いち関西弁ネイティブとしては、関西弁考証の十分な良い翻訳だと感心した
もちろん、違和感を感じる翻訳も有るには有ったが、翻訳者の能力不足に因るものではないと思う
奈良県北西部出身の私の関西弁はどちらかといえばマイナーな関西弁なので、メジャーな関西弁に違和感を覚えることも有る
(私は奈良弁話者なのかもしれないが、私は私自身を関西弁話者と認識している)
・進撃の巨人のシリアスな世界観と、「笑い」という概念を常に意識する関西弁は、どう考えてもミスマッチだ
このミスマッチを楽しむのがこの企画なのだろう。しかし面白味の無い違和感ばかりのミスマッチが散見されたように思う
・この企画は関西以外から始まったのだろう。関西弁で笑おうとするのは関西以外の人間に違いない
関西以外の人間を楽しませるために、普段使わない妙ちきりんな表現を盛り込む必要があったのだろう、「吉本弁」というやつだ
なんてわけないだろ。それなら作者の修正提案に聞く耳をもつ。
告発に一票。
「5回転職したが、すぐ(自発的に辞めました)」
なら、「運の悪い奴だ」で済む。
あなたが今の会社に就職したのは、そうやってひどい会社を摘発させるためだったんだよ。
その一歩を踏み出せば、迷いは消える。
恋愛工学批判が最近盛り上がってる。でも正直、ほとんどのマニュアルはそんなに害がないと思う。あれで非モテが非モテを克服できればいいんじゃないの?
でもセックスにまつわる部分は「さすがにそれはどうなんだ?」と思うところが多い。たぶん所長は半分冗談で書いてるだろうとも思うんだけど。非モテが忠実に信じて実行に移したらと思うとちょっと不安。
たとえば
・昔付き合ってた彼氏に無理やりヤられそうになり、それが原因で生理的に嫌いになった(セックストリガー失敗)。
・それが今もトラウマで人を本気に好きになる気持ちわからない。
・その後も付き合う人がいたが、セックスが怖くてした事がない。相手には悪いと思ったけど。
(と言ってる女に対して)
(1) 食いつきがイマイチ足らないのは、Aフェーズ、Cフェーズ、愛情のワクチン(又はそれ以外?)何の不足なのでしょうか?
(2) セックスのトラウマある(と言ってる)人への崩し方は普段と同じでよろしいでしょうか?
(という質問への回答が)
話は変わるんですけど、僕はこの「トラウマ」という言葉はいつもうさんくさいものだと思っています。
インチキ精神分析でも、たとえば成金を幼少期の劣等感がトラウマになって努力する強迫観念を持つようになったとか言えば何でも説明できるような気がしますし、サスペンス小説でも犯人が狂気に走り出すときの便利なワードとして登場人物の昔のトラウマが出てくるんですよね。
学者でも作家でも文章で情報を売るのが仕事だったら、このトラウマというのは「心の闇」とか「社会の歪」みたいなダメな表現だと思いますね。
だったり(これ、マジでトラウマだったら女が死ぬんじゃないか?)
同じ部屋のベッドで横になっている時点で、カラダはOKなんです。
しかし様々な要因が作用し、女性は「さぁ、しましょ。」とは口に出しません。
必ず「今日はやめましょ。」「寝ようよ。」「まだ出会ったばかりじゃない。」という言葉を口にします。
しかし、カラダはOKなんです。
密室のベッドに二人きりという時点で。
けど、ムリヤリするのは言葉に失礼だし、下手したら犯罪になってしまいます。
(に対して)
ドラ◯もんの映画といい、サザ◯さんのOPといい、なぜわざわざ3D化させるのか、以前から少しばかり(いや、かなり)イラっとしている。
2Dの美的センスに優れていることが世界に誇るべき日本の特徴だったように思うのは私だけだろうか…
無駄を省いたシンプルな線と色になったのに、なぜ逆行するんだ、、、、
これはもう江戸時代から(それ以前から?)日本人の中に組み込まれている美なんじゃないかと思う。
俵屋宗達とかすごい。美しい。
なんかもう、とても解せないのだ、この風潮。
3Dにするメリットって何なの?技術力をアピールしたいだけなの?
やたらリアルを求めているわりに、小・中学生の画力は下がる一方。
昨日、NHKでいじめについて特集していた。おそらく例の川崎市の事件を受けてだと思う。
このときのニュースに限らないけど、いじめがテレビで取り上げられるたびに、少し不思議な気持ちになる。それは「なんでマスコミは、いじめをそこまで大事だと捉えているのだろう」ということ。
自分は小中の9年間、いじめを受けていた。と言っても、そこまで深刻なものじゃない。
罵詈雑言を吐かれる、ランドセルのなかを捨てられて代わりに砂や犬の糞を詰められる、牛乳拭いた雑巾(臭い)や一輪挿しの花瓶を机の上に置かれる、上履きのなかに折れたカッターナイフの刃が入っているとか、その程度。
殴られたり、刃物で斬りつけられたり、万引きしてこいって言われたりといった、例の事件で被害者の少年が受けていたような凄惨ないじめ、身体的・金銭的な被害を受けるいじめはほとんど受けていない。
以下、続く内容は、そんな自分のいじめられた経験だけをベースにして考えている。
▼いじめって、そんなにオオゴト?
なんとなく「大事」って書くと紛らわしいので、以下「オオゴト」とカタカナ表記にする。
なぜかと言うと、いじめなんてどこにでも転がっているものだと思うから。
世の大半の人は「いじめ」を「オオゴト」だと考えていると思う。だから、いじめが「オオゴト」にならないと誰も目を向けようとしない。生徒が自殺したり、家出したり、不登校になったり、罪や事件を犯してしまったりしないと、誰も目を向けない。
でも、その「オオゴト」に至るまでに、小さな「いじめ」が毎日積み重ねられていて、その積み重ねこそが問題なのは当然の話。
以下、その「いじめなんて、オオゴトじゃない」と感じる根拠について。
▼「していいことと、しちゃいけないことを教える」だけで、いじめはなくなったりしない
たとえば「していいことと、しちゃいけないことを教えるべき」という意見があると思う。テレビのなかでも、ツイッターでそう投稿している視聴者の意見が流れていた。
でも、それはいじめをなくすことにはつながらないと思う。なぜなら「どんな行為であっても、それはいじめにつながり得る」から。
これは実際の自分の例だけど、小学校3年生のあるとき、物凄く機嫌が悪い日があった。
その日、少し寝坊して親に叱られて、学校では自分に非がないことで先生に叱られて(後にそれが判明して先生に謝罪してもらったけど)、などなど、嫌なことが立て続けに起こった。
そして給食の時間、仲がどちらかと言えば悪い(でも、自分をいじめてきたことはない)クラスメイトから「お前、ホント国語ダメだよな」的なことを言われた。その前の時間に国語のテスト返却があり、その点数が悪かった。
別にクラスメイトは、そこまで酷いことを言った感じではなかったのだと思う。単純にちょっとからかってやろう程度だったんじゃないかと。
でも、頗る機嫌の悪かった自分は、それをうまく受け流すことができずに、たぶん「だったらどうした」「お前よりマシだ」みたいなことを言い返してしまったんだと思う。正直よく覚えていない。
そのあと、殴り合いの喧嘩になった。そしてそれ以降、そのクラスメイトからのいやがらせが何度かあった。
この経験を後から振り返って、自分は「どんなに些細な一言や行為であっても、受け手側の心理状態によってはいじめ(の発端)になり得る」ということを知った。もちろん「お前の我慢強さが足りないだけだろ」と言われれば、それもあると思う。昔は確かに沸点が低かった。でも、どんなに沸点が高い人でも、同様のことは起こり得るとも思う。
いじめは、どんな些細なことが原因となっても起こり得る。だから「いじめ=オオゴト」だと考えて向き合っていると、いじめの本当の原因(日々積み重ねられる些細な言葉や行動によるダメージ)を見落とすことになると思う。
そもそも、いじめを撲滅することは不可能だと思う。先述したように、どんな言葉や行為であっても、それは「いじめ」につながり得るから。それこそ褒め言葉でも、相手の心理状態によっては嫌味に聴こえたりするように。
あと、どうでもいいけど、いじめ「撲滅」って言うと、なんか「いま起こっているいじめを一掃する」ってニュアンスに聴こえる。つまり「いじめが起こってから対応する」という事後対応のイメージ。対応としてあんまり正しい気がしない。
それなら「防止」が良いのだろうか? そうでもないと思う。防止することも同じ理由で不可能だと思うから。
個人的に必要だと思うのは「耐性」をつけること。「免疫」と言っても良い。つまり「いじめ」は、誰もが受ける可能性があるものと考えて(誰もが風邪をひくみたいに)、そのための耐性・免疫をつけておくことが重要だと思う。
▼いじめは「する側の問題」ではなくて「される側の問題」として捉えるべきだと思う
まとめ。
いじめは「する側の問題」ではなくて「される側の問題」として捉えることが重要だと思う。
なぜなら「どんな些細なことでも、いじめ(の萌芽)の原因となり得る」から、いじめる側を教育したり矯正したりしてもあんまり意味がない。いくら綺麗な言葉や行動であっても、言われた側・やられた側の心理状態によって、それはいじめになり得るから。
だから、いじめは「される側の問題」と考えて、誰もが「される側」になっても大丈夫なように、耐性・免疫をつけてもらうことが大事だと思う。
「される側に耐性がないのが悪い」ということを言いたいわけじゃない。もし「される側」になってしまったとき、堪えられるようになっておこうということ。
じゃあ、あらかじめ「うちは同性愛表現お断りなんで」って表明してればいいじゃん。
「性差別禁止」とか言ってないでさ。
見合いというか、仲人みたいな人と一緒に食事しろって言われただけなんだけどね、
1回会うだけでもいいからとか、あっちから断られるかもしれないからいいだろとか言われたけどね、断った。
婚活らしきことを今年の夏から始めるつもりで、貯金をしたりたまにファッション誌を見ながら準備をしていた。
美容室に行ったら、あんまりにも適当過ぎる手入れの仕方をしていたもので、馬鹿にされたり説教されたりする始末。
学生時代の友人が次々と結婚していって、子どものいる人だって珍しくはないけれど、焦りは感じなかった。
私は私でそれでいい。平日に仕事して、休日は書き物をしたり、絵を描いたり、運動したり、身の回りのことをしたり、ぼんやりとして過ごしていければ満たされる。
恋はほとんどしたことがない。好きになった人がいたけれど、さっさと結婚して他のところに行ってしまった。
あー、これで私は嫉妬とか肉欲とかそういう煩雑で処理が難しい諸々の感情から解き放たれて、私だけの世界で安穏と暮らしていける。失恋の日にはそう思った。
それでも、女一人だけで生きていくには辛い世の中だからとか、両親を安心させたいとか、とどのつまり正規雇用ではない身分だから経済的な不安も少なからずあるからと思って、婚活を始めるつもりでいた。
家にお金を入れているとは言え(予防線のような書き方だな)、いつまでに実家にいるわけにはいかない。
祖父母は全て亡くなり、両親は老いた。いつまでも私の傍にいてくれるわけではない。
今でも、婚活をするつもりでいる。
恋愛感情だけで結婚するよりも、最初から己の現実を晒してから話すお見合いの方が合理的だと思う。
だけど、両親が持ってきた見合い話のようなものを、私は拒絶した。
結婚したくないの? 夢はないの? 家庭を作りたいとは思わないの?
行かず後家と言われたいの? 私たちの老後は誰が見るの?
母はそう言って悲しんだ。私は主に価値観の違いだと返した。
結婚したくないわけじゃない。夢はISBNのついた本を一生のうちに1冊でもいいから出版することだけど、文才がないから余命宣告でもされたら文芸社に連絡を取るよ。
家庭を作りたいなんて、とても思えない。もし結婚するとしても、二人だけの夫婦でいるつもりだ。お父さんとお母さんはそろそろ孫がみたいだなんて言うけれど、我が家は精神病質で、私たちの弟や従姉妹なんかは統合失調症だし、自律神経失調症の親類なんか山ほどいる。優生思想はいけないと教わったけれど、もしかしたら自分だって狂っているかもしれないのに、その血を残したいなんて私はとても思えないよ。
そしてね、お母さん。お母さんの思う幸せと私の思う幸せは明らかに違うものだ。
お父さんとお母さんの思う「私の幸せ」は、ほとんど同じものだろう。
嫁いで家庭を築き上げてこそ、女は幸せになれる、そんな旧態依然とした考えなのだろう。
だから、兄や弟には何の家事も教えないで、成人しても茶碗ひとつ片付けない男に仕立て上げた。
兄弟らが茶の間でテレビゲームをして遊んでいるのに、私は台所で食事の準備。どれだけ理不尽に思ったか、あなた方は分からないだろう。
私は反抗期のない子どもだった。優等生でありたかった。能力がなかったから、優秀な人間にはなれなかったけれど、それでも両親にとってのいい子でありたかった。
受験の時もあなたたちの言うとおりにした。お金がないから、確実に入れる公立高校に行けと言われたからそうした。浪人してでも行きたい大学があったけれど、結局は現役で入れるところに行った。その選択に関しては、両親が正しいとは分かっている。おかげで私は、奨学金を背負わずに済んだのだから。
たぶん、従順な女の子が欲しかったのだろう。普通の女の子を娘に持ちたかったのだろう。
家事を手伝い、父や兄弟らを立て、少女時代は反抗することもなく従順で、成人すれば自然と結婚して、外孫を見せてくれるような女性に育てたかったのだろう。
子ども時代は兄のお下がりを好んで着ていた。兄らと粗暴な遊びをするのが好きだった。小さな頃から男女平等という言葉に焦がれた。
一度だけ、何故私にばかり家事をさせて、兄らは自由にさせているのかと尋ねたことがある。
男女平等とされている世の中だけれども、家庭に入って家事をするのは、結局女性なのだ、そのときに困らないように家事をさせているのだと、両親は答えた。
絶望した。
働き始めて話す時間が減ったせいか、両親とこういう話題で言い争う機会は少なくなった。
それは両親の諦めかと思っていた。
私がもし結婚するとしても、両親のためじゃない。
私は私の人生のために結婚したい。たとえ見合いだろうが婚活だろうが、誰かに宛がわれたものではなく、自分自身で決めたのだという確信が欲しい。
理解なんていらない。私は私が望む私でいたい。
普及委員会とも有ろうものがアナル周辺のデータを持ってないとは言わんだろうな
僕の彼女は眼鏡っ娘だ。ちょうど映画『私の男』の二階堂ふみ氏みたいに。
僕はそういうところが好みなのだけれど、彼女は分かってくれない。
「それは外面から見た場合の話でしょう? 眼鏡はとても不便なのよ」
ある日、そのことで言い争いになった時に「じゃ、眼球を交換してみる?」
と言って、彼女は僕のコメカミを押さえた。途端に視界が揺らぐ。
僕の視界は何ひとつとしてくっきりと見えない。
そう言って彼女は持っていた眼鏡を僕に手渡す。「これで世界を見なさいな」
僕は眼鏡を着用する。サイズが合っていないのでいささかきついけれど、
観てみると視界がくっきりと見える。部屋の片隅に置かれていた
そんな彼女が言うんだ。「あら、眼鏡を掛けた貴方って結構イケてるわね」
そう言われたので、僕は彼女の眼球をそのまま装着したままで
暮らしている。「メガネ男子って今トレンドなのよ」と言われたので
livenhk… http://kita2.jikkyo.org/lnannhk/
livekey… http://kita2.jikkyo.org/lnankey/
livelocal liveuhf… http://kita2.jikkyo.org/lnanlocal/
livebs livebs2… http://kita2.jikkyo.org/lnanbscs/
liveradio… http://kita2.jikkyo.org/lnanradio/
あの騒動は
って話だろ
こんな騒動にする作家って認識したら使いづらいところも出てくるだろうけど
まあ傍から見てる分には
ネットが華やいでいい
バッテリーを充電中…
充電してる間、色々な思考が私の頭の中をぐるぐるとめぐった。
あれは初恋だったのかもしれない。
今ではHNとして「セーナ」が通名になっているが、はじめは「静奈」だった。
本名のシズナのつもりだったが、みんな「セイナ」と読んでいて、いつのまにかセーナになっていた。
というのも、学校にいる同世代の男子というのはガサツで下品だった。
何やらHな本を見て盛り上がってたり。
正直キモイと思った。
スカートめくりでしかコミュニケーションをとれないような幼稚な奴らと対照的だったのも魅力の一つだ。
お互いのことを少しずつ話すうちに、年が同じことと、現実では学校になじめてないことがわかり、
次第に二人でパーティーを組んだり狩りにでかけるようになった。
このゲームは結婚するとお互いをその場に召喚したり、便利だったからだ。
ゲーム攻略のため、利便性のためだとわかってはいたが、お互いなんだか照れ臭かった。
それでも私はカズキが好きになっていた。
疑似恋愛というのか、二人で過ごす時間が楽しくて、そして幸せだった。
カズキ…逢いたいな
・・・・
ピョイン!!
バッテリーの充電が終わったようだ。
そうだ。なんとなく勘だけど、このおばあちゃんのスマホからのアクセスは特殊なものなんだ。
これでネットに繋げば何かわかるはず。
つづく
大人なら自分の力で解決しなきゃいけない