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はてなキーワード: 安土桃山時代とは

2019-11-12

anond:20191112100957

天守閣があって石垣があって…」といった安土桃山時代以降の建築様式だけを城だと思い込むことこそ問題だが?

2019-09-08

大日本帝国呪いはいつ解けるのか

きっと明治の頃にも「安土桃山時代呪いはいつ解けるのか」と語っていた侍がいたでござるよ。

歴史は繰り返すでござるよ。

2019-04-25

日本時代区分を考える

日本史時代区分表 - Wikipedia

縄文時代

弥生時代

どうせ土器が二種類ありました卑弥呼がいましたくらいしか習わへんし

ここらへんはまとめて「土器時代」でええやろ。

土器が普及してから大和王権が成立するまで」の先史時代的な定義で。

古墳時代

飛鳥時代

研究者的にはいろいろあるみたいやけど

大和王権が成立してから大宝律令が制定されるまで」と定義して、

大和時代」に呼称を戻してええんちゃう

奈良時代

平安時代

大宝律令の制定からその終焉まで」ってことにしよか。

いわゆる「律令時代」ってやつやな。

飛鳥時代律令時代に含まれるんかもしれんけど。

平安時代

で、そのあとは王朝国家体制期という意味での「王朝時代」なんかな、よくわからんけど。

仮に朱雀天皇即位および藤原忠平摂政就任区切りとすると930年か。

で、鎌倉幕府が成立するまでと定義しよか。

鎌倉時代

まあ「鎌倉幕府の成立から鎌倉幕府の滅亡まで」でええやろ。

建武の新政めんどいから鎌倉時代に含めるっちゅうことで。

てことは実質的に「室町幕府の成立まで」か。

南北朝時代

室町時代に吸収されてええんちゃうか。

室町時代

とりあえず「室町幕府の成立から室町幕府の滅亡まで」で。

安土桃山時代

ここは短すぎるんよなあ。

明応の政変から安土桃山時代までを「戦国時代」として独立させるほうがええかもしれんね。

江戸時代

これは「江戸幕府の成立から明治政府の成立まで」でええやろ。

明治時代

大正時代

昭和時代

一世一元やからって時代区分にする必要もないやろ。

明治政府の成立から太平洋戦争敗戦まで」でまとめようや。

名前は「帝国時代」とかでええんちゃう

昭和時代

平成時代

太平洋戦争敗戦から現在まで」と定義して、

またなんか大きな変化があるまでひと括りでええんちゃうの。

昭和平成・令和から取りつつ憲法にも引っ掛けて「平和時代」とかどうやろ。

そうすると次に戦争が起きたとき平和時代終焉かな。

まとめ

土器時代3世紀
大和時代3世紀701年
律令時代701年〜930年
王朝時代930年〜1185年
鎌倉時代1185年〜1336年
室町時代1336年〜1493年
戦国時代1493年〜1603年
江戸時代1603年〜1868年
帝国時代1868年1945年
平和時代1945年

どやろ?

2019-01-15

anond:20190115111542

安土桃山時代

平和時代の幕開けです。南蛮貿易によって、ヨーロッパの品物や、風俗、習慣が日本人生活にとりいれられた。

下着だった小袖を、男性女性武士町人も、すべての人が着るようになり、上級武家女性は,金の糸や銀の糸を布に織り込んだ り、豪華な刺繍をした小袖もつくられるようになってきました。

※絵は「きもののたのし改訂版」(社)全日本きもの振興会編 発行㈱世界文化社 より

江戸時代

265年間続いた江戸時代、その内215年間は鎖国時代となります日本独自文化熟成された時代浮世絵もこの時代のものです。小袖が庶民にとってもおしゃれを楽しむアイテムとなり、たびたび奢侈禁止令(しゃしきんしれい)が出されました。

2018-03-27

anond:20180327101000

江戸時代以前(安土桃山時代まで)は平均寿命が50歳程度だったといわれていて、

江戸時代の約400年間は平均寿命40歳位になっていたというのが通説。

その時代人口も増えてないし、大人の平均身長が140センチ台だったとも言われている。要は飢饉とかが相次いでいたから人を生かす栄養が足りてなかったんだろうな。

2017-09-10

anond:20170910115413

同性婚の前に、一夫一婦制がまずほぼキリスト教の話なんだけど。一夫多妻制の時代に男女一緒くたに囲う事は珍しく無かったし、ギリシア少年愛はむしろ美しいとされてたりした。

なので、デメリットというよりも宗教的意味で縛りが加えられてる側面が非常に強いとしか言いようがない。

勿論異性婚じゃないと子供が出来ないから家としての結びつきを考えればデメリットしかいか男色は好きだが嫁は他家の女性みたいな安土桃山時代以前の日本他みたいなパターンも有るだろうが

2017-05-19

増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位従五位下・右衛門少尉

目次 [非表示]

1 生涯

1.1 仕官以前

1.2 秀吉近臣時代

1.3 郡山城時代

1.4 秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後

2 子孫

3 主な家臣

3.1 一門衆

3.2 重臣

3.3 その他

4 脚注

4.1 注釈

4.2 出典

5 関連項目

生涯[編集]

増田長盛邸址(愛知県稲沢市増田町

増田長盛屋敷跡(滋賀県長浜市朝日町

生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国存在した増田氏との関係不明である

仕官以前[編集]

秀吉仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。

秀吉近臣時代[編集]

天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。

秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見日記名前が登場している。

天正12年(1584年)3月小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍根来衆津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。

天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さら下野常陸安房大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。

太閤検地では石田三成長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国美濃国越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋五条大橋改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。

文禄元年(1592年)から文禄の役では、石田三成大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城駐留し、奉行として占領統治兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。

文禄4年(1595年、豊臣秀次秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このとき対応秀吉によるキリスト教フランシスコ会)の弾圧日本二十六聖人殉教)の端緒を開いた。

郡山城時代[編集]

文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和から夫役徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国和泉国の蔵入地管理を委ねられている。秀吉晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。

慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。

秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後[編集]

慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家前田玄以など五奉行連判で家康悪事糾弾する弾劾書を示し、五大老毛利輝元宇喜多秀家擁立して挙兵西国大名西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。

伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田左衛門を陣代として軍勢派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯戦後9月25日出家して謝罪し、9月27日大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。

後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。

三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地100万石がもたらす資金人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。

墓所埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。

2017-03-18

歴史に学ぶということ

教科書には、第一次世界大戦から総力戦になったとか書いているだろうが、戦国時代から既に総力戦になっている。戦国時代後半には足軽という非正規雇用が進み、職業軍人だけで戦争をしているわけではなくなった。安土桃山時代には、鳥取の飢え殺し(かつえごろし)という事件が起こっている。兵糧攻めでも降伏しなかったので、領民までもが餓死し、共食いも起こったらしい。死体を食ったようだ。

経営者管理職自己組織の対面を維持しようとすれば、非正規雇用から犠牲になる。戦争ともなれば、兵士でなくとも犠牲になる。

桃山時代には刀狩りが行われ、つまり民間人に対する武装解除が行われて、職業軍人時代に再び戻された。

今でも、兵士民間人区別して、「民間人を巻き込むな」と批判することは一般的だ。しか現実には、民間人普通に兵士として使われる。

大東亜戦争」では、通称赤紙」が乱発されるが、これは民間人に対する徴兵軍事工場普通に空爆しても、そこで非戦闘員労働している。学徒動員かいうのは、職業学生軍事産業就労させたわけであり。さらにクソ愚かなことに、竹槍持たせて戦闘訓練をしたりとか、焼夷弾空爆されるのにバケツリレーで消火しようとか、これが現実じゃなければ爆笑ものである

国民一丸となって戦おうとか言うと、もしかするともしかして美談に聞こえたりもするのかもしれないし聞こえないのだろうけれど(笑)一般人犠牲にしてでも体面を維持して、少しでも有利な条件を引き出そうとする卑怯な、組織論理だぞ。しかしこの手法がまともに通ずるのは前近代戦争までさ。

前近代戦争ならば、敗戦するのにも一矢報いて有利な条件を引き出そうとしたわけさ。例えば戊辰戦争にしても箱館に立てこもって楯突いたのがいたわけで、戊辰戦争後には、既得地位を奪われた人々に対して北海道知行するという補填が行われている。そうして大名移住して開拓したり、下級士族屯田兵転職したりしたわけさ。けど、こういうのは前近代的な、取引としての戦争だ。

絨毯爆撃して沖縄戦しても屈服しないうえに、特攻してくる連中見て、アメリカ人ビビったんだが、ビビたからなおさら無差別殺戮してきたさ。そいで、広島長崎原爆実験台にされたんだぜ。結果、敗戦したうえに、天皇制維持をかろうじて死守しただけだろ。交渉になっていない、むしろやればやるほど失われたってこと。同胞捨て駒にして、なんの得も無かったんだから、実に、実に、クソバカだ。

歴史に学んでいない。歴史を学んでいないんだろう。今も学んでいないのだろう。教えられる奴も居ないんだと思う。まだまだおんなじことやり続けるんだろうね。今でも、人は国家社会歯車だろ。会社人間とか企業戦士とか、そして社畜とか、丁稚奉公時代から変わっていないしな。丁稚奉公時代から未だに毎年数度は「帰省ラッシュ」が起こるだろ。滑稽で笑われるような現象だけど、異常だという自覚すらないようだね。休日国家が決めていて、皆それに合わせないと生きていけないとかいう(以下略)(笑

景気が悪化し続けるのも当然で、国家のために増税したり、企業のために人件費削ったりして、組織構造を優先して、所得雇用を減らすことばかりやっているからね。遣えるカネないんだから、消費は増えない。採算をとるために人件費削るのに必死で、企業すら多くは遣えるカネ無いしね。建前では戦争やってなくて平和ってことになっている今も、実質的には戦時中だな。

2016-12-05

寿司の食べ方が話題になってたから調べてみた

http://anond.hatelabo.jp/20161204231218

  • 箱に酢飯と魚を詰めて「押し」をかける「箱鮨」「押し鮨」が生まれる。この頃は作ったあと一晩〜数日ほど寝かせていた。
  • 明治から大正にかけて、冷蔵技術の発達により(漬けではなく)生魚をそのまま握ることができるようになった。


という感じで、いつごろから魚だけでなく飯まで食べはじめたのか諸説紛々だし、

「早鮨」というのも「一晩寝かせるだけ」「その日のうちに食べる」「その場で食べる」くらいまで幅がありそうだし、

よく分かんねえ。

でも、こうして見ると「寿司を逆さにしてネタ醤油に付ける」というのも昭和以降の作法なんじゃねえの?

江戸寿司のようなヅケだったら醤油なんか付けなくてもいいわけで…江戸時代にはそのまま食べるのが当たり前だったと。

実際「寿司醤油を付けるのは邪道」と断言してる人もいるし。

となると、「煮切り(煮詰め)」だって必要ないんじゃないかと思ったけど、

現在江戸寿司でも、昆布めしタネかにきっちり煮詰めを塗っているみたいだ。

行ったことないから何でもかんでも塗ってるのか分からないけどさ。

逆に、仕込みをしない生の魚に煮詰めを塗る店もあって、しかしそれでは味が物足りないという感想の人もいた。

江戸時代の頃は酢飯もわりと濃い味だったとか。

ともあれ「生の魚を切って握っただけの味付けをしてない寿司」っていうのがそもそも結構イレギュラーなんだなあと思った次第です。

2016-02-06

今週の日本やばい

まずジャブで軽くて丈夫震度4の縦揺れ地震

その後桜島火山噴火

きてる。。。きてるね。。。

おそらくは今週末にまた大きなのが来ます

まず世界が白く光ります

それが終わりの始まりの合図です。

日本原子力発電所

日本地震大国

かつて関東大震災ときには風説の流布により大量の外国人日本人の手によって無残にも殺されました

日本人世界一穏やかで優しい民族、なわけがありません

互いに監視牽制しあってどうにか平穏を保っています

安土桃山時代には外国に戦求めて外人部隊やってたり

戦国時代もそうですが基本的には頭のおかしサイコパスの集まりです

お願いですから、今週末だけは日本にくるな

2013-11-17

来年大河ドラマがまた女性主役で違和感

表題では女性主役に違和感があるとしたが、実際にはどこどこ国の軍師だとかその妻、妹、恋人に焦点が当たる事に違和感を感じている。

大河ドラマ真骨頂戦国安土桃山江戸時代幕末と激動の時代を駆け抜けた人物、とりわけ戦国大名天下人活躍であって、

それを影で支えた、いわゆる縁の下の力持ちを主役に据えるのは最近トレンドらしいが、正直言ってその殆どは彼らの配偶者であるとか上司立役者であって、

縁の下の力持ち所詮岡持ちでしかないのである

女性主役の話を出すのは良いが、時代背景を鑑みても女性が、時代を駆け抜けた!では違和感しかない。

それは史料が少なすぎる事も起因している。

安土桃山時代ですら、立花千代甲斐姫を除けば政略結婚の道具としてしか活躍の場がない。

その証拠が大奥である

大奥江戸時代徳川一門の室での揉め事騒動をさした物語であるが、政略的な内容でしかなく、時代の主役はあくまで徳川一門なのである

確かに女性の力は偉大だが、所詮男性社会に一石を投じた程度の活躍である

大河ドラマでは、女性活躍は決して見込めるものがない。

からこそ、女性主役に違和感を覚えるのだ。

2013-04-28

大河ドラマはその日その時の日本人生き様を描くもの

それを他国に配慮して歴史的に良くも悪くも名を遺した人間いつまでも題材にしないNHKは駄目だ。

安土桃山時代加藤清正第二次世界大戦首相東条英機などがそうだ。

いつまで自虐史観で生きなければならないのか。

本来大河ドラマは常にそうした日々と闘い葛藤するものだろ

それをいつまで経っても他国への配慮で本当に日本人生き様を描けると思っているのか?

2007-10-07

http://anond.hatelabo.jp/20071007151921

それを言うなら

なんで大阪の人は名古屋出身で京都(聚楽第、伏見城)に住んでた方が長い、実のところさほど大阪と縁のない秀吉を崇めますか?

の方がよほど疑問。

# 安土桃山時代桃山伏見)とは言っても安土大坂時代とは言わないよね?

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