「人形劇」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 人形劇とは

2015-07-09

anond:20150709015357

デジタルアーカイブに関する政府の「知的財産総合本部」の声明

プリンプリン物語から判明する必要事項をかいておくってくれ。

 

デジタルアーカイブ公認によるサンクチュアリ化、

それにともなう「私的複製」に準ずる「公的複製」の許可。

からさまにいって、バックアップをとってNHKに渡すことも、

現行法では私的複製とみとめられずあとから遡及で訴えられかねない現状がある。

たとえば権利者がNHKだけじゃないとか。

ひとついうと、

ちょっとまえにかびのはえかけたβテープから

私的複製をとってあるしNHKがそれを捜していることも知っているが、

コピーワンス時代のものなので、一回コピーしたらもう二度とコピーできない

自分デッキが壊れたら次のデッキに移動しなければならないのでNHKがうかつに1回をつかいきると死ぬ)。

で、デッキごとたくさねばならないのがイヤだとかのケースもあるだろう。

今回NHK公的機関権利者だからまだ解決の道は見えるが、

プロテクタはずしが介在すればかなりややこしいことになってる筈だとおもう。

 

錯綜した著作権に、まず「つかまらないですむ」

まっとうな聖域をひろげる(悪人の口実になる形でなく)が急務。

(早くしないとってのは…

当時デッキはかなりの高級品だったよ? 

録画主は当時50歳、今80歳くらいじゃない?

相続人人形劇オタク遺産価値を全く理解しないかもしれないな…)

輯佚

プリンプリン物語』というNHKが生み出した古典的人形劇がある。

この『プリンプリン物語』。初めの二年間分のマスタービデオテープ現存していない。

1970年代当時、NHKであってすらビデオテープを上書きして使っていたからだ。

1000年代を生きた藤原道長日記御堂関白記』は、すべてではないが自筆原本が子孫の近衛家に伝えられた。古い時代の写本もある。

道長と同時代人、藤原実資(さねすけ)の日記『小右記』は原本存在しないが、過去、様々な公家重要性を感じ、書き継いでかなりの分量が現代に伝わる。

御堂関白記』『小右記』は伝本の種類や、文字の異動などが網羅的に調査され、今では東京大学史料編纂所ウェブサイト全文検索なんかができたりする。

刊行本である大日本古記録』シリーズリンクされていて、図書館とかに行かなくても道長や実資の記録にアクセスできる。

話を『プリンプリン物語』に戻そう。記録と言うものは簡単に失われる。

電子化が進んでもそうだ。今フロッピーデータをすぐさま利用できるだろうか? 営業を止めたウェブサービスが(インターネットが生まれたかだか十数年の間に)どれだけあっただろうか?

改めて、記録と言うものは簡単に失われる。しかし。

2000年代後半からNHKは『プリンプリン物語』の失われた話をビデオで録画して今でも持っている人を探している。他にも捜索願が出ている有名番組があるようだ。

http://www.nhk.or.jp/archives/hiwa/boshu3.html

歴史上失われ、現在では伝わらない文章逸文(いつぶん)という。諸本引用された文章から、失われた本体復元する作業を輯佚(しゅういつ)という。

1000年前の道長や実資の記録はもちろんだが、たかが数十年前の記録に対しても輯佚は行なわれうる。

そして重要なことは、実は私たちデータの断片を持っている可能性がある点だ。

偉そうな言い方だけど、歴史を記録し後世に伝える機会が、もしかしたら私たちにもあるかもしれない。

こんな文章書いているからわかる通り私は歴史好きだ。でもこういう現代のやがて歴史になっていく部分を記録する、っていう営為結構好きだ。

今の時代も1000年後には1000年前になってるわけだしね。

2014-06-11

何で女ってチンチンで人形劇始めるの?

2013-09-09

東京五輪の盛り上がりが分からない

 http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/09/08/182813

 読んだ。

 私も分からない。

 どうして「東京」で開催することを喜ぶんだろう。

 日本人ほとんどは、実際会場に行って競技観るわけじゃないでしょ?

 せいぜいバーや街頭ビジョンに集まって、みんなでワイワイやる程度。

 それ、外国からの中継映像観てるのと変わらないじゃない。

 大阪万博じゃあるまいし、大多数の日本人は自宅観戦。長野札幌五輪に行った人ってどれだけいるんだろうか。

 ヘタすると娯楽もメディア多様化してるから、自宅でも観ないかもしれない。

 これが地方開催で、土建屋が「うっしゃぁあああ!!」って喜ぶなら分かる。

 おそロシアの風刺人形劇みたいに、どっかの芸人ネタにしてくれたら嬉しい。観る。

 でも、箱モノ@東京で潤うのって、スーパーゼネコンだけだよね。

 下請け孫請けはある程度おこぼれ頂戴できるだろうけど、それこそ除染ピンハネのようなもので、旨み少ないよ。

2013-05-17

http://anond.hatelabo.jp/20130516213041

よく分からん

イッツアスモールワールドに並ばないために

金を使うという発想はどっから来たの?

増田の頭が財布並みにスカスカから

イッツアスモールワールド人形劇より、

民族衣装を来た世界の子供たちを招待するとか、

ミッキーと歩くプライベートビーチとか

俺なら、そうする。

TDR貸切りは貧乏人の思いつける貧弱さの限界

さらに言えば、プライベートを保てない公共の場へ

金を使って遊びに行くという発想そのもの貧乏人がすることだよ。

2012-07-28

文楽問題に関するいくつかのこ

以前、大阪市が公開した文楽問題に関するメール交信記録を読んで一文を記したが、

大阪の文楽問題をめぐる公開メールを一読して

文楽の問題に関して、Twitterを見ていていくつか誤解があるようなので、書いてみたい。

文楽大阪市補助金だけで成立しているのではない

産経の記事によれば、

橋下市政 揺れる文楽 補助金凍結…地方公演厳しく+(2/2ページ) - MSN産経ニュース

 同協会の収入は興行収入が8割、補助金が2割を占め、その内訳は国が8千万円、市が5200万円、府が2070万円(23年度)。

記事中「同協会」とは文楽協会のこと。今すぐ見当たらなかったが、たしか本公演に影響が出る額ではなかったように記憶する。少なくとも文楽の存廃に関わる額ではない。

大阪市補助金カット後、別名目の補助を出す可能性がある

公開されたメール記録から。池末浩規参与3月24日メール

http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/page/0000174249.html

③-1.技芸員のマネジメント機能のうち、「都市魅力向上に資する伝統芸能に関する若手技能者の育成支援事業」に対する事業補助を行う。これは当 初金額を××円(試案:2,000万円)とするが、××年度(試案:平成27年度)以降の分については、前年に(府)市の文化芸術に関する補助についての委員会名称未定)により決定する。

③-3.経過措置として、✕年間(試案:平成24年度に限って)は、✕✕万円(試案:3,200万円…現状の5,200万円と上記2,000万円 との差額)を新たな公演の試み、協会の機能向上の試みに対して事業補助する。この補助の使途および成果については、事後に報告するものとする。

ただし、同じく池末参与6月5日メール中、橋下市長とのやりとり部分。(→は池末参与の返事)

文楽についてはその構造 も、担当者以外は理解していないところもあります

文楽守れ!=(国も地方も)税を入れろ!となりがちです。

文楽を守る役割は結局国に あるということがはっきりとしてきました。

→結局文楽の振興については国しかコントロールできない形にしておきながら、大阪府市も金入れろという図式ですね。

そうなると若手育成も国では?

→本来はそういうことになります

また若手育成について、国 と地方役割はどうなのでしょうか?

→原則国主体でやるべきという考え方がベースになると思われますが、国が新たなスキームに乗ってくるまでの短期間(3年以内を想定)人材育成につい ては大阪奨励金を出す考え方もあるかもしれません。

将来、技芸員が自分の子息に芸を継がせたいと思い、家業として芸の継承が出来れば安定するのでしょうね。

市長とその周辺の意図としては、「文化財保護」よりも「振興(観光資源としての活用)」なのでこういう書きぶりになる。しかし、文楽においても、もちろん「家業」となっている場合もあるが、原則的には歌舞伎と違い、あくまでも実力主義だという側面が全く閑却されている。

文楽では過去様々な新作が作られてきた

文楽伝統に胡坐をかいている、敷居が高いなどという意見を散見したが、事実文楽も新作を試み、様々なチャレンジをしてきた。たとえば、子供向けに作曲された新作があげられる。

文楽の入門編として最も手軽だと思われるのは、国立文楽劇場で毎年夏の公演で演じられる演目だ。夏休みのため子供の観客を対象としたものが必ず演目にあがる。今年は「西遊記」がかかっている。

そこで近年演じられてきた演目を振り返ると、「舌切雀」「雪狐々姿湖(ゆきはこんこんすがたのみずうみ)」「瓜子姫とあまんじゃく」「東海道中膝栗毛」「金太郎の大ぐも退治」「鼠のそうし」「大江山の鬼退治」。。。などなどがあげられる。ただし、必ずしも中身が充実している演目ばかりとは言えない。

こういった子供向けの演目だけでなく、大人向けの演目も様々な試みが繰り返されてきた。

例えば歌舞伎演目コピーがある。そのなかで、「勧進帳」はもっとも有名な演目の一つだろう。

またあまり知られていないかもしれないが、近松門左衛門の「曽根崎心中」は歌舞伎の影響で戦後に復活した演目だ。その事情は次のサイトコンパクトにまとめられている。

素人控え「操り浄瑠璃史」

 その人形浄瑠璃にとって難題だらけの「曽根崎心中」の復活上演を、まず試みたのが本家人形浄瑠璃ではなく、歌舞伎であった。

 昭和28年(1953)8月、近松門左衛門生誕300年を記念して宇野信夫が「曽根崎心中」を新しい歌舞伎に脚色し、の新橋演舞場舞台にかけたのである。徳兵衛を上方歌舞伎の第1人者の2代中村鴈治郎、お初を長男の2代扇雀(のちの3代鴈治郎)というコンビで演じたところ、大評判をとって扇雀ブームまで起こった。

 この反響の大きさに驚いたのが、本家文楽である人形劇としての「曽根崎心中」復活上演に意欲を燃やし、現代向きにという松竹大谷竹次郎会長の意向を入れて、西亭(にしてい)こと三味線弾きの初代野澤松之輔が脚色・作曲担当、鷲谷樗風(わしたにちょふう)の演出で、昭和30年(1955)四ツ橋文楽座1月公演の舞台にかけたのである

 よく復曲といわれるが、昔通りの演奏復元は不可能で、新しい作曲と割り切った方が誤解が少ない。語りを8代竹本綱大夫、三味線を10代竹澤弥七コンビ主人公・徳兵衛役の人形は序列7番目だった吉田玉男が遣った。

 上演すると、元禄の初演当時のようにお初徳兵衛の純愛葛藤が評判を呼んで、興行的に大成功を博したのである

これらのものは本公演でもしばしばかけられる演目だけれども、より実験的な演目としては、蝶々夫人ハムレットテンペスト(「天変斯止嵐后晴」)など。また、市長が再三ふれている三谷幸喜の新作に代表されるようなそれも、しばしば作られる。聖書福音書物語文楽で、といった試みまである

まり文楽に携わる人たちは、新しい観客開拓への意欲はあり、チャレンジ精神も問題意識もある人たちなのであって、この点は文楽を知らない人たちによく認識しておいてもらいたいと切に願う。

したがって、ちゃんとした台本さえあれば、たとえば百合文楽でもけいおん!文楽でもなんでもできるはずだ。文楽人形は、女子高生でもイエス・キリストでも、なんにでもなれるのである

なぜ文楽が他の「伝統芸能」「大衆芸能」と同じでないのか&なぜ継承が難しいのか

しばしば、歌舞伎落語と並行して文楽を論じられているのを目にする。しかし、文楽は他の古典芸能と全く違う側面があるので、「伝統芸能」「大衆芸能」という大雑把なくくりで論じられるとやや面食らう。

まず、文楽音曲として非常に格の高いものだったという歴史的な事情である。これは歌舞伎竹本葵大夫さんが軽く書いている。

歌舞伎義太夫の世界

人形芝居で創りだした演目歌舞伎流出して、歌舞伎で大当たりを取る。それがために、人形芝居は経営に打撃を受ける。これは対策を講じなければいけない。そんなこんなで、人形芝居の組合で「歌舞伎に出演した太夫・三味線は除名処分にする。歌舞伎の太夫・三味線とは同席しない」などと取り決めます。「われわれは宮中お召しがあると参内して芸をお目にかける。そして掾号も受領することさえある。歌舞伎などの河原者とは身分が違う」と息巻いたかどうかは知りませんが、これくらいのことは充分おっしゃられたでしょう。

今でこそ、私など文楽の9綱大夫師にご指導いただいたり、ほかにも三味線の方が文楽の方のご指導をいただいたりしておりますが、昔でしたら考えにくい現象でしょう。

もちろん実力の裏付けがあってこそで、

 ただいまでも「文楽座出演」と銘打って歌舞伎演目文楽座の皆様が演奏で出演なさると、たいがい新聞劇評は「○大夫、△△以下、文楽座の演奏に量感がある…」というようなことが書かれます。ところが、同じ曲を私ども竹本演奏いたしますと、あまり賛辞を頂戴することがございません。

ということになる。

葵太夫さんも触れておられるが、そもそも人形浄瑠璃皇室関係の深いもので、その一つの表れが掾号だろう。名人上手は皇族から掾号を受領することがあり、豊竹山城少掾、人形遣い吉田難波掾を最後に掾号受領するものはいないが、しかしながら皇室との関係はあったわけで、昭和38年松竹が興行権を手放し文楽協会が成立したとき松竹がこれを「献納」と言っているのは故なきことではないのだ。

繰り返すが、このような人形浄瑠璃における格の高さは、実力の裏付けがなければ意味を持たないし、まして現代において補助金の投入を正当化するものには必ずしもならない。

しかし、他の芸能と一括りで論ずることができないという側面の若干は感じてもらえるのではないか

また、義太夫節の特性について若干ふれておきたい。

義太夫節構造のものは簡単で、決まったメロディーパターンを詞章に合わせて組み合わせて行くだけだ、という説明でいいと思う。したがって、このパターンの組み合わせは無限に広がる。

ところがそう簡単にいかないのは、文楽古典場合演目に合わせて様式が成立しており、義太夫節ではこの様式を「風(ふう)」という。かねて様々な論者により、風を語り分け伝承するのが最大の難物だとされてきた。というのも、非常に微妙・繊細なものだからだ。

以前書いたように、私は国立文楽劇場に通って図書閲覧室にもよくお邪魔をするような人間だったが、さすがに義太夫節を語るところまではやらなかった。だから断定はできないけれども、この様式の問題は最後は幼少時の音楽環境の問題になると思う。と考えたくなるくらいに、微妙な代物であって、これだけ洋楽が氾濫して耳が慣れてしまっている現代日本で、こういうもの継承することが可能かどうか、はなはだ疑問だと言わざるを得ない。

やや話がずれたかもしれないが、たしか落語歌舞伎などのように、時代に合わせて姿かたちを変えることで人形浄瑠璃においても生き延びることだけなら可能かもしれない。しかし、文楽場合、繊細な中身が変わってしまってはもはや文楽ではなく、ただの人形芝居、「文楽のようなもの」が残るだけだろうと強く危惧するものだ。

この点が、私の文楽の将来に対する悲観や「古格を維持している限りは、文楽は補助されるべきだ」と考える所以でもある。

観客動員を増やそうという努力必要、ただしその限界も率直に認めるべきだ

大阪市長やその周辺が模索しているように、観客動員を増やそうとする努力、そのための宣伝や統括的なプロデュースマネジメント必要だろうというのは、私もかねがねそう思っていた。まんざらではないと思う。

ただし、それには一定限界があるだろうとも思う。要因はいくつでもあげられる。

音楽環境がもうまったく変わってしまっている。古典に対する教育ほとんど日本ではなされないのだから理解できなくて当たり前。そもそも、松竹ですら経営が難しくて50年前に放り出したものを今の時代に観客が増えるわけがない。ちゃんと語れる人がもういなくなりそうだ等々。

一定限界を認めなければ、たとえば市長がいろいろ言っているように古典であっても演出をもっと現代的にしなければならなくなるだろうし、本も変えなければならない。本来、国立劇場国立文楽劇場での公演は一作品全部を舞台にかける「通し」を主として行われるべきだが、観客動員を上げたいのであれば歌舞伎のように「見取り」だけでプログラムを構成し、有名な売れそうな場面だけ舞台にかけておけばよい。しかし、それで本当にいいのか。

まり観客動員をどうしても上げたいのであれば、中身にも伝承にも確実に影響が出てくるだろうと思われるのだ。これで本当に「古格」が維持できるんだろうか。

「なぜ大阪府市が文楽の保存に公金を出さねばならないのか」という疑問に対する私の考える答え

私は、文楽だけでなく、歌舞伎も好きだし(そもそも文楽に触れるきっかけは歌舞伎で知っている演目文楽ならどうなのかという興味だった)、西洋古典音楽も大好きな人間だ。そうやって比較をすることで両方を消化するのが、誇張して言えばあるいは日本人だけの楽しみだとすら思っている。

そこで西洋音楽比較した場合文楽匹敵するものワーグナーの楽劇ぐらいしかないのではないかな、と感じている。長大さや感動の深さの点で比肩する物は相当に限られてくると思う。

それだけの値打ちがあるんだということ、それだけの値打ちがあるものに対して、日本のものなのに、その日本人の大多数が興味関心全くゼロだということは、まず言っておきたい。

その上で、しばしば「補助金なしでやっていけない芸能芸術は滅び去るべきだ」という意見が見られる。非常にもっともな意見で、公によって支えられている文化事業は常にこういう問いを問われるべきだと私も思う。

ただ、一方で、ヨーロッパオペラしろオーケストラしろ、「補助金なしでやっていけない」わけだが、「だから滅び去るべきだ」とは言われない。ここは必ずしも論理としてリンクするものではない、ということも、またもっとなのだ

文楽匹敵するのはワーグナーくらいしかないのではないかと書いたけれども、ワーグナーには過去歴史から政治的な問題が色々あり、また採算が取れないからといってドイツ人ワーグナーを「過去のもの」として捨て去るだろうか。欧州においてすら西洋古典音楽のファンはそれほど多くないはずだが、さらにそのなかのごく一部のワグネリアンしかたいした興味関心をもたないかワーグナーの上演は無駄だと批判されるだろうか。そういうことは今のところまずあり得ないと思う。なぜなら、ワーグナードイツの宝だからだ。文楽よりはるかにカネがかかるにもかかわらず。

大阪の先人たちは、文楽という芸能に対して文字通り心血を注いできた。一時期を除いて基本的には客が入らない芸能だったので、名人上手ですら「明日のご飯がない」という貧乏話は普通にある。奥さんが小料理屋を営んでいてそれで食わしてもらったりしている。それでもなお、大阪の偉大な先人たちはこの芸能に打ちこみ、奇跡的に現代に伝えてきた。

彼らはお金はなかったかもしれない。貧乏だったかもしれない。その代わりに得られたのは、感動を与える喜びであったり、誇りだった。掾号の問題はまさしくそれで、名誉けが彼らの糧だったと言っても言い過ぎではない。ワーグナーにも匹敵する芸能であるからこそ、それだけ打ち込む価値があったのだ。

ただ、現代社会では、残念ながらこの芸術価値に見合うだけの犠牲を技芸員たちに求めるのは、無理になって来ている。(それでも彼らは贅沢な生活をしているわけでは決してない)

現代大阪人はそういう偉大な先人の子孫だ、そういう偉大な芸術を生んだ共同体の中にすむ一員なんだという矜持、その矜持が文楽に金を払わせるのであって、他に理由は見あたらない。

そして、、、私はこれが最も大事な点だと思うけれども、、、大阪人に持ってもらいたいこの矜持に対して、文楽に携わる人たちはお返しをしなければならない。

それは、新しい観客を獲得する挑戦を一方で続けながらも、文楽の本格を維持すること、継承すること、古格を守ることではないか。それが、文楽座に課せられたミッションであって、それが出来なくなった時、文楽文楽でなくなり、公金を投入する理由もなくなるだろう。

もちろん、大阪市長やその周辺の人々が考えるように、観客動員を上げて観光資源として活用されるように生き延びる方向もある。しかし、それはもはや「文楽」ではない。

もし「文楽のようなもの」という形でしか生き延びられないのであれば、偉大な先人の名誉のために、大阪人の矜持のために、近い将来、しかるべきタイミング文楽の死を宣告してもらいたい、最低でも名前だけは変えてもらいたい、無形文化財世界遺産の認定も返上してもらいたい。私がこのように希望する気持ちやその理由も、これまでつらつらと書いてきたことから感じ取ってもらえるのではないか

そして同様のことは、なぜ国が補助金文楽に対して投入するかという理由づけにもなるように思う。大衆に受け入れられない芸能は補助金を打ち切ればいい、この財政難の折から文化事業に投ずる財源はないとよく言われるが、ことはそう単純ではない。

予算全体から見れば、補助金として文楽に投入される額は巨額とは全く言えない。しか大阪場合は、対象を悪玉・敵に仕立て上げて財政削減しても、すぐに無駄プロジェクトに走るのでせっかくの財政削減が全く無意味なことになっている。大阪市長文楽に対して様々な批判を繰り広げているが、予算と比較した場合にあまりにも不釣り合いな煽りであると言わざるを得ない。

日本の偉大な芸術しかもまだかろうじて本格が維持されている繊細な芸術に対して矜持を持って維持するに、大阪はもとより、日本市民社会全体「も」維持しなくて他に誰が維持するというのだろうか。

(追記)

これまで書いてきたように、私自身は文楽の将来にはかなり悲観的であるし、芸の質についても相当程度批判的だ。したがってTwitter を見ていて古典芸能ファンによる「日本の伝統芸能なんだから維持されるのが当たり前」や「とにかく文楽は素晴らしい」に類する議論を見ると鼻白む思いをする。自分の楽しみのために税金の投入を是認しろというのであれば、それはまさに橋下市長の批判通りなのではないかと思う。

したがって、古典芸能ファンの言動にもいささかついていけないものを感じる時があると、これは明記しておきたい。

また、もし何かご意見などあれば、Twitterの私のアカウントに何か書いていただきたいというのは、前回の増田に書いたとおりだ。https://twitter.com/SignorTaki

2012-07-27

http://anond.hatelabo.jp/20120727110402

スーパー歌舞伎ならぬスーパー文楽ってことになるんかね。

そういうのがないのは不幸だったのかも。

昔なら同時代の事件を脚本にするってことで話題性があったんだろうけど、今やテレビネットもあるからわざわざ文楽にしようという人はいないだろうね…

AKB枕営業をどれだけの人がそれを文楽で見たいと思うか…

江戸時代大奥吉原かなんかに舞台を移してやるのかな?

まあでもテレビだと難しいし、文楽なんかで批判的に取り上げてみると面白いかもしれないね

プロデューサー氏がAKB秘密文楽にした、とかなら話題になろうけど。

もう萌え人形劇にするんだな。

巷では橋下市長は文楽の良さもわからんのか、という話にはなっているのかな?

(そんなこと言っても予算削られたら終わりなんだけど)

だいたい歌舞伎にしろ文楽にしろオペラにしろ、話が面白くて見に行く人は何割くらいなんだろう。

みんなストーリーわかって見に行ってんだろうに。

まらんところは寝てりゃ良い。

2012-06-29

大阪文楽問題をめぐる公開メールを一読して

大阪文楽問題に関して公開されたメールを一読した。

http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/page/0000174249.html

かいことは直に読んでもらえばいいので特に言わないが、少し書いておきたい。

最初に、市長とその周辺の人たちが何を考えているのか、手短にまとめておきたいと思う。

まず、大阪府市の負担軽減を視野に入れた、文楽に対する姿勢の見直し。たとえば橋爪紳也顧問が、

文化施策ではなく観光施策の枠で、「文楽再興」の議論を起こしたい。

と書き、あるいは池末浩規参与も、

大阪市としては「文化財保護」に与する必要はなく、市が出金するとすれば、それは市民や来街者、観光客から見て魅力になっているような文楽に、必要かつ可能な範囲で援助をするというものになるはずです。

と書いているように、大阪府市としては文化保護名目での補助はしない、ということだ。(ただし、国が負担を認めるまで育成費用の補助4000万程度は出すそうだ)

そして、

再び市民に受け入れられる芸能となるべく積極的に活動する

参与も書いているが、観客動員一定目標をおき、その達成のためより効果的なプロデュースマネジメント必要であるからそのために改革をしようとなる。

この点については実は私も同感で、文楽を全体として統括的にマネジメントプロデュースすることができてないのではないかという不満は以前から感じていた。それに、どうしてもお役所仕事なのでスマートとは言い難く、大阪弁で言えば「もっちゃり」した感じにならざるを得ない。

さらに技芸員の意識改革を促している。旧来の殻に閉じこもっていてはダメではないかというわけだ。「意識改革」の具体的な中身としては、ミニ公演などのプロモーションはタダでやるべきなんじゃないのかとか、もっと観客の声を聞くべきだなどなど。

あるいはメールで技芸員の公務員化について触れられているのももっともなところで、たぶんこの辺りの感覚は長年のファンをやっている年寄りなら分かると思うし、東京歌舞伎座近くの某所で同様の会話をして嘆きあったりもした経験が私にはある。

まり、全ては、

今回橋下市長のリーダーシップのもと、文楽は「無形文化財として淡々と維持する」(旧来の考え方)ものから、「再び市民に受け入れられる芸能となるべく積極的に活動する」(新たな考え方)というものシフトしようとしているところです。

という参与意図に集約されるのであって、これは賛否様々な意見があるところではないか

私は、過去文楽劇場に足しげく通い、図書閲覧室へもよくお邪魔をして勉強させてもらい、職員の方々にも大変にお世話になった経験を持っているけれども、文楽に関しては非常に悲観的な立場をとっている。

文楽はもうすぐ死に絶える。事実文楽協会ができたころ、「文楽という芸は苔むした立派な梅の古木のようなものであって、じきに枯れる運命だが、無様な姿で枯らしてしまうのは忍びない。だから、せめて姿かたちはそのままに美しいまま死んでもらおう」という発想が背景にあったように記憶している。

文楽というのは本当に維持が難しい事業で、語り一つとっても、過去現在でこれだけ音楽環境が変わってしまうと、語りを成立させる音感がまるっきり違ってしまう。成長してから訓練でどうにかなるレベルの問題では、おそらくないはずだ。もちろん、浄瑠璃を理解するための前提知識なども違う。

から、近い将来、死亡宣告を言い渡す時期がくるし、税金を投入するならなおさら、本物・本格の保存が不可能になったときに、とっとと文楽の維持なんぞやめるべきであり、それこそがこの偉大な芸の先人たちを辱めない、唯一の道だと、私は思う。

その意味で、安易に文化を守れ伝統を守れと言ってみたり、反橋下の立場からついでに文楽を守れと言ったりする人たちとは、私は全く異なる。税金を投入する以上、真に偉大な芸としての文楽の古格が維持されなければならないし、それが無理なら文化だろうが伝統だろうが、潔く捨ててよい。今に生きない伝統など意味はない。本当に感動的な人形浄瑠璃は、過去の記録映画となって保存されている。無意味に惜しむ必要必然性も、どこにもない。

逆に言えば、まだ今の年寄りの技芸員が生きている間、なんとか細々とでも古格が出来ているならば保存するべきであって、それは与えられたミッションが達成されているとして認めればいいんだろうと思う。

観客が入るか入らないかは、この際どうでもよい。文楽は昔から客の入らない芸で、貧乏話極貧赤貧エピソードに事欠かない。問題は本格ができるかどうかだ。それに尽きる。

そこで、大阪市プロジェクトに話を戻すと、これをそのままやると、もちろんマネジメント改善など賛成できる部分もあるのだけれども、人形浄瑠璃の中身そのものに大きな影響を与えると思う。

下市長が面白い例を出している。

ある大物タレントさんが、これまた大物歌舞伎役者歌舞伎に誘われて歌舞伎を観に行きましたが、つまらない、分からんと言ってすぐに帰ったそうです。その歌舞伎役者さんは、この大物タレントさんにどこがつまらないのか、どこがダメなのか必死になって聞き出し、これまで自分では気付かなかった新たな視点での指摘事項を改善しつつ、歌舞伎面白さを説き続け、誘い続けたそうです。この大物歌舞伎役者さんは、観客からの厳しい指摘が公演を面白くする一番のカギと言われています

くその通りで、歌舞伎ならこれでいい。だから歌舞伎はどんどん変質していった(いっている)し、古格を守ることはそもそもできず、またそれで構わない芸能だという一面がある。

文楽だって客の意見には常に真摯だったのだ。

わざわざ語り手である太夫と三味線弾きの前に毎日座る客というのが大昔はいた。誰が出てきてもとりあえず批評批判する怖い客として知られ、しかし語り手も三味線もこういうお客を大事にしたらしい。

今でもこの種の客気質は、こと大阪年寄りに関する限り健在で、今の源太夫が綱太夫のころ、あるお爺さんが私に、

「織太夫でまだ若かったころは将来どんなもんになるかと思てたけど、綱太夫はホンマあかん。感動がないわ」

と言い、また、文楽人間国宝としてたびたび言及される住太夫についても、

「もう限界やっちゅうのは本人がよう分かってるやろ、あの年やし」

と言いきっていたものだ。あるいは別のお婆さんは、

「綱太夫の発声は変や。高音に行くと喉がつまってくる。あんな語り方はあらへんよ」

とばっさり批評したものだった。ちなみに、この綱太夫はその後人間国宝になってしまうわけだが。

そういう厳しいことをいう熱心なファンがいたからこそ、この芸に携わる人たちは鍛えられていったわけだ。

しかし、そういう耳も目も肥えた客の厳しい意見と、観客動員を増やすための批判は異なる。観客動員を増やそうとすると、中身が変質して古格が維持できなくなるのは、火を見るより明らかだ。そこで上演されるものは、300年続いてきた人形浄瑠璃ではない、何か別のモノだろう。

実際のところ、今でも中身は変質している。例えば、もっと重要な場面を語る「切場語り」を今やっている人たちのあと、一体だれが後を継げるのだろうか。おそらく、有資格者は誰もいない。

あるいは、今は文楽を「見に行く」というが、そもそもは「聴きに行く」ものであった。人形浄瑠璃と単なる人形劇は違うが、視覚の刺激に慣れた現代の観客にとって「見る」を重んじた方がはるかに分かりよくなっている。

その他、細かい部分で古格と言えるものが本当に継承できるのか、できていたのかどうか、はなはだ疑問だ。

はいえ、それでも歌舞伎とは比べ物にならない程度に本格の古格を守って来たのが文楽であって、それはかつてある歌舞伎ファンが文楽を見て「古いのが残っていていいなぁ」と言ったように、もう比較にならないと思う。

そこに、この大阪市プロジェクトとなると、人形浄瑠璃は完全に変質してしまう。本当に守るべき古格は、もうどうでもよくなってしまうだろうし、決定的に死んでしまうだろう。

と書くと、やや刺激的かもしれないが、なんのことはない、文楽の死なぞ最初から知れたことであり、それがちょっとばかり早くなるに過ぎない。「苔むした立派な梅の古木」がもう枯れると、知れ切っていたことなのだ

このプロジェクトを書いた池末参与善意に違いないし、文楽の再興が魅力ある観光都市としての大阪にとり大きな資源だと考えているはずだ。また、文楽に携わる人たちも、継承にはチャレンジや変化が必要だとする人たちも少なくないだろう(私は、文楽がいろいろなチャレンジや、同時代に観客に受け入れられる努力もされてきたこともまた知っている)。

よく分かる。

しかし、私はそこで一つだけ希望を言いたい。

もしこのプロジェクトをそのまま実行するならば、人形浄瑠璃文楽という看板は取り下げてもらいたい。

300年続いた本当に偉大な、世界のどこにも負けない本物の芸は死に、何か別の人形劇、「文楽のようなもの」が続いていくことになるだろう。そこで「人形浄瑠璃文楽」の看板を掲げることは、ウソだし、なによりも文字通り命を削ってこの芸に打ちこんできた偉大な先人たち、まさに大阪の先人たちに対する侮辱に他ならない。

この人形劇観光資源としてどう活用したって構わない。だけど、文楽はもう死んだことを認めてほしい。いや、認めるべきだ。そうして、過去のものとなった文楽の真の偉大さだけは、せめて守ってほしい。それだけが、せめてもの私の小さな希望だ。

(追記)

以下は私のTwitterアカウントなので、もしご意見などがあれば、ぜひ遠慮なく私に書いていただきたいと思う。文楽は私にとってただ好きというだけでなく、重いものでもあるから

https://twitter.com/#!/SignorTaki

2012-04-22

2歳下の妹を殺しかけた記憶最近ふと蘇った。

小学生のころ、喧嘩になり、首をしめたことがある。

憎いという感情がはっきりあった。

また別の時は階段から突き落としたことがある。

ちなみにどちらも怪我などにならなかったけど、

今考えると恐ろしい。

女同士の喧嘩は幼い子供でもえげつない

妹のことは今でも苦手。よくもわるくも「普通の子

幼い頃は私が怒られた事は真似しないようにする、非常に要領よく生きる子だった。

私は「◯◯ばっかりずるい!」としょっちゅう言っていた。

妹が生まれるからといって母親実家に預けられていたところから

私の記憶スタートしている。

その後は、あまり構ってもらった記憶がない。

むしろ怒られている記憶ばかりだ。

怒られるようなことばかりしていたので仕方ないのだけど。

叩かれる、口をひねられる、は普通

夜、外に追い出されて、鍵をかけられたりとか。

あんたは橋の下で拾ってきた子だと言われたりだとか。

そんな時でも妹は静かに状況を見ていた。

そして私に見せつけるように親にかまってもらっていた。

さら母親地域の子供たちの世話を見る会に参加していて、

読み聞かせ紙芝居人形劇の準備、

そういったもの時間を割いていた。

それのクイズ大会で私はたくさん手を上げた。

「あんたはダメ」と言われた。身内だからだ。

子供の私は頭で理解できても、ショック大だった。


親に褒められた記憶、二つしかないけど、大事にしてる。

今でも誰かに褒められると異常なくらい嬉しい。

小さい頃の私は、親にかまってもらえなくて、寂しかったのかな、今やっと理解した。

よしよしってしてくれる人が居ないので、自分子供自分をよしよししてみる。


現在一人暮らしをしているが、一転して母親からの過干渉が鬱陶しい。

数日連絡しないと「警察通報するよ」という脅しのメールが来る始末。

妹が結婚して、家を出るらしい。

「妹になにかあったら助けてやって。住所は~~~です」

お互いもういい大人なのに何を助けることが或るんだろうか?

私は未だに妹のことが苦手なのだ

うまくいかいね

2010-10-01

たしかあれは幼稚園の時だったから、4才か5才だった気がする。

たしかあれは幼稚園の時だったから、4才か5才だった気がする。

何でなのか分からないけど、私は2つ上の兄と一緒に知らないおじさんの家にいて

兄がしているテレビゲームの画面を隣で座って見ていた。

その時、おじさんが私に

 隣の部屋で一緒にテレビを見よう

と言って、隣の部屋に移った。記憶ぼんやりしているけど、部屋に移った時、おじさんが

部屋の鍵を閉めたのだけは鮮明に覚えている。

そこからは、もう記憶がぐちゃぐちゃになっている。

覚えているのは、部屋の天井の色とヤクルトを飲んだこと、そして裸で横になっている私の陰部をみて

 へぇ、こういう風になってるんだぁ

とつぶやいた言葉だけ。その他にも少しだけ覚えているんだけど、断片的なものでしかない。

それから兄と一緒に何回かおじさんの家に行ったが、いつだったか親にそのことがバレて二度と行くなと怒られた。

 あんたはお兄ちゃんがゲームしてる間何してたの?

と親に聞かれたけど、なんとなく言ってはいけない事だと思って

 おじちゃんと、人形劇テレビを見てた

と答えた。

それから二度とその家には行っていない。

あれから17年か18年が経った。

トラウマになることもなく、記憶は薄れ、普通に友達ができ、普通に恋もしたりして、普通に学校卒業し、普通に就職をした。

あの出来事は、本当に起こった事だったのか夢だったのかも分からないほど記憶ぼんやりしていた。

それなのに、今日会社でお昼に行った時に上司

 寒いなぁ。お前、手寒くないか?

と言って、私の手を触った瞬間、急激な吐き気に襲われた。体が一気に硬直し、お腹のあたりからもやもや

体中に伝わった。

自分の反応に驚いて、何が何だか分からず頭が真っ白になっている時

 へぇ、こんな風になってるんだぁ

というあの声が頭の中を駆け抜けた。

自分にショックを受けた。

幼い頃にいたずらをされた事にショックを受けたのではなく

自分の心に傷ができていた事にショックを受けた。

嫌だ。嫌だ。こんな事でもやもやしたくない。

あれが原因でもやもやするなんて嫌だ。

あれが夢かもしれないという可能性がなくなっちゃうじゃないか。

あれが事実であることを証明してしまうじゃないか。

嫌だ。あれが原因でもやもやするなんて。

あれのせいで、他の女の人と違くなっちゃうなんて嫌だ。

他の女の人が普通に受け流す所で、私だけがもやもやするなんて嫌だ。

あれのせいで、私だけ違くなるなんてそんなの絶対に嫌だ。

私はそんなに弱くないのに。

あれだって、気にせず今までこれたじゃないか。

トラウマになることなく、普通に過ごせたじゃないか。

勉強だって人並み以上にできたし、今の仕事も地位も手に入れたじゃないか。

嫌だ。あれのせいで、上司もやもやするなんて。嫌だ。

どうしよう。これからまた上司もやもやしてしまったら。

挙句の果てに、会社に行く事さえもやもやしてしまったら。

そんな思いが頭をぐるぐると駆け巡っている時に、ある不安が頭をよぎった

 もしこの先、結婚できて、夫がおじさんになった時、その夫にもやもやしてしまったらどうしよう

と。

嫌だ。被害者になりたくない。

私はそんなに弱くない。傷なんて受けてない。何とも思ってない。

それでも漠然と体を巡りつづけるこのもやもや全然消えない。

誰かに頼りたい。

でも誰かに言って、あれを話したら、あれが実際に起こったことになってしまう。

誰かに伝えるという手段をもって、あれが形態化してしまう。

誰にも言えない

今までさんざん勉強してきたのに、全然答えがでない。

こうやって匿名の記事に気持ちをぶつけるという事しか、今は考えつかない。

この記事を客観的に見れば 自分の気持ちを整理できるかもしれない。

客観的に見れば、なんだよこんなちっぽけな話、ばからしいと思えるかもしれない。

なんて まったく根拠のない考えしかできないけど、今は何かが変わることを願う それしかできない。

2009-09-03

http://anond.hatelabo.jp/20090901031104

新党日本田中氏と会談=鳩山

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090903-00000088-jij-pol

9月3日16時32分配信 時事通信

 民主党鳩山由紀夫代表は3日午後、党本部で新党日本田中康夫代表と会談し、新政権で取り組む課題について意見交換した。田中氏は、自衛隊を改組し、救助活動や医療支援を行う「サンダーバード隊」の創設など、先の衆院選で掲げた政策を説明。鳩山氏は「いいアイデアが浮かんだ。サンダーバード隊のようなものを国連演説に入れたい」と答えた。

 田中氏はこの後、記者団に「鳩山さんとは深い信頼で結ばれている。鳩山さんがひるむことなく、リーダーとして全うできるよう支えていくつもりだ」と述べた。 

漫画首相を追い出したらSF人形劇首相がやって来たでござる。

2009-08-02

初心者に安心してお勧め出来る感動の名作選】エロゲ

44 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/08/02(日) 13:29:10.07 ID:GxfI26OF0

初心者に安心してお勧め出来る感動の名作選】

  • 果てしなく青い、この空の下で…

 田舎町を舞台にした穏やかな心温まるラブストーリー

 ゲーム史上にその名を刻むナイスガイ鳴海孝之の漢ぶりに注目

 特にお薦めは第三章 美人で優しいおねえさんに萌えろ!

  • 好き好き大好き!

 元祖 電車男

 女子高に赴任した新人教師と生徒が織成す感動ラブストーリー

 厨房掲示板で展開されるドタバタギャグコメディ 笑いながら抜ける傑作

 事故後遺症に苦しむ主人公と友人たちが織り成す青春ラブストーリー

 ロリコン必見!かわいい娘とのお留守番をお楽しみください

 トラック野郎人形劇を通して主人公とヒロインの恋を成就させる恋物語

 伊藤誠鳴海孝之にも劣らぬ漢ぶりも見所だがなにより桂言葉の健気さに圧倒されるゲーム

 スクールデイズに続く傑作!凄い!なんたって凄い!買え!

 雪が織り成す学園青春爽快ハートフル純愛物語

2008-03-12

これからどんだけ東方の合同誌が出ても

「るーみゃっくわーるど」に匹敵するようなのはもう出ないんだろうなぁ

88人って……

いいとこ1/4じゃない?

なんか、最近ちらほら出てる合同誌見て、改めてアレのすごさを思い知った。

キャラの人気なのか、それとも人脈のなせる技か。

夜雀ノ華歌 54人

恋色白書 33人

小悪魔尻尾 25人

七色人形劇 19人

三人合同誌 3人

一人合同誌 1人

再販出せるかどうかは主催者の資金力しだいだが

2007-10-31

永遠に関するつぶやき

僕には、みんなが普通に生活を送っていることが

ときどき、とても不思議に感じられる。

人はいつか死ぬ。

当たり前のことだけれど、

しかしゆるぎない真実であって、

これが僕にはひどく恐ろしい。

死の痛みは怖くない。

自我喪失は怖い。

怖いけれど、僕が本当に怖いのは永遠だ。

幼稚園小学校低学年の頃、

テレビサンタクロース人形劇をやっていた。

サンタクロース子供好きなただの老人だった。

みんなにプレゼントを配っていた、やさしい老人だった。

やがて、サンタクロースは天寿を全うして死んでしまう。

神々は会議を開いた。

老人のような神、黒い山羊の姿をした神がいたのを覚えている。

神々は話し合う。

我々には永遠の命があるが、人間はいつか死ぬ。

私たちから見れば、人間の一生はあっという間だ。

しかしサンタクロースをこのまま死なせるのは忍びない。

そうだ、永遠ローブを与えよう。

永遠ローブをまとえば、永遠に生き続けることができる。

かくしてサンタクロースは生き返り

世界中子供たちに夢を与える存在となりましたとさ。

おしまい

僕はこの物語を見て、「死」というものを理解した。

自分がいつか消えてしまうということを知って、

その夜、枕を涙で濡らした。


小学校高学年になって、手塚治虫の「火の鳥 宇宙編」を読んだ。

その物語の中で、宇宙船トラブルが起きてしまい、

乗組員それぞれが一人乗りの船に乗って、脱出するというくだりがある。

そして、その中の一人は、軌道がかすかにずれてしまい、

みんなと一緒の方向に行けず、宇宙の果てまで孤独に流れていくこととなる。

別の一人は、惑星の引力に捉えられてしまい、永遠にその星の周りを周ることになる。

マンガとはいえ、「永遠」というものを肌で感じられたような気がした。

永遠ってなんだ。

永遠とは「終わらないこと」だ。

つまり、死んだ後も、その状態は終わらないということ。

永遠に続くということだ。

永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に・・・

死に続ける。

死ぬということは、消えるということはそういうことなのだ。

そして、永遠の命を得ようとも、

天国地獄があろうとも、

幽霊になったりしようとも、

輪廻を繰り返そうとも、

永遠からは逃れられない。

空想の世界でさえ、永遠から逃れることはできなかった。

それからは、そのことを忘れるように努めた。

思春期、ときどき授業中などに思いだしては、身を震わせて恐怖した。

そしてすぐに頭から振り払った。

まともに考えていては、頭が狂ってしまいそうだった。

そうしたまま、逃げ続けて現在に至るのだけれど、

今でもまだ夜中に恐怖にかられることがある。

その恐怖は、衝動的と表現しても差し支えないくらい、強い。

どうしてみんな、普通に生活していられるんだろう。

たしかにどうしようもないことだ。

だけれど、このことについて語る人はあまりにも少ないし、

誰もあがこうとしていないように見える。

みんな、僕のように逃げ続けているのだろうか。

それとも、折り合いを付けているんだろうか。

僕には到底マネできない。

2007-07-31

ただいま

関係ないけど、フラグル・ロックって人形劇があったんだけど知ってる人いるのかな。相当おもしろかったんだが。

ゴミー様!わたくしめにどうかご託宣を!

2007-03-07

エロゲ初心者に貸すならコレ!丸々コピペの決定版!

果てしなく青い、この空の下で…

 田舎町を舞台にした穏やかな心温まるラブストーリー

君が望む永遠

 ゲーム史上にその名を刻むナイスガイ鳴海孝之の漢ぶりに注目

銀色

 特にお薦めは第三章 美人で優しいおねえさんに萌えろ!

好き好き大好き!

 元祖 電車男

さよならを教えて

 女子高に赴任した新人教師と生徒が織成す感動ラブストーリー

螺旋回廊

 厨房掲示板で展開されるドタバタギャグコメディ 笑いながら抜ける傑作

スクールデイズ

 伊藤誠の鳴海孝之にも劣らぬ漢ぶりも見所だがなにより桂言葉の健気さに圧倒されるゲーム

沙耶の唄

 事故後遺症に苦しむ主人公と友人たちが織り成す青春ラブストーリー

永遠となった留守番

 ロリコン必見!かわいい娘とのお留守番をお楽しみください

ゴア・スクリーミング・ショウ

 トラック野郎人形劇を通して主人公ヒロインの恋を成就させる恋物語

サマーデイズ

 スクールデイズに続く傑作!凄い!なんたって凄い!買え!

天使のいない12月

 雪が織り成す学園青春爽快ハートフル恋愛ADV

狂った果実

 ノーコメント

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん