はてなキーワード: 造作とは
わたくし、30歳になっても女性とお付き合いしたことのない男です。
ただの一度も、お付き合いしたことがありません。
女性はいろいろな意味で好きですが、積極的になる自信なんて持ち合わせておりません。
いわゆる非モテ、というと古い表現になってしまいますが。
このことからご想像できる通り、モテないさえない惨憺たる人生を歩んできたわけですが、
なぜか最近「イケメンだよね」「モテるでしょ」などと言われることが多くなってきました。
もちろん、お世辞や茶化しであるということは承知しています。
それでも、以前の「アキバ系ダサ男」「ネクラ眼鏡」「雪国もやし」といった言われようから
するとだいぶかけ離れているので、なぜそう言われるようになったのか考えてみました。
結論をひとことで言うと、イケメンと呼ばれるのは「顔」だけが原因ではないということ。
かくして、自分は分不相応にもごくたまにイケメンと呼ばれるようになったわけです。
肝心カナメの顔はまったく変わっていません。多少老いはじめたくらいです。
顔が原因ではなく、それ以外の振る舞いや印象、場合によっては相対的な社会的地位から、
イケメンという言葉が選択されているということだと思います。
いやはや、イケメンも地に落ちたものです。
今、イケメンと呼ばれずに困っている若い人も、その評価はこんな簡単にくつがえる
可能性があるということを覚えておいたらいいかもしれません。
「自分は顔が悪いからモテないんだ」という逃げ道が無くなってからはや数ヶ月。
これだけ事態が好転しているように見えるにもかかわらず、最初に述べた通り自分には彼女ができません。
できるような気配もありません。
やはり、年齢に応じた経験値に裏打ちされた積極性がないとダメなんだと思います。
これまた、顔の造作には直接的な関係は無いスキル。
顔だけに責任をおしつけることができなくなっても、人生は続いていってしまうらしいのです。
数年後にはあっさりとキモいオッサンキャラを確立しているような気がしてます。
2005年のデータでは、男性の平均寿命は78.7歳、女性の平均寿命は85.7歳。
男性の方が7年も早死にということになる。
ということは、女性が7歳年上の夫婦は同じくらいの時期に死ねて寂しい思いをしなくて済むということじゃない?
そもそも、女性の性的魅力なんてせいぜい16歳~24歳の間しか無く、その時期を過ぎたら消えてしまうもの。
男性にとってセフレならまだしも、一生を共にする妻を性的魅力で選ぶのはナンセンスでしょう。
では何で選ぶべきなのか?「健康・知性・収入」の三点だと思う。
遺伝性疾患を持つ妻を選んで、遺伝した子供まで苦しむハメになったら可哀想だし、
知性の無い母親に育てられた子供も、似たように愚かになりがち。
そして収入…というより安定してお金を稼ぐ能力は、性的魅力とは対照的に、歳をとるほど伸びていく。
男性は顔の造作がきれいでも40歳になってしまった女性のことを「ババア(笑)」「元美人(笑)」と笑うけど、
女性は40歳の素敵な男性のことは「大人の男性」として変わらず魅力を感じる。
ただし、素敵な大人の男性になれる人は、当然若いときから素敵。
魅力のない男性は若い頃キモメン→歳を取ってキモオヤジになるだけなので、一生気持ち悪いまま。
なぜ今の日本にニート・引きこもりが大量発生してしまったかと言うと、
ヒマな専業主婦が子供に構いすぎ、甘やかしすぎてしまったからだと思う。
子供の父親が「男は一家の大黒柱だから、家族全員を養うべき」というプレッシャーのせいで、
そのせいで「よき夫」「よき父親」として振る舞う余裕が無くなり、家で無視されるようになり、
子供はいつでも家にいるヒマな母親からの過干渉・過保護のみを受けて育つことになる。
子供のバランス感覚を養うためには母親と父親、両方の育児参画が必要。
私の父親は月に80万稼いでたけど、結局ほとんど貯金しているだけ。
そんなに稼ぐ必要ある?激務のために家での居場所を失ってまで?私は、必要ないと思う。
年収なんて200万~300万でいいじゃない。共働きして500万。充分な暮らしができるよ。
片方が専業主婦もしくはヒモになると、社会性を失って育児に悪影響が出るからそこは避けたいよね。
妻が400万稼げるなら、夫は100万くらいのパートでもしてさ。
向き不向きで割り振っていけばいいんだよ。
婚活女が「夫には最低600万は稼いで欲しい」なんて言ってるけど、配偶者の選び方完全に間違ってると思うわ。
配偶者こそ性格が良くて、見た目が好みな男性を選ぶべき!収入なんて二の次三の次!
働くのがいやだから、好きでもない高収入キモオヤジと結婚して、養われてます…。なんて、恥ずかしくないの?
相手が不特定多数じゃないから性病にはかかりにくいってだけで、していることは売春と同じでしょう。
数十年契約の売春。30歳以降なんて、スクラップみたいな価値になった自分の体を夫に押し売りしてるのと同じ。
しかも専業主婦のくせに「夫が魅力無い。やっぱり若いイケメンに抱かれたい。」なんてトチ狂いだして、
不倫するようなバカ女もいるよね。恥を知りなさいよ。
若い頃全然モテなくて、30過ぎたら結婚目当ての女が寄ってきたような男にも言いたい。
女の本音は、打算を知らない学生の間にあらわれてるの。あなたには、結局のところ金しかないの。
あなたが学生時代に女に無視されたのは、このうちのどれかが致命的に欠落していたり、どれもダメだったりするから。
30過ぎたらもうどうしようもない。あなたはもう一生、恋愛には参画できないでしょうね。
女こそ、若いうちから勉強しろ!社会人になっても一生勉強し続けろ!そして稼げ!
かといって最低限太ったり身なりをだらしなくしたりはすんな!
男こそ、若いうちからコミュ力を身につけろ!そして一生ものの性的魅力を磨け!
昭和の徹底した男尊女卑から、平成になって女の復讐のような女尊男卑の世の中になり。
次にどんな世の中になるのかは、私の言うとおりになると思う。
自分が本当に望んでいることを考えた方がいいよ。人間の価値についても考えた方がいいよ。
今の世の中は時代に合っていない。間違っているよ。
ブログを書かなくなって久しいが、復活にむけリハビリがわりに増田に書いてみる。
もっとも、大学教員である私が学生指導を通じて感じた知性について今日は書きます。
知性が低いと思われている人の中には、単純に広義の体力がないケースが多い。病気がちであったり、何らかの事情により物事に集中出来なかったりするために、知性を獲得する上で必要な思考が妨げられているケースが多い。
案外、中等教育期間中に体力づくりのための運動をすることは頭を良くするためにも大変理にかなっていると思う。また、特にチームスポーツであればリーダーシップを学べるので良いと思う。自分の子供にはそうさせてやりたい。
とくに運動が苦手な人を中心に、大学生になると定期的に運動する習慣を失う人が多いが、案外知性の獲得に向けてよろしくないような気がする。
本能や感情を抑制するのがまずもって社会生活を送る上で求められる基本的な知性である。そして、それらの基本的な知性の多寡は生まれつきの要素が強いが、しつけによるものもあるだろう。
もっとも、知性ある親はしっかりしつけるし、知性が獲得させた様々な社会的資源を活用して子育てするから、親は選べないということは本当に不公平なことであると思う。
人間は感情が優先される動物なので、都合の悪い(=悪い感情を引き起こす)現実は直視したがらない。そのため、基本的な知性が乏しい(=コントロールできる感情の水準が低い)と、自分にとって不都合な真実を理解しようとしないために、理解できる法則に限界がある。結果として応用的な知性(職業的に求められる能力など)も獲得されにくい。
もっとも、感情的にならず、冷静に周囲と調和できる人、いわゆる「良い人」が社会的に成功するとは限らない。全体的にみて、その様な人は所詮当たり障りのないことをしようとするから、つまらないことになる。
社会的に成功する人、特に経済的に成功する人の中には、性格的にユニークな人が多い。やはり、人並み外れた目立ちたがりだったり、強い欲望を元に事業を成功させるような人は強烈なエネルギーを持ち回りを引っ張ったりする。その人が良い人である場合もあるが、その様な強烈な感情は何らかのコンプレックスであることも多く、「良い人」でないこともままある。
というより、日本的な文化の中で、冷静に周囲と調和して生きるよう指導されているのは、社会が安定を求めるがゆえに、大半の貧民・庶民に隷属を強要することの裏返しかもしれないとすら思う。一方、親が金持ちだったり、社会的なポジションを有するようなケースでは、根拠の無い自信を持っているような奴もいて、比較的楽にリーダーシップを握ったりするなど、成功に近づく。社会階層が最生産される精神構造がそこにはある。
一定の素養がある人が習熟すると、だいたいの見た目や立ち振る舞いだけで、その人の知性の水準がわかってくるようになる。もっとも、その能力を獲得するためには、直感的に人を見る目を養わなければならない(少しシビアな)環境にいたかどうかが重要である。おそらく、過去の生活の結果に基づいて顔の形や立ち振る舞いと知性や性格との関係に関するデータベースができていて、それを無意識のうちに当てはめることでその推論が成立しているように思える。その構造を理解すると、第一印象に気を配ることは重要であることにも気づくだろう。
だいたいにおいて、賢い人は見た目も良い。もっとも、私は「見た目」に二種類あると考えている。一つは持って生まれた「造作」の良し悪しであり、もう一つは後天的に獲得した、あるいは経験した感情によって作られる「面構え」のようなものだ。前者はいかんともしがたいは物理的必然であるが、後者は自分の心持ちによってある程度コントロールすることが可能である。(もっとも、そのそれを改善するような心持ちを持てるかどうかも基本的な知性によるのだが。)
10代の間の見た目はまだ前者の「造作」によるものが大きい。しかし、大学を卒業するぐらいの年令になると、どのような経験により、どの程度の精神的成長を遂げたか?ということが顔に出てくる。ましてや40にもなろうとすると、それまでやってきたことの影響が思い切り顔に出てくる。結果として、大人になればなるほど、賢い人は見た目も良くなる。
性欲の強さは性格や知性にある程度の関係がある。社会生活をうまくこなすためには、強すぎても、弱すぎてもダメ。もっとも、ここで言う性欲とはある種のバイタリティの言い換えかもしれない。
性欲がある程度強ければ、異性を誘惑するという、生存上もっとも戦略性が要求される行為について自発的に考える。特に取るべきコミュニケーションの内容や、自分の振る舞いが相手に与える影響をよく考えるようになるからか、結果としてある程度の知性を獲得するのだろうと思う。
もっとも、性欲が強すぎるとそれ自身が知性の獲得に障害となることもあるので、社会生活的に見てうまくいかないケースもある。
性欲が弱そうにみえるタイプは、やっぱりコミュニケーションのとりかたに問題が出てくる。実は、就職活動をするときにモテる人とモテナイ人の差は如実に出てしまう。
言うまでもないことだが、基本的な知性が乏しい人は、自分の能力を効果的に伸ばすための選択ができない。また、自分の適性もなかなか決め切れない。結果として解決すべき問題、獲得すべき能力に関して集中的に取り組むことをしないで、ばらばらで組み合わせの悪い能力を身につけたりする。あるいは単純に時間を浪費する。
もっとも、将来的にどのような組み合わせが望ましいのかわからないという言い分もよく分かるつもりで、無駄なことなどないと信じたい。ただそのような言い方は、気の毒にも無い内定で落ち込んでいる学生を目の前にしてあまりにも無力である。
以上リハビリ終わり。
本当に辛い思いをしてきたんだね。
私もかつて増田と同じことを思ってたから、10年後のあなたからの言葉だと思って聞いて欲しい
10代の時って容姿がすべてと思ってしまうんだよね。私もそうだった。
顔の造作のちょっとした違いが大きな違いだと思ってしまうんだよね。私は高校生の頃自分の顔が嫌で毎日マスクして学校通ってたよ
でもね、女の子って20代前半まで毎年顔が変わるし、(私も一重だったけど、まぶたの脂肪が落ちて二重になった)洗練されて行くしどんどん綺麗になっていくものなんだよ
増田もきっと綺麗になると思うから、とりあえず22歳まで整形するのは待って欲しい。
今は本当に多感でネガティブになりやすい時期だと思うけど、この時期が過ぎればきっと自分を肯定できるだろうし容姿より大切なことがあるってわかると思う。
そして男の人って女が思ってるほど女性の容姿の細かい違いなんて分からないの。(キャンキャンみたいな格好している人はみんな同じに見える様にね)
容姿で人の価値を決める人間も残念ながら存在するし、若いうちはそういう人が多いと思う
だけど、社会人になればそんなのは一握りだし、そういう奴は総じてクズだから気にする必要も無くなる。
大人になれば私の言ってることはきっと理解できると思う。
私もブスで10代の頃は整形しようって考えてたけど、しなくてもちゃんと人並みに恋愛できたし、結婚もできた。
とりあえず22歳まで待ってみて。その時も自分の顔が嫌いなら整形すればいい。整形なんてお金があればいつでも出来るんだから。
『けいおん!』ぐらいしかアニメを見ないわけだけど、そういう立場からでも分かったことを、少々述べておきたい。批判は覚悟の上。
よくいますやん、「実際に唯みたいな天然いたら、うざいに違いない」とか、「澪の臆病さ、わざとらしすぎ」なんて言っちゃう人。まったくもって、野暮でいらっしゃる。
髪の色なんかもそうだけど、顔の造作で大差がつかない以上、そこ以外でキャラクターづくりする他ないでしょうが。その結果が、ああいうはっきりした性格の描写なわけであって。おとぎ話にリアルを持ち込んだって、仕方ないでしょ。
いいじゃないですか、みんなかわいいんだから。現実に危害加えられるなんてこともないんだし。甘受しようじゃないの、ムギの眉毛を。たくあんを。むぎゅうううううううううううううううう
女装した自分を見せたくて、見てもらいたくてやってるわけですから、当然アイコンにしますよね。
スカート履いて内股になってる写真とか、ツインテールとかヘッドドレスとかで髪型を整えて目元だけ写ってる写真とかです。
・爪を伸ばしている
男なんで付け爪はちょっと買えないんですよねー。
・膝より上が完全に隠れるインナーウェアを季節に関係なく履いている
膝上まではニーソックス等を履けば隠せるんですけど、下着を見せる関係で膝上からは脚のムダ毛を剃ってるんですよね。
でもその部分だけ剃ってたら不自然でしょ?だから人に知られるわけにはいかないんですよね。
今の季節だと暑いんですけどヒートテック状のインナーウェアを履くしかないんです。
・髪を無造作に伸ばしている
でもいまはウィッグとかありますし、あんまり優先度は高くないです。
・よく聴く曲はレディ・ガガ
こればっかりはよく分かりません。
真面目な話、あらゆる問題について「発言した上で中立を気取れる」人はそう多くないよ。
調子にのってこっちに絡んできたら迎撃してやるぞという威圧感がないと無理じゃないかと思う。
アルファブロガークラスか、超粘着で関わりたくないと思われるか、どっちかになれば可能だろうけれど
しかし、実際には中立気取りが非常に多い。ウォチャー気取りも。
多分コレ、アルファブロガーや周囲の意見に追随するのに慣れてる人なんだろう。
基本的には大勢の中に紛れれば自分個人にツッコミが入ることって少ないもんね。
下手な中立気取りは、どっちかの陣営にとって真っ先に狙われる対象になる。
例えば原発に関して代替案なしでただ反対だってわめいている人は、少し考えが足りない。
正確に言えば、考える順番に問題がある。
でも、それを考えなしにひろおうとするのは死亡フラグだからな。
相手は「代替案が提示されなかったら現状が継続されてしまう」ということに危機感を覚えている。
そこで「で、代替案は?」という態度が中立であると勘違いしているなら、間違いなく馬鹿だ。
「批判には代替案が必要だという前提」がすでに片側に偏っている。
それは、中立どころか、相手の視点からは切込隊長(例の人のことではなく)のポジションに見える。
飲み疲れた体でたばこ屋の脇の路地へ入ると、雨に濡れた地面が自販機の明かりを反射させている。
昼には薄暗かったはずのこの路地が、深夜になるとここまで明るく見えるのだから不思議だ。
少し前方へ目をやると、赤提灯が風に揺れている。無造作に並べられた待合席には誰もいない。
店の前に立って中の様子を窺おうとするが、結露がひどくて腰より上の高さは見えない。まあいい。
少し勢いをつけてドアを開けると、頭にタオルを巻いた若者が「いらっしゃい」と迎えてくれた。
右手には水商売風の女性と会社員らしき中年男性。平日だというのに随分と楽しげだ。
テレビの見える席に座ってラーメンを頼む。威勢の良い返事。コップに注がれた水が出てきた後、調理が始まる。
ラーメンの調理風景に興味はないので、私はテレビを楽しむことにする。
テレビではネコがコタツに入るかどうか、どうでもいいことを実験している。深夜番組らしい雰囲気だ。
結局コタツに入ったネコはたったの一匹だった。本当にどうでもいい。
テレビの実験が終わると共に、ラーメンが出てくる。そういえばここのラーメンは久しぶりだ。
少し黄色がかったとろみのあるスープに、細めの麺。チャーシュー、メンマ、ネギ。
テーブルに置いてある高菜を少し入れて、スープを飲む。どこにでもありそうでここにしかない味。うまい。
少し堅めの細麺はスープとよくマッチしている。ずるずると下品にすすると、体の芯が温まってくる。
〆のラーメンというのはこういうのでいい。高い完成度も奇抜さも必要ないのだ。
完食まで五分と少し。コップの水を飲み干した後、ご馳走様と告げて代金を支払う。
さて、通りまで出てタクシーを拾おう。
わが娘が二人の男のうちどちらと結婚するか迷っているとして、
「娘が決めるべきこと」と思っている人も、親の立場で安心できる正直な意見、"心の声"を聞かせてください。
(1)収入と愛
a) キャリア組の公務員や、一部上場の出世枠で、収入は安心。
しかし情に乏しく、仕事のストレスは恒常的に娘にぶつけられている。
b) 娘を心から愛している様子で、気立てが良い。
娘が体を壊したり、子供ができて休暇をとることになると、即家計が破綻する。
(2)容姿と愛
ア)身長が高く、脚が長く、小顔で、中性的な顔立ちのいわゆるイケメン。
しかし数回浮気しており、娘は交際中から何度も泣かされている。
イ)娘より身長が低く、顔が大きく、顔の造作も孫の容姿が心配になるほどの不細工。
(3)家柄と愛
① 学者や研究者を次々排出している英才揃いの家柄に生まれ育った青年。
一族みな社会的地位が高く、有力なコネクションが期待でき、老後まで安心。
夫方の親戚や姑などから、侮蔑や嘲笑(実家へのものも含む)を日常的に受けて生きることになる。
しかし親や兄弟には逮捕歴があり、親戚にも多数のやくざ者が居る。
本人は誠実な堅気だが、親戚縁者に金の無心に来られるなど、一生付きまとわれることからは逃れられない。
(4)障害と愛
i )健康や身体機能には恵まれているが、娘を愛しておらず、軽んじている。
「3月のある晴れた日の夜、100パーセントとは程遠い女の子に出会うことについて」
3月のある晴れた日の夜、100パーセントとは程遠い女の子に出会う。会うのはこれが初めてというわけではない。かれこれ1年前ぐらいから、二人はよく会っていたのだ。もちろん、会っているといってもお互いを知っているわけではないから、話しかけることもない。午前中によく行くいつものカフェで、だいたい同じ時間に同じテーブルでよく会うだけ。二人はどうもお気に入りの場所が同じらしく、いつも椅子を並べてる感じになってしまっていたために、存在自体は知っているぐらいのことだ。だからしばらく会っていなくても、会っていないという認識すらない関係だ。
そんな女の子と、久しぶりに、いつも会っていた時間とは違う夜の時間に出会ったのだった。
彼女が座ったのはいつもの場所で、仕草や後ろ姿からみてすぐいつもの彼女だとわかった。実のところ、顔を面と向かって見たことがないので、どんな顔をしているのかを僕は知らない。横顔や後ろ姿をちらっと見るにロングヘアで、細面の美人系のタイプ。服装だって今時の女の子みたいにそれなりにおしゃれだと思う。歳とかはわからないけど、まだ会社に入社したてかそれぐらいの感じだ。
でも、はじめて見かけた1年ほど前からなにも変わっていないのだけれど、仕草にやたらと垢抜けてないというか、可愛いな、と思える仕草と正反対なのだ。いつも見かけるのは午前中だったけれど、仕事で疲れたあとに来ているのか、テーブルに胴体を投げ出して、突っ伏しているし、足元も靴を半分、脱いでいる感じで、かかと丸出しでだらんとさせている。寝ているのだからじっとしているのかと思いきや、常になんとなく落ち着かない感じで身体を揺らす。眠りから覚めたのかと思ったら、両腕をいっぱい上にあげて大きく伸びをする。トレイの上においてある、買ってきたカップだって、くしゃくしゃレシートやら使いかけの紙ナプキンとかと一緒に無造作に放り出してあるのだ。
それでも僕は、久しぶりに会えて少し嬉しかった。嬉しかったというかなんというか、なんだか気になってしまったのだ。そして向こうもこちらの存在に気がついたようで、なんとなく気にしている感じがしないでもない。どうも彼女も僕の顔を見てみたいのか、先ほどから何度か、ちらちらとこちらを見ているような気もする。
隣の席が空いた。朝、よく見かけたときは、僕がいつも座っていた席だ。席を移動しようかな。そこまでするのはさすがに不自然だ。でもそうしたい気持ちがあるのも事実ではある。隣のいつもの席におもむろに移動したとして、そこで僕は声をかけるのだろうか?声をかけるとしたらどうやって声をかけるのだろう?
突然、話しかけられたら、向こうはびっくりするだろう。そして、2,3の軽い受け答えはあるかもしれないけれど、その後、特に何を話しすることもなく、沈黙が流れ、気まずくなって彼女は帰ってしまうだろう。本当はもっとゆっくりしたかったはずなのに。そしてもしかしたら、いつもよく見かける時間帯も、僕がいることで、来づらくなってしまうかもしれない。そんなことになったら彼女からこのお気に入りのスペースを奪ってしまうことになる。そんなひどいことを僕はしたくない。
100パーセントとは程遠いけれども、そんな彼女の仕草を意識するでもなく眺めていると、仕事頑張ってるんだろうなとか、飾り気のない人だなとか、そんな彼女の人の良さが想像されて、なんとなくほっとするのだ。
Togetter - 「francesco3氏」と「めがねおう氏」の炎上ツイートまとめ
その昔非モテというものがあり、今では二つに分かれ、ひとつは『関わってはならないサイト』に、もうひとつは非モテを名乗ることをそのものをやめた。
なぜそうなっているかと言えば、「ママのお人形」と形容される元来の資質もあるだろうし、他者に不快さを与える先天的な顔の造作の悪さもあるだろうし、今で言えば発達障害などの広汎的な不良もあるだろうが、いくつかの要因を元に、慢性的に幼児期からカジュアルに疎外されつづけた結果といえると思う。
カジュアルな疎外というのは、単にキモいといわれるようなこと、それだけである。
長年にわたり複数からキモいとか、なんでお前もいんの?とか、私の机に触らないでとか、二人組作ってーなどと言われ続ければ、塵も積もれば山になるのであって、人格の奥底に自分が自分であるが為にキモいという意識が形成されていく。
『自分が自分であるが為にキモい』というのはすなわち、自己表現してはならないということである。
自己を表現したら不快と思われるような存在否定の意識であり、自己表現をしないか、キモい自己表現のみが許される。服装は典型なオタクルック、闇に隠れるように地味さで、声は誰にも聞かれぬよう細々と小さく、趣味もキモいと思われるような一人遊び。
そのために非モテたちは、非モテとなる以前は名前のない誰かであった。分かり易く憐憫・同情されるほどのエピソードは持たず、しかし慢性的にカジュアルに疎外され、誰からも慰めて貰うことなく、その結果哀れで卑屈な人格が形成されているが、他者からみれば『努力不足』『甘え』と形容される、どこにでもいる名前のない誰かである。
ネット時代が到来し、名前のない誰か達に自己表現の春がやってきた。
彼らはいつのまにか集い、巣を作り始める。だが看板無き場に人が集うことはない。大きな前提条件として『モテない』が自然発生的に選択された。『モテない』は実に分かり易いカジュアルな疎外の経験として、大多数の『キモいひと』に共有されていたからだ。そして彼らは、喪板や非モテと言ったコミュニティを作り上げた。
カジュアルな疎外経験を自分語りすることによって、彼らははじめて互いに憐憫・同情・受容する場を得たのだ。
匿名か顕名というネット特有の大きな距離感はむしろ、疎外されることのない安心感としてうつった。
真の自己が孤独だと感じていた者が、自分以外の同じような経験に触れることは、なによりの癒しとなる。
場に癒された者は、自らも場に溶け込もうとし、その為の経験は十分に豊富で、そしてその経験も平和的に共有されていった。
自己表現の病を抱える者にとって、名前が付くことは実に安心できるもの。しかし、非モテで安心することは、失敗である。
コミュニティが形成されれば、時と共に煮詰まっていくのは仕方ないこと。
コミュニティが生まれればそのなかで更なる承認を得たいとする意識がうまれ、ばかげた内部闘争が始まるが、全くもって無意味なゴミに過ぎない。大別すれば2種類あり、一方はとにかく『モテたい』ひと達である。自己否定の表現である『モテない』と、希求の『モテたい』はおおいに違うので、自己を非モテに受け渡した人は揉めたのだろう。
そもそも欲望の大本は何だったのか・・・といえば、彼らはただ、自分を知って貰い憐憫・同情・受容されたかった。でなければ、コミュニティが形成されることもない。
『自分を知って貰い憐憫・同情・受容されたかった』という感情。
非モテの感情を規定する両輪。慢性的なカジュアルな疎外のなかで肥大化した攻撃性と、受容されたいという弱々しい自意識。具体例を挙げるなら、秋葉原加藤の理不尽に暴発した攻撃性と、被害者よりも加害者加藤の生活史に思いを馳せてしまうやさしさ。これがいまでは具象化され、非モテコミュニティに顕現している。一方はミソジニーであり、もう一方は同族に対する共感。しかし、この共感さえローカルなものであり、矯正されるべき共感とされる。
ミソジニーといえばフェミニズムに関連があるが、非モテはフェミニズムと親和性が高い。
痴漢vs痴漢冤罪に代表される主語の大きな人たちによる性別間代理戦争も親和性の高さの表れと言えば確かにそのひとつであるが、何よりも『自分が自分であるが為にキモい』から救済されたいとする意識が、『女性性からの解放』つまり自己表現を闘うフェミニストと親和的といえる。
なぜミソジニーになるのか。単に誤爆してるだけだ。抑圧移譲。弱い者達が夕暮れ、さらに弱い者を叩く。たとえ疎外されたとしても、誰かを疎外してはならない。疎外の中で肥大した攻撃性を纏って許されるのは、『性差別構造』を背にする女性か、その立場にたつ者のみである。慢性的なカジュアルな疎外は、そのカジュアルさから『敵』を固定することができない。非モテが背にするものは何も無く、敢えてあるとするなら非モテホモソーシャル程度なので、孤独に籠もることは正しい選択肢だ。
さらに言えば、性別間代理戦争は、権利を勝ち取ったフェミニストに対する非モテの嫉妬でしかない。単純化すれば、なぜこちらを助けてくれないのかという叫び。何故お前らは『俺<男性>の理不尽な被害にも思いを馳せないのか』、という怒り・妬み・嫉みを、最も強く表現できる闘技場。『痴漢vs痴漢冤罪』は場として使われている。
すべての被害体験は理不尽なものだが、女性の被害はたまたま『構造的な問題』と合致していたが故に、同情され、受容される。もっと言えば、女性への同情・受容は、『男性への攻撃』を纏っている。誰からも慰めて貰うことない非モテは、受容される女性の姿に妬む。そして個人的な被害体験の記憶に、『なぜあちら側だけ』『なぜこの上殴られるのだ』というような思想的疎外感が加わり、ミソジニーは加速していく。
女性の被害意識が『構造的な問題』として処理されても、非モテには適用されない。なぜならば、非モテの被害意識はきわめて個人的な女性からのいじめや暴言を発端とするからで、男性・女性全般とは無関係なのだ。『男性の最底辺』が理不尽な被害を受けたに過ぎず、男女全般で見れば男尊女卑の構造は維持されているのだから、転嫁することは不可能である。『構造的な問題』があるならば、非モテが被害を受けたことではなく、被害の声を上げられなかった場合に限られ、これは男性性暴力被害者が女性のそれよりも過小視される問題と地続きといえる。男性は何があろうと、強く逞しくあらねばならない。
弱々しい自己を守ろうと、パワードスーツのごとく男性性<攻撃性>を身に纏うミスを犯したあわれな非モテの、女性全般やフェミニストへ向けられた言論なんてものは、単なる無知か差別意識の発露として処理され、一方で男性性防護服を脱ぎ捨てた非モテは、代わりに身を守ってくれる<他者のやさしさ>も得られないのだから、自らのために立ち上がるような力すら失い、わずかに残る白馬の王子的な空想を胸にして、世界との関わりから後退していくばかり。だいたい、未だに男尊女卑がスタンダードなので、このような非モテ男など取るに足らぬ『例外』に過ぎず、決して『マイノリティ』を形成するほどではないのだ。
一部の非モテたちは何を思ったのか、個人的な左翼趣味を土台に恋愛至上主義を打倒するなどと言う大いなる目標を掲げたが、残念なことに、こんなものは『例外』が個人的充足の希求を社会そのものに直結してしまった時点で無理筋である。結局、Twitterでゆるゆると馴れ合う以下の充足しか得られず、破滅に至った。
男性性を剥き出しのままにする自制なき非モテは、そのアクティブさから結婚なり、非モテを道具に用いて商売に転化するなりで成功し、それはまさしく健常な男性の姿。これが正答である。
一方、自制ある非モテは元あったところ『名前のない誰か』に戻っていった。攻撃性は厳しく律され、女性全般などに誤爆することなく、過去の記憶に、自らの内側に、抽象的な世界そのものに向かい、生まれてこなければ良かった、既に全ては終わっているという意識に至る。その自制の強さ故に自己表現の病から抜け出せないのなら、孤独のまま人知れず終えるしかない。
非モテは死んだ。出口など無い。あるものは残骸のみ。
http://nekodayo.livedoor.biz/archives/1381193.html
http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20101231/1293801282
新年早々かがみんとかありむーが元気そうで安心した。昔からファンなのだ。
自分の欲望のために他者を殺めることすら、何の規範の束縛も受けない勝手気ままで無軌道な自由が物語に無造作に置かれている。こういうのを読むと、不安になるのでしょうね…。それは、規範というものは、私達一人ひとりを守っているもので、それが無い世界では、死や暴力の恐怖に怯えなくてはならないから
外部(他者や社会)のために自らを律する心が生み出す行動の美、こういう美もあるんだということを、漫画を読むお方々にはぜひ知って欲しいですね…。自分の欲望だけに生き、他者などは最初から無視するアノミー(無道徳・無規範)こそ、ニヒル(虚無的)でカッコイイみたいな風潮は、僕から見ると底が浅くて馬鹿げているようにしか見えず、好まない
生活がぎりぎりになっても世の空虚さとかに眼を向ける余裕がある人格は嫌味ぬきで割と尊敬してる。他者愛とは違う執念みたいなのを感じるね。一方で、自分が嫌いなものに対してはアンフェアな比較を持ち出してまで叩くという自己愛強すぎるところは辟易する。この人らの他社批判へと自分への甘さの乖離ぶりは芸術の域に達しており、気軽に「死ねばいいのに」と言える存在として重宝している。本名なんか知りたくなかったし、後悔してもいいけど強調しないで欲しかったな。この人らへの評価は昔から全く変わらない。知識すごくて頭悪い=自己批判能力がゼロな人だ。どんなに頭良くても、たくさん本読んでても、自己への批判や言及を一切受け入れないニンゲンってのはこうなるんだな、という鑑として、昔から自分がうぬぼれそうになったときには重宝している。大事なことなので二回重宝した。この二人にはこれからも自分勝手を貫きながら生き延びてほしいものだ。いざというとき呪いぶつける相手がいなくなると俺のストレスの行き場がなくなってしまう。とりあえずふたりとも金おくっといたから足りなくなったらまたブログで泣きついてくれ。
登場人物:
・A氏:40代後半。既婚。2児の父。勤めている企業では管理職クラス。見た目は髪が薄くておっさん体型。
一度目は長女が3歳くらいの時、二度目は次女が3歳くらいの時。
一度目も二度目も妻にバレて関係が終わっているようだ。
「社員の〇〇さんが気のある目で俺のことを見ていた」とか得意げに話していた。
不倫経験自慢も平気でする。特に罪悪感とかそういうものは感じられない。
普通一度でも妻にバレたら懲りて二度目はバレないようにしようとするものだと思うが、
(浮気癖が酷いと妻にバレようが何だろうが繰り返すのでやめようという意識はない)
どうもそういうところが無頓着のようだ。
…無頓着?
いや、関係が面倒くさくなったら敢えて妻バレさせて別れの口実を作っているようにも思える。
不倫がバレた時の妻の反応は半端無くすごいものだった。
家の中をめちゃくちゃにしたり、自家用車のシートにはさみで切りつけたり、怒り狂うにしても常軌を逸している。
A氏曰く妻はうつ病なのだそうが、SSRIなどの抗うつ剤による副作用で他害行為に及んだものなのか
(http://oisha.livedoor.biz/archives/51250019.html)
他の精神疾患のせいなのかは分からないが、ともかくそんな状態になったら一刻でも早く入院させ治療させるのが
家族のつとめだろう。
しかし、A氏はそういう対処もせず、妻と彼女行きつけのカウンセラーのところへ行くとそれだけ。
この人はうつ病の知識もないのか。
二度不倫がバレたA氏だが、家庭が崩壊することもなく今も何ら変わらず生活を続けている。
たまに昔の不倫相手が懐かしくなり連絡することもあるのだという。
そしてまた妻にバレて妻が半狂乱しておわり。
自分の好きになる金が手元にあるうちはこれを繰り返すことになるだろう。
表のブログでつぶやくような場所が無いので、増田で吐き出させてくれ。
題名どおりの事が、つい先日に起きた。
ありえない。
皆に迷惑がかかるので場所は明かせないけど、うちらはいま大家となるメインイベント施設に、店子というか売り場スペースを借りて商売してる。
今日も一日の販売が終わってつり銭精算を行い、経理処理を行なおうとする際に、事件は起きた。
売り場とは別に、タイムレコーダーとかが置いてあって通ってる詰め所は、数人も人間が入れば一杯になるような狭い場所なので、制服というか上っ張りを着る際には数人が表に出る必要があったり、いろいろ問題のある営業形態な場所で、金銭の移動・管理の際は手提げ金庫などを使う事になる。
また、売上金は札束を無造作に輪ゴムで留めたりして“鍵のかかっていない手提げ金庫”に入れていた。それがアダになった。
詰め所に持って帰った問題の手提げ金庫には、朝に確かめて入れたはずのつり銭しか入ってなかったとか。
私たちが一日かけて一生懸命客に応対し、グッズを販売して得たはずの売り上げ金が、どこにも無かったそうだ。
それを終業の際に告げられ、文字どおり【呆然】となった。
当然のように、皆の私物がチェックされた。だいたい、痛くも無いハラを探られるほどむかつくものはない。
まっ先に私たちパートが疑われるというのもよけいに腹が立つが、そもそもの規則では社員がメインで金銭を扱う権限があることになっている。
自分たちから内規破りをしておいて、社員らが私らアルバイト・パートを疑うのもひどい話だが、ともあれこの一件で、金庫にカギを付けたりする手間が増えた事で、販売作業の効率が落ちたのは言うまでも無い。
私は世に言う肉食系、だと思っている。
好きな人、又はもっと話してみたいなと思った人が出来たらすぐに切っ掛けを作る。
大人数の集まりでも良いし、1対1でご飯でも良い。メールでのやり取りだっていい。
とにかく人柄なんて話してみないと判らないし、判りたいと思う人だから色々やる。誘う。
そんな自分に友人はよく言うのだ。
「よく自分から行けるよねー。私には無理!」
なぜ無理か訊けば、「恥ずかしいから」とか「兎に角無理だから」と言う。
そして更に私に言うのだ。「自信あるよね」と。
自信?
まぁ顔は某芸能人に似てるってくらいなので造作は酷くないと思う。
けど身体はぽにょ所かぼにょぼにょだし、腹とか妊婦ですか?並だ。
毛深いし、声は低いし、肩幅広いし…自信なんて何処にもありませんよ。
でもさ。
だからって気になる人を諦めるのか?と言われたら否なのだ。
恥ずかしいから、という理由で相手を誘えない人は「恥ずかしさ>>>>好意」なのだと思う。
まぁそんな程度の好意なら恋が始まらなくても良いのかもねとも思うのだけど。
私だって別に恥ずかしくない訳じゃない。
誘う時に絨毯の上を何往復もごろごろしながら悶絶しつつメールを送ったことだって何度あるか。
返事が来ても怖すぎて「とりあえず風呂はいって落ちつけ私。メールはそれからだ」ってことも何度あったことか。
自分から誘っておいて「う~…ん、話してみたけど違うなぁ」って思うこともあったし、逆に凄く良かったこともある。
振られたこともある。次の恋が怖かったこともある。でも待っているだけで「彼氏ほしい」なんて言うのはどこかおかしいと思う。
自信があるのとは違うんだ。自信なんて欠片も持ってない。
だからこそ化粧もするし、補正下着も着るし、半身浴で汗ダラダラ落としたりもする。
人と会って何喋っていいか判らないから、兎に角話題集めにネットを奔走しまくる。
だって好きな人との時間を楽しみたいから。自分の無理を押してだってやらなきゃって思うから。
そうしなきゃ現実が変わらないから。誰かが変えてくれるのを待って、それで1度きりの人生が終わるなんて勿体ないじゃないか。
成績も優秀だった。地元トップの高校を目指していた。
当然モテた。生徒会室にはK先輩目当てでダベりに来る、妙にハイテンションな女子が常に居た。
K先輩は生徒会の地味な事務処理を、成績だけが取り柄の地味な後輩である書記の私や、地味な会計男子に押しつけて、女子と喋っていた。
そしてよく竹製の長い定規を持っていて、パチパチと机を叩いていた。
その、足を組みながら机に座って無造作に定規をパチパチしている姿が、イケメンゆえにモデルのようにキマっていて、中学生ながらに私とK先輩とのランクの違いのようなものを感じた。
私とK先輩は同じ高校に進学した。
中学時代、K先輩はかなり目立っていたけれど、高校に入って以降は噂を耳にしなくなり、私はほとんど存在を忘れてしまった。
私も彼氏が出来たり、受験勉強したり、第一志望に落ちて親に浪人を許してもらえず滑り止めの私大に行くことになったり、全然家事ができないのに上京して一人暮らししてコンビニ弁当ばかり食べて味覚がおかしくなったりと色々忙しかったのだ。
この間、久々に地元の友達から電話があって、K先輩の続報を知った。
医学部に進学するため三浪して、宅浪だから引きこもっているらしい。
すごく太って、別人のようになっているらしい。
昔から地味でどうでもいい奴って思われてたら、「あの人は今!?」なんてこと誰も気にしない。
でもなまじデキることで有名だったから、みんな彼の今が気になるし、探ろうとする。
私はそこで初めてK先輩の祖父と父が医者で、二人の兄も医学部に進学していることを知った。
私はK先輩の家族構成をそこで知ったのだけれど、中学時代からかなり有名だったらしい。
優秀なイケメンで目立っていると、皆その人の背景を気にする。調べつくしたくなる。
そして、「昔はあんなに凄かったのに、ねw」と、本人の預かり知らないところで侮蔑交じりに語りたくなる。
地味な存在で良かった、と心から思った。
成績も優秀だった。地元トップ高を目指していた。
当然モテた。生徒会室にはK先輩目当てでダベりに来る、妙にハイテンションな女子が常に居た。
K先輩は生徒会の地味な事務処理を、成績だけが取り柄の地味な後輩である書記の私や、
まあ似たような感じの会計男子に押しつけて、女子と喋っていた。
そして常に竹製の長い定規を持っていて、パチパチと机を叩いていた。
その、足を組みながら机に座って無造作に定規をパチパチしている雰囲気が、
中学生ながらに私とK先輩とのランクの違いのようなものを感じた。
私とK先輩は同じ高校に進学した。中学時代、K先輩はかなり目立っていたけれど、
高校に入って以降は噂を耳にしなくなり、私はほとんど存在を忘れてしまった。
私も彼氏が出来たり、受験勉強したり、第一志望に落ちて滑り止めの私大に行くことになったり、
全然家事ができないのに上京して一人暮らししてコンビニ弁当ばかり食べて味覚がおかしくなったりと色々忙しかったのだ。
この間、久々に地元の友達から電話があり、K先輩の続報を知った。
医学部に進学するため三浪して、宅浪だから引きこもっているらしい。
すごく太って、別人のようになっているらしい。
昔から地味でどうでもいい奴って思われてたら、続報なんて誰も気にしない。
でもなまじデキることで有名だったから、皆気になるし、今どうしてるか探ろうとする。
私はそこで初めてK先輩の祖父と父が医者で、二人の兄も医学部に進学していることを知った。
私はK先輩の家族構成をそこで知ったのだけれど、中学時代からかなり有名だったらしい。
優秀なイケメンで目立っていると、皆その人の背景を気にする。調べつくしたくなる。
そして今、「昔はあんなに凄かったのに、ねw」と、自分の預かり知らないところで語られている。
地味な存在で良かった、と心から思った。
昨日、京都の恵文社一乗寺店に行ってきた。ネットでは話題になり雑誌等にも多く取り上げられ下町の一乗寺という立地なのにうっそうと流行っている。昨日行った時も人ゴミで店内は覆われていた。なぜAmazonなどのネット書店が席巻する現代でリアル書店が今尚健在しているのか。そんな疑問が気になって京都まで足を運んだというわけなのだが、結論を先にいうと、おそらく店内に並べる本のチョイスが斬新な点にあると思う。決して、店内の雰囲気がいいとか、雑貨が置いてあるとか、本の並べ方がいいとか、そういったことではないと感じた。
振り返ってみよう。現代の本屋さんとはどんなのがあるか。大きく分けて二つあって、一つはランキング形式を重視した1から100まで網羅している大型チェーンの書店。それともう一つは、対照的に、とある商店街の一角にひっそりとある「なんで潰れないの」的な亭主一人の本屋さん。もしくは、駅前の売れ筋商品だけを置いた小書店。・・・以上二つに分かれるわけだが、そもそも個人的には紙媒体の文化というのは、後数十年でマイノリティになると考えているので、前者はアマゾンと置き換わり、後者は間違いなく潰れると思う。
その点を少し掘り下げてから、恵文社の魅力にシフトしたいので少し寄り道をして欲しい。
なぜ、リアル本屋さんが今の経営だと淘汰するかというと、単純にデジタルネイティブ。つまり物心ついた時から活字はデジタルで読むものと教育されてくる子供たちが今後増えるからで、現在のアナログ世代とごっそり入れ替わった時には本屋さんの存在はマイノリティになるだろうと。それはこんな根拠があるからで、まだ日本語版のキンドルやiPadなどの電子書籍母体は発売されていないが、他の先進国ではもう地に根付いているといっていい。なんでかというと、公的機関、つまりは教科書がデジタル化に大いに役立っているからなのだ。アメリカの教科書というのは日本と違って、独学ができるように膨大の情報が詰め込まれており、分厚い専門書籍と化している。そんな分厚いものを何冊ももって移動となると、それだけで疲れてしまう。それを補ってくれるのが電子化による、データを持ち歩く方法で、子供の頃からそれが当たり前となると、どうなるか。先ほども言った、活字はデジタル画面で読むものという常識が固定されるわけで、それは必然的に、アマゾンでデータを購入してデジタル画面で読むという行為になり、リアル本屋さんというのが、今で言う、レコード屋さん状態になるだろうと推測せざる得ない。
さて、余談が長くなったが本題に入ろう。
そんな絶望的な本屋さん市場なのだが、それでも希望の光はあって、その光を感じさせたのが今日の主役の恵文社というわけだ。簡単に説明すると、恵文社というのは大型書店の後ろの方に眠っている良書を一般客に触れさせている点にある。人は皆、食わず嫌い性質が備わっており、変化を嫌い、予測できない事、物はさける行動をとる。それは本屋さんでも適応され、好きなジャンル本コーナーしか行かない。例え興味本位で哲学とか医療とかの書棚にいったとしてもちんぷんかんぷんで足を止める時間というのは刹那だろう。その点、恵文社はそれをごちゃまぜにしている。東京では最近オープンした松丸本舗がそれにあたるだろうか。漫画や古書を隣に並べるなどして、お客に刺激を与え、ハードルを下げ、好奇心、自分探しの森へ引き込ませる。それが最大の要因であり、恵文社が好まれる理由にあると思う。
しかしだ!! それでも甘いと私は思っている。もっと振り切れる必要があるのではと考える。
確かに、恵文社や松丸本舗という質に拘り一般人の琴線に触れるチョイスをする本屋さんというのは魅力的であり、集客力も案外ある。しかし、それが購買に繋がるというと、やや懐疑的な部分もある。絶対数が増加したからある程度は増えただけであって、どうもそういった第三のリアル書店というのは、雑貨屋さん、つまりは見て楽しむ本屋さん、ファッション的書店になっているのではないかと思う。
はっきり言って、今のやり方ではネットでも十分にできる。ごちゃまぜ方法的なやり方なんかだとネットの方が有利ではないか、立ち読みも楽勝にできるし、棚の入れ替えもすばやく展開できる。恵文社ネット版は安易に作成できるのだから、やはり今の経営方針ではまだまだだと個人的には考えている。恵文社にいるときに自分ならどうするかを思考していたので、それを少し紹介すると、ネットでできなくてリアルでしか通用しないもの。それはなんなのか。それはこんな事ではないか。
本を選択してくれるサービス。
本を購入するというのは、大きく分けて二通りあって、目的がはっきりしている買い方と紹介による買い方。反論を防ぐ為におさえておくと、ぶらっと立ち寄った本屋さんでふと手に取った本をペラペラと立ち読みし、なんとなく気に入って購入したとか、ジャケ買いしたとかは、前者に含まれる。それはあくまでも自分好みのものを手にとって見たからで、目的が決まっていると言っていいと思う。それで重要なのが、後者の紹介による購買で、書評をみてとか、本屋さんのPOPを見てとか、尊敬する人から進められたとか、誰かに決めてもらって本を買うという方法。わたしはこれがほとんどを占めているが、あと、好きな著者つながりとか。
要するに、数多ある書籍を目の前に置かれても、選択できないのが人間で、それは時代の流れて確かに収斂されてはきている。この恵文社のように、ある程度本屋さん側にチョイスしてもらって、その中からお客さんがまた選択すると。ただ残念ながら、わたしはそれでも多いと思っている。やはりある程度絞ってもらっても、本選びの時は不安なものは不安だし、お金のある人は別だが、数千円を投資するわけだから、何かにすがりたいのが世の末だろう。
そこでだ。もっともっと絞ってみてはと思ったわけで、想像していただきたい。とある本屋さんがあったとする。そこには、10冊しか本棚に並んでおらず、本と本の間のスペースは2,3冊分はあいており、そこには亭主が厳選した書籍がたっぷりの書評と並べて置いてある。まさに、セレクト書店というべきか、ポイントなのはそこでしか、その選択のサービスは受けられない点にある。有名人なら一人で経営しても問題ないだろう。例えば、書評で有名な弾さんなんかがセレクト書店をオープンすればそれなりに流行ると思うし、もちろんネットでは同じサービスは止める必要がある。しかし、知名度がない人や法人がやるとなれば、コツコツとやるしかない。
仮に恵文社程度の規模で私がプロディースするとすれば、ネットで書籍を沢山読む人を集めて書籍を選んでもらい書評を書いてもらう。そしてそれを店の本棚にならべる。ポイントは一人につき書棚一つ。それと個性的でバイアスのある書評家を選ぶ必要がある。となるとだ、かなり特殊な本屋さんになるのは自明だろう。無造作に置いてある本をお客さんが決めて買うではなく、数冊に絞ってやり本をお客が不安満載で博打買いするのではなく、この書評コメントに感化されたから買おうと、そしてその書評を書いた人が魅力的に感じてきて、その人が選ぶ本なら自分と結構趣味が合うので買おうと、最終的にはその選ぶ人のコアファンになればいうことなしだ。なぜなら、好きな人のお奨めする本は、本を購入するという行為に直結するからだ。
ってな感じで、本を選ぶのではなく、人が選ぶ情報を買うにシフトする必要があると考え、それと重要なのが、ネットではその情報を流さないこと。これさえ徹底すればリアル本屋さんも当分はやっていけるのではないだろうかと思う。本の種類を抑えるとコストもさがるし。ただビジネスとしての初期段階では本屋というビジネスモデルは選ばない方がいい。もしやるとしても、ローカルな趣味経営で止めておいた方がいい。現段階で書店経営している場合は考えるべきだろう。