はてなキーワード: 山月記とは
せっかく力を手に入れたのに、女の子とイチャイチャする事と、気にくわない相手に嫌がらせするくらいしか、やりたい事が無いのかね?
国家と戦えるくらい強くなったのに、やることと言ったらチンピラ相手に無双したり、面倒くさがって田舎に逃げたり、身近な人に料理ふるまったり、ダンジョンを適当に踏破したりって、何考えて生きてんだ。
こんなのケンシロウを物臭でスケベにしたようなもんじゃねーか。
っつーか、待てよ。
圧倒的に力があるのに、怠惰で強欲で好色で欲望のままにふるまうだけって、それ昔話に出てくる竜だな。
なるほど。あれらは山月記みたいにコンプレックスの塊の男がこじらせて竜になる話だったのか。
俺も書こ。
最近「山月記」を元にしたネタが自分の観測範囲内(増田やブコメ)で多いなと感じている。
もしそれが本当にブームとなっているならGoogleトレンドでその様子が見て取れるのかなと思って調べてみた。
https://trends.google.co.jp/trends/explore?date=today%205-y&q=%E5%B1%B1%E6%9C%88%E8%A8%98
確かに例年に比べてやや多いので、やはり多少は流行ってるようだ。
ただ、それより目を引くのが毎年5月〜7月に起きているパルスだ。
5月の始めに一気にきて、6月にちょっと落ち着き、7月にピークを迎える。
どうやら高校の国語の教科書を進めてゆくとこの期間と一致し、虎になった李徴について世の高校生たちがしきりにSNSに感想を上げているようだ。
塾などで先に勉強してるのだろうか。
アイツとセントバレンタインデー等でおなじみのアイツシリーズのパルスは無いようだ。残念。
5月の始め、丁度今日くらいから、この山月記パルスと言うべき現象が始まる。
まずは、差別と区別の違いは合理性の有無、もしくは合理性の包含量にあるという仮の出発点から話を始めたい。
アメリカで黒人が公然と差別されていた頃、差別をしていた白人はそれを差別だと思っていたのだろうか。
あるいは江戸時代、えた・ひにんへの迫害や、癩病患者への扱いは、支配層にとってば全く合理的な区別だと捉えられていたのである。
ここで鑑みるべきは、人の合理性認識は時代や場所によって劇的に変化しうるということであり、先述の例はその証左に他ならない。
さて、問おう。
区別はするとしたら、それはなぜ「実は差別」ではないと言い切れるのだろうか?
あるいは、自分が合理性を感じられるものは区別で、そうでないものは差別なのだろうか?
それならば、あなたのその主観の正当性はどのように担保されるのだろうか?
それならば、その2つの違いはどんなもので、その違いによってなぜ差別は批難され区別は許容されるのだろうか?
もしそうなら、そしてあなたが何らかの人的区別をしているのなら、それはどのように正当化されているのだろうか?
山月記に出てくる李徴氏のように、理由も分からないまま、ただ「差別はダメ。でも区別はあり」という世界に生きている。
諸兄の忌憚なき意見を聞きたい。
はじめに、これは私の醜い心の内を整理する為に書くものだと明記しておきます。
今日、2年描いた自ジャンルから撤退して、推しカプを描くのをやめることにした。
私は同人活動をしている。インターネットでぽちぽちサイトをつくって遊び出してから、同人誌を制作している今までを含めて大体10年ぐらい。カウンター機能やアクセス追跡機能をつけてもアクセスしているのは自分だけ、という時代を経て、ピクシブで小説なり漫画なり描けば、ランカーとまではいかなくても、タイミングが良ければランキングに載るレベルの評価を貰えるようになった。
私が今日まで描いていた自ジャンルは、オリジナルアニメ作品で、規模としてはかなり大きい。その上、その作品のカップリングの中でも、二番手人気のカプにハマったので、書き手も読み手もかなり人口が多かった。特に、初期は書き手も少なめだったので、その頃ピクシブに投稿された人気作品には、10000単位でブックマークがつくほどだった。
私の漫画にも、10000以上のブックマークがついた。そのカプにハマってから初めて描いた長編漫画だったので、思い入れを込めて描いたものだった。そこから、フォロワーが2000人ぐらい増えた。それ以降、私がピクシブに投稿した作品は、必ず1000以上のブックマークがついた。
もちろん、ジャンル効果なのは分かっていた。漫画が評価されたけれど、私は決して絵が上手いわけではない。元々小説を書いていたから、ある程度ストーリーをつくり慣れていただけで、褒めていただけるのは話の内容が殆どだ。更に、その頃の推しカプ作品では10000ブックマーク越えなんてざらにあったので、今改めて当時の投稿者たちにランクをつけたとしたなら、私は中の下ぐらいだろうなというのが本当のところだった。
実際、イベントに出たところで、新刊は売れてもせいぜい100冊。他の参加者が新刊完売と嬉しそうにツイッターで報告する中で、私が新刊を完売したことは一度だけ、それも100冊だ。
そう分かっていたけれど、それでも、嬉しかった。
元々同人活動よりも早く、インターネットで作品を投稿するばかりだったので、お金を払って本を買ってもらうよりも、私は、自分の作品を読んでほしかったのだ。読んで、ブックマークしてもらって、タグ付けでもコメントでもメッセージでもツイッターにリンクを共有して一言添えるでも何でもいい、出来れば感想が欲しかった。
それが、自ジャンルに来て変わった。私の作品を好きだとメッセージをくれる人がいれば、イベントで面識もない私の為に手紙を書いてきてくれる人がいて、更にはメッセージで「翻訳する為に転載させてほしい」と拙い日本語で断りを入れてくる人もいた(これに関しては二次創作、腐向けなのもあり、丁重にお断りしたが)。
私の、私の為でしかなかった作品を、好きな人が沢山いる。おそろしい喜びだった。私の、推しカプに対する熱を表現する為の作品づくりは、いつからか、その人たちの目を気にし始めた。
ツイッターの存在もそれに拍車をかけた。ツイッター上には、推しカプの絵を日々量産しては、1000RT、10000RTを稼ぐような人たちがかなりの数いた。更に、ピクシブで人気のある投稿者は、おおむね1000人以上のフォロワーがいた。
しかし、私にはそれがなかった。元々、ツイッターであまり呟かない性格だし、上記の理由で、絵も全くと言っていいほどに描かない。ツイッターに上げた10RT程度の漫画が、ピクシブに上げた途端1000ブックマークつく、というのが私だった。
羨ましくて、絵を描く用のアカウントをつくって、そこで毎日むりやり描いたが、100RT程度が限界だったので、打ち止めた。
そんなふうに数字を気にしているうちに、周囲に敵対心までもがわき始めていた。
くわえて、推しカプはアニメ(原作設定)で現代に生きる兄弟なのだが、パロディというか、パラレル設定も多い。アイドル設定もあれば、妖怪設定もある。更に、アニメが終わってからは、アプリゲームのパラレル設定からしか供給がなかったので、溢れるほど派生がある。
けれども、私は、原作である本来の兄弟の推しカプ以外、何一つ萌えなかったので、兄弟の推しカプを永遠と描いてきた。しかし、書き手が多ければ似たような話が増えるのも仕方なく、そのうちに、推しカプ内ではパラレル設定が次から次へと流行り、もてはやされるようになった。
敵対心というよりは、山月記風に言えば、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」というやつなのかもしれない。好きな書き手がいても、自分より評価されているのが――それも自分の好きではないパラレル設定で――が悔しく、また、ツイッターでフォローしても他の人のようにフォローバックしてもらえないのが恥ずかしく、私はとうとう、ピクシブで絵を描く他の人の作品を見れなくなっていった。
そうなると、自然、イベントに参加しても、ほとんど交流することがない。数少ない仲良くしている人がその場にいなければ、もう、ずっとスペースに座っている他ないのだ。
それも、盛り上がっている初期の頃ならよかったのだろうけれど、アニメが落ち着いてからは、目に見えて右肩下がりだった。同人誌が売れない。差し入れが減って、手紙どころか、ピクシブでメッセージも貰うことはない。私を好きな人と交流したくて、ツイッター上で自家通販をしたけれど、申し込んでくれた3人中2人に連絡なくキャンセルされた。新刊の告知ページに、コメントはつかない。私の本の通販の有無なんて、もう誰も気にしていないのだ。
描く意味があるのだろうか、と思ったことがショックだった。描き始めたはじまりは、間違いなく、私がこのアニメを好きで、このカプが好きだ!と思ったから、描いたはずだったのに。いつからか、人に褒めてもらう為に描いていた。作品ではなく、私を見てほしくて描いていたのだ。
私の本を買いに来てくれる人がいる。本を買ったあとから、以前に出したこの本が好きでした、と直接一言くれる人がいる。
でも、私は、それでは足りなかった。ごめんなさい。
WEB拍手やask、質問箱、いろんなツールが流行したけれど、そのどれもに手を出さなかった。同人誌の奥付にもつけたことはない。手を出すべきだったんだろうか。私も、他の人みたいにツイッター上で返事をしてみたかったけど、もし誰もメッセージをくれなかったら、どうしたらいいんだろう。
自ジャンルが好きだ。推しカプが好きだ。自分の描く推しカプの話が好きだ。でも、そんな気持ちで描き続けて、疲れてしまった。だから、今日でおしまいにする。
同人自体はどうせ辞められないけれども、次に何か描くのはまた気が向いたらにする。そうじゃないと、いつか誰かにとんでもない迷惑をかけるような気がするので。
また消えてるね
2度と再投稿できないようにここに記す
もし山月記がヒップホップ調だったら
隴西(ろうさい)の李徴は博学才穎(さいえい)
友達と虎榜(こぼう)に楽々内定
性、狷介(けんかい)、自ら恃(たの)むところ頗る厚く
底辺かい?昼間から呑む男 ぶどう酒ダブル
詩作にふける
リアルにスベる
詩業に絶望 再就職
日曜日寝不足 毎週ショック
ついに発狂 ふいに脱走
誰も行き先知らないザマス
だけど知り合いいまだに探す
旧友の袁傪 ここに見参
迷惑千万 虎が現前
虎隠れて言った「危ない」
最早全て知ったやむ無い
「その声は、我が友、李徴子ではないか?」
モノノケはたわごと、人喰い出たがり屋
「如何にも自分は隴西(ろうさい)の李徴」
意外と気分は後悔と自嘲
臆病な自尊心 尊大な羞恥心
妄想なき本心 問題は自分自身
大学にある心理カウンセリングに通っている。通っているといっても、別に希死念慮があったり、人との喋り方がわからなかったりするわけじゃない。
むしろ逆で、自分がなにをしたいのか、どうやって他人と付き合っていけばいいのかわからない。
周りの人がなにを考えているのか、それが正しいのか間違っているのかはわからないけど、わかってしまう。たぶんこれまで特にトラブルになっていないから、その大半は多かれ少なかれ当たっているのだと思う。
そんなにかわいくないのに思いっきり盛ってくる子、そんなにかっこよくないのに一生懸命おしゃれする子。すごいと思う。理解できないけど。どうしてそんなに自信を持って生きられるの。自分でも嫌な奴だなって思うけど、頭の片隅からそんな考えが離れない。
その嫌な見方を他の人も持っていると思っちゃう。基準は自分だから、きっとみんな自分と同じくらい物事を考えているわけじゃないって言われるけど。他の人にどう思われてるんだろ、そう考えると日本は生きづらい。自分と違う国籍、年齢の人に囲まれた時はそんな感じしなかったのに、似た年齢の人が多いとこだと歩くのが怖い、すれ違うのが怖い。
飲み会の場でなにも考えずに騒げる子、いいなあ。どうしてそんなになにも考えないでいられるの。周りの反応とか、怖くないの。
すぐ異性にアタックできる子、付き合ってる子をフっちゃう子、なんでそんなことが簡単にできるの。自分が傷ついたり、他の人が傷ついたりするのが怖くないの。
どうでもいいやつはどうなったっていいと思う。大学にいる人たちの半分くらい消えて欲しいと思ってる。だってなんで大学にいるのかわかんないんだもん。それでも身近にいる人は気になってしまう。完璧に振舞おうとしちゃう。
カウンセラーにそんなことを話したら、そんな人は稀だと言われた。そうなのかもね。いっつも何か考えて、失敗しないように動く人、そんなにいないらしい。でもその方が絶対いいと思う。なんでこうなったのかわからない。
最近はちょっとお面をかぶって生きている気がする。磨耗するけど。
きっと自分は世間の大学生から見てもマイノリティなんだってことはわかってる。なんでマジョリティになれなかったんだろ。お酒飲んで連れ込んで、そんな大学生になれる道だってあったのに。
でもやっぱりいっこだけ不思議。騒いでる大学生、偉そうに語る社会人、頭の固い老人、なんで自分を疑わないの?疑ってよ。
吐き出したいものはたくさんある。それへの反応も見たい。承認欲求もきっとある。なんでも思ったら言及してくれるとたぶん嬉しい。
<追記>
結局どうしたいの?という問い、尤もである。全部世の中が自分の思い通りに動いて欲しいのかもしれない。どうなりたいの?という問いを立てると、やっぱり困ってしまう。うまく世間に適合する能力がないことからくる妬みなのかな。
共感も反論もありがたい。匿名だと変に気を遣われないから嬉しい。ブックマークのコメントもよければ書いてくれると喜ぶ。正直、自分が思っていた以上のコメントを頂けた、ありがたく拝読する。
ひとつ、これは反省した。他人をどこかで見下している感情は間違いなくあったと思う。自分の正当性はもっと疑わないといけない。山月記の李徴みたいという指摘は実に的を射ている。幼児的な全能感を捨てられない。
他人から結果だけで評価をされていたかはわからないけど、自分は自分のことを結果だけで評価してきた気がするし、そうじゃない評価をしようとしてもどうしていいかわからない。もう少し年齢を重ねればきっと変わるんだろうけど、それにすら抗ってしまいそうで怖い。
Low-say の Rechow は hardcore sufferer、若くして名を Newcomer charts に連ね、major での活躍も期待されたが、性 keen high、meism pride 頗る厚く、newb に甘んずるを潔しとしなかった。いくばくもなく活動を縮小した後は、故山 Kark-lark に帰臥し、人と交りを絶って、ひたすら lyric に耽った。rapper としての名を死後百年に遺そうとしたのである。しかし、fame は容易に揚らず、生活は日を逐うて poor になる。この頃からその looking も sucking となり、曾て Newcomer charts に登場した頃の俤は何処に求めようもなかった。(中略)
Oh Oh Oh Oh
The moon rose higher, made me a tiger
Today my fangs and claws, beat all things
当時の bangs 俺ら共に bright things
お前は Mercedes 乗り回す official
いや、別に山月記じゃなくてもいい。走れメロスでも羅生門でも何でもいい。日本語の散文なら。
東山奈央の声すごい好きでずっと聞いていたいんだけど、音楽だと楽器の音とか邪魔だしドラマCDとかだと他の役者の声入ってくるし、キャラクターボイスとかだとなんかたまにこっ恥ずかしいセリフが入ってきたりしてムズムズするし「このキャラはこんなこと言わない!」みたいな解釈違い地雷があったりすると声に集中できないので、キャラとかなんも関係ない適当な散文をひたすら読み上げる音声が聞きたい。
でもこれよくよく考えたら日本語に限る理由なんもないな。英語でもいいです。ともかく東山奈央がずっとひとりで喋ってるというかなんか読んでる音声聞きたい。売って。
暴言女性議員とその友人と思しき人の怪文書(Facebookだが)を読んで,承認欲求って本当に大変だなぁと思いました.当方も暴言議員と同じく東大出身,現在は某大学でラボをもっています.このような承認欲求に囚われている人をどう解放するか,私の日々の悩みでもあるのでちょっと雑文でも.
進学校出身の東大卒にありがちなんですが,その中でも承認欲求と他者の評価を得ることに貪欲な層が一定数います.本当に誤解されたくないのですが,東大卒がみんなそうじゃないし,本当に学問が好きな人もいれば,ただのオタクもいるし,凡人っぽい人もいる.そういう意味では多様性はあります.
で,この貪欲層って本当に扱いづらく,「自分が頭が良いことを人に示すために行動をする」という行為を取ります.試験の成績が良いのも,その講義が面白かったからでも(知的好奇心),成績が優だと就職の時に有利に働くから(経済的インセンティブ)でもなく,ただ自分は周囲の人間よりもすごいということを示したい(承認欲求)がために勉強をするのです.本末転倒です.
試験くらいでは,それほど害はないのですが,ラボに入ってきて研究をすることになるともっと大変です.様々な学問分野でいろんな常識があるでしょうが,ラボの仲間は良き同僚であり,良きライバルでもあります.お互いに切磋琢磨して成長することは望ましいのですが,研究は勉強と違って,わかりやすい1番がありません.Aという研究もBという研究もそれぞれ方向性が違うのですから.にもかかわらず,同期を威嚇するような進捗報告,自分がどれだけ頑張っているかを示す進捗報告など,とにかく自分を認めて欲しいアピールがすごいのです.
しかし,研究とは残酷なもので,必ずしも学部時代の成績に沿って,研究成果が出るものではありません.いろいろな要因もあり,運もありますが,得てして楽しそうに研究をしている人のところに成果が出ると思います.私も東大出身ではありますが,遊び呆けていたわけではなく,それなりに真面目に授業に出ていましたが,全く成績は良くなく,優なんて数える程しかなかったものです.しかし,本当に面白いな,この人みたいになりたいなと思う研究者に出会い,野垂れ死んでもいいやと思って研究をやり始めました.最初はまったく成果は出なかったですが,5年ほどかけてやっと成果が出始め,現在はCNSにも通るようになりました.そういう意味で私は遅咲きのタイプでした.
よく冗談で試験前に勉強してないアピールの優等生というのが出てきますが,そういう人は研究に最も向いていないタイプの人です.研究の世界では,知識や知見は通貨であり,これらを交換し合うことで,人類の研究の世界は成り立っています.ギブ&テイクとは言ったもので,最初にギブした人の元には様々なギフトが降ってきます.一方で,得をしようとテイクばかりする人間からは人は離れていくのです.これが人徳に繋がるのかもしれません.
大体において,優等生は高いプライドが邪魔をして,人に相談ができなかったり,しかし自分は優秀だと認めてもらいたくて間違った努力に走ることがあります.その度に私は中島敦の山月記の話をするのですが,頭が良い彼ら/彼女らには,ただの国語の試験問題で読んだ文章としてしか理解されずに,本意は捉えられず,自分のことを認めない研究が嫌いになり(正確に言えば,自分が褒められないフィールドよりは,自分の優位性があるフィールドに移動したいというインセンティブが働き),研究と一切の関係がない外コンや官僚,商社に去っていきます.就職して大学を去る人たちにも研究の面白さを伝えた上で卒業してもらいたいのですが,なかなか難しいようです.卒業生のFacebookをみたときに,研究や大学をひどく罵っている様子を見てしまい,自分の教育者としてダメな部分を痛感します.ただ,浪人もして東大の中で劣等生であった自分が,傷ひとつない経歴の彼らの気持ちや行動原理がわかるかというと,なかなか難しいのも事実です.
外野からの観測からですが,彼/彼女らは自分のことを好きではないのだろうな,だからダメな自分を信じてあげられないんだろうなと思います.かっこ悪い自分を見たくない,失敗したくない.それは誰もがそうです.しかし,「お前が信じるお前を信じろ」ができなければ,人生辛いと思うのです.他人にバカにされようともいいじゃないですか.自分は自分のことをすごいと思っていれば.俺はいつか成果を出してやるんだと思ってがんばれば.なぜ自分を信じてあげないのか,安易に他者の評価を,より正確にいうと,自分よりも圧倒的に頭の悪い他者の評価を得ようとするのですか.そんな人たちに褒められるよりも,あなたの方が賢いのだから,あなたがあなた自身を認め,褒めてあげないと.
あの暴言は全く許されるべきものではないですが,暴言議員のあの咆哮も,山月記だと思えば,臆病な自尊心と尊大な羞恥心に依るものだったのでしょう.悲しいことです.
彼ほど人を見下して生きてはないけど、何かしら理由をつけて人と交わろうとしない、御託は色々並べるけど、結局李徴と同じ、臆病な自尊心 のため。
高校の国語の授業で山月記をやったとき、ひやっとした。彼は極端だけど、自分は彼に似てる。今まで本で出会った登場人物の中で一番共感したのが李徴だ。彼の漢詩のどこか微妙なところって、共感性がないところだと私は思った。風流を読んだ歌や恋愛の歌は多くの人が理解しやすいんだと思う。けれど孤独な彼の歌は、その中に他者の存在がなくて、かわいそうな自分を単に詠んだだけなんだ。しかも多くの人はわからない経験。
彼は友人と交わり切磋琢磨しあわなかったことを後悔している。今の私にはすごくわかる。友人と交わるってすごく大事なことだ。特に、夢が見つかったとき。
1人きりで頑張れるのは本当にごくわずかな人なんじゃないか。誰か話せる人が欲しいな、って揺らぎが来てしまうんじゃないか。でも、孤独ばかりでいた私は、友達と交わす言葉も話題もわからない。よりいっそう孤独を感じる。本で読んだけど、人間には「仲間になりたい」っていう本能があるらしい。だから、独りって寂しくて不安で当たり前なんだ。自分のことは大嫌いだし、できれば私を目に映さないで、なんて図々しくも考える一方、心と心で通じあえたらいいのに、とも思う。
このまま、孤独と孤独からの脱出の中で苛まれながら生きていては、李徴みたく人間としていられなくなってしまう気がする。社会性を、少しずつ積み上げて、孤独から早く脱出したい。