもしろサイコパスやんって手叩いて笑ってたけど実態はほんとしょうもなくて…悲しいね…。
ちょっとすごい人を単純におもしろすご~いっておもちゃ(ネタ)にして盛り上げたり、なにかあればネットで大喜利したりするの見るけどさ、ああいうのってやっぱだめだなって思った。
シャアをうまく表現する言葉が分からんけどミライさんとかが「ピュアなのよ」って言ってるの分かるわ。他に表現が見つからない。
あと30年以上前の作品だから文句言うつもり欠片もないけどキャラクターそれぞれ固有の男らしさ・女らしさを求められがちだったり、女性キャラクターもミライさんとか賢くてバリバリ仕事できそうなのに家庭入っちゃってもったいないなって反面、チェーンみたいな女性技術者もいるし、ケーラとアストナージって逆シャア見ただけだけど女らしさから離れたキャラクターとそれを支える男性って感じで対象的なキャラクターや関係性もあって面白いなあって思った。
【追記】
いまアマプラしか入ってないけどU-NEXTに結構ガンダムシリーズ入ってそうだからそこでまずZとZZとか見てみる。
Zは劇場版がテレビ版となんか違う?らしいけど富野監督だし一応見てみる。
古い作品見てると手書きで動くロボットがすごく新鮮だし「富野節」っていうのもなんか分かってきた。楽しい。
という冗談はともかく、エヴァは父殺しの話でもあるが母性は少なくとも二人登場しているように思う
碇ユイはもちろん、葛城ミサトもシンジにとっては上司であり、母でもある、憧れだったお姉さんでもあるだろう
富野氏はガンダムでシャアにララァは母親になるはずだった人だと言わせてるし、
富野作品もどちらかというと母性を感じる、∀ガンダムのディアナとキエルもそうだろう
宮崎駿氏もクラリス、ナウシカ、シータを始めとしても母性を感じる、母性メインなように思う
自分は毒親というか、家事も料理も駄目な母親であったように思うので、あまり母性というのが納得できない
といっても、ファザコンというわけでもない
この描写自体は寧ろロボット工学的にも素晴らしいと思うのだが、
一方で、家事といえば洗濯?みたいに思うところがないわけでもない
一人暮らししていれば嫌でも洗濯をせざるをえない、嫌々でも洗濯をするものであって、
しかし、ここで女性に洗濯をやってもらえたらなあ、とあまり思えないのである
いや、誰かに面倒な洗濯をやってもらえたら、と思わないわけでもないのでウソになるか…
寮やホテルで洗濯を請け負う業者がシーツなどを回収しては洗ったものに交換するシステムがあったが、
自分の場合、お金があるなら、まだまだ当面生きていけるならそれで構わないと考えている
結婚しなかったら、孤独死だよ?誰も助けてくれないんだよ?というのも理解できるが、
最悪部屋で身動きできなくなり、長い時間をかけて餓死しても仕方がない、という感さえ最近はある
そもそも、そういったトラブルを回避するために異性と結婚する、異性を利用する、
それが母性であり母性にすがる、というのは、私はあんたのママじゃない同様、
他人事でありながら非常に失礼にさえ思えてくる
そう考えると、キリスト教的父性の方がしっくりくるような気もするし、
少なくともセカイ系のような物語において、たしかに母性で描かれることに感動さえするものの、
そんなに母性って良かったかな、という感じしかないが、それもこれから時間とともに変わっていくのかもしれない
自立することをやたらに父殺し、母殺し、というが、
考えてみればガンダム、特に初代ガンダムはその点では面白く対称的に描かれていて、
ギレンは本当に父を殺す父殺しをやってしまい、皮肉にもそれを理由にキシリアに殺されてしまう
富野氏がどう考えていたのか、
そもそもガンダムのようなアニメは脚本も複数によって書かれていたと思うので、
自分としては、本当に父を殺害する、というのも立派な父殺しのように思っているし、
それは母殺しも同様だと思う
大地だのを母神として考えるのは理解できる
社会的に男性が優位であるように思えて、なんだかんだすべては女性の手のひらの上なのだよ、
といった話も納得することが多々ある
しかし、毒親とまでは言いたくないが、機能不全ではあったのだろう
そんな家庭で育ったが故、もちろん育ててもらった恩は感謝しきれないほどある一方で、
創作上のキャラクターの好きな属性としてのマザコンとか母性とかインナーチャイルドとかアダルトチルドレンみたいなそう言ったものについて考えてるんだけどマザコンは大きく分けて2種類あると思っている。
母親の愛情を過剰に受け取って育ったり母親を意識的/無意識にも神格化しすべての女性の基準が母親な人間。二言目には「うちママはこうだったけどな」とか言うタイプ。
わかりやすく既存のキャラクターで言うとドラえもんのスネ夫がそれである。
もう一つは『母親の愛情を充分に受け取れなかった為大人になっても母親の愛を求めているタイプ』
死別とかネグレクトにより本来子供のうちに得られるはずだった母の愛を得ずに大人になってしまい、いつまでも母の愛情を求めてしまう人間。
既存のキャラクターを使って例を挙げると、その中でも母の愛を配偶者とか恋人に求めるタイプがガンダムのシャア、母親本人に求め続けるタイプがブレンパワードのジョナサンだと思う。2作とも富野由悠季ですまなない。
私はこの後者の母親の愛情を充分受け取れなかったタイプのマザコンキャラクターが好きだ。女性キャラクターだとエヴァのアスカも好きだ。
普通子供は親から与えられる愛情を受けて育ち、成長とともにそれを受け取らなくなる。そしてそれを今度は恋人や配偶者に貰ったり、自分が愛を与える側になったりして大人になってゆく。
しかしこのマザコンは年齢だけを重ねて見た目は大人になったけれど中身はいつまで経ってもママの愛を求める子供だ。
現にシャアは(ロリコンも発症している為)年下の少女ララァを母になってくれるかもしれなかった存在として死に至るまで彼女の幻影を求め続けたし、自身に父親を求めたクェスのことは受け入れられなかった。30も半ばをすぎていてこれだ(見た目は頼り甲斐のある大人の男性のシャアの中身がアムロにも引かれるくらい子供を拗らせているというギャップが好きだ)
ジョナサンのほうはもっと悲惨だ。彼は幼少期に多忙な母親と過ごす時間を充分に得られなかった為大人になってもいつまでも母を求めている。ジョナサンの有名なセリフ「クリスマスプレゼントだろ!」にそれは凝縮されているが、大人になって自ら母親と離別してからもずっと子供の頃のクリスマスの悲しい思い出をひきずっている(彼の方は母親にも問題がありそれを指摘されたことで母親までも発狂してしまうのだが)
そんな悲しきマザコンたちが私は好きなのだが、この愛情を与えられた者、与えられなかった者、正反対の2者がどちらも「マザコン」という雑で大きなくくりで呼ばれるのが少し悲しい。かと言って別の呼称も思い浮かばない。
マザコンというとマイナスイメージが強い印象があるが、この悲しき愛を得られなかった大人たちは創作上のキャラクターとしてはとても魅力的だと思う。
彼氏に薦められて、今日初めて「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」を見た。
正直、ガンダムは00しか見ていないニワカだったので、YouTubeの一年戦争史のうち、宇宙世紀創世~第一次ネオ・ジオン抗争までのダイジェスト版を予習してから見た。
感想としてはシャアやべえって感じ。最後の台詞が「ララァ・スンは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ(以下略」ってやばくないか?自分が求めた母性(ララァ)がアムロによって壊されたから、アムロに復讐するために戦争...だと...?しかもララァが死んだのはシャアを庇ってのことだったのに...?シャア勝手すぎない?
そう思って感想サイトとか考察サイトとかを読み漁ったら、それが逆にかっこいいみたいな記事ばっかだった。彼氏も同じことを言う。なぜ...。
まぁでも私はそれよりも、シャアと同じ(?)ように父性を求めたクェスに対して、やれ悪女だのやれ頭おかしいだのと散々に言われている事の方が、意味不明だった。
シャアが母性を求めるのは良いとされているのに、クェスが父性を求めるのが否定されるのはなんで?
確かにクェスはアムロの恋人であるチェーンに会ってすぐに「船から降りろ」とか言ったり、公共の場でシャアに「自分はララァの身代わりなのか?」と聞いてしまったりしていて、「他人の気持ち」を考慮できない点はある。
でもシャア自身も、クェスが父性を求めていた「気持ち」を読み取れていなかったから、クェスとどっこいどっこいだよな...?
シャアが好きなら、シャアと同じように他人の気持ちを読めなくて、父性を求めたクェスも好きになるんじゃないの?
こんな感じのモヤモヤを彼氏にぶちまけたら、「クェスは逆襲のシャアのぽっと出だし、愛着がわきにくい。それに対して、シャアは今までずっと見てきたし、なんでそんな考えになるのか共感できるしで、ある意味愛着がわいてる。この違いが好き嫌いを分けたんじゃないかな」って言われた。彼氏、答えてくれてありがとう。
私はダイジェスト版でしか見てないし、ガンダム歴1日だしで、シャアに愛着がわいてないから、そう見えるのか......でも全編通して見ても、シャアカッコいいって感想になるのか正直分からない。
富野作品には厭世観や人間不信が感じられるので、生殖や恋愛への否定を予想して見ることになるのだが、いつの間にか性愛への肯定描写がされていて、そこがうまく繋がらないのだ。
下世話に言えば、アムロもカミーユも機能不全家庭育ちで恋愛や家庭への不信をこじらせ幼なじみにも冷たい非モテっぽいのに、ララァやフォウとは出会って即スマートにいい感じになるのはNTの共感を踏まえても納得できないってこと。
これは富野自身が結婚し子供を作っていることへの「こんな作品作ってて家族持ちなの!? だから子孫肯定なのかもしれんけどよく結婚する気になったな!?」という戸惑いとも近い。
アムロもカミーユも家庭を省みず仕事にのめり込んだり不倫する両親を軽蔑していたし同時にそんな親に愛されたかったけど叶わなかった
そこで「あの両親を見て恋愛なんかする気が起きる訳ないだろう!」とはならず気になる女を見かけたらすぐに口説いて親密になろうとしてしまう
その理由は簡単で、単純にあの二人は性欲が強くその上で自分の欲望にとても正直なので、両親という最悪のケースを知っていても性愛を肯定出来てしまう
アニメだと生々しすぎて描かれなかったけど、小説版ではあの二人が戦争に巻き込まれる前頻繁に自慰を行っていた事や女性を性的な目で見ていた事が明かされている
アムロはセイラさんと寝たり親父のPCでエロ画像見ていたり、カミーユはファの体操着の写真を性的なオカズにしていた事が匂わされていた
他人と一緒になっても良い事なんてある訳が無いだろう…って諦観と、それでも異性とやりたくて仕方ない…という本能の肯定が同じ作品で描かれるのが富野作品の生々しさなのかもしれない
分かりやすくなるようにアムロというキャラクターに着目した表現をしたけど、アムロなりシロッコなりカロッゾなり、個のキャラクターだけを見て「はいこいつの言動はモラル違反~!そういうキャラがいるから富野作品もモラル違反~!」と怒ってるっつうワケではない。
確かにそういう心理になりがちだから、私にその部分がないとは言い切れないけど、距離を置きたいとは思っている。
私としては、富野のキャラクターたちはそこそこ色んなスタンスの人間がいるのだが、全体の流れや演出だと、前半は厭世が強めでも結末部分には性や生殖の肯定が感じられる、そしてその肯定に唐突さがあるという方が本丸である。
流れや演出からなんとなく感じたものなので説明が難しいのだが。
Zなんかは、基本的には鬱屈が漂ってるくせに誰もかれも妙に色恋に熱心で、その色恋のせいで死ななくてもいい人もたくさん死んだのに、それにも関わらず露骨なセックスのメタファーを感動的に描いたラストで終わる。
F91もそれに近い。F91はシーブックはそこまで鬱屈してないが(なんか母親と距離感じたけどな)、セシリーに家庭環境のヤバさと生きづらさと情緒不安定さが付与されてて、そんでラストはイチャついて終わる。
初代と逆シャアの組み合わせは、ララァとの出会いが結局アムロにもシャアにも深い傷になってるし、逆シャア内だけでも男女のもつれでゴタゴタしてるし、ケーラもアストナージもクェスもギュネイもチェーンも死ぬし、やっぱ性愛ってダルいぜと思わせてるけど最後は命の力で命が救われて命って大事って雰囲気になる。
他のトラバに「生命賛歌が共通してある」という言葉が出てて、確かにそういうニュアンスがあると思う。
そしてその生命賛歌が、急に出がちな気がする。
私が見た限り「色々しんどい場面見せたけど、でもやっぱり生命ってステキだよね!」という感じなのだが、その「でもやっぱり」の根拠が薄いと思うんだな。
しんどい場面たちは相当な説得力をもってシーンが重ねられるのに、生命のステキさは自明の事のようにポエムっぽい演出で描かれて、置いてけぼりにされてしまう。
私が人生うまく行ってないから価値観が普通じゃないというのはその通り。
我ながら機能不全家庭育ちのオタクが性別や家族へ不信感持つパターンの典型だと思うし。
でも富野もアムロも普通にうまくいってる側じゃなく機能不全育ち側っぽいじゃん。
んで実際前半はいかにもこっち側なのに、いつの間にか保守側っぽい普通の人生と性愛肯定が出てくるのがわかんねーの。
人間関係や恋愛に絶望気味だった少年がヒロインとの出会いで愛に目覚めて……とかならわかるわけよ(その展開は私は嬉しくないし陳腐だと思うが、物語の流れとしてはわかる)。
でもフラウやファに対しては気むずかしげに突っぱねたりして隣に住む美少女というモテフラグをブチ折るほどちゃんと機能不全育ち感出してるのに、ララァやフォウには交流を通しての変化じゃなく出会ってすぐにキョドりもせずいい雰囲気作ったりしてさ、その辺が謎なのよ。
初代ガンダムの映画とZの映画とF91の映画と逆襲のシャアとリーンの翼を見た。
基本的にどれも面白かった(面白くなきゃこんなに見ない)んだけど、全体を貫く家族観というか男女観というかがどうも納得できない。
そして、軽くググったんだがその辺をうまく言語化してくれてる考察記事なんかも見当たらないので書く。
まず基本的に私は、男女に本質的差異はない……というか、あるかもしれないが、文化と科学の力でそれは限りなく縮小していくべきだと考えている。
男女に差異はあるかもしれないが認めるべきでない、というのが正確か。
生まれた時に定められる性別などというものがついて回るのは人間にとって不幸だと思うからだ。
時折SF作品などで描写される、無性で生まれ、ある程度成長したら本人の意思で性別を決定できるとかそもそも性別の概念がないので決定もしないとか、そういう世界が好ましいし美しいし幸福だと考えている。
また、家族制度もなくてよい。個人として生きるのに、家族がついて回るのは恐ろしい。
強い反出生主義ではないが、性別や家族の檻から抜け出すのが困難な現状での生殖は、あまり喜ばしいことだとは思えないので複雑な表情になる。
そして富野アニメなのだが、性別の差異を強調しているような描写があるかと思えば性差に無頓着な描写もある。
女性性を持ち上げたりしたあとに、逆に所詮女子供と馬鹿にしているような言動を主人公格が言ったりする。
家族についても、家族や血筋は呪いだというニュアンスと、家族って大事だよな!みたいなニュアンスが混在している。
そして性愛や生殖についてはなぜか妙に生々しく描かれている……基本的には肯定的だと思うのだが、美化というよりとにかく生々しい。
これがもし一貫して「男女は別物、家族は大事、ヘテロ恋愛して生殖バンバンしようぜ」みたいなことを語る作家であれば、私も「性別概念に魂を縛られた古い人間め」と見切りをつけるのが簡単なのだが、見た限りの富野アニメはそうとも言い切れない。
もちろん、そもそも作家性がなくその場に応じたエンタメを作ってるだけなので考える必要がないとかそいういうクリエイターでもなさそうだ。
識者からすると、富野由悠季の性別観、家族観、生殖観というのはどのように整理されているのだろうか?
私にとっては大雑把に言えば不快な場面が多いのだが、ただ不快だとは言い切れない部分もあり(だからこんなに見たのだ)、なんとも落ち着かないのだ。
16日の18時頃追記/
トラバを見て、少し整理できた。
富野作品には厭世観や人間不信が感じられるので、生殖や恋愛への否定を予想して見ることになるのだが、いつの間にか性愛への肯定描写がされていて、そこがうまく繋がらないのだ。
下世話に言えば、アムロもカミーユも機能不全家庭育ちで恋愛や家庭への不信をこじらせ幼なじみにも冷たい非モテっぽいのに、ララァやフォウとは出会って即スマートにいい感じになるのはNTの共感を踏まえても納得できないってこと。
これは富野自身が結婚し子供を作っていることへの「こんな作品作ってて家族持ちなの!? だから子孫肯定なのかもしれんけどよく結婚する気になったな!?」という戸惑いとも近い。