はてなキーワード: インプットとは
http://anond.hatelabo.jp/20120213205315
( ´∀`)人(´∀` )ナカーマ
よう、一年前の私。
ちょっとだけ欝かもしれないけど、あえていう。
頑張れよ。すっごく頑張れよ。
欝っぽいならしっかり休めよ。
でも、休むのは2ヶ月以内にしろよ。
休むなら思いっきり休めよ、遊べよ。
本気で頭空っぽにしろよ。
とにかく全力でな。
俺の時みたいに、中途半端な時期を作ると
後悔なんかないはずなのに未練とか感じて歩みが遅くなるぞ。
今の決断を忘れないように、思い返せるように、ちゃんと毎日見返せよ。
これも、2週間くらい放置するだけで頭がぼんやりしちゃうぞ。絶対に忘れんなよ。
あと運動は絶対に欠かすなよ。
通勤が結構いい運動になってたって思い知るようになってからじゃ遅いぞ。
ほかにもいろいろ言いたいことあるけど
とにかく自分にまけんなよ。
自分にだけはまけんなよ。
折角デジタルで文字情報の詰まったフォーマットがあるのに、それを「改行」はともかく(これはPC画面でもあるから)、「改ページ」という情報の途切れを生じさせるものをわざわざ追加している特殊フォーマットに拘る必要があるのかなぁ?
・・・いや、申し訳ない、何で拘るかは本当は分かっている。【最終的には(あるいはなんかあった時の為に)印刷したい】人と【だって本の形式になってた方がちゃんとした情報っぽいじゃんと思う人】が結構いるからだ。
でもさ、生まれたときからiPadとかあって、全く印刷⇒製本形態のメディアに親しんでいない世代ってのがこれから出てくるんじゃないかと思うんだ。教科書内容は全てデジタル情報化可能だし、まぁ、将来的にもう1個か2個技術的な革新が起これば、インプットももっと自然でやりやすくなるんじゃないかと思うし。例えば50年後くらいには、「何でわざわざリンクも貼れない、改ページとかいう見難い仕様の形式に変換しなきゃいけないの?」「書籍形式だとページの端にかかる所を読む時にいちいち0.5秒くらいかかる、これは時間の損失だ」とかいう人が多くなるんじゃないかと。んでそうなったら、殆どの書籍は、例えば1部だけPDF?を国立図書館かなんかに納めて(何かあった時の為に)、いろんな動画とか画像とかにリンクを貼ったままやり取り出来るようなフォーマットが現在「書籍」として流通している情報の代替になるんじゃないかと。
何が言いたいかというと、電子書籍はメディア変遷の過渡期に出現した相当temporaryなフォーマットになるんじゃないか、ということ。
自分の中では「リンク付き/改行なし情報vs書籍形態の情報」の差に比べれば、「電子書籍vs書籍」の差なんて無視出来るくらいのものなので、電子書籍と書籍は敵ではなく仲間なんだけどなぁ。
リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。
第一章
1
意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデルを意味する。
この主義の限界を
2
チューリングの形式化が持っている特徴
(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括
(2)そのメカニズムがいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している
(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している
⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している
フォン・ノイマンがコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーがLISP(プログラム言語)を開発。
⇒ 研究開発が可能に
A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出
⇒理論的に自覚化・明確化される
3
・物理記号システム
①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、
②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム
by 1976 ニューウェル & サイモン
・強い物理記号システムの仮説
SPSS strong-physical-symbol-system
「標準的な記号アトムのフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」
①仮想機械
そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」
・記号を割り当てる
・変数を束縛する
・記号列の複写、読みとり、修正
等々
③標準的な記号アトム
④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段
そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる
4
このような主張(標準的なLISPのアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践。
彼らの仕事の特徴(例:BACON)
・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している
・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能
・選ばれた課題領域を扱う
BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則)
・BACONが取り組んだデータをフォーマット化下のは、人間の労苦
・BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。
ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない
・BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの
⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう
サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。
しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンとラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。
心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える
知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている
5
古典的システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。
古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々
STS semanttically transparent system
「システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論的記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステムは意味論的に透明であるといえる」
きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズムの記述(レベル2)における計算の対象が、概念的レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述(レベル1)と同型である場合である。
(レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え
レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法
レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)
(1)古典的理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論と意味論を組み合わせた記号システムを仮定している
(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。
もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない
◎要するに、古典的システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである
第二章
1
ドレイファス:古典的認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当性
サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論と意味論との間にギャップが認められる
この二つの種類の懸念について検討する。
2
「あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」
この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念のリストをあげる。
ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。
・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)
・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?
ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか
3
・ドレイファスの二つの主張
(1)身体問題
「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」
コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない
(2)コード化
人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。
このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?
AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。
4
「強いAI仮説」を、サールは批判する
強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる
Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。
サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。
具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋の操作者が中国語を「理解すること」の比較
「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」
以下、サールの誤りについて論じる
5
サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」
脳シュミレータ説:あるりプログラムが中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる
↑(サールの再反論)
(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)
(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである
↑(アナロジー)
光合成:光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない
では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?
:外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること
↑(コメント)
『中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効
6
微視的機能主義
機能主義は、心的状態の本質を、
入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。
(適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)
↑(批判)
(中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。
こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう
・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか
×大まかなレベルに位置づけ
⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ
△ライカンの「小人機能主義」
○微視的機能主義
・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981
:機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ
(ライカン「小人機能主義」
:機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)
微視的機能主義
内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で
記述しようとするもの
・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる
第三章
1
2
「民間心理学」
:自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解
民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる
「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学」
3
(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。
民間心理学は、子供や狂人や外国人を前にすると、まごついてしまう
(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる
(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである
最近の分析哲学
:頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか
4
Daredevil believes that Electra is dead.
Mary hopes that Fermat's last theorem is true.
のthat以下を、心的状態の内容と言う。
心的状態が考えられる傾向
:われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、
われわれにとってどのように見えているかによって決まる
↓(言い換え)
我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、
本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない
⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、
知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆
・双生地球……☆に対して疑いを投げかける
双生地球で、「海に水がある」と発話される。
地球A:海にH2Oがある
地球B:海にXYZがある
この違い以外は同質だとする。
すると、
地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる
(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)
⇒
もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、
自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、
単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して
二つの選択肢
(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、
世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説
(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は
〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう
プティ と マクダウェル
「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。
しかし、
〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」
筆者
:あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、
そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない
その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。
仮想反論
:「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」とするならば、
心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)
(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)
仮想反論の詳細
:仮定①:
二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる
(そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)
仮定②:
行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない
結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない
「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。
限定的内容といっても、それを妥当な概念として了解できるかは明らかではない」
なぜなら、
「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは
まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。
その具体的理由として、
ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。
5
筆者
:広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、
頭の中で起こっていることに関することに関する科学的カテゴリーや分類に
きちんと還元されるなどということは
とてもあり得ないように思われる。
・民間心理学は、科学的心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない
→
世界を記述しない信念であり、なおかつ
ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学的記述の上には)存在しないことも可能
6
民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?
:
他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、
その人の身体の動きを予測し説明するための手段
民間心理学の主要な目的
:
世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること
(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴
①世界に対する感受性、すなわち感覚や生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している
②世界をわれわれと共有している
③彼らは我々自身のもっとも根本的な関心と必要の大部分を共有している
④彼らの思考の有用性は、
(我々自身の思考と同様に、)
彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、
彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている
この特徴があるので、
「~したい」という欲求さえ同じであれば、
・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている
・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、
さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)
7
筆者の見解
:私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、
行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである。
……関連する行動を可能にするものとしての、
根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、
そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が
対応している必要はない。
――
ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか?
<Fordor>
意識の全体論というのは、
「命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」
という考え方。
これに、Fordorは懐疑的。
(命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)
われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題(認知的連関)を共有しているとは思えない。
信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。
:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである。
「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」
</Fordor>
筆者
:Fordorの間違い
全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。
Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。
Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。
筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている
全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)
7
一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。
(3)に対して、
民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである。神経科学とつながることを目的とはしていない
(1)に対して、
民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない
(2)に対して、
なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。
整理。
民間心理学には、きちんとした定義がある。
これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」
8
因果関係と、構成的関係の区別
構成的関係
:
研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ
因果的に関係
:
因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、
それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる
ということはない。
(チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)
9
・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか。民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている
↑
(構成的関係)
↓
心
科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。
では、構成的関係とは何か。
構成的関係←→因果関係
構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること
因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない
(駒はなくてもチェスは打てる)
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まあ、ニコニコ動画が出てきたときも、「コメントがウザすぎて映像が見えない!」とかよく言われてたけど、でもなんだかんだそのスタイルは受け入れられ、今や数多のクローンサービスが立ち上がるくらい当たり前のものとして定着していったのに対し、ニコニコ静画 (電子書籍)のコメントシステムは根本的に抱えてる問題が多すぎる気がする。
ニコニコ動画の「映像に文字を重ねる」というコメントシステムがなんで受け入れられたのかなーって考えると、それは字幕映画なんかもそうなんだけど、「映像は右脳で処理し、文字は左脳で処理する」という、人間の脳にとって負担が少なく無理のない処理の仕方だったからなのかなと思った。文字に注目しているとき映像はただの背景になってるんだけど、画と音は文字の背景でいながら同時にある程度の精度を保ったまま(当然映像だけに注目してるときに比べ何割かの情報は欠落するけど)脳にインプットすることができるし、その「なんとなく」入ってくるレベルの情報でなんら問題がなかった。
ところがニコニコ静画 (電子書籍)のように「文字に文字を重ねる」という見せ方は、左脳ばかりをフル回転させることになるので、とても疲れるし脳が混乱してしまう。どちらかに注目すればどちらかは背景になってしまうんだけど(実際、書籍を読んでいるときコメントは表示されないようになっているし、コメントを表示するとき書籍はトーンダウンして背景になってしまう)、映像と違って背景になった文字は完全に背景でしかなく、理解できるレベルの精度を保ったまま両方の文字を同時に処理し意味を理解することはできない。
結局、ニコニコ静画(電子書籍)の使い方 - ニコニコ静画 (電子書籍)にあるように、「まずはコメントなしで読んで、二周目をコメントありで読めば、二度楽しめるな…!」的な使い方になってしまう。でもそれってすごくメンドクサイ。やっぱニコニコ動画と同じように一連の流れの中で両方同時に楽しみたい。もちろん文章を途中まで読んで、いったんコメントを表示して読んで、また文章に戻って続きを読んで…というような読み方でもいいんだけど、それはそれで本を読む流れというかリズムがいちいち中断されてしまうので、すごくストレスがたまる。
じゃあどう改善したらいいのかって考えても、これはなかなか難しい。
ただ少なくとも感じたのが、書籍や漫画の場合、大抵文字は縦書きになっていて、人間の視点移動が上限運動になっているのだから、コメントもそれに合わせて縦書きにしたほうが読みやすいんじゃない?ってこと。実際、書籍や漫画の欄外注釈だって、普通は内容と同じ縦書きになっている。内容を読んでいて、ちょっと視線を欄外に持っていて注釈を読んで、また内容に戻っても、さほど疲れたりしないのはそのためだと思う。これがニコニコ静画(電子書籍)の場合、文章を読んでいるとき視点は上下運動になっているのに、コメントを表示すると急に文字が横書きで流れてくるもんだから、視線の動きがあまりにも不規則になりすぎて、脳にすごく負担が掛かるし、とてもじゃないけどまともに読み続けられるものじゃない。
ということで、コメントは書籍内容に合わせて自動的に横書き表示になったり縦書き表示になったりするか、もしくはユーザーが自分でコメントの表示方法を変えられるようにするオプションとか付けたらいいんじゃないかなーと思う。あと無理にレイヤー表示せずとも、書籍の左右や上下に(欄外注釈のような)コメント表示エリアを作って、そこにコメントを流すようにしたほうが、変な二度手間をかけず両方同時に楽しむことができるんじゃないかな、とも思ったりする。
へー、君はいつもデジカメを持ち歩いているんだ。何処かで外食する時や、ちょっと外に買い物に行く時、通勤通学時も?
そりゃすごい。カメラが大好きな人なんですね! で、おまわりさんに職務質問された時はそのカメラのこと、なんていうつもりだい?
携帯のカメラで満足できないスペックのデジカメって、コンデジとかではなくちゃんとレンズがついたがっちりしたやつな訳だろ。それをなんのために持ち歩いているの?
怪しいよね。お蕎麦屋さんとかで出せるの、それ? 雑誌の取材か何かですか?
……というわけでだね。
携帯にカメラがついているのは写真そのもののデータ取得が目的ではなく、カジュアルに文字以外の情報を入力するためのインプットツールとしての側面が殆どであり、スペックに差があろうとなかろうと、デジカメとは本質的に用途が異なっている。
その事にも気づけない増田は、単に愚かか、写メールなどの写真でのコミュニケーション手段を行った事がない手合いに見えるわけだが、はてな?
思えば僕は積み重ねというものができない。
(これは深夜に活動するのが嫌なと手の皮膚が弱く荒れるので仕方なかった)
小学校のころ習ってて今もたまに泳ぐ水泳も上達することなく競泳的な泳ぎ方ができない。
今はほとんど聞かない。
だっていくらお金づきこんだところで2年に一度来るかこないかわからないアーティストだし
未だにとりあえず聴いている。良いのはわかる。気に入ってプレゼンにつかった曲もある。だから何だ!
てきとーに本屋に足を運んで
気軽に読めるものだけ読む
せっかく読んだ本の感想とか書こうとおもったけど続かなかった。
意識高く熱くなろうと頑張る。
でもインプットしたものもアウトプットしたところで金にならず終わる。
何もやってないわけじゃないけど
何やっても単発でおわる。好きなことも
お金とかの問題ややっぱ目の前で連載や放送されてるそのものが好きだから。
絵とか描いてみたいと思うけどめんどくさい。
自分に関係ないと思ったものに対しての熱の入れようがあまりに低い。
人の名前はほんとにそれが原因かも。
かなりドライ。ケータイみたらわからない名前がいくつかあって消した。
長期的な視野が大切と「理解」はしても「納得」できてないから結局コツコツした努力が無理。
まじめっぽくふるまってていつの間にか辞めることおおい。
もちろん友達も少ない。
これを読んだらこう思うべきなんだろうか?とか想像してしまう。
実際やるとその過程で見えてくるものがあると頭では「理解」してても、実際過程を楽しむ行動が取れない。
将来とかもどうでもいい。
みんながするんでしょ?とか思っちゃう。これ何二病?
でもそんな生活実際やったら楽しいんだろうなとか思ったりもしている矛盾
何したら楽しいの。
何かを好きになるのは自分の自由なのに
それを好きと言い続けられる精神がない。
それはまわりの目を気にしているからだと思う。
何が好きかがステータスになるから。褒めてくれる人や賛同してくれる人同調してくれる人を求めてしまう。
一方でステータス全面に出している人と会話するのめんどくさい。
今論文やってるんだけど
他に関心が移る。まぁ実際そっちをやっても対してできないんだろうけどさ。
せめて何か一つのことに強制で集中させてくれる合宿とかあったら
よろこんで参加するのになー。
「ブログやメルマガを数か月前に始めたんですが、どうしても続かないんですよねえ…」
という人の理由は、だいたい決まっています。
本人は「面倒だから」「忙しいから」と、執筆の時間が取れないことを理由に思っているのですが、実はそうではありません。
ブログやメルマガなどネットでの情報発信になると、大抵はパソコンを使うと思いますが、
多くの人が、パソコンの前に腰を掛けて画面を見つめてから、「さあ、書くぞー!」と思い始めます。
そうすると、何回かは書けるかもしれませんが、やがて書くことがなくなってきます。
以前書いたことしか思い浮かばなくなってしまう。書くことが思い浮かばない。
だから書ける時間がかかってしまう、だから書けずに続かない、というわけです。
小説家という職業は、机に座って仕事をしているイメージがありますよね。
机に座って、原稿用紙を前にして、「よーし書くぞー」と書き始めるように思ってしまいます。
でも、作家の多くは、「さあ、書くぞー!」とペンを入れている時には、もう仕事のうちの半分以上が進んでいるのです。
それは、構成を作ったりキャラクター造成をしたり、そしてその分野に詳しい人に取材をし、その分野のいろんな文献を用意した上で書き始めるのです、
つまり、「さあ、書くぞー!」という時には既に、準備をしたものを仕上げる状態になっているわけです。
最後に作品として組み上げていく仕事なのですから、全体としての仕事はもう終盤に差し掛かっているわけです。
モノを書く時は、書く時点では終盤でなければならないのです。
何も書く準備がない状態で「さあ、書くぞー!」とやるから、そこから何も進まなくなります。
営業日報を書くのが毎日大変だという人は、日報を開いてから「日報を書く」仕事が始まるからダメなのです。
日報を開く前に、「日報を書く準備」をする、つまり日報に書くべき内容を先に整理して置いたり、資料をこまめに集めて置いたりするわけです。
手元に準備したものが多ければ多いほど、「さあ、書くぞー!」という時には、その準備したものをササッと組み立てればいいだけなのです。
どうしてもモノが書けないという人は、「書く準備」に力を入れてみましょう。
「書く準備」が万全であればあるほど、簡単に書けるようになります。
実際に書くのは、全体の終盤でいいのです。
「さあ、書くぞー!」という時点で、既に書くための仕事がどれだけ進んでいるのか、ということを考えていきましょう。
ブログ持ってるけど、ブログはある程度書くテーマ決めてソレしか書かない。
考えずに更新できるから楽といえば楽だけど、たまにつまらく感じる時がある。
ブログ持ってると、なんかしらんけど、書かないでいるのが悪いことのように思えてきちゃうからね。
読者の目も気になるからいろいろ細かいこと気にしないといけないしね。特に他人の記事のコピペとか気を使うのでしんどい。
どうせ自分の書いた記事なんて誰もずっと読んでくれたりはしてないのにさ。
増田ではかくじゅんびができたときにしかかかない。というか書きたいって思った時しか書かない。
増田はダレがよむことを期待もせず、読者の存在を勝手に想像してプレッシャーを感じることもなく、
ただ自分が書きたいと思った時、書くことを考え終えたときに書けばいい。
楽でいいです。
ただ書きたい、ってんじゃなくかきながら文章を上手にしていきたいとか、誰かに伝えて共感して欲しいとか
そういうことを考えだした人は、まぁブログとかやればいいじゃないかな。
でもブログをかく習慣が出来る前に、増田でならすのは大いにありだと思います。
まぁそのかわり、自分をストレッチする要素もないけどな。楽すぎるってのは人の成長に良くないです。
この記事みたく、本当にそのときの感情のまま支離滅裂なことを書いちゃったり、自分を堕落させる危険もあるわけでなー。
読まれる文章を書きたいって人は、増田なんか使ってないで、しんどくても早めにブログに移行していくほうがいいと思います。
まあ、増田で書くにしても、自分なりのルールを決めて書けばいいんじゃないかな。
せめて自分の一人称やら文末を統一するという初歩的なレベルから、私には想像もつかないような厳しいルールまで。
たとえば、「ラブやん」の田丸浩史いわく、一番むかつく言葉は「ま、」とか「まぁ」らしいです。
散々偉そうなことを言っといて、すぐ「俺はどうでもいいけど」みたいなポーズを取るのは、たしかに他人からしたら気に入らないかも。
私よく使ってるので、これからマイルールで、この「ま、」とか「まぁ」ってのを禁止して文章書くように意識しようかな。
私的には結構しんどいけど、他の人はどうだろう。
本当はTwitterでreplyすりゃいいんだけど、仲間内利用アカウントのみで、NaokiTakahashi氏と隣接するようなアカウントを持ってないので。
増田に書いとけば、そのうち氏のエゴサーチに引っかかりそうなのでココに書く。
ぶっちゃけ、日本(ということは全世界)の「シナリオライター」で現行の「オタク・二次元文化」に専門的に詳しく「ラディカル・フェミニズム」や「ジェンダー論」「セクシャルマイノリティ論」にも高度に詳しいのはこの人だと思う。
つまりNaokiTakahashi氏に一度でいいから「セクマイもの」のエロゲシナリオを書いて欲しいんですよ!!
ラディフェミやジェンダー論やセクマイ論がこっそり絡んでるような「セクマイもの」のエロゲ。
まあ商業ライターだし、これは売れないだろうなあ・・・採算取れないだろうなあ・・・とは思うんだけど。無理強いですね。まあネットに書くだけならタダなので。…市場需要を発信したく思いまして。
ヘテロ・ゲイ・バイ、性自認男、女、中性、色々あるけど、セクマイの中でもマイノリティな存在があるわけです。
肉体は男で、性自認的には男は余り好かない、MtFは違う、本当は中性的なのがよかったけど、でも現実には男だから男に適合しないといけない、ゲイにもなれずバイとも言い難い、じゃあヘテロかと言うと当然違う、恋愛が理解できなくて無性愛に近いけど性欲はわりと強い…
自分みたいなどこの枠にも嵌りづらいタイプで草食系だと、LGBTコミュニティの多数派にも適合しづらいし…
Twitterやはてなのおやさしくて良識的なインテリは勘違いしてそうだけど、ガチのセクマイの中でもマイノリティだと「二次元文化」とやけに相性がいいんです。なぜなら、現実の肉体・社会と精神面がズレ過ぎで、紙の上に描かれた想像のポルノが一番「自分の性」に適合してる気がしてくるから。日本の二次元ポルノは世界一多様なので。オタクは女性差別的って言ってる人は、メジャーなヘテロ用のポルノしか見てないと思う。でもメジャーな大通りがあるからこそ、マイナーなセクマイポルノも生存できるんだし。色々とズレるけど即売会だとふぁーすととか(でもケモノクラスタのセクマイ率高いよね)。ヘテロが嫌いだからって規制されたらセクマイも死ぬから困る。
「セクマイ」といったって、みんながみんな「セクマイ論者」で、あるいは「フェミニズムやジェンダー論」大好きだったりするわけじゃあないし。
セクマイ論者はあくまで「イデオロギー的に結託したセクマイの集合」。だと思う。
もちろん、彼らが結託して社会的に闘ってくれてるおかげで、自分みたいな弱小一般人のLGBTが制度的に楽できていられるのはわかるんだけども。
フェミニズムの語る「男は暴力性や支配欲がある」が大嫌いです。自分にはそんなものはない。
攻撃性が変に内側に向かってるし、性的には被虐欲強いとか言うアレ。でも実際に暴力は振られたくないですね。ただ「そういった作品」を読むのは好み。
はてなやツイッターとかでオタコンテンツを「ヘテロの暴力性丸出し」とか言ってる人も嫌い。
「人間の性」は、とくに「性表現」は、社会的に統制していいものじゃあないと思う。
作品が暴力性をまとっていたとしても、読んだ人間がどう受け取るか、人の数だけ多様なので。
ラディ・フェミの語る誰得論を知ったせいで、変に自分の性が拗れたんだけどー、まあ要はインプットが自己責任だしな。
つまり何が言いたいかというと、一般社会の男の枠組みの中で育ってはじめから拗れてる上に、実はヘテロ男ではないことに思春期に気付いちゃって、ゲイかと思ってたら違って、あれ性自認も男じゃなくね?って気付いちゃって、その上更にラディ・フェミの男に対する暴力性を内面化しちゃって、攻撃性や支配欲は内向きに拗れてて、もう色々とセクシャリティがメビウスの輪状態なんですよ自分。
どーすりゃいいわけ?これ。ほんと。でもこれ、陵辱系エロゲの素材としてウケると思う、主に自分に(←これが言いたかった)
それに、はてなとかTwitterで「どや顔でフェミニズム語ってる男」「女性の守護者ぶってる男」「セクマイに理解ありますな人」って脂ぎった肉食系中高年男性が多すぎだと思う。バブル世代あたりの。
なんか認識がすごい古いし、セクマイ理解のためにBLを嗜んで、したり顔してそう。
ああいう人達は自分が男尊女卑だからこそ、他人の中に「女性に対する暴力性・支配欲」が見えちゃってるんじゃないかと常々思ってます。
敵の論を学んで論戦とかしてた高橋先生なら「ラディフェミ」「ジェンダー論」「セクマイ論」を絡めた、主人公がセクマイの(できれば性自認は男でも女でもないほうがいいなー、ホモルートにもヘテロルートにも男の娘ルートにもいけるし)ドロドロの陵辱系エロゲーを書いてくれそうなんだけど・・・純愛でもいいです。どっちも好きだし。
まあこれって商業的じゃないよね。
私は所謂嫌煙家である。タバコの煙、あまり好きではない。そして、出来れば煙から遠くに居たいと思う。
と書くと、愛煙家の方あるいはヒステリックに禁煙を求めるような人の姿を思い浮かべてしまった方は、ありがちな自分の意見発表だろうと思ってしまったかもしれない。だが、ここでの主題はタバコそのものにあるわけではなく、その背景だということを付言しておきたい。私はタバコを吸う事自体は、個人によりけりだと思っており、殊更に禁煙を求めるようなことを言いたいのではない。
むしろこの場で少し言いたいのは、人間の奥底に抑圧されているようなトラウマチックなものが見せる反応のことである。トラウマというとセンセーショナルなことを思い浮かべる諸氏もいらっしゃることと思うが、そんなものでもない。私の奥底にある、そして最近その存在にはっきりと気づき始めたトラウマというのは、あくまで大事件というものでもなく、日常の中ですこしずつ蓄積されていったものだ。人には、どうしても譲れなかったり、頭ではわかっていてもどうしても受け入れられないようなことがあるという経験を身をもってしたということをを理解していただきたい。
そのルーツは、やはり親なのだろう。上手くいかなかった時、親の仕事がはかどらない時、そこには、いつもタバコの煙があった。ただし、昔から普通の時も吸っていたので、特に悪い状況=タバコという思考回路が形成される積極的な理由には成り得ない。ただ、健康のためと禁煙しながらやっぱり吸ってしまい、そして家でぐうたらしながらタバコをくゆらせる姿が、この人生の中で記憶として残ってしまっている。そんな経験もあったので、私にとっては、タバコ=堕落、怠慢の象徴に映るのである。かくして、私にタバコの臭いはそんな苦い思い出と共にこの頭にインプットされた。これが、私のトラウマの元ではある。
同じ体をこわすと言うか、体を削って快楽を求める依存性のある物質として、酒とタバコに本質的な違いは感じない。依存性の大きさとか、副煙流とかは私にとってはどうでもいい。だから、私は自他ともに認めるくらい酒を飲むときは飲むが、その原因はやっぱり普段のストレスだと思うし、普通に考えれば、意志の弱い私はこんな経験があれば結果としてタバコにも手を出しかねなかったのである。
だが、現に私は人生これまで副煙流にあずかることも多く明らかに1本でも吸えばニコチン中毒になるであろう体を持ちながら、未だにタバコを吸ったことがない。むしろ、タバコを吸う姿を一瞥するだけで、こう体に虫酸が走るような感覚と言いようのない嫌悪感が込み上げてくるのである。これはもはや理屈ではない。
私にとって、これまでの人生での最大の敵は思春期以来怠惰であり、堕落である。現在進行形で、自堕落さを戒め、低い位置に甘んずることはせず、茨の道ながら自分で自分の道は開拓しなければと思いこれまでやってきた。だから怠惰ほど憎むこともない。私は、ほとんどのことに対して、許せるとは思うが、これだけは許すことはできない。理性からこう言うのではない。理性が働いていたら、これほどまでに激しい感情を持つこともあるまい。そう言えるくらいには、普段の自分はいたって感情を顕にすることもないし、それほどの激しい感情を持つこともない。
こうして、私の深層心理の奥に刻み込まれた、怠惰の象徴としてのタバコというのは、私にとって抑えがたきまでの嫌悪を呼び起こすのである。もはや、生理的なものであり、本能的なものであり、私の理性で抑えることもできない。これは、しょうがない。勘違いして欲しくないのは、繰り返しになるが個人の喫煙に関してあれやこれや言うつもりはないということであり、私が勝手にそう思ってしまうだけだという話がしたいのである。(もちろん自分に近い人々なら話は別である)
要するに、このように人によっては、私のようなものよりはるかに激烈な記憶としてトラウマが蓄積されている場合もあるのである。この記憶が呼び起こされる感覚は、その人にしかわからないものだし、ひどい例の場合はパニックという形としてフラッシュバックされるのだろう。とにかく、こうして人には触れてはいけないポイントというのがある人もいる。それは他人にはもちろんわからないから、間違ってその人のトラウマに触れても極端な例でなければちょっと嫌な顔をされるものの許してはくれるだろう。しかし、「〇〇は絶対にいやだ」と言われたら、それは本当にダメなものなのかもしれないということは配慮して欲しいと思うのである。
>まず前提としては、ネタと呼ばれるのを探す行為はインプットである。
既にあるネタを発表・整理分類するためのシステムがブログというもの。
そういうやり方ならネタとそれにまつわる思考は専門分野に特化しつつ複雑化していく。
最近、気づいたのだけれど、どうもブログを書いていると馬鹿になっていく気がする。
いや、自分に限らず周りの人を観察していても、大体そのように感じる。
まず前提としては、ネタと呼ばれるのを探す行為はインプットである。
「インプット>アウトプット」の比率の状態が続くと、情報を消化していくことにならず、消化不良を起こす。
だから、情報系のブログを運営している人は、題材を探すあまりにたくさんのサイトやブログに目を通し、
脳みその中がどんどん劣化していっている気がする。実際、不必要なものを取り入れているので、当然だと思う。
例えば、体を鍛えると言いながらコカ・コーラやピザや菓子類をつまみ食いして、食べていないよ><と言い張るようなものだ。
学んだことをアウトプットの為にブログに書く、というのが有効なのは極一部のジャンルに限られる。
プログラミングのブログなら、とても有効だと思う。読者から色々コードのツッコミが入ったり、また、コードや制作物で
実力が分かったりして、リアルでの交流・転職・ブランディングにも役立つように感じる。
書評ブログをビジネスとして書くのなら、ニーズがあるだろうし有効だろう。
でも、勉強のために書くとしたら、時間の無駄でしかないはず。書く暇の分を、実践に回せば良いし、
そもそも他人に見せるものでもないだろう(本の片隅にでも、ペンで書いておけば済むし)。
遊びで書くのなら良いが、役に立つはずと思って書くと、大体馬鹿になっていく。
内容は聞いてないが、間違い無いだろう。父と母から連絡が入っているのだから間違いない。
大学を辞めた。
価値がない。
最善手が死ぬことだというのは明明白白だ。
が、家は出るべきだ。
日本においては日陰にいて人目についてはならない存在であり、新たな被差別部落民だ。
僕はそうなる。
思えば、受け身ばかりの人生だった。
何も創造的なことができず、インプットができてもアウトプットは乏しく、応用が利かず、不器用で、屑だった。
MARCH未満大東亜帝国以上の大学に進学したものの、就活に負けて意欲が減退し、卒論も書く手が止まり、それから一年天井を見ていた。
改善されるわけがなく、声とも似つかぬ音波で大学を中退する旨を教授に申告する。教授は僕に期待していたのか、それともただの世辞なのか、今でもよく分からない。
よく褒められた。嬉しかった。でも、一度期待に応えることができなかったそれだけで息苦しくなり、死にたくなる。
もしかしたら、祖母に何かあったのかもしれない。
足を骨折してリハビリしていると聞く。震災以降、里帰りさえしていない。ましてや、祖母に顔を見せることなど、しようはずもない。
少し、胸が透く。
不快だ。祖母に何かあったと決め付けることで、自分を免責しようとしている。
ともあれ、頭の隅には入れておいていいだろう。
どのみち、屑なのだ。
出せる卒論も出さず、5年を無為に過ごした人間に、社会参与する資格はない。
企業の人間だって、そんなクズを雇いたいとは思うわけがないだろう。
救いがたい。
免許も持っていない。癲癇なのだから、これはいいことだとは思っているが。
思っているが、それは重荷でしかない。
仕事に貴賎はないという。しかし、貴賎はないというが、あるだろう。
選り好みしてられる環境ではないし、選り好みしたっていいという意見もわかるが、許さないだろう、すべてが。
理想論が叶うなら、こんなところに身を窶してなどいない。
選別される覚悟で、選別しなければならない。
たとえ、ナチズムと言われようと。
しかし、私には選別する権限も、地位もない。
私は常に選別される。
私は選別された結果に、身をまかせるしかない。
それが、今の結果としての環境。
その汚泥に埋伏するのが、私の結果。
何も殺人をしようというわけではない。
しかし、私が生きていたという厳然たる事実を、残せはしまいか。
何か、ポジティブに、何かを残して笑って死ねる、そんな場はないか。
しかし、一度踏み違えてはならない。
見方次第で、それは殺人と地続きだ。
親と連絡がつかない。
電話をかけても、連絡がつかない。
消える。親とのつながりから、私の記憶から、世界から、私が消える。
虫っ子ひとつをたやすく殺す人間が、死に際に卑しく這いずり回る。
お前は蟻だ。
小学校の帰り道、何度踏みつけても死なずに逃げまわり、つま先に力を入れて踏めば軽く死ぬと学び、私が踏みつぶしてきた蟻だ。
お前は私だ、例外はない。
それは生きろという意味ではない。俺の見えないところで死ね、という率直な表現である。
すなわち、死にたいならば、ホームレスのように死なねばならぬ。
鉄塊に投身などあってはならない。
そのような死の露出、生の証拠など、残してはならない。
酸素を取り込み、二酸化炭素を吐き出すよう、連続的に、無自覚かつ無意識に為されなければならない。
それが生死の狭間にあるべき姿なのだ。
死を知覚させてはならない。視圏に死を漂わせてはならない。
私は死ぬ。
お前も死ぬ。
苦しみ、安らかに、消え去よ。
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
英語圏向けにボーカロイド情報を提供するサイトの中でも古株だといわれているVocaloidism。そこにもミクノポリス、というかアニメ・エキスポのボーカロイド関連イベント全体の感想が掲載されていた。といってもこれまで紹介してきたような堅苦しいものではなく、本当に只のファンによる率直な感想の羅列。率直過ぎると言ってもいいかもしれない。とりあえず、Vocaloidismの中の人がダニー・チュー嫌いなのはよく分かる。
urlは以下の通り。
http://www.vocaloidism.com/2011/07/16/the-vocaloid-experience-at-anime-expo-2011/
+++++以下勝手翻訳+++++
2011年のアニメ・エキスポ[AX]が終わり、僕らの胃袋はスシとポッキーでいっぱいになり、そしてそれぞれが済むタイムゾーンへの帰還までの間に飛行機の遅れにも慣れ、今年の4日間のイベントを自然に振り返ることができるようになった。AX2011は、間違いなくボーカロイドに関するあらゆるものの体験場だったと言わなきゃならない。編集者とblogのフォロワーがイベントについて何を語るべきと考えているのか、一休みした後で目を通してほしい。
自動車だ! トヨタがカローラミク・プロジェクトの公式画像をきらびやかに描いた異なる2台のミクノポリス・カローラを持ち込んでいた。正確に言えば[2台の車を]2組用意し、1組をフロントエントランスに、もう1組をミクノポリス・コンサート会場の外に置いていた(もう1組の画像はカローラ・ミクの記事をご覧あれ)。
http://s557.photobucket.com/albums/ss19/awsplus/?action=view¤t=MikuCarLeft2.jpg
http://www.vocaloidism.com/2011/07/14/corolla-miku-roundup-2/
僕は午前中のほとんどを4日分の入場券をゲットするための行列、それとミクノポリスのチケット用行列に並んで過ごした。幸運にも、そして大いに驚いたことに、コンベンションで購入できるいくつかの座席がまだ残っており、僕ら4人組の中でチケットを持っていなかった最後の一人もそれを手に入れることができた。午前8時から午前11時近くまで時間がかかったけどね。随分疲れたよ。SeyrenLK(有名なミクパ[ママ、感謝祭動画の間違いか?]コンサートをアップした人)も2日目の行列待ちビデオで同じ経験をしたようだ。
http://www.youtube.com/watch?v=rXslHQ0EdCs
2時半、僕はミク・キーノート会場に向かった。ダニー・チューが奇妙な、そして正直言って子供じみたキャッチフレーズ「Miku-san magi tenshi」つまり「ミクさんマジ天使」をコールし始めた。LAは天使の町だからって理由なんだけど、僕にはその馬鹿馬鹿しさを正当化する理由には思えなかったな。クリプトンの伊藤社長がそこにいて、ボーカロイド史と短いKarenT及びピアプロの概要を含んだ彼らの製品に関するビジネスモデル方法論について、僕らのために短期集中講座を開催した。Itoh-san[伊藤さん]は同日上市したばかりの新しいビジネスモデルの大きな一部、Mikubook.comを公開した。伊藤はそれを、ボーカロイドに関連した新しい作品につながる新たな方法だと説明した。まだ「超初期ベータ版」(アルファ版?)だそうだけど、できるだけ多くの人が参加しデータを追加してほしいと勧めていた。またミク・カンファレンスでミク英語版についていくつかの情報が出るだろうとも言及していた。この告知のせいで僕はラスト・エグザイルのプレミア上映を見逃すことになった。その後で質疑応答が行われたんだけど、僕は次のパネルの行列に間に合わなくなりそうだったので残ることができなかった。その次のパネルってのは……
MikuMikuDanceワークショップだ。行列は正気とは思えないほど長く、会場に入るまで永遠とも思えるほどの時間を要した。そうなったのはミク・キーノートが1時間も時間オーバーしたうえ、彼らが基調講演者のための翻訳者を用意していなかったから。おまけに[ワークショップの]始まった時間が遅かったため、僕はNirgilisコンサート(それ自体はとてもよかった)の為に早く出て行かなきゃならなかった。でも見ただけの価値はあった。主な講演者はこの業界で最良のMMD-P(MMD製作者)2人、せっぺん[ママ、せっけんPの間違いか]とブラザーP。ブラザーがそこに座っていると聞いた時、僕の顎は床まで落っこちた。ブラザーのmelody.exe動画は僕をボーカロイド狂にした最大の理由だ。彼らはソフトに含まれている紹介動画全部(もちろん字幕付き)や第7回MMD杯告知動画を含んだMMDの紹介を行い、英語圏のMMDユーザーに対して誰でも締め切りまでに[MMD杯に]投稿してほしいと促し、そのうえでプログラム自体の基本とどうやって入手するかに話を進めた。そこで僕は席を離れなければならなかったため、ミクのHeart Shooterのためにブラザーが作った新しいMMD-PVを見損ねた。ユーチューブの動画を教えてくれた良き友人たちに感謝。
http://www.youtube.com/watch?v=9wwSpHZk2uY
ZANEEDSがクラブ・ノキアでオール・エイジ・ダンスをやってた時……僕は寝てた。その日のイベントで疲れ切っていたせいでこのダンスは僕の瞼の向こう側を静かに通り過ぎていってしまった。Nirgilisコンサートの際にクラブ・ノキアを見た限りではダンス向きの素晴らしい舞台だったが、撮影及び食べ物に関するナチスのようなルールと3ドルのポップコーン及び8ドルのビールはいくらかムードの邪魔になったんじゃないかな。僕の友人、RemiliaScarletは実際に見に行ってすっかり楽しんできてた。後でZANEEDSが話したところによれば、これはアメリカで行った彼らの最初のDJギグであり、とても楽しかったそうだ。
ミク・カンファレンスはもしかしたら1日目のミク・キーノートより混雑していたかも。またもダニー・チューがあの馬鹿げたキャッチフレーズを唱えていた。Koboyashi-san[ママ、小林さんの間違い]は自分がミクノポリスのスタッフであり、そこで英語版ミクの試作品による歌があることを明かした。新しいKAITOアペンドのデモもあり、オリジナルよりずっと簡単にKaikoの声を作れることも知らされた。KAITOアペンドを米国で売り出すつもりはあるかとの問いに対する回答は、「怖い質問ですねえ」だった。でもKAITO英語版を期待することはできそうだ。なぜなら彼[KAITOの音声データ提供者]はアメリカン・ジャズを学んでおり、英語が流暢だから。悲しいことに前日に起きた失態を避けるためパネルは短時間で打ち切られ、この件に関する質問はできなかった。CV04に関する質問は諦めるしかなかった。
カンファレンス直前に行われたボーカロイド・コスプレ会合はVocaloidism的視点で言えば完全に失敗だった。僕らの一人は……不意打ちを食らい目の前にいるiNSaNiTY[海外PであるDoofusの曲]のKaitoコスプレに全く気づかなかった! ともかく僕はどうにかKAITOコスプレ写真の一部としてそれを撮影することができた。できれば沢山のコスプレ写真をフォーラムにまとめたい。準備できたらすぐリンクするよ。
もちろんこの夜最大の呼び物はミクノポリスだった。僕らが中に入るため半時間ほど行列している時には、少なくとも3台の放送用車両がシアターの外にいた。僕はずっと右側の席、NND[ニコニコ動画}のために撮影するクレーンカメラから1セクションだけ離れたところに座った。クレーンカメラは随分低いところまで下がってきてたよ! ボーカロイド曲のアコースティックおよびジャズ演奏が響いている間に僕らは席につき、そしてあのうっとうしいダニー・チューがまた出てきて人々に「Miku magi tenshi」と3回言わせようと試み、結局会場を暖めるためにDANCEROIDを持ち出すことになった。2人の少女はFirst Kiss! とルカルカ★ナイトフィーバーに合わせいい仕事をしてのけたが、彼女らのステージにおける本当のハイライトはLOL -lots of laugh-にあわせたサプライズ・ダンスと、あ、そうそうダニー・チューが彼女らの新しいDVDを紹介する埋め草もあったな。それから着席が終わるまでいくつかのBGMが続き、ミクはカメラ嫌いだから撮影しないでねっていう公演前の声明があったよ!
あらゆるすげーものが解き放たれる前のキャンペーンを始めたカローラミクのCMから、公演は始まった。Project Diva desuが始まると熱狂は目に見えるようになり、そしてワールドイズマインが続いた。安部潤の隣に座っていた新たな弦楽器部門はバンドへの素晴らしい追加になっていたけど、僕には弦楽器が多すぎるように感じられた。半分に減らしてもそこから必要な力強さを引き出すことはできたんじゃないかな。ケミカルライトはリズムに合わせてはためき、20列目以降と2階席の全員は立ち上がって曲ごとに喝采していた。12種類あった新しいコスチュームごとに歓声はさらに大きくなった。最後は声をそろえてアンコールを叫ぶのにも疲れのどを嗄らしていたにもかかわらず、誰もが自分の意見を述べ、そして実際に彼女は戻ってきて、さらに愛言葉とハジメテノオトを含む3曲を歌った。それは決して忘れられない体験だった。僕の描写がイベント全体をほとんど取り上げていないことには気づいているけど、でも僕は他にも色々話したがっている多くのコンサートに参加したVocaloidism関係者のためにも短くまとめたかったんだ。
ボーカロイド・ファン現象……は酷い落胆をもたらした。あの東方の霊夢コスプレをしたヤツが誰なのか、彼がボーカロイド関連で一般的に何をしたのか僕は知らないんだが、2つの点は明らかだ。1. 誰もがヤツが女の子だと騙されていた。罠王国における罠の中の罠に嵌っている状態だ。2. これは公式パネルじゃなく、一人の人間の見解に過ぎなかった。僕は30秒と残らずに立ち去った。実際にこのパネルに残り、何があったのか僕に話してくれる人はいるかい?
僕はその後でしばしホールを歩き、ミクノポリスのブースを再び通り過ぎた時、ハチとWowakaがサインしているのに気づいた。不幸なことにタイミングが悪く、彼らは仕事を終えて荷物をまとめる2分前だったうえに、僕は彼らのためのペンも持ち合わせていなかった。Vocaloidism関係者の何人かはどうにかサインをもらえたようだ。ラッキーだよな。
それはそれとして、Mirai no Neiro:未来の音色はコンベンションの中で圧倒的に得るところのあったパネルだった。この3時間のパネルは驚くべきことに行列すらほとんどなく、入場するためバッジをスキャンする入り口のところで籤さえ配っていた。Mirai no Neiroがアニメ・エキスポで開催されるのはどうやら2回目。去年はもっと短かったそうで、従って彼らはまず同じことをやった。ミク、リン、及びレンのレイヤーが現れ、キャラたちが「今日ここで開かれている技術会議に挑戦する」場面を演じていた。後に知ったところによれば彼らは実際はその場にいたコンベンション参加者で、キャラとして脚本を演じるように頼まれたのだという。彼らは脚本にかなりたくさんの疑問を持っているように思えた。それはそれとして、そこにいたのは僕が見た中で最も華やかなリンだった
パネルの前半は何人からのアーティストと作曲家による様々なPVの上映、及びアニメ・エキスポのファンに対する彼らのメッセージの紹介だった。中にはインターネットのどこにもまだ投稿されていないワールドプレミア動画、例えばまさたかPのデビュー作であるストロボナイツのMMD-PV[ママ、ストロボラストの間違い]、かごめPの国際的に安全なinnocent girl(社会人が巨大なパンダのぬいぐるみになっている、そう、これなら問題ない)、さらに完成していない悪の娘/召使とワールドイズマインのアニメ版(後者はある意味卑猥だった)などがあった。
http://www.youtube.com/watch?v=ri-M9O6h1pg
後半はゲストのボカロPたち、PENGUINS PROJECT、すんzりヴぇrP、そしてZANEEDS(piperP[ママ、パイパンPの間違い])が紹介された。皆アメリカ向けに紹介する新しいワールドプレミア動画を持ってきていた。それぞれガラパゴス(リツカ客演)、退屈なボウリング、そして社会主義/社会主義★だーりんっだ。どれも聴衆から大きな反応を引き起こしていた。時には愉快に爆笑しながら、でも誰もが称賛と伴に作品の真価を認めていた。もう一人のサプライズゲストはアーティスト・アレイ[アニメ・エキスポ内の同人誌即売会場]にブースを持っているアーティストでパネルのイントロ動画を描いた女性だが、とても恥ずかしがりやで顔は見せなかったな。最後にボーカロイドエンジンそのものの製作者がサプライズゲストとしてYAMAHAからやって来て、どのようにエンジンが機能するかをその場で実演し、おまけにSweetAnnにハッピーバースデーを歌わせていた。パネルの中でも一番楽しかった場面で、多分もっと多くのボカロPをゲストに招いたうえで来年も見てみたいと思ったよ。僕は自分のインプットカードにSamfreeとDeco*27の名前を入れたから、他の連中も同じことをしていれば彼らは来年招待されるんじゃないかな。わかんないけど。
http://www.youtube.com/watch?v=t4EH535hR8g
http://www.youtube.com/watch?v=jM2d5rW42Mo
全体として素晴らしい体験で、参加したことに満足している。コンベンションにおけるダニー・チューの存在は称賛より損害に値すると思うけど、ボーカロイドファンの関心を惹きつける沢山のものがあって、全部ひっくるめて余分な2日間を過ごすことができた。展示ホールとアーティスト・アレイのばかでかさにも触れなかったな。これらの時間をまた思い出すとしよう。世界中のボーカロイドファンには、僕らの愛する業界がますます盛況を迎えていることを知ってもらい、安眠してほしいね。
+++++勝手翻訳終了+++++
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクLAライブ、外国人感想その2「再生の約束」フリーダム訳
http://anond.hatelabo.jp/20110708223459
初音ミクLAライブ、外国人感想その3「ミクノポリスのボカレタリアートたちよ、団結せよ!」
http://anond.hatelabo.jp/20110709211718
初音ミクLAライブ、外国人感想その4「仮想の歌姫:初音ミクの人気と未来の音色」
http://anond.hatelabo.jp/20110710234300
初音ミクLAライブ、外国人感想その5「オレはAXには行ってないけど、まあとにかく……」
http://anond.hatelabo.jp/20110711212701
初音ミクLAライブ、外国人感想その6「ミクノポリス:7月のクリスマスと世界征服」
http://anond.hatelabo.jp/20110712205546
初音ミクLAライブ、外国人感想その7「AX11:ミクノポリスの印象」
http://anond.hatelabo.jp/20110713211501
初音ミクLAライブ、外国人感想その8「ミクノポリス:コンサート・リポート」
http://anond.hatelabo.jp/20110714210122
初音ミクLAライブ、外国人感想その9「アニメ・エキスポ:初音ミク」
http://anond.hatelabo.jp/20110715222900
初音ミクLAライブ、外国人感想その10「アニメ・エキスポ2011(抄訳)」
http://anond.hatelabo.jp/20110716194029
初音ミクLAライブ、外国人感想その11「世界は彼女のもの:初音ミクはいかにして全てを変えたのか」
http://anond.hatelabo.jp/20110717201147
初音ミクLAライブ、外国人感想その13「ミク:日本のヴァーチャル・アイドルとメディア・プラットフォーム」
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミク現象の持つCGM的側面については、外国人の感想でもしばしば言及されている。しかし、ワールドイズマインならぬWorld is Hers(世界は彼女のもの)と題された以下の感想ほど、このテーマを正面から丁寧に描いたものはない。CGMこそ「クリプトンが世界にもたらした最大の贈り物」との指摘はとても重要だろう。伊藤社長が主役を演じる世にも珍しい感想、という面からも一読の価値はある。
urlは以下の通り。
伊藤博之は自ら説明しようとしていた。
「ヴァーチャル・アイドル」初音ミクを生み出した企業、クリプトン・フューチャー・メディアのCEOとして、伊藤は人で溢れる大衆文化のバンドワゴンの運転席に座っている。そして誰もが興奮しすぎる前に、彼は人々にこのバンドワゴンが何であるか理解させたいと望んでいた。
「初音ミクは[一つの]ソフトウエアです」と彼は言う。「YAMAHAが開発したボーカロイド技術を使ったものです。[ボーカロイドは]歌声を作り出すエンジンで、我々はYAMAHAからその技術に基づく製品を開発するライセンスを得ました」
言い換えれば、ミクのファンであると公言することは、KorgのTritonキーボードあるいはフェンダー・ストラトキャスター・ギターのファンであるのと似ているのだ。君が応援するのは楽器――PCにインストールしなきゃならないうえに箱にはアニメ風のイラストが描かれているが、でもやはりそれは楽器だ。おまけにボーカロイドというブランドネーム自体はミクや彼女の華やかな友人たちに帰するものというより、むしろ彼らを動かす音声合成エンジンを指している。文字通りに取れば、「ボーカロイドのファン」であるとは、特定ブランドのギター弦のファンであるのと同じである。
だが誰がそんな言葉遊びを気にするだろうか? どんな新興サブカルチャーでも、言葉に独自の意味が付きまとうのは普通である。今日では「ボーカロイド」はそのイノベーションから花開いた仮想世界全体を示す言葉となっている。ボーカロイドとは作曲家がそのソフトを使って自宅スタジオで作り出した無限のレパートリーを持つ曲のことである。ボーカロイドとはそれぞれの曲に対応する画像と動画のギャラリーである。ボーカロイドとはそれらの画像から生まれたあらゆるミームや粗筋である。ボーカロイドとはそれぞれ特有のボイスバンクを象徴するキャラクター群のことである。そして誰であれアニメ・エキスポに参加した者ならこう言うだろう。ボーカロイドとはそれらキャラのあらゆるバリエーションを含む姿にドレスアップしたファン層である。
これこそがクリプトンのマーケディング・ディレクター、佐々木渉すらも驚かせた口コミ波及効果だ。彼は「ユーチューブやニコニコのような動画シェアサイトを通じて[ボーカロイドが]利用されるやり方」に驚いたと話す。「これらのサイトを使って、本当に口コミで仲間の間に広がっていきます。本当に過去に例を見ない[方法で]様々な国で人気を得ています」。つまり、本流エンターテインメントの大半が今なお企業の重苦しい手によって運営されている一方、自力推進型であるボーカロイドの本質はあらゆるものをひっくり返したのだ。
「ある意味、こんな現象相手に取り組む最良の手法を見つけるためもがき続けてきました」と佐々木は話す。「ファンからのフィードバックを得るのが最良だと我々は信じてきました……いかに物事に対処するか、ファン層にとって最もよいことのためにどうするかを。急いで金儲けしようとは思っていません」
クリプトンは、当時まだMP3ですら未発達の技術であり、ユーチューブ誕生に10年も先行し、そしてあらゆるものを可愛いアニメ少女に擬人化するアイデアがまだ急増していない1995年に設立された。「我々の目的はそもそもボーカロイドを仕事にすることでも、[音声合成]ソフトを作ることでもありませんでした」と伊藤は話す。「クリプトンは音全般――音と関係するソフト全てを取り扱う企業として設立されました」
もし伊藤を冗談めかして「ミクのお父さん」と呼ぶのなら、彼女の祖父母は最初のボーカロイドエンジンを2003年に発表したYAMAHAの面々となるだろう。「そうした技術が存在することは知っていましたし、それを使って何かできることがあるんじゃないかと思っていました」と、伊藤は当時について話す。「我々は既にYAMAHAと係わり合いをもっていましたので、彼らと連絡を取りそこから製品を作り出すことができました」
だが、あたかも完成された合成音声で歌う天使の形でミクが天から降臨してきた訳ではない。彼女の根っこは、伊藤の説明によればとても粗末な形式の音声技術にまで遡ることができる。「日本では[音声合成]ソフトは結構一般的で、例えば駅などで使われています。そこでは列車の到着がアナウンスされたり、あるいは[乗車している場合]駅名が呼ばれたりします。自動応答システムを使う電話はボーカロイドによって動いています」(想像してほしい、ミクの親戚の一人がカスタマーサービス用の電話回線で働く恐ろしいロボ電話であるという事実を)
「当初[合成された]歌声を使うソフトは存在しませんでした」と伊藤は続ける。「そうしたソフトにどの程度の需要があるのか、私には確信が持てませんでした。というか、はっきり言うなら、PCに歌わせることができるソフトを作るのにどんなメリットがあるのか分かりませんでした」
この疑念こそが伊藤に次の手を講じさせた――それは最終的にはクリプトンの歴史で最も賢い一手となった。「2004年、私は最初の[ボーカロイド]ソフト、Meikoを作り、それに漫画風のキャラを付けました。ある人格が歌う[のを真似る]ソフトは人間にとって必要不可欠なものではなかったから、そうしたのです。人々にアピールし人々から愛されるようになるためには人間味を持たせる必要があると考え、そのための最適な手段が漫画風キャラのようなものでした。このソフトは結構いい成功を収め、そしてもちろん初音ミクの構想へとつながりました」
そしてその次に起きたことは誰もが知っている。
おそらく伊藤博之が成功した秘密は、クリプトン創業者である彼が音楽、サウンドエンジニアではなく、ソフト開発者ですらなく、何よりビジネスパーソンだった点にあるのだろう。伊藤は、あなたはミュージシャンではないのかと質問されると笑い(彼はミュージシャンではない)、自身が経済を専攻したことを認めた。「音楽とは無関係です」と彼は言う。「ボーカロイドのマーケティングに成功するうえで、私は自分が学んだスキルのいくつかを使ったと思います」
アニメ・エキスポ1日目のキーノート講演で、初音ミクとボーカロイド・カルトについてスライドショーを使った改まったプレゼンを始める際に、伊藤はビジネスマンとしての本領を発揮した。彼はまず自分が誰で彼の企業が何をしているかについて慣例となっている概要報告を行い、それから公式にクリプトンが制作しているボーカロイド「キャラクター」(あるいは、厳密に正確さを期するならソフトウエア・パッケージというべきか)の一覧を示した。
2007年8月31日に生まれた永遠の16歳、初音ミクは、今ではショーの目玉に位置している。人気で彼女に次ぐのは鏡音の双子、リンとレンであり、彼ら独特の黄色い装飾と少年/少女のペアは、ミクの緑と灰色と同じくらいコスプレ業界では至る所で見かける。だが音楽制作者の視点から見ると最も用途の広い声は2009年の製品である巡音ルカのもので、より深い音域と日本語及び英語で「歌う」能力を誇っている。何人かのファンは昔ながらのMeikoとKaitoの旗を掲げている。その声は旧世代のボーカロイド技術の上に構築されているが、今なおクリプトン・ファミリーの中心メンバーである。
クリプトン以外のボーカロイド・キャラもサブカルチャーの世界に入ってきている。たとえば声優中島愛のボイスサンプルに基づき、マクロスFのランカ・リーをモデルとしたMegpoidや、J-rockのスーパースター、Gacktの声を使ったGackpoidなどがそうだ。より進取の気性に富んだ人々はUtauloid(日本語の言葉『歌う』から来ている)と呼ばれるオープンソースの音声合成エンジンまでも開発しており、その中で最も有名なのはピンクの巻き毛をした重音テトだ。
音楽ソフトウエア・パッケージについて、それがまるで本物の人間であるかのように語るのは最初は奇妙に感じられるだろう。しかし伊藤が最初に作り出した時に予想したように、それこそがこのソフトをかくも魅力的にしている正体なのだ。これらのキャラがもたらした創造性は、伊藤がプレゼンで誇らしげに見せびらかした数字によれば、ユーチューブで36万6000件、ニコニコで9万2600件に及ぶボーカロイド関連動画へと結実した。
そしてこの成長するメタ=ジャンルからあふれ出したマルチメディアコンテンツもある。クリプトンが運営するウェブサイトPiapro(『ピア・プロダクション』の省略形)には、ボーカロイドに触発された45万を超えるテキスト、音楽、及び画像の創作物がある。さらに注目に値するのはクリエーターたちがどのように相互に刺激しあっているかだ。コンテンツを共有するポリシーの下、あるPiaproユーザーが音楽を制作すれば、別の誰かがそれを聞いて付随するイラストを描き、さらに別の人がその構想に従って短いアニメ動画を作成する。そこでは、サイトのルールに従い創始者を適切にクレジットに載せることだけが重要だ。
何人かのボーカロイドファンはアートの世界の彼方まで行ってしまい、エンジニアリングの成果をもたらした。最もよく知られているのは3DアニメーションプログラムのMikuMikuDanceで、初音ミクのキャラクターモデルを――実際にはどんなキャラクターモデルでも――特定の歌に合わせてリップシンクし踊らせることができる。より繊細な対象を扱っているのがVocaListnerで、本物の人間の歌手によるインプットを分析し、ボーカロイドプログラムのセッティングを自動的にその声にあわせて調整する。思いつきに過ぎない想像の飛躍ですら現実化し得る。初音ミクの動画「Innocence」で取り上げられた「Ano Gakki」(『あの楽器』)というニックネームで呼ばれている奇妙な見かけのタッチパネル式キーボードも、実際に使える楽器として再現された(それほど野心的でないバージョンならスマホ用アプリとしてダウンロードできる)。
これら全てが意味しているのは、ほぼ完全にファンによって運行される賑やかで創造性に富む生態系が存在するということだ。究極的にはそれこそクリプトンが世界にもたらした最大の贈り物だろう。初音ミクやボーカロイド・ソフトそのものではなく、それらが使われる方法こそがそうなのだ。企業という大領主によってではなく、消費者によって作られた完全なエンターテインメント形式。企業は僅かな道具と規則を与えるだけで、後は椅子に深く腰掛けて次に何が起きるかを見守っている。
それでもなお、ボーカロイド体験を活気づけるため企業が提供するイベントは多数ある。今年はアニメ・エキスポが日本以外では初となる「ボーカロイドのライブ・コンサート」ミクノポリスのホストを務めた。それはステージ上の綺麗なスクリーンに投影するCGIアニメーションでしかない(ほかならない)が、いい視野角と健全な猜疑心の保留があればそのイリュージョンはなお印象的になる。さらに感動的なのは、セットリストにある全ての曲が明らかにファンの作ったもの――クリプトンの地下室であくせく働かされるソングライターが大量生産した製品ではなく、本物のミュージシャンがボーカロイドという媒体を通じて自らを表現したものである点だ。
だがコンサートはどのような限界が残されているかも暴露した。ミクの魔法は左右双方40度以上の角度では働かなくなった。調整の効かないボーカルは、時に楽器の生演奏の下で迷子になっていた。そして音声合成技術のあらゆるイノベーションをもってしても、より繊細な耳にはなおミクが絞め殺されるようなロボットじみた変な声をしているように感じられた。でも、日本では生身のアイドルについてどう言われていると思う? 「アイドルは不完全であってこそふさわしい」。不完全さこそがミクをこれほど魅力的にしている。誰もが進行中の仕事に関与できるからだ。
どんな未来があるか、誰に分かるだろう? クリプトンは既に英語版の初音ミク・ソフトが開発途上にあることを約束しているし、日本では新しい改良されたボーカロイド・エンジンが開発中だ。それはつまり、韓国語ですら歌えるボイスバンクを含んだ新たなキャラの登場を意味している。クリプトンのオリジナル・ボーカロイド製品は、その声に新たな音色をもたらす追加物「アペンド」によって進化を続けている。そしてどこかで我々の誰にも知られていないマッドな天才が、ボーカロイドの世界を永遠に変えてしまうようなアイデアにおそらく取り組んでいる。
多くの人が知っているように、「初音ミク」という名は「未来の最初の音」をもじったものだ。だがボーカロイド文化が広がるにつれ、この名前はますます不正確になっている。彼女はもはや未来の音ではない。彼女はまさに今の音である。
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクLAライブ、外国人感想その2「再生の約束」フリーダム訳
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初音ミクLAライブ、外国人感想その3「ミクノポリスのボカレタリアートたちよ、団結せよ!」
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初音ミクLAライブ、外国人感想その4「仮想の歌姫:初音ミクの人気と未来の音色」
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初音ミクLAライブ、外国人感想その5「オレはAXには行ってないけど、まあとにかく……」
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初音ミクLAライブ、外国人感想その6「ミクノポリス:7月のクリスマスと世界征服」
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初音ミクLAライブ、外国人感想その7「AX11:ミクノポリスの印象」
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初音ミクLAライブ、外国人感想その8「ミクノポリス:コンサート・リポート」
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初音ミクLAライブ、外国人感想その9「アニメ・エキスポ:初音ミク」
http://anond.hatelabo.jp/20110715222900
初音ミクLAライブ、外国人感想その10「アニメ・エキスポ2011(抄訳)」
http://anond.hatelabo.jp/20110716194029
初音ミクLAライブ、外国人感想その12「アニメ・エキスポ2011でのボーカロイド体験」
http://anond.hatelabo.jp/20110719031316
初音ミクLAライブ、外国人感想その13「ミク:日本のヴァーチャル・アイドルとメディア・プラットフォーム」
1年間で50kg体重が落ちたので書いてみる。
やったことは主に以下のこと
・軽く運動する
この三点を1年間続けることで50kg落として体重を標準域まで落とした。
まず一つ目、「朝起きて毎日体重を計る、記録する。」について。
これがおそらく一番重要だった。
ちまたでは炭水化物をあんまりとらない、赤みの肉は食べてもOK!、
運動は食事前に行うとか色々言われているんだけど、
これは人によって違うと思う。
その「人によって違う」を分析して自分がどんなモノを食べて、
どんな行動をとるとどう体重は増減するか、
それを分析するのがこの「朝起きて毎日体重を計る、記録する。」だ。
例えば自分はご飯を食べるより、パンを食べる方が体重は増えちゃうみたいだった。
あと運動は食事前に行うっていうのも自分にとってはよくなかった。
①夜運動する → その後ご飯を夜遅く食べる
②夜ご飯を食べる → その後運動する
だと②の方が自分的には効果的だった。
どの方法が「自分にとって」効果的であるか、を計るという意味でも
この「朝起きて毎日体重を計る、記録する。」がかなり効果的である。
そしてどんな風に対策を練るかを日々記録している体重を見ながら
考えることが一番大事だと思う。
一日どれくらい食べればいいのか?ということも知らなかった。
ので指標としてネットで調べてみたところ
一日1500kcal〜2000kcalくらいに押さえるとよいとのことだったので
とりあえずだいたいそれくらいを目指して食べる量を調節した。
守ることだけを考えた。
なぜなら、不健康なものを食べて痩せている人より
健康的なものを食べて太っている人の方がよっぽど不健康だと考えたからだ。
初期はこれでいいと思う。とりあえずカロリーを制限する。
情報をいくらでも仕入れてくる。
ある程度痩せてくるとそういう食事を絶対実践したくなる。
自分はそうだった。
僕はそれがとても嫌だった。
スーツで汗をかく、人に汗だくのところを見られる、
汗が体に張り付くのがとにかく嫌だった。
ので考えたのがこれ。
方法は簡単。
・腰を左右50回ずつ回す。
今思うと何これ?って感じなんだけどこれは有効だった。
そして人に見られる不安が無い。
一番よかったのは運動をするって習慣が身に付いたこと。
なのでこれを1ヶ月続けたあと深夜ウォーキングを始めた。
体重もするする落ちるようになったし。
要は何か始める仕組みを作ってみることである。
一回やってみると意外とできるものである。
以上三点勢いで書いた。
一番大事なのは
そして自分はどうすれば体重が落ちるかをきちんと把握することである。
勢いで書いたの足りないこととかあると思うので
誤字とか質問とかあればコメントに書いてくだされ。
とりあえずやってみよう!
以上。
タイトルの事は、ちまたでよく言われる話。
自分は、闇雲に知識をつけたくてただ本を読んだり、プログラミングの勉強したりと、
そんなフリーター生活を送っている。
正直なところ、いつまでもこんな生活が続くわけではないと思っている。
でもね、できないんだ。アウトプットが。
ネタが思いついても、ほとんど二番煎じ。だれかがやっていること。
それでもいいやと思って、いざ取り組んでみると、やる気が全く出ないし、何から手を出せばいいのかわからない始末。
そして、作業量がどれだけあるのかもわからないし、わかったとして、作業量の多さに嘆く日々。
完全に一致の作者は、ほんと凄いと思うよ。
ああいう必要なものがどれだけあるか、そういうものがわかるようになるにはどうすりゃいいんだ?
②数学は出来る
③英語は出来る
④どちらもできない
たったのこれだけだ。
①の生徒の多くは国立大へ進学するだろう。文理もあまり関係なく、好きな進路を選ぶ。②の生徒は高校の時点で理系へ進む。③の生徒は理系へ進むことはできなくとも、それなりの大学の文系学部へ進学する。問題は④の生徒だ。彼らが進学を希望する場合、レベルの低い大学に進学するか、あるいは受験科目数が少なく、ペーパーテスト以外の部分が評価の対象となる方法を選ぶことになる。すなわち、現在問題になっている公募推薦入試や、自己推薦入試、AO入試と呼ばれる入学試験に挑むことになる。この入試方法は早期に学生数を確保したいという大学側の思惑と、一般入試では合格することの難しい大学に進学できるという受験生の思惑が合致し、一見すれば双方にとって都合のよいシステムとなっている。しかしながらこの④の生徒を受け入れることは大学にとっても泥水を飲むことに等しいのもまた事実だ。そもそも学力が一般入試組と離れているため、講義についていけず不登校になったり、大学全体の悪い噂が広るなど、結果として大学全体のブランドを貶めることにもつながりかねない。もちろん、全てのAO入試がこのような経営側の視点によって実施され、不毛な結果を生んでいるわけではない。例えば私学でもトップクラスの大学であればAO入試は十分に機能するシステムだろう。もちろん、そのような大学のAO入試は④の学生では受からないようになってはいるが。ただ問題は日本中に山のようにある「それ以外」の大学なのだ。
ちょうど、
という記事が話題になっているが、④の学生を採るということは、このような事態を生む原因を作ることとほぼ同じ意味を持つ。少し考えてみて欲しい、英文を読む必要があるときあなたはどのような行動をとるだろうか。おそらく多くの人は文章全体にざっと目を通し、わからない単語や熟語を辞書で調べようとするだろう。しかし彼らは違う。その場でフリーズしてしまうのだ。英文を読むためにするべきことがそもそもインプットされていないので、どうすることもできない。そのため大学でそこから教える必要がある。
「大学はそのような人間の来るところではない」というのは至極全うな指摘だと思うが、既存の大学(特に一定レベル以下の)が生き残るにはもはや彼らを受け入れるしかない。この流れを止めることは誰にも出来ないだろう。
「俺はTwitterについてもう十分理解した」と満足して俺ルールを早々に決めてしまわないほうが、
将来もっとTwitterを楽しめる可能性を残すという意味で良いと思います。
俺ルールがないとやりにくいというのであれば、それはとりあえず自分の中だけにしておいて
他の人がどのように使っているのかを見ながらアップデートしていってみてはいかがでしょうか?
他人の使い方に興味がないというのであれば、
自分の使い方やTwitterの理解が狭いということを自覚出来るでしょう。
そうすれば「これは私個人のルールですがご理解お願いいたします」という謙虚な態度が取れることと思います。
少なくとも自分が正しくて、そうじゃない奴を批判しても良いということにはならないし、
自分の言ったとおりにしない人に説教したりブロック勧告を出す必要もないということはおわかりになるのでは?
私の興味はいろいろなジャンルにまたがるので、フォローしている人つまりインプットの経路は複数存在します。
ところがTwitterのアウトプットの口は基本的に1つしかないと思うのです。
そうすると、いい発言だからRTしたいなと思っても全体のバランスからRTしにくいことがあります。
そうすると、極端な例として私がHENTAI系に興味があってその手の発言で面白いものがあったとき
それを私のフォロワーの中のHENTAIアイコンの方と共有したいと思ってもそれ以外の人に気を使ってRTができないなと判断することがあります。