はてなキーワード: 化石燃料とは
身近にあるものが無くなる未来を想像してみよう、それがイノベーションだ、
講演者が投げかけた質問に、「自動車が完全自動化」とか絶対嫌だと思って必死に考えた妄想。
……徐々に信号'機'は廃止されていく。
その理由として、遺伝子操作された街路樹、通称クリスマスツリーの普及と
the Internet of Biologyの技術的実用化、人口減少による社会インフラコストの削減があげられる。
あらゆる生物に組み込まれることになる。
その中の一つ、最も早く作成された蛍光樹は単に観賞用にとどまらず、
かつて化石燃料を消費することで点灯した照明の代替として、あらゆるところで普及することになった。
街灯用街路樹としても使われていた蛍光樹だが、信号樹として使用されるまでは、依然長い道のりと解決すべき複数の問題があった。
その一つ、蛍光樹を信号樹として導入しようと検討を始めた当初より課題に挙げられていたのが複数本の同期制御である。
植樹された周囲の自動感圧機能を持たせた蛍光樹は、人通りの少ないところや道が交差しない特殊な条件下では
その任を十分に役に立てたものの、依然通行量の多い都市外郭の主脈交通路などでは
中央制御方式による信号機の制御を行っており、外部制御がしづらい蛍光樹による代替化は長らく行われていなかった。
ところが、ある技術革新により状況は打開されることになる。
The Internet of Biology(IoB)である。
狭義では、有機的結合による相互情報交換の技術コアと関連特許群を、
広義では、21世紀初頭に流行したThe Internet of Things(IoT)を生物で再定義した概念を指す。
前述のIoTの時代より概念上はその派生として普及の可能性が予測されていたものの、
エジソンの再来とも言われるとあるGE所属研究者に端を発する技術革新連鎖により半世紀を経て日の目を見た技術である。
蛍光樹の登場から、IoBの実用化に至るまでは三十年の月日を要したが、
IoBの実用化から、信号樹に応用されるまでは二年とかかっていない。
当初は信号機を制御していた既存インフラと蛍光樹の情報結合による信号機の単なる代替だったものの、
環境問題の深刻化によりアスファルトの非舗装化及び緑化が進行した際にその一部に情報通信路の機能が組み込まれたことから、
やがては蛍光樹と蛍光樹とを舗草により情報共有させる完全な有機的ネットワークとして、有輪用車両の交通網は完成するに至る。
当時の遺伝子操作技術への過信と熱狂は、やがて緑の党とBig Biotherの台頭を許すことになり、
彼らにより作り出された、長い夕凪の時代において蛍光樹は原初の道を留めたまま、そこで輝き続けるのであった。
ヨコハマ買い出し紀行大好き。
なにやら風評被害というものが、一部の扇動者の空虚な妄想による破壊行為であるかのような論調が目立つ。
かくなる無知蒙昧は、科学的真実の剣にて一刀両断できると信じているのだろうか。
政府の出した復興予算には、風評被害への補償がきちんと組まれている。
かく言う俺もその一人。
そして、厳然たる事実として、さっぱり売れない。
多くの人は、ある程度わかっているんだろう。その食品はきちんとした検査を経て、ある程度の安全が担保されたものであることを。
しかし、好んで買おうとは、思わない。
なんだか気持ちが悪いから。
福島産の野菜を好んで買う人であっても、チェルノブイリ産の大根も、スリーマイル産のアジフライも、好んで買うような酔狂な人はいないでしょう。
もう世界のマーケットでは、福島県の産品は、殆ど全て競争力が無い。
それは日本国内においても、そうなんだろうし、人々にその記憶がある限り、それはずっと続く。
それが風評被害であり、それらは(その人の信じたい)科学的なデータの裏付けを以ってしても、それを解決することはできない。
俺は原発に対する賛否を問われるならば、安い方がいいんじゃないのか、ぐらいの考えでしかない。
これはあまり意味のあるデータでは無いかもしれないが、一説には、原発一基あたり2千年に一度の確率で、重大事故が起こるらしい。
数百万年に一度とする(電力会社による)データもあれば、300年に一度とする(民間損保会社)データもあるが、概ね二千年に一度と見ていいだろう。
日本に50基ほどあるわけだから、40年に一度の確率で原子の釜が割れるというペースになり、現時点ではそれほど大きな乖離はない。
現在、化石燃料による発電で、燃料費が年間3.6兆円ほど費用が嵩んでいる。
対して、原発事故の処理には、その試算にもよるが、現在までに12兆円、以後廃炉までの数十年の間に年2兆円ぐらいが費やされるという。
今回のフェーズが終わった後の40年のサイクルで見た場合の、単純な損金の比較では、五十歩百歩といったところだろうか。
無論、今後、原発の技術が進み、放射能汚染の浄化技術も効率化することだろう。
また、化石燃料に依存していては、二酸化炭素削減の国際社会の趨勢に伴い、立場が危うくなることも予想される。
そして最も大事なのが、日本のエネルギーを海外からの輸入に依存するとなれば、戦略上非常によろしくない。
それら国家戦略上の潜在的なリスクは、お金に簡単に換算できるものではない。
当然、原発を存続させる事によるリスクは現在進行形で進んでおり、それは一々挙げ連ねることが億劫なほど大量にして雑多な、今現在向き合っている問題であり、今後さらなる問題が噴出するんだろう。
それもまた、結構な0か1かの議論だな。
そもそも論として、原発の放射能は駄目だが、二酸化炭素の排出やシエールガスの採掘による地層の汚染はOK、なんていう気はない。
原発を議論するなら
化石燃料の話や・二酸化炭素、自然エネルギーへの投資、シエールガス採掘に伴うデメリット、投資効果、多角的に見なきゃいけないことは明らかだし
化石燃料だって、ごくまれに、タンカーで事故が起きて海洋汚染してるし。
そもそも、原発は人災だし。人災によっておきた問題は体制的な問題で、地盤とか地震とか言う前に、組織改編だろ
送発電の分離の話はどこ行った(やってるけど)という全うなことが言われてないし
どこをどうとったら0や1になるのか逆にわからん。
電力の素晴らしいところは、発電のソースを色々選択できるところにあるんだね。
今は火力と原子力がメインだろうけど、太陽光や地熱などのクリーンなソースを選ぶこともできるんだ。
メタンハイドレートは、それを燃やしてエンジンを回すことはもちろんできる。だけど重力や波力でエンジンを回すことはできない。
電力はそれができるんだ。
そして化石燃料に解決できない様々なエネルギーに関する問題も、技術の進歩でもしかしたら解決できる日が来るかも知れないし、それは電力に依ってというのが一番現実的。
それは間違いないんだよ。
電気も火力でやったら二酸化炭素が出るわけだから環境に良いわけではない、というのはいいけど、直接比べられるものでもないからね。
別に機関の違いとかその効率とかそういうのの以前に、そもそも使ってる燃料が全く別なんです。
使うとして重油。
ガソリンとか石油とかも同じ原油から一緒に作られるわけね。分離されるわけ。
なので、それぞれで燃料に対する効率、っていうのなら、元の原油に対するものなのか、それとも二酸化炭素排出量に対してのものなのか
燃料消費だけで考えるなら、火力発電するに重油使うとして、ほかでも石油使うとすると、ガソリンってのも自動的にできるから、
それ全く使わないと無駄に残り続けるんだけどね。
あと、そもそも火力発電て天然ガスのが多い、ってこともあるんだけど。
http://anond.hatelabo.jp/20140114152416
http://anond.hatelabo.jp/20140114152854
なんか、この人達も偉そうなこというくらいならもうちょっと調べればいいのに。
最新の発電所のタービンとガソリンエンジンとの効率差、エンジンとモーターの動力としての効率差などから
これこそどこの試算だよ。おそらく、元ネタがあるとしたら燃料自体についての言及もあるだろうし、それ考慮済での排出量の違いとかだろうけど。
内容理解しないままドヤ顔とは。
http://anond.hatelabo.jp/20140114151838
しかし考えてみろ。
電車は 発電所で化石燃料を燃焼→電気エネルギー→運動エネルギー に変わっているだけだ。
3ステップ必要な後者のほうが効率が悪いのは明らかで、結局発電所で多くのCO2などが排出されている。
今では原発の稼働率が下がって電車の排出するCO2は実質的に上昇しているが、
そもそも、原発から排出される放射性廃棄物なぞCO2とは比べ物にならないほどろくでもないものだ。
火力にせよ原子力にせよ、エネルギー資源の転換が必要なのは明らかで、
では人類がこのエネルギー問題を乗り越えられたと仮定して、その先に電車の有用性はあるかということを考えよう。
例えばの話だが、メタンハイドレートが実用的な資源になったとして、発電などに使われるようになったとしよう。
だが、だったら最初からメタンハイドレートで動く汽車を作ればいいじゃないか。
以上より、このような結論にいたらざるを得ない。
電車は将来にわたってクソ
旧来の自動車は 化石燃料を燃焼→運動エネルギー だったものが
ではない。
ケースバイケースではあるが、より小さいスペースの自動車内での小規模の”爆発”による内燃機関よりも
より大規模なタービンなどをを使った”発電”の方が 効率が良い場合も多い
いわゆる 発電機関の 大きさが違う。
しかし考えてみろ。
旧来の自動車は 化石燃料を燃焼→運動エネルギー だったものが
電気自動車は 発電所で化石燃料を燃焼→電気エネルギー→運動エネルギー に変わっているだけだ。
3ステップ必要な後者のほうが効率が悪いのは明らかで、結局発電所で多くのCO2などが排出されている。
それでも電気自動車が環境にやさしいと喧伝されてきたのはなぜか?
今では原発の稼働率が下がって電気自動車の排出するCO2は実質的に上昇しているが、
そもそも、原発から排出される放射性廃棄物なぞCO2とは比べ物にならないほどろくでもないものだ。
火力にせよ原子力にせよ、エネルギー資源の転換が必要なのは明らかで、
では人類がこのエネルギー問題を乗り越えられたと仮定して、その先に電気自動車の有用性はあるかということを考えよう。
例えばの話だが、メタンハイドレートが実用的な資源になったとして、発電などに使われるようになったとしよう。
だが、だったら最初からメタンハイドレートで動く自動車を作ればいいじゃないか。
以上より、このような結論にいたらざるを得ない。
電気自動車は将来にわたってクソ
http://zuisho.hatenadiary.jp/entry/2013/10/18/141915
読んだ。面白かった。冒頭かなりエコに対して正しくあろうと配慮した記述が続くんだけど、すごく惜しくてモヤモヤしたので思わず書く
おばあさんが松とココヤシをブレンドした天然由来の洗剤で洗濯をしておりますと、大きな無農薬の桃がドンブラコとも言わず無音で流れてきたのでおばあさん以外の近隣住民は何一つ不快な思いをしませんでした。
おばあさんの使ってる洗剤ってたぶん違うと思う。
これ書いてる人、ホントに「芝刈」だと思ってるのかな。思ってるんだろうなあ。
だってこれ「柴狩り」だと知ってたら、こんだけ話広げられる人ならエコに絡めないはずないよね
柴狩りは主に燃料用の枯れ枝を集める行為だけど、もう少し広めに日用の材木の調達も含むかもしれない
昔は炊事、風呂、暖房、全部薪を燃やしてまかなっていたので結構量がいるし
拾った柴を乾燥させてサイズを揃えて燃料用の薪に仕上げるのは手間がかかる
この「柴狩り」の実態がイマイチ伝わらずに、洗濯しているおばあさんに比べて
おじいさんは山で遊びほうけていると理不尽にDisられているのを見るのは心が痛い
ただ、おじいさんもおばあさんも柴狩りと洗濯では生産活動に一切従事していないので
どうやって日々の糧を手に入れていたのかについては既に色々な説があるだろう
個人的には、山の世話や薪の対価に隣人から食料を貰っていた説だと思ってる
「正しい」納税ゼロ生活も可能だと思われるので、その辺は詳しい方が
シミュレートしてくれたら読みたいところです
さて、つまり「柴狩り」とはエネルギー調達行為であり、それは「エコ」なのだろうか。
木材の燃焼はCO2排出はもちろん、煤や有毒ガスも出るので一見エコとは程遠いが
有限の化石燃料や、放射性物質から電気を作り消費することと比べて
山林保全の立場も絡めればそれなりに多様な論点のあるトピックだと思う
その辺りを現代的価値観から「正しく」配慮した記述があれば個人的に面白かったねという話
自分がその辺「正しい柴狩り」が書ければいいんだけど、ごめんね
あ、忘れてた。おばあさんの洗剤
たぶん、薪を燃やした灰汁とか米糠とか使ってたんじゃないかなあ
単純なコスト計算だけじゃなくて、化石燃料に限りがあるってことはもっと恐ろしいことだと思うんだけど、
その辺、全く議論すらされてないよね。
太陽や地球活動の熱から充分なエネルギーが取り出せる様になるならはっきり言ってコストが多少掛かっても良いと思うんだ。
でも、それじゃ無理だから結局火力発電に頼る、化石燃料に頼る、いずれ尽きる。
エネルギー消費量なんてどんどん増えてくから、今予測してるのよりも余程早く終わりが来るっしょ。
勿論、まだ見つかってない燃料分もあるとは思うけど、ある程度まで消費量が進んだらあっという間だと思う。
未だに低い燃料算出コストの差額を原資に
燃料輸出以外の産業育成に余念がない。
当然ながら経済発展に伴い産出燃料の自国消費分が増加し、
サウジアラビアなどは試算しているという。
そうするとどうなる。アホウでもわかるな。
北米のシェールガスをタンカーに積んで日本に輸出できる施設ができる頃には、
ヤツらの化石燃料自国消費分も随分と増えているだろう。
燃料価格のさらなる高騰を先延ばしにするのに最も有効な手段は、
つまり、原発大国である日本が止まってる原発をガンガン焚いて、
「原発あるのに使わない」は
5年後になって、「あの時くだらない言い訳ばかり言わずに働いとけばよかった」
ヤツらはもう米英の言いなりじゃないってことなんだよ。
なるほど。電動機側のトルクカーブというか馬力カーブ(出力曲線)が化石燃料側と合っていないのか。
それは、ハイブリットの問題ではなく、EV側の設計思想の問題だね。
おそらく、バイリニアに電動機の回転数をアクセルに直結してるんだろうけど、それが間違いで、アクセルを踏まれた時の回転数の引き上げにトルクカーブの逆関数?を掛けあわせろって事なんだろうね。
電動と化石で出力カーブが違っているのを放置しているからそんなことになってるんだね。
別段、電動機側の回転制御に、トルクカーブの逆関数?を掛けあわせても燃費に影響はしないと思うんだが・・・なぜそんな制御に?
時速100km/hもだすなら問題だろうけど、一般道ぐらいの速度でそこ(トルク制御をしないこと)って問題になるんだろうか?
コメントありがとうございます。駄文に付き合ってくれてありがとうございます。
私が「ずれた」と言っている「インテリ」というのは、要は人間の現在の社会を維持しようとするあまり、自分たちが立っている場所の変遷を考えるのを忘れているのでは?と思う人たちとのことです。長い歴史的スパン、生物進化的スパンでものを考えても良いのでは、と思うのです。生物進化は物質を自分の思う通りに支配できるように生物が努力した歴史です。物質は一定の法則に従って必ず同じ動きをしますが、そこに入り込むようにして、生物は発展した。鳥が空を飛んだり、魚が泳ぐのは彼らの努力の結果です。ある抵抗を自分のものとして、生物は発展してきました。原子力や化石燃料が自然にないという風に私は一言も言っていません。ただ、それらを他の動物のように支配できるほど人間は完璧なのかということです。安全安全と言われて、事故は起きました。人間が人間である限りヒューマンエラーは起きると思います。鳥は飛べなくなれば、自身が死ねば良いですが、原発がこれから今以上の被害が広がったときに人間が責任を取れるのかという話です。
また、僕が批判した人たちのことも、その言葉だけ聞けばけっして間違ってはいません。病気の人が死なないですむなら良いに決まっているし、それを電気が支えても何も間違っていない。そんなレベルで僕も彼らを批判している訳ではない。だが、何十年、何百年住めない土地を作っているという前提、そのようなエネルギーでしかこの文化的な生活は保てないということぐらいは知っておかなければならないと思うのです。自然のサイクルでは処理しきれないエネルギーを自分たちが作っていることには誰も何も言わない。なんででしょう。単純にそれは今の生活を捨てたくないからではないでしょうか。新しい生活を作って行く努力をするのがいやだからではないでしょうか。かくいう私もそのようなエネルギーを享受しまくりですが、その異常さには気をつけておきたいと思っています。そういう意味で論点がずれているのではないかと言ったのです。
それから、個人的な僕の思考能力を批判するのはいいのですが、基本的にそれは議論に繋がるものにはならないと思いますよ。僕の頭がファンタジーなのはあり得る話ですが、それがどのような生産性に繋がるのでしょうか。
論の要素には同意なのだが、そこを問題視するなら俺は原発なんて瑣末な問題だと思う。
まあ今生きてる人間は、関係ないと思えるのかもしれないけどな。
その命が電気によって(当然、電気だけではない。水やガスといった他のあらゆるインフラによって)支えられているということを、元増田のような一部の反原発派は理解できないか、理解しようとしない。
実にずれたところで話が交わされていると思わないのは私だけであろうか。
自分の注目している点以外は「ずれたところ」と言って、見ようとしない。
生物が利用できるエネルギーは、基本的に自然界にあるものだけである。
まず化石燃料がその欲望を支えた。
まるで化石燃料や原子力エネルギーが、自然界にはない、人工物であるかのような扱い。
もしくは、水力や太陽光が人工物を一切使用しない、自然の力のみを利用したものであるかのような扱い。
科学的な素養がない。あったとしても、自分の考えに都合が悪いからあえて考えない。
とにかく、ない、ない、ない。
彼らの頭の中にあるのは、ファンタジーだけ。
そしてそれを実現するために「私のファンタジーに賛同しない者が犠牲になれ」というエゴを通そうとする。
しばしば、沈黙は同意とみなされるため、我々は声を上げなければならない。
「そんなファンタジーには付き合えない」と。
坂本龍一の「たかが電気」発言でネットがにぎわっている。言うまでもなく、この「たかが」は「電気」にでなく、「(人間の命に比べた)電気」にかかっているということは彼の発言を実際に聞いた人にはわかるだろう。昨今の原発に関する議論の中でここまで当たり前な正論を言った人はいないのではないだろうか。「原発を止めると人が死ぬ」「原発を止めるのなら、代わりのエネルギー案を述べよ」。実にずれたところで話が交わされていると思わないのは私だけであろうか。彼らインテリはけっして責任をとらない。このまま第2、第3の事故が起こっても絶対に彼らは責任を取り得ない。取る気もさらさらないだろうが、取りえないとという前提にすら彼らはたたずに好き勝手にものを言う。
生物が利用できるエネルギーは、基本的に自然界にあるものだけである。太陽は昇って落ちない日はない。水は空と地の間を駆け巡り続ける。こういう物に植物は支えられて生き、動物はそれを食べて生きる。もしくはそのような動物を食べる動物がいる。これが生物をつつむ大きなサイクルである。半永久的な、私たち生命を育むエネルギーである。だが、この範囲を超えようとする生物が現れた。人間である。人は自分が食べれる以上のものが欲しい。あればあるだけ嬉しい。貨幣に換算して、できるだけ多く持っておきたい。もっと豊かな生活を送りたい。「近代的な富」が欲しい。そうして人は自然のサイクルをはみ出した。まず化石燃料がその欲望を支えた。化石燃料はいつか無くなる物である。このサイクルを超えては、永久的な生活の維持はできない。だが人はこの燃料に手を出した。だが、ここでやめておけばまだ良かったとも言える。なくなるだけですんだかもしれないから。悪いのは原子力エネルギーに手をだしてしまったことだ。100年程度しか生きれない人間が、「後世の人間がやってくれるだろう」「みんなでやればきっと管理できる」という無責任さで起こしたことがこれだ。私たちに補償されたエネルギーサイクルからとれるもの以上に欲しがればこのようなことが起こることは必然だろう。これは急進的な考えだろうか。私にはどうも当たり前なことに思えるのだが…。
原発推進派も反対派も結局共通しているのは、今の生活は維持したいということだろう。だが、言うまでもなく今の生活が自然サイクル以上の物を超えて行われているのだから、この生活は本来やめなければならないし、いつか終わる物なのだ。そのような自覚を一人一人が持たなければいけないのではないだろうか。これを少しはマシにするものがあるとすれば、太陽光、水力、風力のエネルギー開発だろう。だが、これもまだまだ今の生活を維持できるほどには発展していない。結局は、今の生活はいづれ終わるということ、本来生物は自然のエネルギーサイクルの限界を超えては生きれないということ、この前提に立ち返ることが必要なのではないだろうか。
とりあえず、220V化しようよ。とか、そういう流れなんすかねぇ。 化石燃料依存比率が高すぎる。 ガス依存率が高い。 シエールガスの短期的利用は仕方がないが
長期的には地殻地盤 温室効果もろもろ含めて あまりよろしくないよね。
さて、ガス依存効率を どうやって減らすか という議論みたいですね。 脱原発。
ガスへの依存を減らし、その他の化石燃料への依存を従来通り減らしたまま、電力を賄うことが出来れば、 それすなわち、脱原発。
逆に、ガスへの依存を減らせいないと、 ある程度 原発を維持しないと 長期的には ガスどうすんだ? 子どもの世代に ガスを残さなくていいのか?という議論になると。