はてなキーワード: 生きろ。とは
10秒クリック、年収2年分チャージ。これが完璧に成功すればもう二度と労働に縛られない人生が待っている。手に入れた時間で好きなように人生を生きよう!「俺は実はいつでも辞められるが?」を精神の支えにして普通に働いてもいいし、趣味を仕事にするべく創作活動にのめり込んでもいい。不安から解放され、自由を手にしよう!(ただし勝利者に限る。) 「タイパ」の究極系は「注いだ時間以上の時間を得ること」であることに異論があるものがいるだろうか?(いや、いる。なぜならここは天邪鬼の集まりだから)。
成長型ゲームの根源、本懐、トロ、ミソ、核、爆を超高速で味わえる。数字をインフレさせるだけのゲームのガワを剥がした内側にあるもの、その楽しみ、成長曲線、苦行、カタルシス、味変、ルールチェンジャー、あらゆる要素を駆け抜けていける。そして訪れる静寂の如き、飽き。引き際の悟りと深みへの誘いが波のように交互に打ち寄せる。沼に飛び込みたい気持ちをグッと堪えてデータを削除したとき、きっと君は「何百日とプレイしてしまったソーシャルゲームを手放した直後」のような開放感を味わうだろう。そうだ!盆栽の最大の楽しみはそれを捨てた直後に訪れる!いくつものクローンがあるが、本質は本家が極めているので本家以外を遊ぶ意味はない。人生をドブに捨てたいなら別
この世界で一番楽しいのは可能性を空想することだ。ミロのヴィーナス、サモトラケのニケ、そしてモナリザの謎。現実世界において完全でないものこそが脳内において真に完全へと近づける。βテストや体験版で「このバグ強すぎるー!!」と暴れまわったり、他ゲーの経験を活かして初心者を狩ったり、ないしはそういうスマーフ野郎半チート野郎を囲んで叩く自警団を気取ったり、βの自由な世界にしかないモラトリアムな楽しみが確かに存在する。そしてなにより無料だから人口密度が高く、ネットで皆でワイワイするのも楽しい。「これって製品版ではさ~~~」「いやいやこれは~~~」で無限に語れるぜ!未完成!それは可能性!十で神童、十五で才子、二十過ぎればセンター試験の点数をいつまでも自慢げにSNSに書いてるちょっと可愛そうな人と古事記にも書いてある。
きっと きみたち は もう わすれれて いるだろう。 人差し指だけで 必死な顔をして 一文字ずつ丁寧に キーを叩いていたあの頃を。 タイピングゲームがなければ僕たちは今でも そんな状態で毎日インターネットをやっていたかも知れないんだ。 そしたらブクマで100文字打つのだって 余りにも大変で全く楽しめなかったんじゃないだろうか? コンピューターを使った仕事につくことなんて想像もできないぐらい ただキーをタイプするだけのことがしんどいまま人生を生きていたんじゃないか? マジでちゃんと感謝したほうがいい。タイピングゲームでひたすらキーを叩きまくった時間は決して無駄じゃなかったと俺は信じているぞ。
2画面にして映画やYoutubeを見ながらやれば、運動しつつ動画を見ているので実質時間消費0で運動が出来る。あまりにも圧倒的パフォーマンス。圧倒的すぎて蛇足にならない言葉が思いつかないほどだ。
やってしまえ。どんなゲームなのか気にしてる時間が無駄。やってみれば分かる。体験版でいい。とにかくやれ。脳のリソース管理的にも。
一作だけならガチってもいいっぽい空気があるので一作だけガチらせてくれ。このゲームは本当にタイパがいいんだ。名前の通りちょっと短いハイキングをゲームの中でするだけ。でもそこにはゲームというものの楽しみが詰まっている。箱庭の中で圧縮された個性豊かな人々の営みがあり、世界には相互作用が働いて、それぞれの人物に物語がある。小さな冒険を通して少しずつ成長する主人公。少しずつ操作が熟達するプレイヤー。軽やかで気持ちのよい成長曲線。少年時代を思い出させるスピードで次々に広がっていく世界。刺激される想像力が解法を閃かせ、世界の謎が次々と解き明かされる。挑戦する楽しみ、成長する喜び、小さな友情、時には挫折、そして再挑戦。人生という苦行の中から光り輝くものだけを集め直した生きる喜びの宝石箱。たった2時間程度でたどり着けるエンディングなのに、確かな満足感と高揚感を感じるのは、冒険に求めていたものがこの温かな箱庭の中に詰まっていたから。
生きていれば色々と出来る。何でもは出来ないけど何かは出来る。死んでしまうと何にも出来ない。死後0秒から人間はもう何もできなくなる。生きてさえいれば、空想を広げるぐらいのことは出来る。人生のあらゆる場面が時間消費型のコンテンツなわけだからして、とにかく生きていなければ何も始まらない。一見すれば生きることのタイパがどんなに低くても、死のタイパは0なので相対的には圧倒的に生きることが勝るのだ。生きろ。まずはそこから全てが始まる。
おまえ、「ソースどこ?」とほざくやつのことをわかっちゃいない。
やつらはソースをもとめているわけじゃない。ただおまえを挑発し、優越感にひたりたいだけなのだ。データを叩きつけても、やつらは目も通さず、言葉尻を捉えて揚げ足を取り、おまえを煽るだけだ。
なぜなら、やつらにとって大切なのは真実を探究することではなく、おまえを打ち負かし、自尊心を守ることなのだ。
メキシコの砂漠では、虚勢を張る弱き者がはびこっている。やつらは己の非力さを知っているがゆえに、他者を引き摺り下ろすことでしか自信を得られないのだ。
データの山を叩きつけるな。それはやつらの求めているものではない。ただ、強く生きろ。己の言葉に嘘偽りなく、まっすぐ生きるのだ。
それが、やつらに打ち勝つ唯一の方法だ。真の男として、胸を張って生きろ。
おまえにできることは、それだけだ。
https://anond.hatelabo.jp/20240208215941
お前が男だろうが女だろうがどっちでもいい。どっちかというと男くさいけどな。
そんなことよりさ。
読んだと言うならそれは示せるだろ。別に後付でもいいから読んだことを示せる情報を書け。
話はそれからだ。
どーしても男だ女だの議論がしたいなら、お前はそれ以前だという残酷な事実をおしえてやるよ。
一時期女オタクで、やたら過去を捏造しまくってそれ指摘されたら鍵垢にこもったアカウント名が数字のクソ女いたじゃん。あいつと同じような感想なんだよ。
俺は女オタクの友達それなりにいるが、レベルの高い女オタクってちゃんと読んだ作品については男オタクなんて比較にならんくらい熱く解釈についてかたるし、少なくとも熱を感じるんだよ。
お前からはそういう熱が全く感じられないんだよ。レベルが低すぎる。
つまりお前は、まともに読んでない作品について最新話と最初のあたりで絵が変わったことに気づいてそれを指摘すればウケると思ったけど叩かれるのが怖いからチキって匿名で書くようなやつなんだよ。
雑魚すぎだろ。 反論記事でお前がバズるために技巧を凝らしたって言ってたけどさ、
書いた長文がこの程度の浅くて薄っぺらくて中身のないものでしかないならもうお前の限界がこれってことだろ。
それはつまりお前オタク向いてないから今すぐオタクやめたほうがいいってことだよ。
そうじゃないと言うなら今からでもオタクとして胸をはれる文章書いてみろよ。今なら注目を集められるぞ。頑張れよ。
お前が男だったとしたら余計悪い。ただ悪いだけを通り越して最悪だ。
お前はさいたまがnoteで書いたお前が幼稚でお気持ちしか表明できない社会性が未発達の「赤ちゃん」であるという指摘について全く否定できていない。
お前が反論すべきは男か女かよりお前の言ってることがどれだけ低レベルかってことなのに、なぜかそちらにはまったく反論しないで女ってきめつけるなの一点だけで他の部分を押し返せると思ってやがる。
ありえないほどの短絡的な思考で呆れて物が言えないよ。どんだけヌルい場所で生息してたんだよ。もっとよく考えてから文章かけよ。
ボロカスに言われて悔しいからって後釣り宣言みたいなことまでしちゃってさ。恥の感覚をどこに置き忘れてきたんだよ。
それでもお前が女オタクであればまだ「女オタクの環境がきつそうだから、仕方ないな」って同情する余地はある。
だが、お前が男オタクであればそれすらない。ただお前がオタクとしても人間としても低レベルという事実だけが残っちゃうんだよ。
ただただ「何の理由もないのに」社会性が未発達の赤ちゃんであるという事実だけが残るんだよ。
お前はな、女オタクであったときより男だったときのほうが悲惨なんだ。
バカじゃなければそれはわかるから、本当に男で恥を知る理性と知能があったならなおさら黙ってるべきだったんだよ。
ところがお前はそういうことがわからないから「女じゃありませーん、私男です」だけでなにか反論できたつもりになってしまったってわけよ。
どうしてもっとよく考えて反論を書かなかったんだよ。脊髄反射で隙だらけの立ち回りで、嘲笑してくれと言わんばかりじゃないか。
お前を産んで育てた両親に申し訳ないと思わないのかよ。 お前をバカにしてくるやつをケチらせるくらいに強くなれよ。
そういう気概がないならその何の役にも立たないチンケなプライドを捨ててネットでは女オタクとして生きろ。
そのバカさをさらけ出しながら女オタクに媚びながら周りの同情を買っていきていくモブとしてしかもう生きる道はないよ。
そんなの嫌だろ。なら踏ん張れよ。女か男かみたいなしょうもないところで戦うんじゃなくて
一緒に死ねるわけじゃねぇし、莫大な財産の継承でも無いんだったら、それでいいんだぜ。
あと転職は疲れただろうが、そういう「人生の価値観が違う上司」とは一緒にいない方がいい。
妻のイベントを蔑ろにさせ、親のイベント(入院や葬儀)には煩く言う。
オマエラは親への愛着が凄いよね。
何? オマエラの親は遺産になりそうな資産とかいっぱい持ってんの?
ならわかるけどさ。はてなー同様の価値観を持ってる奴が「親を棄てるなんてとんでもない!」とか抜かすわけ。俺の判断を。
遺産も持っていない。俺にたかって生きている。俺が買ったマンションに住まわせている。俺が選んだ伴侶を全力で否定する。
棄てる以外なんかある?
そもそも成人したらもう十分じゃね?人生で借りたと思しき金は成人して上手くいってからの諸々で返済済んでると思うけど?
感謝こそすれ、否定などはしたことはないが、一方的な否定と未来への拒否(慎ましやかに生きろ。妻を第一にするを認めろ)となったらそりゃ追い出すでしょ。
追い出した後も、引越し引越し引っ越し、全部俺が払ってるんだし、文句は言わせねぇよ。
生きろ。そなたは美しいとは言えないがまあまあ醜い程度だ。
単純に、マイノリティであるトランスジェンダーとの権利の平等をマジョリティであるTERFが認めないという関係なのだから、TERFが間違っているという判断で良い。
俺はシスヘテロ男性だが、マイノリティとマジョリティの権利を平等にすることを認めないTERFは差別主義者であり悪なのだから、トランスジェンダーの味方をしてTERFを否定する。
TERFの女性たちが「トランスジェンダーはマジョリティであるシス女性の既得権益(女性スペース)を脅かすような権利主張をしないで『わきまえたマイノリティ』として生きろ」と言うのであれば、
「お前たちも旧来のマジョリティである男性の既得権益(家父長制)を認めて服従する『わきまえた女』として生きろ。お前たちはそれがマイノリティのあるべき姿だとトランスジェンダーに言っているのだから。まずは手本を見せてみろ」と言いたいね。
私にとって、彼の著作は、何かを始めたいが不安が先立ち一歩を踏み出せない…といった折々に、背中を押してくれるものだったと思う
振り返ってみて懐かしくなったのでここに記してみる
(断っておくが、私は彼の熱心な読者ではないので、以下解釈が間違っていてもご容赦願いたい)
初めて読んだのは、書店でたまたま目にした「弱いつながり」(2014)だった
この本には、固定化した状況での思考から導き出されることが選択肢の全てではない、不確かな状況や偶然に身を委ねることで思いがけない新たな出会いが得られ人生が豊かになる、というようなことが書いてあったと思う
他の人には当たり前なことかもしれないが、すぐに頭でっかちになって動けなくなる私にはとても新鮮なメッセージだった
当時20代後半で(当方女)、漠然と結婚への焦りがあり悶々としていたのだが、読了後、通勤電車の広告で目にした結婚相談所にエイヤッと登録し、もうなるようになるさと婚活を始めた
そして現在の夫と出会い、トントン拍子で結婚に至ることができた
それから後の「観光客の哲学」(2017)にも背中を押してもらった
この本で最も心打たれたのは、
という箇所だった
これは、生物上の親と子を指すだけではなく広い意味で自らが何かを生み出すこと(誤解を恐れずにいえば無責任に生み出すことを恐れない)の大切さを説いているものだが、文字通り私は子どもを持つことへのエールとして受け取った
私自身が親との関係があまり良くないため、「どんな子が生まれるのか、上手く育てられるだろうか」との不安を感じていたが、たとえ自分が完全な人間でなくても、どんな子が生まれてくるかはわからなくても、とりあえず子どもをつくってみよう、そしてその子どもがつくり出すものを見てみようと勇気づけられた
そして今では2人の男の子に恵まれ、日々四苦八苦しながら賑やかに暮らしている
背中を後押ししてもらったといっても、結婚出産というごく普通のライフイベントだし、他の人ならすんなり経験できるのかもしれないが、私の場合、もしこれらを読んでいなければ全く違う人生だったかもしれない
私はWEB広告屋の端くれで、広告とはジョン E ケネディがいう「Advertising is salesmanship in print」精神でいる。しかしこのような態度では文化の一端を担う広告を作ることは到底不可能だということを私は知っている。
個人的には大成建設の「地図に残る仕事」のCM・コピーは大好きだ。最高だ。直近では湖池屋ポテトチップスのCMなんかも心にグッと残るものがある。
「子供でいたい ずっとトイザらスキッズ」や「オブラディオブラダがかかったホンダ ステップワゴンのCM」なんかも良い。楽しさが伝わる。
「おーいお茶」のネーミングなんか最高じゃないか。亭主関白な昭和の頑固親父が母ちゃんに向かって「おーいお茶」と言ってる姿、あるいは、部長など偉い人がOLに向かって「おーいお茶」と言ってる姿が容易に想像できる(今だとパワハラ・モラハラになりそうだ)
パワハラでいえばリゲインの「24時間 戦えますか」はバブル時代を一言で凝縮した伝説級のコピーだろう。他にも「そうだ京都、いこう。」「まずい!もう一杯!」「ピッカピカの1年生」「すぐおいしい、すごくおいしい」「生きろ。」など挙げたらキリがない。
これらが文化かどうかは知らないが、私の脳裏にこびりついて離れない。私のようなWEB広告屋の端くれには、このような(文化的価値がある)広告は到底作れない。
「できない」は外部要因によるもの。お前のコメを見る限りお前には時間的制約も何もない。外的要因は全くない。お前は「やらない」ことをテメーの意志で選んでいる、それなのに外的要因のせいにしている。だから見ていて甘えに映る。はてなでつらつら言い訳を並べ立てている暇があったらやれや。やりてーのにできないのならやれない外的要因を取り除くよう努力しろや。他の連中が言ってるように発達障害の可能性があるなら病院に行って診断してもらえ。ま、いくらテメーの親の代わりに叱り飛ばしてケツを蹴り上げてもお前はやらねえだろうな。だってやらない方が楽だもの。やらねえ間にはてなで駄文を垂れ流す方が楽で気持ちいいもんな。変わりたくねえよな。わかる~わかるよその辛さ。反吐が出るわ。もうね、お前は「僕はやりたいのに何もやれないんだァ~」とグチグチ言い訳しながら問題を他人に押し付けて生きて堂々と生きろ。まともな人間はテメーみたいな輩の心根を見抜いて嫌悪してるよ。カァァァァペッッッ
https://anond.hatelabo.jp/20230801140703
これに対して、皆が口々に「書いてくれてありがとう」はあまりにも無責任だよ。
現世は生きている人のためにある世界なのだから、死人のために犠牲になる必要はない。
実際に被爆した人たちがどれだけのトラウマを抱えてようと、増田自身がトラウマを抱える必要は全くないのだから。
むしろトラウマを抱えていた人たちは後世にトラウマを残さない責任があるのだから、増田はもっと怒ってもいい。
勘違いするバカがいるから先に言っておくけど、だからといって戦争や核兵器の使用を肯定するわけではない。
だからといって、その抑止が、当事者と同じレベルのトラウマを跡継ぎに負わせることでいいわけないだろう。
それが本当に核兵器利用の抑止になるかどうかは疑問だし、もっと効果性の高い方法はいくらでもあるはずだ。
もちろんここでそれを議論したいわけではない。誰か頭のいい人がちゃんと考えてくれ。
ただ、被害を忘れないようにと自らの被害を追体験させることは、もはや加害行為であるということをもっと考えるべきだ。
ここで俺が言いたいのは、当事者たちがどれだけの未練を背負ったかは知らないが、そんなものは自分たちが墓まで持っていけということだよ。
こんな思いをしてまで個人が語り継ぐ必要なんてない。物言わぬ資料館に任せればいい。
それよりも許せないのは、こういう人の意見を利用して他国に石を投げることを肯定する人間たちだ。
それはもう暴力の肯定であって、戦争をなくしたいのではなくて相手を殴る自分を肯定したいだけになっている。
そのどちらをも持って、再び繰り返すべきではないというならわかる。
聞こえのいい言葉で呪いを個人に押し付けておいて、自らの暴力を肯定する人間が戦争反対を語ってくれるなよ。
自分は在日朝鮮人3世だけど、一連の話はまじで腹が立っている。
自分たちの悲劇は被害者ムーブで語るくせに、自分たちの加害については一切口にしないその態度に。
自分たちの祖先がどれほどひどい目に遭ったかも知っているし、それを理由にどれだけの横暴を繰り返したのかも知っている。
自分にしてみればそんな枷を背負いたいとも思わないし、自らの被害を自らの暴力の肯定のためだけに語ろうとする同胞たちにうんざりしてきた。
そういう輩を見た日本人は何をしてきたよ。
反省して悲劇を繰り返さないって思った?なんだこいつら関わらんでおこうとしか思わなかったろ?
いま自分たちがしている行動をもう一度見直すべきだね。
戦争をなくしたいなら、核兵器使用をなくしたいなら、過去の被害をほじくり返して騒ぎ立てることは無意味だし、むしろ逆効果だ。
過去はきっぱりと切り捨てて、未来の話だけをしたほうが遥かに建設的だよ。
少なからず自分はそう生きているし、子どもたちに過去の枷を背負わせるつもりは一切ない。
ただのお気持ち表明でしかないけど、俺はこの増田が素直に可愛そうだった。
それは君が背負うべき役割ではないし、そんなことを押し付けてくる周囲にもっと怒るべきだ。
ただ言わせてほしいのは、そうやって周りが褒め称えることは、自分たちが苦しみを背負いたくないからといって相手に押し付けるような呪いでしかないということだよ。
「増田がこれ以上呪いを背負う必要はない。自分たちが何とかするから自分の人生を生きろ。」
誰一人その一言を言ってやれないことのほうが不気味だよ。