はてなキーワード: 知的障害者とは
地元には知的障害とか自閉症とか?の人達を集めてお仕事をしてもらう場所がある
知的障害者の社会復帰、というやつなんだろう、なんか作業をしてお給料を貰えるらしい
そして彼らは電車もしくはバスでその作業所まで毎日通勤している
すごく怖い
通勤は誰も見張ってないから、障害者は一人でバスor電車に乗る
バスの中で大声で叫んで踊り出したり、人の前に顔を近づけてケタケタ笑ったり
電車通勤でも駅に置いてあるペーパーを全部引っ張り出したり、ゴミを持ってきては窓口の人に押しつけたり
それでも普通にルーチンワークで仕事にはいけるようだが、毎回電車で鉢合わせると最悪な気分になる
田舎で電車の本数も少ないため、みなその知的障害者が乗っている電車に乗らないと1時間前とかになるから渋々乗っている
知的障害者の社会復帰はいいことだと思うし、多分仕事に行っている間は家族の負担も減るんだろうけれど、これを毎日経験している電車の乗客はけっこう洒落にならない
特にバスの方が逃げ場がなくて最悪で、その知的障害者がバスにのってくるともう地獄だ。
中学生くらいの頃、知的障害者の弟が同じ電車で通学してて、よく分からないことを口走りながら目の前を通り過ぎていったときにこっちの友達が「なんだあれキモい」みたいなことを言ってて(もちろんそれが俺の弟だということは知らない)、何も言えずいたたまれない気持ちだったことを思い出した。
地元には知的障害とか自閉症とか?の人達を集めてお仕事をしてもらう場所がある
知的障害者の社会復帰、というやつなんだろう、なんか作業をしてお給料を貰えるらしい
そして彼らは電車もしくはバスでその作業所まで毎日通勤している
すごく怖い
通勤は誰も見張ってないから、障害者は一人でバスor電車に乗る
バスの中で大声で叫んで踊り出したり、人の前に顔を近づけてケタケタ笑ったり
電車通勤でも駅に置いてあるペーパーを全部引っ張り出したり、ゴミを持ってきては窓口の人に押しつけたり
それでも普通にルーチンワークで仕事にはいけるようだが、毎回電車で鉢合わせると最悪な気分になる
田舎で電車の本数も少ないため、みなその知的障害者が乗っている電車に乗らないと1時間前とかになるから渋々乗っている
知的障害者の社会復帰はいいことだと思うし、多分仕事に行っている間は家族の負担も減るんだろうけれど、これを毎日経験している電車の乗客はけっこう洒落にならない
特にバスの方が逃げ場がなくて最悪で、その知的障害者がバスにのってくるともう地獄だ。
たった一人二人の知的障害者のせいで、どうしてここまで他の人達が萎縮して、通勤方法を変えたりしなければならないのか
あっちの都合も分かるけどけっこうしんどいし、障害者に優しくなれない
ブコメもらってたので
我慢するべきじゃない? という声があったが、そうです。みんな我慢してるよここに吐き出してるだけ
田舎なのでいつも乗る電車orバスは顔見知りもいるが、みな顔を背けて我慢してる
とくに電車が遅延とかでギュウギュウになると、隣の車両にも逃げられず知的障害者がパニックを起こして暴れるのでもう…
殴られたりするわけじゃないけどやっぱりなんとなく怖い
各地からその知的障害者の作業場所へ人が集まるので同じ時間帯に複数の知的障害者が駅やバス停に現れる
俺たちは電車に乗ってる間に耐えればいいが、駅員さんは駅の備品を持って電車に乗ろうとする障害者を走って追っかけたりとか、もう可哀想だ…
一次あまりに酷すぎる行動を起こしていた知的障害者がいて、さすがにまずくなったのか、駅まで家族?だかが連れてきていた
家族がいる間はいい。でも家族は駅で改札の前で障害者を見送るだけだ
電車の中に入るとまたアババババってなるのでもう…でも家族の人も毎日職場まで送り迎えなんてできないよなあ、って思うので仕方ないんだろう
それはどうもありがとう。知的障害者のいる世帯はたしか0.4%くらいなので他の奴かもしれないけど、たまに書いてはいるから俺のことかもしれない。
俺は小学校のスローガンみたいな綺麗事ではない部分で話をしたいだけなのに、それを超えた重さになるとみんな引いちゃうんだよな。
社会のために云々とか生物としての義務が云々とか言う人に「兄弟が知的障害者なんだよね」と言うと黙るのをやめろと言いたい。子供を持つべきと主張するならそのくらいのことは当たり前に想像した上でそれを薙ぎ倒すロジックを作って主張してきて欲しいんだよこっちは。
1 捕.ホロコースト否定論
2 一.江戸しぐさ
7 二.アジア解放
9 投.白人至上主義
控え
・日ユダヤ同祖論
ホロコーストはねつ造であるという言わずと知れた世界的に有名なトンデモ論。ちなみに国によっては否定するとこの論を唱えると逮捕されるので要注意。できれば他のトンデモ説もこれと同様に法律で取り締まってもらいたいものである。
江戸時代には傘かしげ(傘を指したまますれ違うときには傘を傾ける)、時泥棒(アポなし訪問、約束の5分前に到着しなければ死罪)などのマナーが普及していたが、明治政府の虐殺により失われてしまったというトンデモ論。これの恐ろしいところは小学校の道徳の教科書で取り上げられたり、ACのCMで放送されたことである。
南京大虐殺はねつ造であるというトンデモ論。犠牲者の数については意見が分かれているが、虐殺そのものがあったことは否定できない。しかし、自称愛国者達の間で固く信じられている。愛国者であるなら、正しい歴史を学んで国の恥を晒すようなまねは止めて頂きたい者である
原爆は戦争の早期終結のために不可欠だったというトンデモ論。原爆投下はソ連への威嚇のための人体実験であり、決して正当化できるものではないのだが、アメリカ人達の間では広く信じられ、学校の歴史教科書でも取り上げられている。日本人でも信じている輩がいる
アイヌ民族はいない、もしくは先住民ではないとするトンデモ論。アイヌの人々が日本による弾圧や差別によって苦しめられ続けた事実を無視し、現代でも差別の正当化に利用される非常に害悪な思想である。南京大虐殺否定、アジア解放と並びネトウヨの間で固く信じられている。
第二次世界大戦は悪の枢軸国と正義の連合国の戦いであるというトンデモ論。日本軍やナチスの残虐行為は決して擁護できるものではないが、原爆投下、ソ連抑留など連合国も信じられないような悪行を重ねており、単なる正義と悪の戦いではないことは明らかである。また、東京裁判、ニュルンベルク裁判は連合国の悪事に一切触れず、枢軸国だけを糾弾する、事後法で裁くなどの無茶苦茶なもので、その実態は裁判ではなく報復としかいえない。
太平洋戦争は東南アジアを欧米の植民地支配から解放するための正当な戦争であったというトンデモ論。無論、これは大義名分に過ぎない。白人の植民地支配が残忍であったのも事実だが、日本軍の残虐行為も許されて良いものではない。東南アジアの罪のない人々が数百万人犠牲になったこと、現地の人々が戦後自らの努力で独立を勝ち取ったという事実を無視しており、余りに無礼である。日本軍が独立に寄与したというのはあくまで結果論であり、現地の人々の思いを踏みにじってはいけない。そもそも、フィリピンに至っては近い将来に独立が約束されており、この大義名分は一切適応できない。
薩長はテロリストであるというトンデモ学説。歴史”評論家”原○伊○によって唱えられた。何事にも正と負の側面があるにも関わらず、「明治政府は100%悪!江戸幕府は100%正義!」と極端な善悪二元論で歴史を唱えるのは御法度である。
白人がアジア、アフリカ、新世界を植民地化できたのは白人が優れた民族であるからだというトンデモ論。長らく植民地支配や人種差別の正当化に利用された害悪な説で、今でも信じている輩が少なくない。歴史を全体的に見ればヨーロッパが覇権を握ったのは比較的新しく、その発展も中国、イスラムの繁栄があって初めて成り立つものであることは火を見るより明らかである。白人の覇権には地理的要因も多く絡んでおり、白人崇拝は偏狭な解釈であるというしかない。日本人でも右翼・左翼問わずこの論を受け入れている者が少なくなく、日本人は朝鮮人・中国人よりも白人の遺伝子を多く受け継いでいるという新たなトンデモ論を生んだ。
・日ユ同祖論
日本はユダヤ人の失われた支族であるというトンデモ論。明らかに嘘と分かるもので、フィクションとしては面白いのだが、まれに本気で信じている輩がいるので笑えない。
昭和天皇が自らの意志で積極的に日米開戦を推し進めたというトンデモ論。左翼の間で固く信じられている。確かに軍部の暴走を抑えられなかった天皇の罪は重い。しかし、僅かでも日本史の知識があるなら、天皇は日米開戦には反対であったとうことは分かるはずである。東條英機が首相に任命されたのもそのためである
大正時代が短いのは天皇が知的障害者であったからとするトンデモ論。大正天皇は病弱だったが、多くの漢詩を残す、朝鮮語の学習に努めるなど教養のある人物であり、決して知的障害者ではない。天皇をどうしても貶めたい左翼にねつ造された。
余談
最後にトンデモ本を見分ける方法を紹介したい。しかしながら、このやり方は完全ではないため、結局の所大切なのは、ものごとを多面的・批判的に判断し、すぐ「AはBである」と決めつけない慎重さである。またトンデモ論を信じ、発信してしまえばあなたも共犯者になってしまう。情報の受け入れだけでなく、発信の際にも慎重になろう。
・著者の経歴を確かめる
博士号はおろか、大学の歴史科学科すら卒業していない著者もいる。また、学術論文を雑誌に発表していない著者にも要注意である。更にプロの歴史学者にも専門外の分野に手を出すものがいるため気をつけるべきである
例外もあるが、”~のウソ”、”~の真実”、”~の陰謀”、”反日”などの扇情的な見出しには要注意。
・参考文献がない、もしくは一般書ばかり
・出版社を見る
講談社、岩波、中公は”比較的”信用できる”かもしれない”。百○尚○先生御用達の幻冬舎などの出版社には要注意。ただし、原○伊○の明治維新非難は講談社で出版されたものである。
どんな人々にも差別心を持つまいと心がけているし、万が一自分の心の中に差別の芽があってもそれを客観視でき、即座に否定する理性を備えている。
けっこう自信を持って自分のことをそう思っていた。
夜中の散歩をしていて、とある福祉施設の敷地にうっかり迷い込んでしまった。
小さな町くらいある巨大なその施設には、知的障害者が子供からおとなまで数百人住み暮らしている。
その敷地に迷い込んだと気づいた時にはもう、施設の真っ只中まで来てしまっていた。
夜中なのであたりは真っ暗で、街灯と建物の常夜灯だけが光っている。
夜道が怖かったことなどかつてなかったのだけれど、この時はなんだかとても怖ろしかった。早くここを抜け出したい。
「成人棟」と書かれた案内板を見た瞬間恐怖はピークに達し、恐怖の正体もはっきりした。
「俺の真横のこの建物の中に、おとなの姿をした何かがいる……」
ただただ怖かった。
私はそこに住み暮らす知的障害者たちがどのような人々でどのような生活をしているかを知らない。
収容者が今部屋を抜け出してきて、自分が立っているこの暗い夜道で鉢合わせしたら、と考えると恐怖で身がすくんだ。
私がうっかり迷い込んでしまったくらいなので、敷地はオープンである。
知的障害者が町にさまよい出たりしては大変なので、当然外出はできないであろう。居住棟はきっと固く施錠されているはずだ。
そんな風に考えて恐怖で駆け出したい衝動をどうにか抑え、落ち着いて敷地を抜け出た。
同じ人間に対して本能的に名状しがたい恐怖を覚え、いっときとは言えそれを振り払えなかった。
これが差別心の芽でなくしてなんだろうか。
もちろん理性があればそんなものは打ち消すことができるけれど、そうするのに十分な理性を持たない人だっていると思う。
名状しがたい不安や恐怖を自らの理性で打ち消せない人々がたくさんいるということは、このコロナ禍でだいぶはっきりしたよね。
そういう人々が、「なんだかわからない人(外国人や障害者や病人)」に対して怖れを抱き、その恐怖をそのまま差別エネルギーに変換して言動に移してしまう。
内心で反差別を気取っていた私もそのプロセスを途中までたどってしまった。
今でこそあの時の恐怖心は根拠のないものだったと胸を張って言えるけれど、反差別の精神なんて本能の前ではわりと蟷螂の斧なのだと思い知った。
そんな体験でした。
私は何者でもないただのお笑いファンで、適切なアウトプットの場を持たないので気持ちをここに記すことにする。
去年の空気階段のネタはすごく好きで、かたまりの笑いというものに対する哲学を強く感じられた。
一方で、2本目のネタが知的障害者を揶揄しているのではという声が聞こえてきたりもした。
彼らのネタをしている姿以外は知らないのだが、特にかたまりの方はネタに対して真摯に取り組んでいるのだろうなというのは感じていて、なので誰かをバカにするような意図はなかったのだと思う。
誰も傷つけない笑いなんてものが求められるポリコレの時代に、空気階段がどういうネタのチョイスをしてくるかとても興味深く見ていたのだが、彼らなりの時代への迎合の仕方だったのだろうなと思う。それだけタイトルにこだわっていたとも取れるが。
1本目は小峠もコメントしていたが、SMクラブでブリーフ姿でイスに縛られている状態から始まり、まさかの下ネタ一切なしで、ひたすらかっこいい男を演じることでズレを生み出し、笑いを生んでいた。
根本は去年の2本目と同じなのだと思うが、観客としてはより純粋に彼らの活躍を応援できるよう気を配られたネタだったように思う。
2本目もまた、根が真面目なおじさんが自身が子どもの頃に描いたマンガのコンセプトカフェを開いてしまったという、もぐらのキャラクターを活かしながらも誰もバカにしないコメディになっていた。
1本目はかっこいい姿を見せて応援したくなるような、2本目はだんだんおじさんがかわいく見えてくるような、そういう観客を味方につけるチョイスだったのだと思う。
それでも私は去年の2本目、定時制高校に通う障害者とも取られかねない言動の男性の恋愛もまた、同様に愛おしく感じ応援できることが本当の倫理観なのではないかと、一年経っても思ってしまうのだが。
とにかくおめでとう。2本とも素敵でした。