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映画「猿の惑星」について。猿たちはなぜ英語を話しているのだろう。
ChatGPT said:
ChatGPT
映画『猿の惑星』シリーズで、猿たちが英語を話している理由には、物語の設定上の理由と、制作上の都合が絡んでいます。
物語の世界では、猿たちは知能が進化しており、人間に取って代わる形で高度な文明を築いています。そのため、彼らが英語を話していることは、人間の文化を部分的に引き継いでいる可能性を示しています。特に初期の映画では、地球が実は未来の地球であり、人類の文明が崩壊して猿たちが支配者となったという設定が明かされます。この背景を考えると、猿たちが人類の言語を学び、その言語が共通語として使用されていると解釈できます。
映画の主要な視聴者が英語圏であったため、登場人物である猿たちも英語を話すように描かれています。これにより、観客が物語を理解しやすくなっています。特に初期の映画は1968年に公開されたため、国際的な映画市場の主力であるアメリカやイギリスの視聴者に向けて制作されていました。
こうした理由により、猿たちが英語を話しているという設定は、物語の中で自然に描かれるようにされていますが、現実的には観客の理解を優先させるための措置でもあります。
You said:
なるほど。ありがとう。まあそんなところだよね。娯楽として映画を観にくる観客に、猿は英語以外のいったい何語で話せばいいのか、という。
ChatGPT said:
ChatGPT
そうですね、まさにその通りです!映画は娯楽作品として、観客が物語にスムーズに入り込めることが重要ですし、猿たちが英語以外の言語を話していたら、かえって混乱や違和感を覚えるかもしれません。フィクションの世界観の中では、こうした要素をリアリティよりもストーリー展開のスムーズさやエンターテイメント性に合わせることが多いですよね。
とはいえ、猿が知能を持ち、言語を話すという設定自体がとても興味深く、人間と猿の関係性や文明の進化について考えさせられるのも『猿の惑星』の面白いところですね。
You said:
この時代のハリウッド映画で、時代や国が英語圏とはことなる作品がたくさんあるけれど、たとえばクレオパトラ、ベン・ハーとか、WW2のヨーロッパ戦線でドイツ軍がたくさん出てくるものとか。わざわざ外国語を話させている作品と、英語一本で通している作品と、どちらが多いのだろう。
ChatGPT said:
ChatGPT
確かに、ハリウッド映画では時代や国を問わず、登場人物が英語を話す作品が多くあります。クレオパトラやベン・ハーのような古代を舞台にした作品や、WW2を扱った作品でも、ドイツ軍や他の非英語圏のキャラクターが英語を話していることは珍しくありません。こういった描写に関して、いくつかのパターンが見られます。
英語を主に使う映画のほうが多いのが一般的です。特に、ハリウッド映画の全盛期や大作の時代劇、歴史劇において、観客にとって理解しやすいことが優先されてきました。以下の理由が考えられます。
広い市場への配慮:英語圏の視聴者が主なターゲットであり、物語をシンプルに理解させるため、登場人物が英語を話す設定が一般的。
スターシステム:有名な俳優が出演する場合、俳優が母国語で演技することが観客にとって親しみやすい。例えば、エリザベス・テイラーがクレオパトラを演じた作品で、彼女が英語を話すことは観客にとって自然な選択。
映画製作コスト:外国語を話す場面を作り、字幕や吹き替えを使用するのは手間がかかり、当時の制作ではそこまでの工夫は多く行われなかった。
一方で、特に近年のハリウッド映画では、リアリティを追求してキャラクターに本来の言語を話させるケースも増えています。
リアリズムの追求:歴史や文化の正確性にこだわる作品や、戦争映画のようなリアリティを重視するジャンルでは、登場人物に実際の国の言語を話させる傾向が強くなっています。たとえば、『シンドラーのリスト』や『イングロリアス・バスターズ』では、ドイツ兵がドイツ語を話し、字幕を使用して観客に伝えています。
観客の成熟:現代の観客は字幕を受け入れることに慣れてきており、外国語を話すキャラクターにリアリティや文化的深みを感じることが増えています。このため、歴史的正確さや文化的忠実さを保つために、外国語をあえて使用する作品も多くなってきました。
昔と今の違い
昔のハリウッド映画では、ほとんどのキャラクターが英語を話していましたが、現在では特定の場面で現地の言葉を使うリアリティを重視する作品が増えています。それでも、観客が慣れ親しんでいる英語をメインに使う映画は依然として多く、特に大衆向けの映画やエンターテイメント作品ではその傾向が続いています。
まとめると、英語一本で通している作品の方が今でも多いですが、特定のジャンルやリアリズムを重視する作品では外国語を使うケースも増えてきている、という感じですね。
You said:
猿の惑星が公開された1960年代ではやはり、英語一本で通すほうが多かった、という感じかな。
ChatGPT said:
ChatGPT
そうですね、1960年代の映画では、特にハリウッド作品において「英語一本で通す」ことが非常に一般的でした。『猿の惑星』が公開された1968年の頃は、以下の要因からほとんどの映画が英語で制作されていたと言えます。
国際市場への配慮: 1960年代のハリウッドは国際的な映画市場を意識していたものの、やはり主なターゲットは英語圏の観客でした。そのため、異なる国や時代を描いていても、登場人物たちが英語を話すことが普通でした。たとえば、『クレオパトラ』(1963年)や『ベン・ハー』(1959年)でも、舞台は古代ローマやエジプトですが、すべてのキャラクターが英語で話しています。
技術的・商業的制約: 映画の制作や配信において、字幕や吹き替えが今ほど普及しておらず、映画は一言語で広く流通させる方が効率的でした。また、複数言語を使う場合、撮影が複雑化し、コストが上がるため、制作上の制約も大きかったです。
観客の嗜好: 当時の観客は、異文化や異国を舞台にした映画でも、登場人物が英語を話すことを当然視していました。物語の没入感や理解を優先し、キャラクターの言語が実際の設定と異なることに大きな違和感を覚えることは少なかったようです。
例外は少数派
もちろん、1960年代でもリアリズムを追求した映画や、外国語を使用する作品は存在しました。しかし、それは例外的であり、たとえば戦争映画でも、ドイツ兵や日本兵が英語を話す描写が一般的でした。リアリズムを追求する方向に大きく舵を切るのは、1980年代以降からの傾向です。
総じて、1960年代は圧倒的に「英語一本で通す」スタイルが主流であり、『猿の惑星』のような映画もその流れに沿った作品といえるでしょう。
原作と作画両方が強いし、その上で内容もジャンプ向けでありながら他の連載と被ってない。
単純に今のジャンプにハーレムモノも魔法バトルが欠けているのでまず他とかち合わない。
久しぶりの連載で作画の筆が既に間に合わなくなってきてる感じがあるのだけが懸念かな。
とはいえ他の2つに負けることは一生ないと思う。
しのびごとは前作がアメノフルコンビってことで下げていたハードルはなんとか超えてくれたかな。
でもこれで生き残れるほど今のジャンプがスカスカかっていうとそんなことはない。
何が問題って作品として今後の展望が悪い意味で全く見えてないこと。
夜桜みたいに不思議な残り方をするには設定段階の手札が少なすぎるし、単にスニークバトルするならサカモトとかと比較されることになる。
凄い能力を持った裏の人間が学校で密かに~~~はキルアオと被っちゃうしね。
今後の新連載の出来にもよるけど20週~40週なんだろうなあ。
たとえ陽キャでもニヤニヤして作戦を考えるタイプが主人公だと死ぬ確率が大幅に上がる中で、陰キャでブツブツは完全に終わりだよ。
ここまで主人公の造形をミスったら殺して入れ替えでもしない限り無理だけど、それを10週以内にやれるような作品じゃないよね。
つまりこの作品はこのまま読者から「主人公の性格がジャンプ向きじゃねーんだよなあ・・・」と低評価され続けて、10週後の会議で「じゃあ打ち切りね」って宣告されるのを待つだけになってるわけ。
結論から言うとこの3作品の連載レースは開始前の段階、コンセプトを考える時点でもう結論が出てたんだよね。
どうやったら生き残れるかをちゃんと考えて連載を開始したベテランと、それを全く考えずに連載を開始した新人の差が如実に出てる。
勝負はやる前に既に7割終わっていると言うけど、まさかここまで明確に差が出るとは思わんかったよ。
ここまで差がついちゃうとオッズもクソもなくておもしろくない。
強いて言うなら白卓がTOKYO WONDER BOYSみたいに10週打ち切り食らうかどうかぐらいかな。
しのびが30週まで持つかどうかは次の新連載次第だから今の段階でかけても星占いの域を出ないしなあ。
やっぱジャンプの新連載ってのは3作品の中でどれが生き残るのか、どの順番で死ぬのかを当てる三連単が楽しいんであって、個別に死期を予想してもしゃーないんだよねえ。
テラフォーマーズとか進撃の巨人とかああいう怪物と戦う系の漫画に対する感想をネットで漁っているとさぁ、たいてい「結局、「人間VS人間」」になってるじゃん、はいクソ」みたいな意見が出てくるけど、言うほど永遠に怪物と戦う展開を読みたいか?
ゴキブリとずっと戦っているテラフォ、無垢の巨人とずっと戦っている進撃……、絶対つまらないでしょ。
初期は、強大な怪物に抗う主人公サイドって感じで内輪でドラマを作れるけど連載漫画だとそれだけじゃマンネリ化するし、そうなってくると敵側にも魅力が必要になってくるけど感情も信念も見て取れない怪物じゃそのたいした魅力は出せない。
自分は個人主義者だし、個人主義じゃないとストレスが貯まるので、個人主義万歳だ。
しかし、昨今の人間社会の様子を見るに、コミュニティへの献身がないと成り立たないと感じる事が多い。
個人主義という楽を知ってしまった以上、自己犠牲なんて払いたくない。
自分が死ぬまでは現在の社会が保ちそうなので、どうでもいいかと思うのは個人主義が故か。
先日とある婆さんと話をしている時に、婆さんがこう言った。「好きなものを買い物かごにぽんぽん入れまくるような買い物をしたら幸せだろうね、コストコなどで好き放題買ったら10万円ぐらいで足りるかな?20万円ぐらい必要かな」と。
それから数時間後にふと気づいたことがある。それは、コストコで20万円分の買い物をすることでなぜ幸せを感じることができると思ったのかだ。そして僕が辿り着いた答えは、コストコで20万円分の買い物をすることは、非日常な体験だから幸せを感じると思ったのではないかという事だ。
たぶん僕達人間は、毎日退屈している。機能と同じ今日を過ごし、明日もまた今日と同じ明日を過ごす。その繰り返し。そんな事脳内のどこかで漠然と感じていて、それを退屈だと思っているのかも知れない。だからこそ、ちょっと変わった体験がしたいと考えているんだと思う。そしてちょっと変わった体験の一つが、ばあさんにとっては爆買いなんだと思う。
つまり婆さんは、爆買いで幸せを感じることができると思っていたのかも知れないが、もっといえば非日常的な体験をすることができれば、20万円を払わずとも幸せを感じることができるのではないだろうか。
冒険こそが幸せと言ってるわけではない。コンフォートゾーンから出なくてもいい。なぜかと言うと、爆買いはコンフォートゾーンから出ているわけでも冒険をしているわけでもなんでもない。今の生活の延長線上にある「やってみたいこと」にすぎないからだ。そうであれば、今の生活の延長線上にあり、尚且つお金をそこまで払う必要がない「非日常的な体験」を探し、それをやることでしわ背を感じることはできないだろうか。
そんなものが見つかっていれば、みんなやってるのかな
なるほど。
その辺をどの程度重大と見るかは、価値観や情報源への信頼の話になってくるから見解は別れるだろうな。
俺なんかは、「絶対に捕まらないようにします」なんてセリフを日本史上最も長く首相を務めた人間が言った時点で、国辱以外の何物でもないという気がするんだけどね。
そんな男を国葬扱いだぞ。普通に考えりゃ、余生を監獄で過ごさせなきゃいけない男だっただろう?
赤木俊夫さんが国民を裏切る罪悪感に耐えきれずに生命を絶った事の原因も、そいつの嘘だったってのに、当の国民が下した審判がコレかよってな。
イエスのみが預言者であり、神なのだから、後世に預言者や神を名乗る輩はすべて偽物と定義できる
イエスを信じることによって、私は未来が予知できます占えます、私は神です奇跡が起こせます、という輩はすべて偽物だと断定できる
アレはなかなか根が深い
権力争いにかまけて技術軽視と言われて、技術を重視したら今度は開発の意見が強くなり過ぎて運用する人間や運用フェーズを軽視することになった
個人的にはエラーはどんなシステムで起こるが、みずほの場合は障害発生時のマニュアルがちゃんとできてないことが後から分かったしそこが問題かなと思う
金の繋がりだと駄目なら、女なんか金目当てで男に近づくこと多々あるわけだし、それもカウントするなよって話になる
経験人数なんてものは、あくまで“経験”した人数のことであって、その数を元に周りの人間にマウント取ったり出来るようなものじゃないし、すべきじゃない
セックスまでこぎつけた人数多い方が人としての価値が上だというような意識があるから、ソープ嬢を数えるのを不正だと思うんだよ
すでに自分の専門や得意な事以外の広範囲でAIもしくは機械に抜かれていると思う
もっとも現状は専門領域で競えるほどでは無いし、経験を積むことによって強化される性質も今のところ無いので、何もかも負けている人はあまり居ないんじゃないかな
ただAIが経験値を永続化し共有できるようになったら、一部の領域だけならAIに勝るパフォーマンスを出せるという人間も殆ど居なくなるかもしれない
仮にそういう未来へ到達するなら最後まで生き残れる仕事はどんなものなんだろうね? 医者より風俗嬢の方が残りそうな気はするね
下方婚して主夫させたらいいのでは?と言うと必ず低所得男性の家事能力の低さを理由にキレるわけですが性差別ですよ
確かに所得が低い人間は要領悪いだろうから家事も得意ではないことが多いだろうね
でもそれは女性も同じことですよ
子供部屋在住率を加味したらアベレージは女性のほうがひどいかもしれない
二、三十代の実家暮らしの女性なんて米を研げるかどうかも怪しいもんだ
それでも男性は養っているわけ
人柄はともかく、知性を測る簡単な方法として、小論文を書かせる、というのはあるな
ボキャブラリーとか、何を話題にするか、でその人の知性は分かる
知性は分かるけど、反社会傾向があるかとか、コミュニケーション能力がとかは分からんよね
で君は利益誘導してもらっている人間としてのクズか、あるいは統一の信者、勝共の構成員等の洗脳済みの人間か、自分の意気地のない愚かな行為の言い訳をして劣等でないと思い込もうとしている劣等な人間のうちどれなの?
意味のない会話中身のない会話ってあるけど、それがなんか良かったりする。晴れ女雨男とかの話を除いて。
数年前、自分は晴れ雨男女エピソードがなぜかすごく苦手なことに気づいた。日常会話カテゴリの中で一番嫌いだ。
映画の記者会見で繰り広げられる話No. 1ではないだろうか。なぜこんなに嫌悪感を持つのか少し考えた。
天候を操れる人間なんていないし、その場所にたくさんの人がいるのにも関わらず自分(特定の人)だけが天候に干渉したという考え。
そしてそれを話す人も心の底から本気で天候操り人間がいるなんて思ってない。多分ここが自分の中で重要で、違うってわかってるかつ大して面白くもないこの話を持ち出す意味が理解できないから嫌いなんだと自己分析した。
「おいおいこの中に雨男雨女がいるんじゃないか?」とか喋り出したら終わり。そのあと「私は晴れ女だ」とか会話が続きさらには過去の天候エピソードに続くともう最悪。ラジオ聞いてるときにパーソナリティの人がこの話し始めた時ちょっと残念に思ってしまった。
でもこの手の話って異様に盛り上がるし何より話す人が多い。「今日いい天気ですね〜」みたいに、天気って比較的誰でも平等に感じることができて話題にしやすいからかな。