はてなキーワード: 文法的とは
私は教師というものが嫌いだ。偉そうに上から目線で色々言ってきやがる。だから今日は私が教師に色々言ってやる。
ということで、とある英語教師の文章を添削した。英語教師なので、当然文法は完璧であろう。なので文法よりも、英語としての読みやすさ、伝わりやすさ、自然さを重視した。
In politics, there are many issues, some (of which are) boring.
解説:
② sometimesの使い方が唐突で不自然。前の流れを受けてつなぐ文章のほうが読みやすく聞きやすい。話し言葉ならカッコの中は省略可。
In tackling such a big-scale issue such as climate change, what we can do is to tackle the issues properly.
In tackling big-scale issues such as climate change, what we should do is to take these issues seriously.
解説:
文法的には正しいが、とにかく不自然な英語の典型。くどい感じ。
① suchがくどい。不自然なので片方を省く。
② 文脈を踏まえると、canよりshouldが適切。
③ tackleがくどい。英語では同じ語を同じ文章で2度使うことはあまりしない。
However, to solve the environment issues together is sometimes fun, cool and appealing or so-called "sexy" , so we should solve our issues together.
However, solving environmental issues together can be fun, cool, and "sexy"- so we should go ahead solving our issues together.
解説:
① to solveよりin solvingのほうが自然。基本的にネイティブは一文一文を短くする。
② the environment issuesなんて言い回し絶対しない。言い換えるべき。
③ 別にsexyはそのままでも大丈夫。もちろん先生の指摘も理解できるが、書き言葉ではなく会話の場なので、砕けた表現も許される(そもそも海外メディアもこの語句自体は問題視していない)
そもそもこのso-called 「先生」は、「gonna」を「しなければなりません」、と訳してますが、それは「gotta」やろ。
ちなみにこれね。
挙げられている例文は文法的に正しくないものの,そこまで否定されるものではないと思う.
なぜなら,文法的正しさは言葉の適切さを評価するための限られた一側面でしかないから.
鉄道の車内アナウンスの場合,言葉の適切さを評価する観点には,例えば,文の短さ(簡潔さ),敬意の表現,文法的正しさがある.
これら全てを完璧に満たす文を作るのは難しい.
結果,重視する条件によって最適な表現は異なる.
※敬意あり/なし
1文目「怪我につながる恐れ」は,普通体を使用している(敬語でない).
「客観的事実として」怪我人が発生することを恐れている,つまり,例えば鉄道の遅延や乗務員の対応コストなど,鉄道会社の不利益が生じて欲しくないという含意が相対的に強い.
これに対し,2文目「怪我をされる恐れ」は尊敬の「れる・られる」を使用している.
「聞き手である乗客個人が」怪我をすることを恐れている,つまり,乗客自身に不利益が生じてほしくないという含意が相対的に強い.
また,この乗客への敬意を文法的に正しく表現しようとすると,例えば3文目のようになり,文が長くなってしまう.
要するに,文法的正しさ以外の観点も考慮すれば,上述の候補文は,全て一長一短がある.
一方で,(例え文法的に正しくなくとも)全ての文で,その意味は推論可能であり,使用可能である.
実際,車内アナウンスの内容は事前にある程度予想がつくだろうから,極論すれば「携帯,ゲーム,トラブル,怪我,禁止」という単語が含まれていれば,おおよそ言いたいことはわかってしまう.
その上で,この鉄道会社は,おそらく文の簡潔性を重視している.
鉄道の乗客は,必ずしも車内アナウンスに傾聴しているとは限らず,周囲の乗客との距離感,手元の端末,降車後の予定などに注意が向けられていることの方が多いだろう.
「丁寧な印象で,かつ,聞き取りのための認知負荷が小さいアナウンス」を追求した結果,文法的正しさが犠牲になり,このアナウンス文になったのではないか,と思う.
話し言葉とは音声で伝わる言葉,書き言葉とは文字で伝わる言葉とする.
話し言葉と書き言葉の差は,自由に聞き直せる/読み直せるかどうかと,記録として機能するかどうかだ.
話し言葉はその場で消えていく空気の振動だ.だから,一つの発話を聞き終えた時,自由に聞き直せない.また,録音しなければ,記録としても機能しない.
書き言葉は文末まで読んだ時,文頭に戻って読み直すのは自由だ.また,論文や本など,記録として機能することが多い.
話し言葉は発話を聞き終えた瞬間に十分理解されることが望ましいので,簡潔性が重要だ.
一方,記録として機能する書き言葉は,その内容の正確性が重要だ.書き言葉は読み直せるので,多少簡潔でなくても問題は生じにくい.
つまり,話し言葉は,書き言葉に比べて,正確性よりも簡潔性が重視されやすい.
私たちが後に学校教育で書き言葉(文法規範)を習うのは,自然に獲得される話し言葉と比べて,要求される条件(例えば,正確性)が異なるからだ.
ただし,教育が規範を与えるからと言って,話し言葉が,あらゆる場面で書き言葉のようであればあるほど(文法的であればあるほど)正しい,ということは意味しない.
なぜなら,上述のように,話し言葉と書き言葉では要求されるものが違うからだ.
もっと言えば,話し言葉/書き言葉の違いに限らず,言葉が使用される一つ一つの状況次第で,要求される条件は全く異なるからだ.
敬意を表現する,親しみを表現する,簡潔に表現する,微妙なニュアンスをほのめかす,話者の印象を制御する,など,言語の使用の際に要求される条件は無数にある.
文法的正しさを犠牲にした時に,替わりに有益なことが実現できる場合もある.
例えば,散文詩や広告のキャッチコピーに対し「非文法的だ」と非難する人は少ないだろう.要求されるものが,文法と異なることが自然に理解できるからだ.
同様に,バスのアナウンスは,文法的であるよりも簡潔であることが求められる状況だった(と判断された),というそれだけのことのはずだ.
正確な表現は長くなりやすく,状況によっては,聞き手に過度な認知負荷を要求する.
正確に,書き言葉のように話す人は,状況によっては,聞き手の認知負荷の軽減よりも,自分自身が「正しい」ことを優先しているとも捉えられかねない.
このため,「他人より自分を優先しそうだ」「他人の間違いにもうるさそうだ」「間違いを指摘したら面倒そうだ」といった印象に繋がる可能性がある.
身の回りの非文法的な表現を,単なる文法能力の欠如による産物と決めつけるのではなく,
何らかの合理性に基づく可能性のある産物として受け止め,どういう目的であえて文法を破っているのか,という背景に対する興味と想像力が必要だ.
文法的に。
一行目で終わってたwそも文法的に言っても言語は完全な論理性を備えるわけではないし、備えさせる必要もないので、違和感がある、許せないというのはあなたが言語に論理性、完全性を過度に期待していることの裏返しなんでしょうなあ。
「AやBをCする」と言うなら、「AをCする」「BをCする」の両方が成り立ってほしい。文法的に。
でも「BをCする」しか当てはまらない用例が結構ある。話し言葉ならまあいい。でも、推敲されているはずの、公の場でさらされる文言でそういう例に触れるとモヤモヤしてしまう。
「携帯電話やゲームをしながらの歩行は、周りのお客様とのトラブルや怪我をされる恐れがあり、危険ですのでおやめください」
「や」が2つある。前半のそれでは「携帯電話」「ゲーム」が並列されている。でも「携帯電話をしながら」は不自然だ。完全にバツではないけど、公共の場でのアナウンスとしてはベストじゃない。「携帯電話やゲーム機を操作しながら」であれば、どちらにもきれいにつながったはず。
後半の「や」はもっとおかしい。「や」の前にある「周りのお客様とのトラブル」はどこにつながるのだろう。「トラブルをされる」とはいわない。「周りの客様とのトラブルや、怪我につながる恐れがあるため」であれば、どちらにもきれいにつながったはず。
「……なお、ベビーカーにお荷物を乗せてのご乗車や、車内混雑時にはたたんでご乗車願います」
これは輪を掛けておかしい。「ご乗車」のつながる先がなく、メッセージの意図が定まらない。そもそもベビーカーに荷物を乗せて乗車してほしくないのか、そうしてもいいけど混雑したらたたんでほしいのか。後者の可能性が高そうだけれども、それなら「ベビーカーにお荷物を乗せてご乗車される場合は、混雑時にはたたんでくださいますようお願いいたします」くらいまで変えないと自然にならない。
自分の耳が悪く、「や」じゃなくて「は」なのかなとも思ったが、録音して聞いたら確実に「や」と言っている。
ひょっとしたら別のところで聞き間違えているのかな?
[追記]
ご注目いただきありがとうございます。
アナウンスの例はどちらも毎日流れる録音アナウンスで、職員ではなくナレーターによる収録だと思われます。
自分でも「話し言葉ならまあいい」と書いている通り、個人レベルなら許容されるでしょう。書き言葉であっても、私的なコミュニケーションで、意図が伝わるならいいと思います。
自分は「公に向けられた言葉はできるだけ正しくあってほしい」という願望を述べているだけです。電車の例はメッセージとして十分に機能すると思いますが、もし外国人や子どもに質問されたら「良い言い方ではない」と言うでしょう。バスの例はそもそもメッセージが不明確です。
さて、修正すると回りくどくなるとのご指摘ですが、自分の修正案はそこまで回りくどいですかね。
修正前「携帯電話やゲームをしながらの歩行は、周りのお客様とのトラブルや怪我をされる恐れがあり、危険ですのでおやめください」
修正後「携帯電話やゲーム機を操作しながらの歩行は、周りのお客様とのトラブルや怪我につながる恐れがあり、危険ですのでおやめください」
まあ回りくどいのだとして、修正前のものは「回りくどくないベストな文言」なんでしょうか。短いのが良いなら、いくらでも違う言い方ができると思います。
「歩きながらのスマホやゲームはご遠慮ください。転倒や接触の危険があります」
ちょっと内容が変わってますが、並列構造を保つことと短くすることは十分に両立しますよ。
また、「こう解釈すれば間違っているとはいえない」「『携帯電話をする』は十分にあり得る」のような趣旨のコメントも頂きましたが、それはそうなのかもしれません。でもそれは結局、現状がベストじゃないという主張を裏付けることになっていると思います。
こういうメッセージの理想は、それを受け取った人の誰もが引っかかることなく一つの解釈にたどり着くことじゃないですかね。そうだとしたら、誰も疑問を持たない形にするのがベストでしょう。
日本の英語教育を語る上で、知っておかなければならない数字があります。
中学~高校で、英語の授業が週4時間あるとして総時間数:800時間
CIA職員が日本語を習得するのに必要な時間数:2000~2500時間
英語のネイティブスピーカーにとって習得が簡単なのは、文化的・文法的に近似する
オランダ語・フランス語・スペイン語などです。これらは600時間で習得できます。
では『オランダ語やフランス語は簡単なのか』と日本人が学んでも苦労します。結局のところ、
『同じインド・ヨーロッパ語族なら習得が楽になる』というだけの話です。
一方、 ”英語のネイティブスピーカーにとって極めて困難な言語”としては日本語・中国語・アラビア語などがあり、
これらの習得には2500時間くらいを要し、これは、英検1級合格に要する時間に相当します。
逆の日本語ネイティブ→英語も同じくらい時間がかかるとすると、答えは一つです。
『日本人が学校で勉強する程度の時間では、英語は出来るようになりません』
大学入試において、2つ以上の大学で長文問題に出てきた単語の数 8000
========壁========
i'm lovin' it. が、文法的に難しいことを知った。
lovein' は、love の進行形 loving を省略したものらしい。
最近知ったことなのだが「コミュニケーションが出来る」とか「日本語が話せる」ということは、「言われたことを理解して尚且つそれに対する文法的・論理的に正しい返事が出来る」ということではないらしい。
「話している内容から相手はどのような返事を期待しているのかという答えを理解して返事をすることが出来る」ということのように見える。
たとえば、女が「なんで怒ってるかわかる?」と言われたら以下二つの回答方法が考えられる。
1.心当たりのある項目(怒っている原因だと推定出来ること)を話す。
2.わからないと答える。
しかし、これでは解決が出来ないらしいのだ。いわゆる文脈の問題なのだろうがそれを瞬時に判断して正しい答えを返さないといけないのがコミュニケーションなのではないかと最近推測している。
アスペは会話に支障があるのかという話題は当事者か当事者を見ている人でないと分かりにくい。アスペは「言語障害がない」と定義されているのだけれど、相手の心が分からないことによって会話に支障が生じることはある。酒鬼薔薇王国でSEO合戦をしている天野さん(仮名)はアスペの可能性がある。
けだし普通の人間は「文法的な正確さ」よりも「フィーリング」で喋っている。しかしそのフィーリングなるものが普通の人と異なるアスペは、時として他人の言ったことをまるで理解していないかのような様相を呈することがある。
しかしこれらは「知的能力」と「長期的な視野」によって補うことができる。相手の心は分からずとも「積み重ねられた事実から生まれる文脈」は理解可能だからだ。
話題になっていた標題の記事を読みました。いろいろと考えました。
内容そのもののこともそうだけど、訳がやっぱこなれていないのなかなぁと。
たとえば、私だったら、下の本文の原案の訳は、次のように考えます。
”The capital-T Truth is about life before death. It is about making it to thirty, or maybe fifty, without wanting to shoot yourself in the head. It is about simple awareness-awareness of what is so real and essential, so hidden in plain sight all around us, that we have to keep reminding ourselves, over and over: "This is water, this is water."
真実、といっても、普通の真実じゃなくて、カッコづきにしたいくらい別格の『真実』ですね。
その『真実』とは、死を迎える前の「生」、つまり皆さんが生きている日々のことです。
自死、つまり自殺などしたいと思わず、30歳、人によっては50歳くらいまで、何とか生きていくこと。
何が本当にリアルで、大切なのか、私たちの視野に入っていて、そのままの中に溶け込んでいるいることに対して。
そして、私たちが何度も、何度も、自分自身に対して注意を向けなければならないことなのです。
まるで、水のように。
魚にとっての、水のように。と。
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・”Tを大文字にした真実”は、つまり”平たい真実ではない”ってことと解釈。
・make it to 30 or maybe 50を読んだとき「生き延びる」に近いニュアンスに感じたのと、この場合のmaybeは、「場合によっては」のニュアンスかなと。
・アメリカとかだと銃が蔓延しているので、shoot oneself in headはなじみ深いけど、字義通り訳すと日本のスピーチではあんまなさそう。と思って、平たい自殺に。
・It is about~から始まる、重要だけど、やや長いところは、文法的にがちがちに解釈せず、あえて切り分けた。
これは文字として読ませた文章ではない。なので、あるメッセージを連続してつなげてお話しているイメージでとらえたので、
むしろ一つ一つが独立した区切りで実際はスピーチしてそうだな、と考えた結果。
・awareness-awarenessの訳に「意識高い」って言葉を使うのは結構悩んだけど、「意識をもつ」という平たい表現で「意識して意識をもつ」とすると
日本で「意識高い系」なんて言葉が生まれたのが良くないねーなどと考えましたが、そこに翻訳に際して文化的側面が影響を与える興味深い事象などと思ったり。
・hiddenの訳を最初「潜む」って訳しましたが、「見えてるけど実は意識しないと見えないもの」だとしたら「溶け込む」っていう表現ありかな、などと。
・This is water。この訳は、いろいろとできそうですね。私が文面から感じたニュアンスは、訳のとおり。
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別に翻訳家でもないけど、言語表現についてはいろんな局面で考えることがあって。
「これは水です」の中身はとってもしみじみと感じ入ることができたわけですが、
依頼の文面で「〜(して)いただけるでしょうか」を使う同僚がいて、見るたびに違和感を覚えていた。
「書類を頂けるでしょうか」
「教えていただけるでしょうか」
「返却いただけるでしょうか」
などが用例。この人は会話でもこう言う。最後の例は「ご返却」としてほしい。
「いただけるでしょうか」ググってみたらそれなりに使われている。例えば「ご理解いただけるでしょうか」とか。これはなぜか違和感があまりない。しかしよくよく検索結果を見ると、依頼ではなく質問ばかりだ。あるいは、質問の体だけど答えは求めていない投げかけが多い。やはり依頼の「〜(して)いただけるでしょうか」は珍しいのではないか。
動詞の終止形に「でしょうか」が付いているから変なのかと思ったらそうでもない。
「まだ使えるでしょうか」
「雨は降るでしょうか」
自分は「〜(して)いただけますでしょうか」を使う。経験的に、他の人もよくこれを使っていると感じている。念のためこちらもググってみたら、誤用として複数のビジネスマナー指南サイトで紹介されているようだ。「ます」「です」が二重敬語なのだと。なるほど。
とはいえ、検索上位にくるのは薄っぺらなページばかりで、これなんて特に酷い。
https://www.rirekisyodo.com/study/doublehonorific-point.html
日本語も論理も内容もおかしい。こんな記事にとやかく言われたくない。
このページも酷い。
「いただけますでしょうか」は二重敬語だから NG と言いながら、「よろしかったでしょうか」は相手への配慮だから OK とか。実際に NG か OK かは別としても、この論理でよく記事にできたなと思う。
そしてこの「専門家」とは誰なのか。その専門家に「いただけますでしょうか」について聞くことはできなかったのか。まあ、そこだけ何かを読んで適当にぼかして引用したのだろうけど。
ここで感じたのは、「〜(して)いただけるでしょうか」は、こういったゴミみたいなビジネスマナー指南に従って「〜(して)いただけますでしょうか」を避けた結果として使われているんじゃないか、という疑問だ。
以下について知りたいけれども、検索だけでは答えが出そうにない。
1. 依頼の「〜(して)いただけるでしょうか」は昔から使われていて、これがむしろ自然だという人がいるのか。
2. 依頼の「〜(して)いただけるでしょうか」は「〜(して)いただけますでしょうか」を避けた結果という仮説は正しいか。
3. 「〜(して)いただけますでしょうか」は、専門的にはどういう扱いなのか。
(追記)
http://www.kotonoha.gr.jp/shonagon/
まず「ますでしょうか」で調べてみた。「いただけ」は二重敬語の指摘に関係ないので。検索対象からヤフーや国会会議録は除く。かなり例が出てくる。有名な執筆者のソースを幾つかピックアップしよう。
山﨑豊子「沈まぬ太陽」1999※
宮部みゆき「誰か」2003
曽根綾子「この悲しみの世に」1986
ここには、依頼でなく質問の「ますでしょうか」の例も含まれる(※印)。でも二重敬語が駄目なら依頼・質問の区別は関係ないだろう。
さて、「いただけるでしょうか」を検索したかったが、検索文字列は 10 字までということなので「けるでしょうか」で検索した。例はかなり少なく、依頼の用例はさらに少ない。とはいってもゼロではない。こちらも有名どころを挙げておこう。
1. 「いただけますでしょうか」は、文法的な是非はともかく、今後も自信を持って使っていいといえる十分な用例がある。
2. 「いただけるでしょうか」はそれなりに古い用例が存在するので、とやかく言うほどではなさそうだ。