はてなキーワード: フォークソングとは
顔がイケメンなのかっていうと、よくわからないけど、少なくともブサイクではないと思う。
特に長距離ではすごくて、小学校のマラソン大会では毎年一桁台だった。
親も陸上関係でメシ食ってる両親で、俺の才能っていうよりかは、親の影響が大きかった気がする。
親父のジョギングに、保育園の頃からついていって走っていて、いつの間にか俺も走るのが好きになってた。
俺にしてみれば、一位という結果は本当にたまたまだった。
周りが喜んでいるのを見て、俺も「自分がすごいことをしたんだ」と嬉しくなった。
まあそれは、そんなもんだ。
周りが全然俺よりはやい。
俺が全力で走ってるのに、周りがどんどん俺を離していく感覚を、生まれてはじめて味わった。
不甲斐ない成績だった。
でもその頃から、たぶん俺の心の中で、走ることに対して、迷いが生まれたんだと思う。
この挫折をきっかけに、もっと速くなる奴が、きっとプロになったり、駅伝ランナーになったりするんだろう。
でも俺はたぶん違う。
14歳や15歳のガキでも、自分に対してそのぐらいのことはわかる。
俺は単に周りに褒められたくて、長い距離を走ってただけなんだ。
特に県大会に出て、ホンモノたちに会ってしまうと、俺がいかにダサい存在かはよくわかった。
その親と5歳から近所のコースジョギングしてました、とか、関係なくて。
ホンモノは違うんだよ。
なんていうか、オーラでわかる。
正直スタートライン立った時点で、もうホンモノとニセモノははっきりわかった。
ニセモノだったのは俺だけじゃない。
ほとんどはニセモノ。
俺はそっち側だった。
でも、もう、マジで感覚的に全然違うのがわかったから、どうしようもなかった。
努力? 才能? なんなの? 何が違うんだ?
仮に俺が途中でぶっ倒れてもいいから、全力ダッシュしたとしたら、
何人かは抜かせただろうけど、それでも抜かせない選手っていうのが、結構な数いた。
ああいう奴はなんなの?
意味がわかんなかった。
いや、今もわかんないけど。
実際その場で一緒に走んないとわかんねーよ。そういう奴らと走る感覚って。
まあその話はいいや。
普通に受験したら、俺の頭では間違っても入れないような私立高校。
そこの陸上部入ったら、まあ、周りは全然大したことなくて、すぐエースになった。
俺みたいに陸上のスポーツ推薦だった奴いたけど、長距離は3人しかいなくて、俺以外の2人は全然ショボかった。
てか、このレベルで推薦とれるのか、って失望するレベルだった。
エース扱いで、相当チヤホヤされてたと思うけど、心の中ではどんどん冷めていった。
俺は県大で、自分のショボさを思い知って、自分の限界を感じたのに、周りの奴らは俺を神かなにかみたいに崇めてるわけ。
なにこれ?
は?
お前らはバカ?
偏差値xxあって何を見てるの?
とか思ってた。
当時俺みたいな中途半端な奴って学校に結構いて、自然とそういう連中とつるむようになった。
特待生で学校入ってきたけど、周りのレベル低すぎてうんざりしてる優等生とか、
すげーサッカー上手かったのに部活の顧問とか先輩とかと合わなくて帰宅部になった奴とか、そんな連中。
高二になってからは、そいつらといるのがとにかく楽しくて、練習サボって遊ぶくらいになった。
「マラソンってくだらなくね?」
とか俺に向かって言っちゃうような奴らだった。
はじめて聞いたとき、本当に新鮮だった。
だって、家族や友達で、陸上を否定する人間なんて、それまでの人生で会ったことがなかった。
いろいろ悩みながら陸上部を続けてきた俺だったが、遂に決意する。
「ごめん。陸上部辞めさせて」
家に帰って、俺は親に言った。
親が買ってくれた、1万円以上するランニングシューズをエナメルバッグに入れたまま。
けど俺の決意は固かった。
たくさん説教された。
俺の陸上の才能を認めてくれて、もったいないって言ってくれる人もいた。
それが一番心が痛かった。
でも俺はもう決めていた。
本当の自分で生きたい、って思っていた。
陸上は、俺が本当にやりたいことじゃないんだよ、親父、お母さん、先生。
そんなことを何回も言った。
陸上の成績でスポーツ推薦を決めた奴が、陸上辞めるなんて前代未聞だろうな、と思っていたが、それはそうじゃなかった。
心が折れなくても、ケガでそのスポーツ続けられなくなる奴も多い。
だから、俺の陸上辞めるという選択で、退学になるようなことはなかった。
俺はそこから、本当にやりたかったことにうちこむようになった。
それは音楽だった。
あるとき、いつもつるんでる友達から、「バンドやりたくね?」と言われた。
最初は冗談みたいだったが、いつの間にか皆楽器を買っていて、本気でやることになった。
俺はボーカル。
休みの日に、皆で県で一番賑わってる駅のスタジオに行って、死ぬほど練習した。
スタジオの人がいい人で、ホントは2時間料金なんだけど、何時間でも練習させてくれた。
これが本気で楽しかった。
あ、これだ、って思えた。
陸上がつまんない、っていうことはない。
でも、心のそこから楽しんでるか? と言われたとき、即答はできなかった。
親の影響でやってるんじゃないのか? 自分が脚速くなかったら続けてたのか?
長距離走について、そんな質問をされたら、俺は答えれないと思う。
音楽は違う。
親は音楽なんて聞かなかった。
俺は特に歌がすごく上手いわけじゃない。
それでもめちゃくちゃ楽しい。
何時間でもやっていたい。
どんどん上手くなりたい。
俺の他にもっと上手い歌手がいても、そいつよりも上手くなりたい。
どうして県大会のとき、こんな感覚になれなかったのかは、今でもわかないけれど。
たぶん、陸上をやってる俺は、本当の自分じゃなかったんだと思う。
親が望む、自慢の子供を演じていた。
けど、俺が本当に嬉しいことじゃなかった。
俺は親の喜ぶ顔で喜んでただけだ。
音楽は、俺に直接喜びをくれた。
けど、その三人が生み出すグルーヴの上に、俺の歌を乗せる。
それで曲が完成する。
時間にしてみれば、ほんの数分。
それまで長距離を走破してきた俺にしてみれば、ほんの一瞬だ。
で、忘れもしない文化祭。
俺の高校の文化祭は、応募制の野外ライブというのが何年か前からあった。
軽音楽部とかフォークソング部とかのバンドが演奏するステージだったが、
他にも教師が組んだバンドとか、有志で組んだバンドとかが応募して、出演していた。
俺たちもそこに出ることにした。
はじめてのステージだった。
その頃になると、もう俺たちの演奏レベルもかなりのものだった。
実際その後、ドラム叩いてた奴は音楽関係に進んで、今は有名ミュージシャンのバッグで叩いて飯を食ってる。
結局そいつが一番すごかったのかも。
野外ライブで、俺らの番が来た。
バンド名はさすがに恥ずかしいので秘密だが、司会が俺らのバンド名を呼んだとき、ちょっと肌が粟立ったのを覚えてる。
ここから将来ミュージックステーション出たり、紅白出たりしたらめちゃくちゃカッコいいな、と一瞬思った。
観客は結構集まってた。
ボーカルを俺がやっていたので、陸上のときの同級生・後輩が結構いた。
ギターもサッカー部の人気者だったので、それ目当ての女子が結構な数いるのが見えた。
自信があった。
後輩も、もしお前らが俺を尊敬してるとしたら、単に足が速いから尊敬してるだけだろ、
でも、これからは音楽を通じて、尊敬してくれ、と本気で思っていた。
それまで偽りの自分で評価を得ていた人間が、本当の自分で戦うのは、本当に気持ちいいものだった。
MCで何を喋ったかもよく覚えてるが、これはマジでイタいことを言ったので、敢えて記載はしない。
俺が想像していた観客の表情ではない。
なんか笑いをこらえているというか、笑ってる奴もいる。
当時はビジュアル系全盛期で、俺たちが選んだ曲は、L'Arc~en~Cielの『花葬』だった。
俺はHydeに全力で心酔していた。
ていうかHydeよりカッコいい人間は今でもこの世にいないと思っている。
けど俺はHydeじゃなかった。
俺はそれまで自分のことを正直カッコいい部類だと思っていたが、Hydeではなかった。
それから俺は、高校を卒業して、親のコネがあった地銀に就職した。
今年はじめて箱根駅伝を見た。
それで内心「うわああああああああああ」となったが、嫁に気取られることはなかった。
俺が人生で学んだ人生訓は、「本当の自分とか言ってねーで、人から褒められることをひたすらやっとけ」だった。
でも、そんなこと子供に言う訳はない。
願わくば俺の子供が、ホンモノの才能を持っているか、ニセモノの自分に何の疑問も抱かないウスノロのどちらかでありますように。
最近のトレンドというか盛衰をいえばエセファンクとメロコアのリバイバルって感じ?
official髭男dismとかsumika、04 limited sazabysはまあもうちょっといけるかもね。
夜の本気ダンスなんかは微妙な存在になっちゃったな、もうちょっと早くデビューできていればsuchmosじゃなくてこのバンドがきてたかも…
僕はバンプって構造的にフォークソングをアレンジ重ねて昇華していると思っていて、
曲に対するアプローチとか各メンバーのプレイスタイルに際立った個性はないから、ムーブメントめいたものとは無縁のバンドだとみなしていたわ。
バンプは藤原基央の佇まいと詩世界を肉付けするための存在だから基本的にやってることは全然変わってない。それでもRAY以降、転調や同期やドラムの手数なんかが明らかに多くなって比較的ポップスよりになったなぁなんても思うが。
野田洋次郎とか米津玄師は藤原基央と比べられたり同じ系譜として揶揄されることがあるけど、基央と比べたらもっと尖った存在だよね。
米津玄師は、宇多田とか、もっと言えばFrank OceanとかChance the rapperに近いニーズがあんのかな。自分の部屋にこもって延々曲作っててマスメディアと断絶してるみたいなイメージ(あくまでイメージ)で支持されてる感。
そんなカリスマ関係なしにつべでMV公開してBandcampとiTunesとSpotifyで売ればいいわー、レコも打ち込みも自分でやりゃいいじゃんってな具合にどんどんミニマルになっていってる気はする。
平成に入ってからだと思うけれど、以前島唄という沖縄民謡の作法に則って作られた歌があって、結構売れた。
内容はよくよむと反戦、侵略された側のための内容だ。同じシングルのB面もそんな感じ。
でもまあ、本来の沖縄歌謡の人からは最初、沖縄出身でもないし本来の沖縄民謡でもないから受け入れがたいと嫌がられたんだけどね。
島唄はネットの幼いおばかさんたちに分類させればサヨクの歌、愛国心がない歌と分類されるんだとおもう。
同じく、こないだのあれも愛国心のある歌、ありすぎる軍国的なウヨクの歌と分類されるだろう。
歌にできる個人の思いなんてその場限りのもの、揺れ動いて当たり前のものなんだ。
「みんなの思い」なんてものは幻想にすぎない。あるのは「思惑」くらいだ。
歌を政治的主張(自衛隊をどうするかとか憲法をどうするかとか)で
自説補強につかえる(けどそんなことはさせないゾ)というのがそもそもウヨク、サヨクの思い込みにすぎないよ。
愛国心なんてものはそのときのレッテルにすぎない。(それをうまく歌に落とし込めてないならそれは歌としての問題にすぎない)
逆に目立つから自分のもやもやイライラした気持ちのぶつけ先に利用できると考える、本来の右翼でも左翼でもない人たちならたくさんいるけど。
(もしなるというのなら災害救助を受けている人はみんなせっせと歌うだろうね)
自衛隊なり警察なり救急車なり、国や人を守る制度を動かすのは国会で決まった予算だ。
バカバカしい話だ。
つまり本当の愛国心はお金だ。税金を払う人は愛国心がある、なら言ってもいい。
歌を歌ったところで「愛国心」で救われた人や村や田んぼなんかビタイチ増えないよ。
ただ歌で気持ちよくなってCDを買う人がたくさんいればアーティストが所得税をおさめて「愛国心」を証明できる、てのはあるだろう。
そのためにアーティストはだれかをなるべく気持ちよくさせるような歌をつくる。
それだけのことだ。
1000年経ったら島唄もあれも平成百人一首の中に同時期の歌の例としてならべられてる程度のものだよ。
まあ、歌としてできがよければ、の話。
手がかりは「やわらかいトゲ」「今ごろ…痛い」であり、ウチワサボテンの一種と推定される。「金烏帽子」「白桃扇」などだろうか。ウチワサボテンには柔らかく短いトゲがたくさん付いているものがあり、触れるとそれが刺さりっぱなしになってしまい、ふとした時に痛みを感じる。
私はそれを知らずに素手で植え替えをしてしまい、夜中チクチクと痛みに悩まされることとなった。ホームセンターなどで広く販売されているので、触れる際には気をつけるべきだ。不意に軽く触ってしまっただけでもトゲが刺さっている場合がある。
手がかりは「君がそだてたサボテンは小さな花をつくった 春はもうすぐそこまで」「この長い冬が終わるまでに」と冬に花を咲かせる品種であるのが明示されていること。と言うわけで、シャコバサボテン(ジャコバサボテン。間違えていた。コメントより。ありがとう。以降は修正済み)である。サボテンと名は付いているけれどトゲはなきに等しく、多肉植物や観葉植物と言ったほうがピンとくるかもしれない。広く販売されている。冬に花を咲かせるサボテンはこれ以外に知らない。
冬に花を咲かせる多肉植物としてはリトープスやコノフィツムなどのメセン類があるが、これをサボテンと誤認していたとは考え難いので、やはりシャコバサボテンが正解だろう。
(追記)冬に咲くサボテンとして「マミラリア類」があるとブコメで指摘頂いた。ありがとう。確かにこちらの方がイメージに近い。
手がかりが「サボテンに花が咲いたとか 小さな幸せ 数えるんだ」という部分しかなく、判別不能。「小さな幸せ」であることから、花が咲きにくい品種でないことはわかる。花が咲きにくい品種だったら大きな幸せだからだ。
「灼熱の太陽と 風が乾ききった砂漠の ど真ん中で叫ぶサボテン トゲを持ち夢の花を守れ」という部分から推察するに、砂漠にそびえ立つ大型の柱サボテンであると推測される。
手元ある『サボテン・多肉植物ポケット事典』(NHK出版)によれば、該当しそうな品種としては「武倫柱」「大鳳竜」「亀甲柱」「ネオブクスバウミア・マクロケファラ」などがある。ちなみにタイトルの「覇王樹」は品種名ではなく、サボテン自体の別名。
「僕はサボテン 見かけよりはすごくやさしいよ」という部分しか手がかりがなく、特定困難。「見かけよりは」と言っているということは、「金鯱」のようなトゲの激しい品種であると推定される。
「トゲトゲが伸びてつらくなってきて」とあることから、トゲの長い品種であろう。そして「歩く」とタイトルにあって擬人化されているということは、縦に長い柱サボテンであることが推測される。前掲書によればそれに該当しそうなのは「近衛」「錦鶏竜」「金城丸」あたりだろうか。
歌詞に「トゲ」とあるので、トゲのないサボテンではない(つまり「兜」「ランポー」「老楽」などではない)ことはわかるけど、それ以上は手がかりが少なくてわからない。
■『レッツゴー!サボテン』サボ
歌詞に「砂漠」「トゲ」とあるので、砂漠に自生するサボテンであり(つまり「シャコバサボテン」ではない)、トゲのないサボテンではない(上のももクロの曲参照)というところまでしかわからない。
(追記)サボさんを見た。全体的な形状とトゲの長さ・少なさから判断するに、これは「墨こけし」で間違いない(https://greensnap.jp/post/311512)。特定した。
(追々記)墨こけしは3年くらい育てているけど花は見たことないなぁ。
歌詞中の「あなた」が何らかのサボテンをプレゼントしてくれた以上のことはわからない。(追記)たまに園芸店でハート型のサボテンが売られているが、それかもしれない。
「さむいのはにがてなんです」と歌い出しにあるが、サボテンは意外と寒さに強い。私は北関東に住んでいるが、育てているサボテンは冬でも外に出しっぱなしにしてある。但し、寒さに弱い品種があるのも確かである。幾つかは冬に枯らしてしまった。従って、ここで歌われているサボテンは寒さに弱いタイプの種類であると推測される。おそらくたくさんあるので特定は困難を極める。
■『サボテン』VIXX
「棘の先に華やかに咲く花」と歌詞にあることから、サボテンではなく多肉植物ユーフォルビアの一種であると推測される。具体的には「紅彩閣」あたりだろうか。
トゲのようなものを持つ多肉植物が幾つか存在するが、サボテンとの見分け方は「トゲの根元に綿みたいなものが付いているのがサボテン」と言われている。ユーフォルビアの「紅彩閣」にはトゲみたいなものはあるものの、綿みたいなものはないから多肉植物である。
で、その「トゲみたいなもの」は実はトゲではなくて「花座」と呼ばれるもので、季節になるとその先端に黄色い花を咲かせる。一方、サボテンのトゲは葉っぱが変化してできたものであり、棘の先に花を咲かせることは私の知る限りない。サボテン本体から蕾が出てきて花が咲く。
―追記―
「サボテンが赤い花を付けた」ことから赤い花を咲かせる品種であることはわかるものの、赤い花を咲かせるサボテンは結構たくさんあるので特定は困難を極める。今日、育てている「ランポー」が鮮やかな黄色い花を咲かせたので、ランポーではない。
歌詞中の手がかりが少なくて判別できない。「緑」というキーワードがあるので「(白い)ランポー」「老楽」「月世界」あたりではないと思う。
(追記)PV見た。ぷっくりとした美しい形だった。知る限りあの形に一番近いのはユーフォルビアの「大正キリン」かと思うが、断定はできない。
■『孤独のRunaway』B'z
「サボテンが街を笑い」とあるので街を笑うことのできるサボテンであることは確かだが、街を笑うことのできるサボテンは寡聞なので誠に遺憾だが判別できない。
あまりにも唐突な台詞であり、リアリズムと言うよりはメタファーであると思われ、品種を特定するための手がかりが少なすぎるので特定には困難を極める。(追記)画像を見るにこれ(https://www.iris-gardening.com/leaf/33_01.asp)に似ている。ただ、名前がわからない。わかったら書く。わかる人いたら教えてください。
―追記2―
「変な形してるのに 可愛い花咲く」が手がかりとなると思われるが、サボテンは厳しい環境を生き抜くために殆どが変な形にデザインされているし、変な形から比べると殆どが可愛い花を咲かせるので一般的な情報を越えない。
また「力一杯 握ってごらんよ」の部分からトゲがそんなに鋭利ではない種類であると推測される。鋭利なものだったら「力一杯」握ったらスプラッターと化すからである。これ以上のことはわからないものの、敢えてあげれば「金烏帽子」などのウチワサボテンあたりが妥当かと思われる。
■『仙人掌哀歌(サボテンエレジー)』二階堂衝(CV:織田優成)
ヒントが少なくて品種の特定は困難である。「仙人掌」とはサボテンの異名。
ちなみに、歌詞中に「仙人掌はただ見つめてた 君の勇姿とあふれる夢を」とあるが『植物はそこまで知っている』(ダニエル・チャモヴィッツ、河出文庫)によれば「植物は、あなたが近づいてくるのを知っている。あなたがそばに立って、見下ろしているのを知っている。青いシャツを着ているか、赤いシャツを着ているかも知っている」とある。つまり単なる擬人化ではなく「仙人掌」は少なくとも「君の勇姿」はきちんと見ていた(モニタリングしていた)と考えられる。
「ここにサボテンを植えよう 花が千年に一度咲く」とあるけれど、千年に一度花を咲かせるサボテンは寡聞である。サボテンではないが、たまにニュースで見かける「スマトラオオコンニャク」は「7年に一度2日間」しか花を咲かせないらしい。
また、これもサボテンではないが、砂漠で千年以上も生き続ける植物としては「奇想天外」がある。2つの葉っぱが延々と伸び続けるだけという奇特な植物で、成長は遅く、「種子が発芽してから種子をつけるまでに、25年ほどもかかる」との情報がある。これをサボテンと誤認した可能性がなくはない。
歌詞に「紺碧の仙人掌」と出てくる。「サンタマリア」とはポルトガル語で「聖母マリア」のこと。「紺碧」とは「やや黒みがかった青」とのこと。
「やや黒みがかった青」っぽい色のサボテンには例えば「豹頭」などがある。また、サボテンではないが多肉植物として黒っぽいものには「黒法師」がある。いずれにしても特定は難しそうだ。
―追記3―
「棘」「砂漠」というキーワードがあることから、上に挙げたようにトゲのない品種ではなく、「シャコバサボテン(湿度が高めの森林地帯に自生する)」でもないことはわかる。自己防衛のメタファーとして「棘」と表現されているらしいので「金鯱」のような棘の鋭いものをイメージして書かれていると想像される。「金鯱」は丸く成長するので(つまり柱サボテンではない)、歌詞中に描かれる主人公が落胆してうずくまっているような様子とも合致するし、かなり大きく成長するので擬人化も容易そうだ。
「荒んだサボテンは 世界を敵に回すほど トゲを伸ばしたんだ 喉が渇いてSOS」なので、砂漠に生えてトゲの長い種類であることはわかる。柱サボテンであれば『歩くサボテン』(奥田民生)のところで挙げた「近衛」「錦鶏竜」「金城丸」あたり、丸いサボテンなら「金鯱」あたりがイメージに近そう。「金鯱」の汎用性の高さ。
歌詞が見当たらないので全く見当がつかないが、汎用性の高さからすると「金鯱」あたりが妥当かと思われる。
クライマックスで「サボテン持って」といきなりサボテンが登場する。サボテンを持ってどこかに出かけるつもりのようだから、携帯に容易な品種であることは確実で、間違っても直径30cmの「金鯱」でないことはわかる。
「サボテンの花さいてる 砂と岩の西部」とあり、曲はアメリカのフォークソングであるようなので、アリゾナ州あたりに自生する何らかのサボテンであると思う。
玉でピンを倒すやつのことを「ボーリング」と書くと,「地質調査かよ」などの突っ込みが入る
しかしほかの単語で「オウ」と「オー」の違いが取りざたされることはほぼない
「ブラックホール」(hole)に対して「玄関かよ」(hall)とか
「コールドスリープ」(cold)に「呼ばれたら寝られないだろ」(called)とか
「フォークソング」(folk)に「何を突き刺すんだよ」(fork)とか
「コードを書く」(code)に「奏でろよ」(chord)とか言われることはない
ボウリングのほかはオウンゴール(own),魂のソウル(soul),弓のボウ(bow),調理器具のボウル(bowl)くらいではないだろうか
なお,タイトルから区別に批判的のように思われるかもしれないが,私はむしろボウリング以外も「オウ」「オー」を区別するべきだと考える過激派である
ほかにも例えばmainは「メイン」であるべきだし最近はやりのecho chamberはチェンバーでもチャンバーでもなく「エコウチェインバー」と書かれるべきだと考える
SupersonicとWonderwallはいい曲だと思うけど、
バンドとして総括的に見ればフォークソングをオーバードライブかけたギターでまとめてもっさりさせたようなバラードばっかり。
なんというか極寒の港町にある飲み屋で、若い漁師がカラオケで歌いそうな曲。
Oasisってそういうこてこてのバラードをひたすら量産してノエルが飽きて行き詰まったバンドじゃないの?
Youtubeとかで聞いてると「そのやり口しかないんかい」って思っちゃうよね。
似たような曲でもキラーチューンをいくつも出せたあたり、有象無象のブリットポップとは違ったのかもしれないけどさ。
野暮な例え方をするなら、亀田兄弟がGLAYの曲歌ってるようなバンドじゃん、Oasisって。
イギリス人からすればBELOVEDとかBE WITH YOUみたいな感じでしょ、Oasisの曲って。
ロキノンの洗礼を受けたようなアラフォーのおっさんのドンルク好き率を冷ややかに笑いながらそんなことを思うけど、
なぜかたまにSupersonicは聴きたくなるんだよな。
まあ僕は断然Blurの方が好きなんだけど。
主にギターの弾き語りで使われるコード譜というものがある。歌本とも呼ばれる。五線紙におたまじゃくしが泳いでいる楽譜ではなく、歌詞の上にCとかFとかF#m7とかのコード(和音)が書かれているものだ。これとギターが一本あれば、絶対音感やコード理論の知識がなくても、弾き語りができる。フォークソングが流行していた頃には、重宝されたのだろう。昔は流行っている曲のコード譜を載せた雑誌が毎月出版されていた。「月刊歌謡曲」(ゲッカヨ)をはじめ「ソングコンング」「歌BON」などがあった。今はすべて休刊している。月刊誌ではなく歌手別や年間ヒット曲を集めた書籍としての歌本は今でも残っているようだ。
これらの出版物は、電子書籍に移行することはなく、今ではウェブで無料で見れるものとなった。速報性や検索性に加えて、カポタストを使った場合の転調に対応できる点も有利なのだろう。
代表的なサイトがJ-Total Musicだ。2002年から続く老舗である。
他に楽器.me、ChordWiki、U-フレットなどがある。
同様のサイトにコードスケッチ(ttps://chordsketch.com/)がある。U-フレットと見比べてみると、新着にまったく同じ曲が並び、コード進行も一致する。
楽譜.me(ttp://gakufu.me/)というサイトがある。「当サイトはディープラーニングによる楽曲分析を行うための実験サイトです。」と書かれているが、生成方法は謎でコード進行は正しいものとは思えない。サイト名は楽器.meとの誤認を狙っているのだろう。
これら二つのサイトは、Google AdSenseのIDが一致(ca-pub-9885680373061782)する。
コード譜は、耳コピにより作成される。コードを聴き分けて書き起こすのだ。そしてその解釈は一意ではない。
例えば長渕剛の「乾杯」のような元々ギターだけで弾き語られる曲であってもそうだ。
http://music.j-total.net/data/021na/001_nagabuchi_tsuyoshi/005.html
http://gakufu.gakki.me/m/data/DT08823.html
https://ja.chordwiki.org/wiki/%E4%B9%BE%E6%9D%AF
http://www.ufret.jp/song.php?data=943
イントロや「君に幸せあれ!」の部分が異なる。採譜者の耳や感性によって変わるのだ。初心者が弾きやすいコードが選ばれることもある。
歌詞には著作権があるが、JASRACをはじめとした管理団体に委託されていて、利用するのは容易だ。そしてコード進行には著作権は適用されないというのが定説だ。料理のレシピと同じである。パクリOKなのだ。
コードの採譜には能力と労力が必要であり、無償ではない。昔は紙の本の売上で制作費を賄っていたが、今はネット広告収入で運営されるものとなった。違法でないからといって、他人の成果を横取りして利益を得ることは認められるものではない。
カラオケが広く行き渡りDTM環境が充実する現在でも、手軽で自由度が高くシンガーソングライターへの入り口でもあるギター弾き語りの愛好家は多い。この文化が廃れないことを望む。
ピコピコ音とかが好きっていうのもあるけど演出?っていったらいいのかな?
バックサウンドの装飾の選択肢がロックとかクラシックとかより圧倒的に自由度あるじゃない?
もう使えるやつは何でも編集して使っちまえ感がすごい、音の宝石箱やぁ~!!!
とにかく新しい曲は聴いてて次は何が待っているんだろうかとワクワク感がすごい
邪道とか何とか言われるかもしれないが、そこだけは譲らないプレイヤーとしての真剣さが伝わってくる
クソアーティストが作るネタ系のヒップホップみたいに斜に構えてティーンズにウケ狙いのような曲もテクノやニューウェイブにもあるかもしれないけど
基本的にそういうのはこのジャンルでは売れないかちょっとヒットして時期が過ぎると終わりで長期的に売れないので主流じゃない
アドレナリンが出て興奮しているのが分かる
それに比べてフォークソングとかクラシックとかはもう前後の曲調が分かりすぎていて
どれだけ音が綺麗だとしても全く感動がない、全部予定調和の中に納まってる
「え!え!え!そこそうなっちゃうの?う、うおお…うおお…俺をどこに連れていくつもりだ…」みたいな感想には絶対ならない
綺麗かもしれないけどそこに感動がない、未知の体験がもはやそこにはない
ジャズとかカッコつけていて動きが激しいのかと思ったら単にテンポが速いだけで他はド安定の曲調だった
アレはまるで冒険性がなかった、ダンスの練習したおっさんが忘年会でダンス披露するくらいの冒険
クラシックでも同じような感動を味わえればいいんだけど自分からテンポをぶっ壊したりできないし
音源にしたって使える楽器は限られてるだろうから独自性を出すのとか難しいんだろうなと思う
だってこれらのジャンルの曲の目指すところって期待の上を行くとかじゃなくて「上手く演奏する」でしょ?
昔は音楽ってだけで無条件で楽しませていたかもしれないけど今は音楽なんてそこらへんにあるしいくらでも上手い演奏を何回でも再生できるわけで
文化的にも小奇麗にまとまるのを目指すから何かいかに正確に演奏できるかの名人勝負としか見れない
というか複数の奏者からの多重奏で作る音の厚みが強みだって分かってんなら奏者100名規模でのコンサートとかも企画したらいいのに
もちろんライブのような体全体での体感型アミューズメント空間のコンテンツ的価値は認めるけどあれにしたって上手い演奏を聴きに来ているのとはまた違うわけで
いまいち回答になっていないのでは。
その問題意識(負の要素が世界が閉鎖されたまま解決を見ないのは問題ではないか)自体には「どうあるべきか」という行く先が提示されておらず「何が仰りたいのかいまいちピンときませんでした」とありましたので、特にhttp://anond.hatelabo.jp/20120701150515を踏まえながら「こう解決されるべきではないか」という解答を提示したのがhttp://anond.hatelabo.jp/20120703143205になります。
フォークソングが「解決」作品足り得たのはひとえに
>日本人が皆同じだったとは言いませんが、似たような経験をした人がたくさんいて、全体の中で「訴え」を体感的に受け取れる人が多かった
ためであると考えられるが、ボカロ曲が構造的にそれを欠いているとしたら「このように解決されるべき」というモデルとしてすら機能しない。
フォークソングを享受した「世間」なる層を「ニコニコ動画サイト利用者」に書き換えるだけではダメなのはもちろんで、それは元増田も「当事者」や「その環境を用意した世代」について言及しているけれども、それならばなおのこと、「そもそも解決されるべきか」という話に立ち返ると「いいんじゃないの解決しなくて(つーかできねーし)」という話になって問題が消失する。
余談だがこの「いいんじゃないの解決しなくて(つーかできねーし)」はボーカロイド楽曲の性質そのものの一端でもある。
問題を解決する、障害と対決するのではなく、問題に適応することを試みる、できなければ死ぬという方向性。
>今回提起された問題に関して言えば、作詞者の世界が狭過ぎるから、現実が辛くても、辛いという自己認識が無かったり、あるいは自己認識があってもそれは仕方ないことだと思ってしまって、解決策をなんら提示できなかったりするんじゃないですか
辛いという自己認識があり、かつそれを仕方がないことだと受け入れなければ、解決策を必ず提示できるとしたらそうなのだろうが、実際には必ずしもそうではない。
認識があって抵抗意志を持てたとして、それで初めて出来ることとは誰かに助けを求めることだけだ。
で、個人的な印象なのだが、ボーカロイドにハマる層はルーツとして「助けを求められない」「求めたけれど助けられない」という経験を実体験として持っているか、
そうした経験談に対して深く共感し、肯定してしまう性質があるのではないかと考える。
「自分なら助けてもらえないかもしれない」「自分なら助けないかもしれない」と。
だから「助けてもらえなくて自力でもがく(けれども失敗する)」歌や、或いはメタ化された「理想のともだち・理想の恋人」の歌に二極化するし、かつ前者の方が(彼らにとっては)リアリティがある分ウケるのでランキングに反映されたり口コミされたりしやすいのではないか。
彼らに解決策ソングをひねり出せというのは酷というかお門違いのような感じがしてしまう。
最初の議論がどこから出発しているかというと、ボカロ曲の多くで捻れとか歪みとか悲しみとか、そういった負の要素が歌われているにも関わらず、それが負であるという面について何の問題意識も持っていない、ということでした。
その問題意識(負の要素が世界が閉鎖されたまま解決を見ないのは問題ではないか)自体には「どうあるべきか」という行く先が提示されておらず「何が仰りたいのかいまいちピンときませんでした」とありましたので、特にhttp://anond.hatelabo.jp/20120701150515を踏まえながら「こう解決されるべきではないか」という解答を提示したのがhttp://anond.hatelabo.jp/20120703143205になります。
歌の中でつらい現実とか、閉鎖的な現実自体を問題視しないことは別に私は悪く思っていませんし(ひとつ現象があることと、それをどのように解釈するかは全く別の話で、現象だけが発信されていても私は別に構わないと思います)、世間に公表するものがミクロであることも、フォークソングの例を引いて問題視していないことを明らかにしています。ただ、今回提起された問題に関して言えば、作詞者の世界が狭過ぎるから、現実が辛くても、辛いという自己認識が無かったり、あるいは自己認識があってもそれは仕方ないことだと思ってしまって、解決策をなんら提示できなかったりするんじゃないですか、という趣旨の論でした。歌の中で問題だけを浮き彫りにしているのではない、ということは「そしておそらく、当事者の方々にはそのことについて何らの問題意識も持っていないということも、行間から感じ取れました」という一文から明らかだと思います。
書いていなかったので書き添えますが、フォークソング自身は積極的に自己肯定をする歌で、最近で言えばボカロじゃありませんがKOTOKO「サイダー」なんかもそういう部類の歌だと思います。こういうのが「明るい曲」(暗い現実を克服した、明るい世界)という表現になるんでしょうか。
増田でレス付けるのは初めてなんで、これで付いてるのかよくわからないんですけど、そんな前置きはさておき。
一人で作っていることは、当然世界観が「狭いことの理由」にはなっても、根本的に世界観が「狭くていい理由」にはならないと思うんですよ。
この論におけるボカロ曲と同様のものに、恐らくフォークソングが上げられると思います。ただ、フォークソングとは「背中合わせ」のもので、背中だけは引っ付いてる(同質である)けど、向いてる方向は真反対ですが。
私自身は、生活者として自分の世界を円滑に運営していくミクロな世界の中心主体としての自分と、社会人(これは社会に参画する人という意味で、労働者という意味ではありません)として社会を円滑に運営していくマクロな世界の参加者としての自分は、あくまで別でなければならないと思っています。当然、音楽を作って世間に公表する以上、一定程度「マクロな世界」のことを考慮しなければなりません。
しかしながら、フォークソングは概して一個人の話です(南こうせつ「神田川」、かぐや姫「赤ちょうちん」など)。ただ、フォークソングにはマクロ性がちゃんとあって、それは、フォークソングが世間の多数のミクロな生活実感に直接訴えていた、というところにあります。日本人が皆同じだったとは言いませんが、似たような経験をした人がたくさんいて、全体の中で「訴え」を体感的に受け取れる人が多かったんです。
他方最近のボカロ曲は、作詞者がミクロな一個人の世界を描いている点までは一緒なんですが(これは最早事例を挙げるまでも無いと思います)、そのミクロな世界観が世間で共有されているかというと、そうではない。フォークソングで言えば「お金は無くて苦労したけど、今から思えばああいうのも良かったなぁ」みたいな世界ですが、結局聴き手側のミクロな世界を考慮することなく、誰かの持ってる何某かのミクロな世界を世間に向かって発信してしまうから、聞く人が聞けば「世界が狭い」とか「根が暗い」とか、そういった印象になるんだと思います。それに加えて、これは最近のオタク文化全体の傾向ですが、時間的な奥行きが欠落していて、一つの桃源郷を提示して「こんな世界があったらいいなぁ」というところで止まってしまっている。先にあげたフォークソングの例だと「ああいうの」自体が時間的な奥行きを持っているわけですが、そういうのはボカロ曲に無いですよね。
こういう見地から見るならば、「仰りたいこと」というのは作詞者全体に対する一般的な問題提起になるのではないかと思います。
仮に歌詞のある曲を作りたいのなら、現代社会にある何かしらの現象を自分自身の生活の上で解決して、それをもっと一般化して、最終的に言葉にして曲に乗せる、という作業をするべきだと思います。それを経ずに「こういう世界っていいよね」っていうのは、いろんな意味で反則だと思います。
なんかもう、お前フォーク好きなだけだろ、みたいな文章になっちゃいましたが、「いまいちピンと来なかった」部分にお答えできたのではないかと思います。
俺は小3~4と中2以降学校に殆ど行っていなかった。
小学校時代は小さい頃から住んでいた伯父が仕事の関係で家を出て行き、寂しくなったのと親父の独立が多分あったんだと思う。
けど小5からは学校が楽しくて楽しくて、中1の終わりまではそんな苦痛じゃなかった。
しかし、中1後半からうっすらうっすら勉強についていけなくなり、部活もサボり気味になり
中2の春に風邪で1週間ばかり休んで久々に学校に行こうとしたらその行く途中で気持ち悪くなり、それから毎朝学校に行くのが苦痛で布団から出てこなかった。
布団の外では、親が罵声と物が少し飛んだ音がした。
小学校の恩師が心配してフリースクールに行くようになり、ネットでも友達が以前より増え、ひきこもりと言われる人物に該当するようになったが
地元の人と色々出会い、それが恵まれて外出出来るようになったが学生の多い時間帯はどうも苦手でその時間帯だけは避けてた。
そのころから、親父の会社は不景気で毎年4月になるのが不安だった。
うちは住宅設備会社。公共事業も少しずつ入ってくるようにはなったが個人・法人のお客様が中心
18歳からこの業界にいて、仕事が趣味という親父には色々な人が助け船を出したり、逆に親父をだましたりしているのを後から周りの噂を聞いた。
だけど、うちの親父は『だますならだまされろ』という変なポリシーの持ち主。俺も今更ながら尊敬する
社員は親父とおふくろ以外は、常に2~3人で回してあとは外注という本当に零細企業
心配性の母親をよそに、親父はコツコツ石橋をたたいて渡り気がついたら14年目に入っていた。
俺は途中から親と距離を置くためにカウンセラーの勧めで、上京してWeb制作会社に一年務めたが何回も無断欠勤し親や職場に迷惑をかけて辞めた。
次の仕事は新聞配達の住み込みで、これが意外に良い仕事だった。そこからはなかなか休みも取れなかったし、金もかかるので一年に一度帰れればいい方だった。この仕事は思いのほか長く続き4年目で一度アルバイトを退職し、別な仕事に就いたが辞めてしまい、半年で出戻ったが周りは温かく迎えてくれた。その職場も出戻ってから長引く景気の影響もあり折込が減り、新聞購読を辞めるお客さんも増えてきて先がないと思い先日退職した。
今はGSでアルバイト勤務をし一か月になる。まだまだわからなくて覚えきれなくて困っている日々だけどそれはそれで楽しい
そんな中で親父の会社とはHPを更新する以外関わりがなく今どんな社員さんがいるかもわからない状況。多分もう3年くらい事務所に行っていない。
今日ネットサーフィンで親父の会社の評価サイト(?)なるものが出てきた。
ここ2年分の売り上げや損失、建設業界の評価?みたいなのがあったが思いのほか赤字がなくてびっくりした。
おふくろは大変だー大変だ―と騒いでいるが、親父はそんななかでも苦労しながら頑張っているのだと思った。
昔は折り合いが合わなくて大変だと思ったけど、今の不景気の中、色々とイベントやらアイディアを振り絞っている親父を見ると
尊敬してしまう。俺の頭では出来ない事をやってのけるんだから。
今度実家に帰省したら、ゆっくり酒でも飲んで親父が好きなフォークソングでも一緒にカラオケで歌おうかと思っている。
俺に出来るのはそれぐらいだ。
それちょっとズレてないか?
つまりその時代の話なんだよ。
何も戦前まで遡っているわけでもない。当時の彼らの周りでは、
音楽に青春を仮託していた人が大多数を占めていた、それだけの話。
もし彼らの周り”だけ”小説にそれを仮託していたのならば、小説の話になってたんじゃないかな。
確かに自分を含めて、大多数が音楽に青春を仮託していた時代があると思う。
僕より一回り以上上のおじさん達なんか正に、フォークソングにどっぷりつかっちゃったりとか、
ヒッピーだの学生運動だの、それぞれがモヤモヤっとした下半身の思いを、
その時代の潮流に乗って仮託していたのだと思う。
流行に乗るってのは全然悪い事じゃなくて、むしろシンクロニシティとかナノかなぁとか思っちゃうんだけど。
ただその時代毎に台頭してくる、仮託する為のツールってのは違うのよ。
例えば今だと、それこそ分岐してきてるよね。インターネットで随分分れちゃった。
ある人達はSNSにハマって、ある人達はニコニコにハマって…。ある人達は音楽だし、またコミケでもあるし。
そういうわけで今は恵まれている時代なんじゃないのかな。
じゃあ戦前の若者は何に青春を仮託していたのかって話になると、
僕は戦前の人の生活なんて殆ど知らないので何とも言えないけど、
ある人は小説だったのかもしれないね。
ビニール傘をさして雨の中をとぼとぼと歩く姿が、ヘッドライトの中で片手を大きく上げるので速度を落としたが、女性であることに気づいて、クラクションを鳴らして通り過ぎる。
大の男が女性ヒッチハイカーをひろうわけにはいかないわけだし、旅の途中でもあるわけだし、だいいち予定をずいぶん超過しているわけだし。ちらりとデジタル時計を見ると、九時をだいぶ回っている。周囲にヘッドライトは見えない。しかたなく路肩に車を停め、僕は傘をさして反対方向へ走り出す。
「大丈夫ですか? あいにく男なんです、それに」
駆けより弁解しようとして、言葉が途切れる。ヒッチハイカーの二十歳前後の女性は小柄で、その細い肩を小刻みに震わせていた。
「大丈夫?」
歩ける? じゃあ、車まで、距離あるけれど。縦に首を振る。それでとぼとぼとついてくるのを振り返りながら車まで歩き、助手席に座らせてヒーターを全開にした。
「この道、ぜんぜん車とおらないですよね、国道なのに」
できるだけ声をあかるくして後部座席からバスタオルを出して、渡す。沈黙を消すためにラジオをつけると、朝のドラマのあかるいポップソングが流れだす。ポットにホットコーヒーの残りがあったのを思いだして、それを注ぐと白い湯気がのぼり、カップを渡すとふるえる手がそれを受けとる。車内灯をつけて地図を広げる。
「どこまでですか? 駅まで送りますよ。ここから歩くとずいぶんありそうですし」
宮城に入ってからずいぶん走った気はしていたが、さすがにぎょっとしてコーヒーをすする彼女の顔をみつめる。ふしぎそうな視線がこちらをちらと見る。
「あ、ええ、大阪も回るつもりですが、ずいぶん先ですよ?」
「友達がいるんです」
ああ、家出かと得心がいき、何も荷物も持たずに海岸線を歩いていた理由がわかったような気がした。大学生ならばまだ夏休みも少しは残っているし、家を飛びだして高校時代の親友の家に転がりこむなんて算段もするだろうし、お金がないからヒッチハイクなんてことも考えるかもしれない。それでもこんなオフシーズンに大阪行きの車などめったになく、それで車を乗り継ぐうちに時間切れのように雨降るひとけのない国道に取り残されたのではないか、そんなことを思う。
「どうも」
カップが差し出されて、ポットをしまい、思いだしたように車を出す。
「とりあえず、今日は仙台まで行く予定だったんです。だからどのみちそこまでは行きましょう。大阪はどうするかはともかく」
「地図見ます」
それでふたりで納得して、ヘッドライトが照らす濡れたアスファルトを見つめながら、静かなラジオに身を任せる。夜のニュースが始まり、あいかわらずの政治の話題が伝えられる。それを片耳で聞きながら、ハンドルを指先で叩く。久しぶりの信号で停車すると彼女が訊いた。
「行くんですよね、大阪?」
ちらと見るとタオルで濡れた腕をぬぐっている。青信号にあわててアクセルを踏み、それから思いだしたように言葉を繰り返す。
「ええ、ですが、大阪に着くのはずいぶん先ですよ?」
彼女は小首を傾げるがそれも無理はなかった。
僕は今、ながいながい旅の途中でそれは生まれてはじめてする長い旅行。先月やめた仕事で貯めたお金をはたききって、日本中をまわろうと思っていた。小さな軽と二ヶ月はふらふらできる貯金、あとは地図だけあればなんとかなるというそんな旅。そんな自分勝手ができるのはおそらくこれが一生に一度で、この旅が終われば、山形の実家の酒屋を継ぐ。やっと都会のやくざな仕事から足を洗って帰ってきた息子の計画を両親は二つ返事で了承し、思う存分遊んでこいなどと、背中まで叩いて送り出した。
「どれぐらい先ですか?」
「さあ、計画決まってないんです。ふらふらしているだけで」
「じゃあ、大阪へ向かってくれないんですか?」
「え? あ、まあ」
いいにくそうにしていると赤信号で彼女と視線が合う。びっくりするほどきれいなまなざしが向かってくる。それで正直に言うことにした。
「岬めぐり、してるんです。全国のあちこちの岬をめぐって写真を撮ろうと思っているんです。だから、大阪にはいつ着くかなんてわからないんです」
彼女はきょとんとしていたが、おかしそうに笑う。
「こういうのはベタなほうがいいんです。あんまり考え込んでも面白いことなんてないんです。考えるより車を走らせた方がいい。面白そうな岬をめぐってみたほうが、ちっぽけな自分がわかるんです。考えている時間がもったいない。走っている間にいくらでも考える事なんてできるんです。それに岬めぐりは、日本人の青春の伝統みたいなところがあるし」
「そうなんですか?」
「歌があるんですよ、有名なフォークソングで、岬めぐりって歌が」
僕はそう言って、覚えてきたその歌をうたい始める。父のカセットテープで何度も聴いた曲。子供の頃のドライブの定番で、それはとても懐かしく、自分の人生を振り返っている心地になる。へたくそな歌を遠慮がちにくちずさむ。指でリズムを刻むと、やけっぱちの冒険心が刺激される。
「失恋の歌ですね」
えっと彼女を見て、ああとあわてていう。
小首を傾げるので、少し迷って話す。
「仕事やめたんです、東京の。それで実家の酒屋を継ぐんです、山形の」
わかったのかわからないのか、へぇと彼女は呟いたがそれでも地図には目を落とし、だいぶ増えてきた街灯の明かりにそれをかざす。ここ、右です。それでだいぶ仙台市内に入ってきたことに気づく。ラジオは深夜放送になっていて、誰かの語りがイタリアの今についてしきりに話していた。彼女はもうタオルで拭くのをやめていて、少し暑い気がしたのでヒーターを弱める。海岸線をまわる旅だったからか仙台はきらきらした人工の宝石のように見え、だいぶ安堵感が戻ってきて、気安く彼女に言う。
「どこかに泊まってください。お代は出すので。僕は車に泊まりますから。大阪の話は明日しましょう。どちらにしても今日は無理です」
「え? ああ」
困ったように迷い込む彼女を眺めながら、考え込む。
(なんなんだろうなあ……、この子は……。得体が知れないというか、自分以外の世界がまったく見えてないというか。こっちがまったく見えていないような気さえする)
まあ、でもそれは今日限りの事で、きっと彼女は仙台で都合をつけて、高速を走る大阪行きの車にヒッチハイクするのだろうと、そう思ってまあこれぐらいはよいかと思う。
「でも、これ、あなたが泊まるためのお金ですよね?」
「ん……、まあ、僕も泊まってもいいのだけど、そうすると見知らぬ男と部屋は別でも同じ屋根の下っていやですよね? だったら節約した方がいいじゃないですか?」
正直に言えば車中泊はもう慣れていたし、無理におなじところに泊まるほうが心理的な圧迫感が大きかった。なので、僕の提案は僕にとっての最善であり、これは僕の都合でそれが好ましいのであり、彼女に対して何かをしているわけではなかった。
それでも彼女はしぶしぶシティーホテルに部屋を取り、僕はその駐車場で眠った。
僕は駐車場でのびをして、体をひねってみて、コンビニででかいヨーグルトを調達してスプーンでそれをすくう。ラジオは健康体操の話で、ダッシュボードの地図を眺めながら、それを聞く。何か正直仙台まで来てしまったことが、まずい気さえしてきてしまう。もうちょっと前によい岬があったのではと。ノートPCを立ち上げて、あれこれと調べはじめる。昨日撮ったデジカメの画像を移しながら、ヨーグルト片手にそれをチェックしていく。この朝の作業はあんがい楽しい。コンコンと窓ガラスが鳴る。視線を上げると彼女が笑っていて、窓を下げた。
「大阪までお願いします」
どういうつもりだろうと思ってしまう。
「あなた、とても優しい人だし、それにとても善良だから」
「半月ぐらいかかるかもしれませんよ?」
彼女はにっこりと笑った。
・女の子ひろった
http://anond.hatelabo.jp/20100116012129
・これこそ逃避
http://anond.hatelabo.jp/20100119221742
・すごい彼女
http://anond.hatelabo.jp/20100123005026
・ふたつ恋した
http://anond.hatelabo.jp/20070408073302
これ読んでてちょっと違うことを考えた。別にこの手の世代論は批評の文脈に限らず、かなりコミュニケーションにおいて、汎用的なものだと思う。
思春期にハマってたものが、その人の芯というか、核となって、一生存在し続ける。これが、人間の特性なんじゃないかと考えている。だから、流行ってるものが毎年違う以上、世代によってハマるものが変わるのは、いわば当たり前。でもそれはすごいすごいすごい大事なこと。
僕がコミュニケーションで気にしてることとして、「相手の人間を理解するには、相手が思春期??青年期にどんなものにハマってたかを把握するのが一番大事」ってのがある。それを実現するために、人の年齢から"思春期にハマってたもの"のあたりをつけようと、ここ50年ぐらいの出来事と、ブームになった出来事をひたすらインプットしている。
彼は、バブル世代なのか?ファミコン世代なのか?フォークソング世代なのか?当時のカリスマは誰?好きなアイドルは誰?流行語は?ぐらいを、人と会った瞬間に考える。慣れれば、商談の場で、先方に現れた40過ぎの初対面のおじさんと、石川秀美と石川ひとみの違いについて熱く語ったりとか、すぐできるようになる。
そのとき大切なのは、ちゃんと知ってても、"わざと間違えること"。「あれですよね、石川秀美って、『まちぶせ』歌ってた人ですよね」「はっはっは、違うよ君ぃー、それは石川ひとみだよ??。私は当時彼女のファンでね??」ときたら、内心キター!というわけ。世代別に、相手が語りたいネタのパターンを用意してやればいい。
そのネタのパターンの1つが、映画とかアニメとか美少女ゲームという、位置づけなんだろうね。
誰もね、自分の好きなもの、子どものころにハマったものを、大切にしたいし、語りたいし、悪く言われたら嫌なものなのよ。
http://anond.hatelabo.jp/20070212000347
アメリカのフォークソングに「若者よ、二人目は常に一人目より悪い」というネタソングがあるが……さておき。
難しいなあ。俺も昔初めて付き合ってたころ似たようなこと考えてた。3年以上付き合って、正直嫌な部分も早い内からそれなりに見えてたというか、相手がかなり我侭な子だったからかなり苦労してたけど、当の俺は「でもいい女だしなあ」って思ってた。
で、まあ4年目を迎える前に別れ、その後何人か別の子と付き合ったわけだが。
確かに最初の子よりいいと思える面もあった。当然だけど悪いと思える面も。それに経験という面でも、確かに一人だけだったら味わえない幅広いモノを得られたし、その分ある程度は成長もしたろうなあとは思う。……でも、それが「もし一人目とずっと巧くいっていたら」という仮定の未来と引き換えにしても良かったほど凄いモンかと聞かれると、答えに詰まる。二人目以降が「格段にいい子」なんてことは、多分滅多に無いし。個性の幅の範疇で収まる程度だ。
(あなたが最初の人で強烈な恋愛テクを身につけており、二人目以降で超高嶺の花や逆タマを狙える自信があるなら別)
だから月並みな答えだけど、その子で幸せと思えてる内は別に経験を求めに行かなくてもいい気がするよ。
あと社会人になると恋愛に割けるエネルギーは格段に減る。恋愛成就に必要な財力面では楽になるけど。職場恋愛が豊富なトコに就くんでなければ、今の彼女を大切にしたほうが後悔しないかも、とかは思う。後ろ向きな理屈だけどなー。