はてなキーワード: 呂律とは
数年前、午前2時過ぎにバイト先の居酒屋から徒歩で帰宅する最中だった。当時10代だったわたしの足で、すすきのから札幌駅方面の自宅まで30分ほど。
平日深夜だと言うのに、市電通りの横断歩道を渡っても駅前通りは結構人が多かった。
カラ館前を通り過ぎようとしたら、路上でスーツを着た40〜50代くらいのおじさん3人が大騒ぎしていた。タクシーとタクシーの間、路上というよりは車道だった。
「酔っ払いは嫌だなあ」とチラリと視線を向けると、明らかに様子がおかしいおじさんが1人いた。見るからに意識がない。
周りのおじさん2人は、路上に座り込んで意識のないおじさんを呂律の回らない口で笑っていた。近くにいた客引きの女の子は仕事中だがおじさんの介抱するべきかチラチラと視線を送っていた。
おじさんは、転んだ時に頭をぶつけたようで、路上は血の跡で若干濡れていた。顔色は、夜でもはっきりわかるほどにみるみると真っ白になっていった。
そして、失禁した。それを見て周りのおじさんは更に爆笑した。
これはいけないと駆け寄った。首の横に手を当てても脈が触れず、肩を叩いて、名前も知らないのに呼びかけた。うろ覚えの知識でネクタイとベルトを緩めた。
それと同時に救急車を呼んだ。
大の大人が失禁するシーンなんて見たことがないからわたしはパニックを起こしていた。救急の人に状況説明していたが、支離滅裂だったんじゃないかと今になって不安を覚える。
必死で呼びかけたおかげか、顔色が戻ってきた。脈も触れる。よかった、と思っていたタイミングで救急車がやってきた。
そのまま救急隊員におじさんを引き渡した。だが、問題はここで起きた。
おじさんが救急車に乗らない。さっきまで顔色悪く失禁してたことなど本人は知らないからなのか、おぼつかない足取りでそのまま帰ると主張していた。
救急隊員も「頭怪我してるから、そのまま帰ると奥さんが心配するよ」「とりあえず頭の手当てだけするから救急車に乗って」などとさすがプロと思える誘導を行っていた。おじさんは言われるまで頭の怪我に気付いていなかった。
野次馬ごと「帰れ」と促されたからその後は知らないが、深夜に救急隊のみなさんに迷惑をかけてしまったのではないかとずっと気に病んでいる。
実はおじさんの怪我は大したことなくて、酔っ払いが失禁するのもよくあることで、あの夜に救急車を呼びたかったのに私が呼んだせいで助からなかった人がいたのではないかと、ふとした時に考えてしまう。
所詮通行人だったし、放っておいてもよかったんじゃないか、わたしがやらなくてもよかったんじゃないか。
おじさんと救急隊が結構な押し問答してたし、わたしがパニック起こして余計なお世話してしまったんじゃないか、状況説明したときの面倒臭そうな救急隊員の態度から通報してよかったのか、未だに不安になる。救急車に乗せられるところまで見届けられなかったからかもしれない。#7119にかければ良かったのかもしれないが、当時あったのか存在を知らなかったのか今となってはわからない。
たくさんのご意見ありがとうございます。当時の自分を労って下さるコメントに気持ちが救われています。
やらなかった時、きっと後悔してただろうってお言葉がいくつかありました。たしかに素通りしてずっと悶々とするよりは、助かってモヤモヤしてた方がマシだなって思いました。ありがとうございます。
以下気になったコメントについて。
→仰る通りです。ただ真冬のすすきのは警察官がその辺ウロウロして酔っ払いを拾って帰るので、恐らくわたしが出くわすことはなかったんじゃないかと思います。当時はそこまで寒い季節ではなかったので9〜10月上旬くらいだったかと記憶してます。
→多分立ち合ったら誰でもわかります。かなり真っ白で人間の色してませんでした。失禁直後に首触った時の感触と体温がゴムみたいで、数年前亡くなったおじいちゃんの遺体が過ぎり、余計に焦りました。生きててよかった。
→酔っ払ってました。フラフラで立てない感じです。わたしのスマホの充電が切れそうだったので「おじさんスマホある?」って聞いたら「どこだろ〜?落とした〜?」って言ってました。多分2人とも死にかけおじと同じくらい飲んでたんでしょうね。
わたしが焦る様子見てようやくただごとではないとわかってくれたのか、座ったまま介抱手伝ってくれました。
→怖すぎる世界線で震えました。普段から人気のない場所には行きませんが、気をつけます。
ちなみにすすきのは街頭の監視カメラかなり多いです。余談ですがひったくりされた時にすぐに犯人捕まりました。周りに通行人が多く、客引きやタクシーが見てる状況で、いざとなれば誰かに声をかけられるという環境だったからこそ動けたのかも知れません。
→ごめんなさい、気持ちの余裕がなかったです。場所を先に伝えたほうがいいってボーイスカウトで救急救命講習やったときに教わっていたので「〇〇に救急車一台下さい!」って咄嗟に言ってました。タクシーじゃないんだからもっと言い方考えるべきでした。
あの時は必死でおじさん死ぬな!って思ってたんですが、そのあと意識取り戻して救急隊と揉めるおじさんを見て「あれ…?元気じゃね…?私救急車呼んでよかったのコレ?」ってモヤモヤしてしまい、今回増田の存在を知って書きました。読んでいただきありがとうございます。
スガは呂律も回ってなかったが完全に目が死んでたよな…
・一人目
一人目は学生時代、通販の受信専門コルセンで働いていたとき。住所の確認を繰り返している途中にボン、ゴトンっと鈍い音とともに会話が途切れてしまった。通話自体は続いていたのだで「歩きながら電話でもしていて落としちゃったのかな?」としばらくそのままに。しかし雑音は聞こえるものの一向に話し声が再開しないので、どうして良いかわからずリーダーへ報告した。リーダーが代わるも相変わらず電話が遠くて雑音と、なぜか水の滴るような音しか聞こえない。仕方なく「申し訳ございませんが、お電話が遠いようですので少し後にかけなおさせていただきます」と切断。その後何度かかけたが、着信はなるものの誰も電話に出ることはなかった。
その一週間後だったろうか。その電話番号の家族だという方から問い合わせがあった。ながら運転だったそうだ。私が電話をかけていた相手は運転しながら携帯電話を使用していたのだ。電話に気を取られ反対車線に飛び出てしまい、対向車と正面衝突したそうだ。私はなんと言ってよいかわからず、ひたすら「そうですか」としか言えなかった。その後一応警察からも連絡があり、軽い事情聴取を受けた。即死だったそうだ。
・二人目
二人目はフリーター時代、リコール専門のコルセンで夜勤をしていたとき。分類的にしょうがないとはいえその人は開口一番からものすごく怒っていた。製品や派遣依頼元の会社へのクレームはお受けするのだが、人格否定などは基本的に毅然とした態度で返して良いことになっている。その人も最初こそ製品についてのクレームだったが、次第に「殴りこんでやろうか」「今すぐ謝りにこないとお前を殴るぞ」など明らかに常識の範囲を超えていた。なので「こちら窓口ですので個人への暴言は受け付けられません。これ以上続くようでしたら警察に連絡いたします」と返した。たいていはこれで切れるか謝罪になるかなのだが、その人は何故か俄然ヒートアップした。というよりどうやら酔っ払っていたらしい。だんだん呂律が回らないような叫び声になっていった。ここでこちらから切っても良かったのだが、録音もしていたことだしどうせなら警察にきちんと対応してもらおうとそのまま話を続けていた。最初からちょうど40分が経過したときだったろうか。「あぁ!?」という奇妙な叫び声とともにいきなり不通になってしまった。同僚や先輩曰く「どうせ酒でも回って寝落ちたんだろう」とのことで、かけなおすこともせず、後日録音データを警察に持ち込んだ。脅迫にあたるとのことだったが、いきなり被害届を出すよりもまず注意勧告をしてもらおうと言う話になり、その場で警察に電話をかけてもらった。出たのは娘さんだった。「実はそちらの〇〇さんについてなのですが、」と言ったところで警察官がこちらに向き直った。しばらくした後、娘さんが直接謝罪したいとのことで代表で取り次いだ私が電話にかわった。どうやらあの日、酔っ払った勢いで電話をかけたクレーマーはそのままの勢いで死んだらしい。くも膜下出血だったそうだ。娘さんはとても控えめな人でひたすら謝罪をされておおり、そこまでされては私も同行してくれた先輩も警察の人も何も言えることがなかった。詳しい原因がわからないが、不摂生に高血圧とアルコールと興奮が重なった結果なのではと今は思う。私が当時担当していたのは某家庭用ビールサーバーのリコール窓口だったからだ。
・三人目
三人目は社会人になりたてのとき。ちょうど事務の子が不在で、偶然事務室に用事があって寄った私がとった電話だった。他部署の人間が出たところでどうしようもないのだが、お待たせするのもどうかと思い出たのが運の尽きだった。その人は迷惑電話の常習だった。といってもどうやら小学生低学年くらいの子供がイタズラでかけていたようで、いつも適当に聞こえる奇声に相槌をうって切っていたそうだ。たとえ迷惑電話といえど相手が子供なのでむしろ微笑ましいくらいの対応だったそうなのだが、私はそれを知らなかった。無知故に「イタズラなら切りますよ。あまりに酷いなら営業妨害で警察に連絡します」と言ってしまった。すると少し間があった後ガチャンと無音で切れた。その数日後だったろうか。その人が交通事故で亡くなったそうだ。その人は軽度知的障害を持つ成人男性だった。どうやらうちの会社に電話をかけることを一種のルーティーンのようにしていたらしい。けれど私が出て断ってしまったせいでそのバランスが崩れたそうな。気持ちが不安定なまま「外の電話からならかけてもいいのでは?」と思ったその人は、親の静止も振り切っていきなり外に飛び出したところをバイクにぶつかって亡くなったらしい。その人の親はずっと私が殺したとロビーで泣きわめいていた。周囲は事情を汲んで優しくしてくれたが、結局その会社はコロナの影響で潰れてしまった。
・毎日イライラするしとある件が起こってからメンタルが一気に崩壊した気がする、ここ1週間ほど寝る前に涙が出てくるようになった
・何を食っても美味しくないし満たされん(念のため言うけど味はするよ)
食欲無さすぎて食べなくていいかーと思って食べない時もある
・休み前は寝れない。大体3時とか4時、酷い時時は6時とかに寝る
・常時眠い、休みの朝はほとんど起きれん。仕事中たまに呂律回らんくらい眠くなるあと記憶が無い
・これはもう昔からだが夢は毎日見る、が夢の内容がほとんど殺されたり死体がいっぱいだったり
する
・何もやる気が起きない。
ソシャゲちょこっとして寝る寝る寝るの繰り返し。
・就寝時、起床時耳鳴り(低音)と体のだるさ
胃がムカムカ?してる?
多分このくらいな気がする。無理矢理仕事してるって気持ちはあるけど仕事には行ってしまうのです。草
病院なんて行く気がないし生きる気力が無さすぎてただただ屍のように生きてる気がする
こんなの鬱じゃないとかもうどうでもいいでしょこのままほっといて壊れていけばとか思っちゃう
私は20代女、公務員だが休職中。復職は絶望的だろうと医師からの見解。診断はADHDと気分変調症。そして回避性パーソナリティ障害。
休職とは関係ないが持病で脳血管疾患(難病)とハウスダストアレルギーと成人アトピーがある。
両親や親戚はおらず、精神障害を持つ年の離れた兄がいる。
あまり詳しく書くと身バレが怖いが、時々辛くなって自分語りをしたくなる。
正直現状めちゃくちゃに生きずらい。薬がないとまともに生活を遅れないが、目に見える形の障害がないため健常者として生活を無理やり送ってきた。くそ長いけど私の人生を知ってください。
まず小学校中学年まではそれなりの生活を送ってきた。一軒家で両親健在。収入はそれなり。
問題は子どもへの愛がなかったことくらい。衣食住に金をかけてもらえず、幼稚園のころから同じ下着をずっと着ていたり、朝食は8枚切りの食パン半分だったり(朝食が出るだけ良いかもしれない)したが、その年頃の子どもは家庭内が世界の全てなのでそれが当たり前だった。
父親は仕事でほとんど帰らず家は母親の天下だった。帰宅すると宿題をやった後、母親のマッサージ。兄が帰ってきたら交代して、両親が買ってきた教材をやる。母親の機嫌を損ねるとヒステリックに怒られたあと無視され、ご飯を抜かれる。テストの結果が100点以外でも似たようなことになる。たまに甘えたくなり母親に近づくと「ウザいから近寄るな」と突き飛ばされる。触れ合った記憶は機嫌が良い時に耳掃除をしてくれたことくらいしかない。なので父親が帰ってきたときに必死に父親に甘えていた。母親はそれを冷ややかな目で見ていた。
両親は外聞を気にするタイプだったので、私たちは下着はボロボロでも服はそれなりに綺麗なものを着せられていた。外での母は優しかったが、そこではしゃぎすぎると帰ってから「調子に乗るな」と怒鳴られ叩かれる。いつも母親の顔色を伺っていた。
ある日の夜、私は全身麻痺を起こして倒れた。前々から半身麻痺の症状が出ていたが、両親に話してもまともに取り合ってもらえなかった。私は救急車を呼んで欲しいとお願いしたが、「救急車を呼ぶと近所で噂になる」という理由で拒否された。結局麻痺が収まらず呂律も回らなくなり、父親の車で救急病院に連れていかれた。1週間ほど入院したが、病院の生活がとても楽しかったことを覚えている。
半年後に手術をする予定ですすめていたところ、母親がくも膜下出血で倒れる。私の病気は母親からの遺伝だった。この際、母親が我が家の貯金を全額実家に横流ししていたことが発覚して両親が離婚する。私たちは両親のどちらにつくか選ばされたが、こんな状態で父親以外選べるはずもなく兄妹ともに父親について行く。手術は無事に終わった。
父親と兄と3人で暮らすことになり、平和になるかと思えば、父親も母親と似たような人間だった。特に父親はプライドが高く、少しの意見も口答えも許さなかった。まだ小学生だった私には生きるためにも父親の顔色を伺いながら生活を送るしか無かった。やはりテストの点は満点しか許されなかったし、褒める時は「俺の娘は他のバカとは違う」貶す時は「こんなの俺の前に出して恥ずかしくないのか」と常に父親が中心の声掛けをされた。そのうちテストを学校で捨ててくるようになったが気が付かれなかった。週に1回父親と家の掃除をやり、週に2回父親に連れられて買い物に出かける。父親は「年頃の娘と仲の良い父親」像に固執しており、出かけることを拒否したり、外で不満を口に出すと家に帰ってから怒鳴り散らされた。少し抵抗するような態度をとれば「俺にそんな態度とっていいとおもっているのか」と怒鳴られ、物をぶちまけられて脅された。この頃には自己主張ができなくなっていた。おまけに父親は娘を育てる知識がなく、極少ないナプキンしか買って貰えずしょっちゅう服や寝具を血まみれにしたし、ブラも買って貰えず膨らんできた胸が目立つのが嫌だった。生理用ショーツや胸パット付き下着の存在もこの頃は知らなかった。
兄は父親に反抗し帰宅が遅く、部屋に閉じこもりがちだった。父親は兄に興味がないようで成績以外で構うことがなかった。だが、お金もほとんど渡していなかったようなので兄の生活は苦しかったと思う。(進学校でバイトが禁止だった)父親からは兄の愚痴を聞かされ、兄からは父親の愚痴を聞かされた。
父親は地域の人との関わりを嫌い、学校行事にも一切顔を出さなかった。保護者ありきの授業参観や運動会はとても惨めな気持ちになって辛かった。周りに頼ることは恥ずかしいことだと教えこまれ、誰にも何も言えなかった。自己主張ができない私は友だちも少なく、地域との繋がりも希薄で家が世界の全てのようなものだった。中学生の時は部員との交流はあったが、土日に友だちと遊ぶことに父親が良い顔をせず深い仲にはならなかった。小学校高学年のころいじめにあい、学校に行きたくないと父親に打ち明けたが、「ゲームを買ってやるから行け」と言われてちゃんと行った。ゲームは年に1回誕生日にだけ買って貰えるものだったので、いじめに耐えるだけで新しいゲームができるならそれでよかった。これ以降父親になにか相談することはなくなる。
中学生になった私はADHDの特性が顕著に現れるようになった。遅刻したくないのに遅刻してしまう、授業に集中したいができない等のストレスから解離症状が出るようになり、色々な場面で意識を失うようになった。他にも色々と要因はあった(父親が洗濯を正しく行えず体操服がいつも生臭かったり)(家庭内でも意識を失うようになり起きていられなかったり)で不登校気味になっていった。その頃には父親は学校に行かないことに文句を言わなくなっていた。それだけはありがたかった。
そんな最中、父親が会社をクビになる。私が中学生の時のことだ。パワハラ、モラハラ、サボりが原因だ。父親は会社の営業本部長で実質No.2(本人談)だったが、母親と離婚してからどんどん帰宅時間が早くなっていった。職場まで車で2時間かかるのに最終的には朝は9時に家を出て、17時半には帰宅していた。あまりにも出勤時間が短いので大丈夫なのか聞いたことがあるが、営業先に口裏を合わせてもらって出張扱いにしているらしかった。とんでもないことだがさらに、「俺は他のやつらより効率よく仕事をしているから早く帰っても問題ない」と言っていた。今思うと頭がおかしいとしか思えない。そして女性社員に気持ち悪いメッセージを送り、新人の愚痴を言いふらす……典型的なとんでもパワハラクソ上司だった。そんなだったので部下から告発を受け会社を即日クビになったのだ。本人は「不当な解雇だ。裁判を起こせば俺が勝つ」と何度も言っていたが、自分に非があることはわかっていたのだろう。裁判は1度も起こさなかった。
クビになったタイミングが悪く家を立替えた直後だったため、収入が必要だった父親はコンビニ店長をやると言い出した。しかし、コンビニを経営するには連帯責任者としてもう一人人員が必要になる。父親には友人が一人もいなかったし、親戚も一人もいない。そのため、他社に内定が決まっていた成人したての兄を連帯責任者として引っ張りこんだのだ。今まで見たことがないくらい必死に拒否をする兄を力で脅して内定辞退させ、結局二人でコンビニを経営することになった。
その後研修のため2週間家を空けるとの事で、私は児童養護施設に一時的に預けられた。そこで、我が家の生活が異常だったことを知る。皆が好きなように時間を過ごし、ルールをこっそりやぶって笑いあったり、ご飯がまずいと文句を言ったりのんびり団欒を過ごしたりする。私はそこで初めて家庭の温かみを感じた(違うかもしれないが)、家庭の会話に温度を感じたのが初めてだったのだ。予定は2週間だったが、直前で兄が家出をしたため結局1ヶ月をそこで過ごした。兄は警察に保護され、父親と研修を受け、私は最終日に家に帰りたくないと大泣きした。そしてコンビニ経営がスタートする。
そこから半年ほど私は廃棄のコンビニ弁当だけで生活をした。父親と兄はローテーションでひたすら無休で働いていた。生活リズムはめちゃくちゃだった。兄は父親への反抗で風呂に入らず出勤したりしていた。4日風呂に入っていない兄は汚くて臭くて嫌だった。これでコンビニで接客してるのは今考えてもやばい。私は父親に捨てられることが怖くて、反抗はできなかった。食器を並べる時、父親の箸を少し崩して置くのが小さな抵抗だった。父親はメニエール病を発症していたがそれでも休むことはなかった。「このままじゃ破綻すると思う」と声をかけても「私への誕生日プレゼントとして休みを取ってほしい」と声をかけても「俺の仕事に口出しするな」と怒鳴られ物を投げられて終わった。いつか父親は死ぬだろうなと思った。死んだ。
中2の冬のある日。父親が死んでいた。
その頃の私は起きられている時に父親に学校に送迎してもらっていた。その日もいつも通り学校へ乗せていって貰おうと思っていたが、寝室に父親がいない。トイレにもリビングにもいない。家中探してもいない。けど、外に車はある。そうして車を覗きに行くと、眠るように死んだ父がいた。最初は普通に眠っているのかと思ったが、こんなに寒いのに白い息が出ていなかったため何かがおかしいと思った。大声で何度も父親に呼びかけるがピクリとも動かない。何度も何度も呼びかけても動かなくて混乱した私は中学校の先生に電話をかけた。
それからはあっという間で先生が来て、警察が来て、救急車も一応来て、警察の人に「恐らく煉炭を使用した一酸化炭素中毒による自殺で事件性はない」と説明を受けた。兄はコンビニに出勤していたので、事情聴取は私が受けた。警察の人に色々教えて貰って、家族葬の予約をとって父親を骨にした。
父親のために生きていたようなものなのに捨てられたんだなぁと思った。私と兄はみっともなくあがいて生きてまでどうにかしてあげたい存在ではなかったんだなって。
ちなみに母親は、父親の死を知り家に押し入って来て、殊勝な態度で「また一緒に暮らしたい」と言ってきた。どの口がと断るのだが断った途端に豹変し、ズカズカと家の奥へ踏み込んで家探しをして貴金属を持ち去っていった。
兄は対人恐怖症で私以外とまともに会話ができないので、来客や自治体等の対応は今も昔も私がしている状態だ。
なんか思い出してつらくなってきた。
・しばらく兄妹で生活する
・入れ違いで兄が入院
・安定して通学できず単位が危うくなるも担任の先生のサポートでなんとか進学
・薬でなんとか通学できるようになる
・公務員を目指す
ゴミ屋敷は支援員の方々の協力で脱却した。別に綺麗ではないけれど。
休職して半年ほど経つけれどいまだに無気力で何も出来ない。人とのコミュニケーションが怖いし、他人を信用できない。体調が良くなっても性格が、性格が良くなっても、特性が人生の邪魔をする。
目の前のことに必死すぎて友達もほとんどいないままここまで来てしまった。というか人の頼り方がわからなくて信頼関係が誰とも築けない。誰と話しても気を張ってしまう。相手を不快にさせないようにと顔色を伺ってしまうし、自分で自分を大切にできない。
兄は給料が少ないことと友達がいないことを度々気にしながらも、趣味のゲームで息抜きしながらなんだかんだ楽しそうに生きている。今はウマ娘にハマっているようだ。よく私に育成の楽しさを語ってくれる。
現状生きてれば良し、面倒なことは後回しで良くも悪くも細かいことは気にしない性格なのだ。私もそうなれたら良いのだが。
なんか今まで色々、色々あったけど社会に出たら一人の人間でしかない。親ガチャの失敗のせいにしたいけど、毒親持ちでも立派にやってる人はたくさんいて、自分を褒めてなんてあげられない。
幼少期は、場にそぐわないことを言ったりして周囲をドン引きさせるのを繰り返してきた。
ある程度成長してそれを自覚するようになると、周囲をドン引きさせないために何を言えば良いかが分からず、誰とも何も話せないようになっていった。
大学に進学して一人暮らしを始めると、周囲に話す人間が誰もいない生活がスタートした。
授業やゼミでの発表のような「論理的で一方的な発言」は得意だったので、そういう場は難なくクリアすることができたが、
普通の「雑談」の場で何を話せばいいか分からなかったので、授業に出ても誰とも雑談しなかった。
俺にとって誰とも話さない生活が最高に快適である、ということだった。
もう周囲をドン引きさせることを恐れる必要もない。何を話すかで思い悩むこともない。
俺は孤独耐性が高く、1~2か月程度人と話さなくてもまったく平気だったのだ。
しかしそうした生活は、少しずつ確実に俺の中の「会話能力」を衰えさせていった。
使わない能力は徐々に衰えていくものだが、大学院も含めた6年間の大学生活が終わる頃には
まず舌や喉の筋力が衰え、呂律が回らなくなり吃音を発症するようになった。
それから、会話をしても次に発言する言葉が脳裏に浮かばなくなり、会話のキャッチボールが難しくなった。
もともとキャッチボールで大暴投するような俺だったが、投げ返すことそのものが困難になったのだ。
卒論の発表などは問題なくクリアできたのに、人との会話は1分間も続かなくなった。
学歴がそこそこ良かったおかげでなんとかまともな企業に就職することはできたが、
会話能力の低さはあらゆる場面でハンデとなった。
仕事をしていると嫌でも人と会話をすることになるが、一度低下した会話能力は簡単には戻らない。
誰とも雑談しないので職場内の人間関係がほとんど構築できず、何かあった時に頼れる人がいない。
上司や同僚との信頼関係も築けず、それが仕事を進める上での間接的な障害となる。
こんな俺でも、専門性を武器になんとか10年以上働くことはできたが、そろそろ限界かもしれない。
この歳になると、マネジメントや難易度の高い交渉が仕事のメインになってくるが
会話がまともにできない、あるいはできたとしても大暴投する俺にはこれがかなりの無理ゲーなのだ。
結局、何度かの大失敗の末にマネジメントの立場からは外されることになった。
こんな俺をまだクビにせずに雇ってくれる会社には感謝する他ないが、
それもいつまで続くかは分からない。
結局、会話ができなければ生きていくのは難しいのだ。
ああそれでも、願わくば大学時代のように誰とも会話をせずに生きていきたい。
このまま会話能力が衰え、「どうも…」とか「うほ…」ぐらいの類人猿レベルの言葉しか話せなくなっても、
それでもいいから誰とも会話をせずに生きていきたい。
https://anond.hatelabo.jp/20210302232910
フードバンクからの重い段ボールが届きました。これから開封します。
最近のこと。知人が出産しました。おめでとうは第一なんだけど、自分には一生望めない幸せだということを思い出して気が狂い、昨晩は処方されている薬を3倍くらい増やして服用してふて寝をしました。具合が悪くなると泌尿器官がまずやられて下が垂れ流しになると聞いていたので、念のためナプキンをつけて寝ました。ただ、3倍程度では泌尿器官については何事もありませんでした。
受容体に限りがあるから副作用が増すだけというのはわかって決行しました。結果、やはり元々自覚していた副作用(まっすぐ歩けない、呂律が回らない)が強く出ただけで、むしろ心地よく眠れました。普段からこの量を飲んでぐっすり寝たいくらい。でもODはお医者さんにいうと全額自費になるのでどこかで飲まない日を作って錠剤の残りを調整します。
今回は死ぬための行動ではなく、自分でできる自傷行為のようなもので最もお手軽な方法を試したというだけ。どちらにしろもらっている薬を全部飲んでも到底死ねないのはわかっています。
まだ生きていてすみません。あと、昨日は仕事に行けました。時間帯によって忙しさの波があり、座っているだけでお給料が発生する時間が少なからずあるので、なんとか耐えました。ひとつつらかったのは通勤電車で車酔い?したこと。そして世の中に溢れている音がうるさい。閑静な住宅街でもうるさいと思ってしまう。耳栓(サイレンシア)を使っているが、可能なら防音に特化したヘッドホンもしくはノイズキャンセリングの性能が良いイヤホンを手に入れたいです。そんな嗜好品にお金を出す余裕がないから苦しんでいるんだけど。
あと、「扶養照会の前までの各種調査を終わらせて、これについては後で相談しましょう。手持ちのお金と収入が基準の金額未満であることは満たしているので生活保護の申請は受理されるはずです。とにかく申請しましょう」と福祉事務所の方に言われて、生活申請を済ませてきました。すぐあとに医者にかかる用事があったのですが、自己負担がなくなりとても助かりました。あとの課題は派遣会社に提出する、「なぜ連日の欠勤が続いているのか」「今後も就労可能なのか」を説明するための診断書。これはお医者さんと相談してお医者さんに書いてもらいます。
ただ悩んでいるのは、自分がきちんと出勤できるならば、診断書で「1週間療養が必要」などと書いてもらう必要はない。しかし、生活保護の申請が却下されてしまったらただ収入を減らすだけになってしまうかもしれないこと。「病気の療養のために生活保護を利用してください」と共産党議員さんに言われたので、いまの仕事を諦めて治療に専念するか、どうするか悩んでいる。
まだ生きていてごめんなさい。
うちの大学は宅通率が低い。大学から半径2km圏内にみんな住んでた。
当時僕の住んでいたアパートは、1K、6畳3万円/月。コタツとソファーマットレスがあるほか家具がなく、ガランとして集まりやすい部屋だった。僕は酒と料理が第二の趣味みたいなもんだったし、飲み会のたびに酒の備蓄が増え、それが更なる呼び水になり、しょっちゅう飲み会会場になってた。
ある年の冬も、冬休み開始から帰省までの数日で、サークルのメンバーで鍋を作り、終電なんて概念もないから夜遅くまで酒を飲んだ。
夕方から集まり始めて、深夜にはグダグダになり、日付が変わったタイミングで片付けをした。いつもだいたいそれでみんな帰るのだけれど、一番近所に住んでいる女の後輩だけうちに残った。
その子のアパートは、50メートルくらいの超近所。隣の棟に住む友人の次に近所。方面的にも帰る奴なら誰でも送れたはずだけど酔うと言動が若干(?)面倒臭くなる子で、「もう少し飲みたい」と渋って帰ろうとしなかった。
その子は普段そこまで仲良くないし、何より異性だし、帰って欲しい気もしていたけれど、その日僕は料理ばかりしてあまり酒を飲んでなく、飲み直したい気もして、まぁ良いかと思って一緒に飲むことにした。
んで、その子に何を飲みたいか聞いてウィスキーとアマレットのカクテルを作った。飲んで食べてして満腹気味だろうから、度数こそ多少高めでもデザート的な感覚で。
その子が見聞した別サークルでの恋愛談義を肴に3次会よりもグダグダな感じで酒を飲み始めた。
後輩は初めてカクテルを舐めているくらいだったが、氷がほどよく溶けて薄まったのか、トータルの度数を忘れ2杯ほど飲んでいた。ペース配分のつもりで作ったロングもすぐ飲み干し、そうこうしているうちに午前2時。後輩は呂律が回らなくなり、目もトローンとして、だらしなく脱力しながら、それでも飲んでいた。
良い加減疲れてきて、解散を提案したが、後輩は寒いからと帰るのを拒否。送ることを提案したり、コンビニに寄ってアイス買って帰ることを提案したりと適当に帰ることを促しながら、有無を言わさぬ行動のつもりでコタツを壁際に寄せ、ソファーマットレスを展開し、押し入れから布団を出して敷いた。
すかさず酔った後輩がモゾモゾと布団に入っていったので説得を断念した。
トイレに行って寝る前の用を済まして部屋に戻ると、先に布団に潜り込んでいる後輩が、トロンとした目で
「セックスする?」
と訊いてきた。
同時に!
さっき布団を出した押し入れに収納された衣装ケースにゴム製品をしまってあることもハッキリ意識しており、取り出すには敷いたばかりかつ後輩が潜っている布団を押し避けて押し入れを開けなければならない。布団の敷き場所の選択ミスを悔やみつつ、飲み会部屋ゆえの目につかない収納にした自分を恨みつつ、他に予備を収納していないことを嘆きつつ、それゆえに手を出さない自分を確信し、かつ、中学時代に読んだ『閃光のハサウェイ』のなかで出撃前夜に美女と一夜を過ごしならセックスしなかったことを自己分析していたハサウェイ・ノアのことを思い出していた。
「しないよ、寝よう」
と言って、電気を豆電にして、寝るときにバックルが邪魔になるズボンからベルトを抜き、フードが邪魔になる着古したパーカーを脱ぎ、最大限余裕ぶろうとしても上擦った声を恥じながら後輩が潜っている布団に入った。
2人には狭い布団のなかで、寝間着に着替えなかったから寒くて肌を寄せたく、心地よい位置を模索した。途中何度も迷ったけれど、息を潜めているうちに、後輩の呼吸が寝息に変わった。
翌朝、と言うか起きたら、昼だった。
後輩が起きてトイレの行き、その隙に布団をさっと畳み、マットレスをソファー形状に戻し、布団をしまうべく押し入れを開け、……衣装ケースから回収すべきブツを回収し、戻ってきた後輩にキレられるかと思ったけれど何も言われず抱きつかれ、理性のダムが決壊した。
なんか、この季節になると思い出すんだよね。
いつも冬になると、ちん竿の経路に関する問題が私を苦しめる。
寒さに弱い私はパンツの上にヒートテックのインナーを穿いてるが、おしっこするときに、うまくちん竿を出すことができないのだ。
漏れそうになるまで我慢しなければならない時、どうにか便器にたどり着けたとしても、ちん竿が出せずに漏らすということも多々ある。ちょい漏らしなんて、当たり前だのクラッカーだ。
ちん竿は自動的に出てくるものではない。手で引っ張り出さないとならない。
男性のパンツの前方のちん竿を出す穴は、「前開き」と言うらしい。これ豆。
チャックを降ろしてから、前開きに手を入れて、ちん竿を掴まなければならないが、まずそこがうまくいかない。Yシャツの裾が邪魔をすることもママある。
便器の前で安心し切っている膀胱。ヒートテックの「前開き」に指を入れ、さらにパンツの「前開き」を探す。ない? わたわたと、ちん竿を探す指。
ああああ。ないないないない。あ、あった! ところが、ちん竿が縮こまっていてうまく掴めない! あわわわわ。
ようやく指でちん竿をつかむ。布きれの迷宮から引っ張り出すが、いざ発射の段階になると、2つの「前開き」が柔らかなちん竿に上下左右から圧迫を加える。
親父たちが、変に腰を引いた状態で放尿しているのは、こういった理由からだ。そして、俺もその一人だ。
先日、おしっこ漏れそうになりながら、どうにか駅のトイレに駆け込んだ。膀胱の限界とのギリギリの攻防だ。
過去の経験に照らし、これは漏らすパターンだと判断した私は、トイレに人影がないというラッキーの後押しもあり、便器の前に到着するまでに、すでに外されていたベルトごと、ズボンもヒートテックもパンツも一気に膝まで降ろした。
私はとっさに、酔っぱらいの演技を始めた。
ケツ丸出しごときは日常茶飯事と言わんばかりのヘッドバンギングをカマしながら、クレイジーケンバンドの「クリスマスなんて大嫌い!!なんちゃって」をレロレロの呂律で歌ってその場を凌いだ。
こんな苦労は女にはわからんだろうなあ。
(追記)
この話を、コロナ自粛明けの9月、都内某所の小洒落た小料理屋のカウンターで、同僚相手に話して爆笑をかっさらった。
ふと美人女将に目をやると、恥ずかしそうに下を向き、堪え笑いをしている。本当は大声で笑いたいのだろう。
ふと、女将と目が合った。俺は思ったね。恋に落ちたって。
たとえアメリカの一流大学にいってたとしてもだぞ、純粋数学を学んでた人間が Python を1年学んだぐらいで世界的な人工知能開発者になれるわけねーだろ。世の中を舐めすぎ。次にくるのが AI だという理由で、金融工学から鞍替えするのも、信用がならねえ。
そして人工知能はノイズキャンセリングや形態素解析エンジンのことである、というのであればそれで良い。問題なのは、そのエンジンを自作できないでラン○ーズやクラウ○ワークスに投げているのばどういうことよ。それにライブラリを使うだけだったら、学歴はいらねーぞ。普通はその経歴だったら、CUDA なり C なりで高速に動作する人工知能のコードを書くことができるひとなんだと思われるぞ。Python だけしかできないなら、無能は無能らしく黙っておけよ。高々、年収500万で「統計とC言語と設計ができて人工知能開発も可能」という求人を出すな。反社か。
お前さん、アメリカでクスリ使うことだけを学んで帰国しただろ?変な痩せ方したり、鼻が赤かったり、呂律がまわらなかったり、足し算ができなかったり、急にキレたりするのはそういうことだろ。
もう諦めなって。あなたを救ってくれるのは、警察だけだよ。人工知能で詐欺も、資金集めも要らない。刑務所でじっくりとクスリ抜いてもらって、職業訓練をする。そうしないと【何もできない】人工知能でクスリを手に入れるためだけに、これからも生きていくことになるぞ。
嫁さんの伯父にあたるオッサンが根治不可能なアル中で、つい最近飲酒運転で警察に捕まったらしい。
普段から何喋ってんのか分からないくらい呂律が回っていなくて、だいぶ末期だと直感した。
もう警察にも目を付けられてたんだろうな。
運転しているところを捕まえてくれて良かったわ。
シナリオ的には一番マシ結末だろう。
単独事故で死んでくれれば、家族はその瞬間悲しい思いをしただろうが目の上のコブがきえて長期的には良かっただろう。
ひしゃげたガードレールか電柱にごめんなさいすれば事は終わりだ。
これが生まれたばかりの赤子を背負う若いお母さんを、見事挽肉へと仕上げるようなことをしたら、一族郎党腹を切って詫びて死なねばならぬところだった。
生まれつき、仲良く一般的な家族のような関係を構築できた記憶はない。
バブル期にいけいけどんどんで稼いできた父は気が向けば家に帰り、母と私に「誰のおかげで生活できているんだ」と責める。
その度、気に喰わない態度をする母と私から逃れるために外に女を作って家を空けることを繰り返してきた。
ここ数年来は同じマンション内に2部屋を購入し、追加で私が住宅ローンを組むことにより父と母と私がそれぞれ違う部屋に住んでいる。
同マンション内で別居中の70代の父親は私に週末に電話をかけ、泥酔し呂律の回らない状態で「普通の家族らしく生活したい」と求めてくる。
それはもう無理だろう、と諦めるよう促すが、毎日「どこか田舎に行く、お前らは達者で暮らせ」と言いたいことばかり喚いてから電話を切る。
これを2週間音沙汰がなく、また2週間おきに繰り返している。
その電話対応をするたび、ストレスがうっすらと積もるようになり、本音で父親に話すようになった。
「相手の気持ちも考えたことがないくせに、自分の勝手ばかり主張するな。」
「これまで好き勝手に生活してたんだから、急に寂しくなったからといって求めてくるな。」
もう別にいいと思っている。
勝手に暮らせばいいのにと願っている。
別に仕事中とかで「ちょっと体調が……」とか自体は悪くないと思うのさ。
最近はこういうご時世だからようやくちょっと敏感になってきたけど、ある程度体調悪いアピールしないと、上に平気そうと見なされて帰してくれない時ある。
でもそれはあくまで「早退という結果を勝ち取るため」じゃないのかなって。
「体調悪いなら帰りなよ」
「いや……大丈夫です……元気なんで……」
いや帰れよ。
体調悪いと投稿する自体は別に悪くないと思う。日記代わりだったり、思ったことを書いてるだけだったり、書くと楽になる気がする人もいるらしい。
アピールといっているのはこういうやつだ。
「なんか廊下で失神してたらしい。」
「大丈夫!よくあるんで!」
いや行けよ。
だいたいよくあっちゃだめだろ。
お腹痛いとか頭痛いとかそういうレベル感の話じゃない事を投稿しておいて、他人の心配を平気ではねのける謎。
「絶対病院行った方がいいですよ!なんなら救急車です!」と優しい人はさらに次の返信をする。
しかし本人はやはり「よくあるから」「大袈裟だな」とその心配を流す。優しい人はもやっとしながら会話を終える。
何故こういうアピールをするのか?
ひとりでTwitterで呟いているだけならまだわからなくもないのだが、リプライに混ぜたり、チャット会話ルームなど会話を主目的としたサービスでもやる奴がいる。
そしてする人は大抵常習犯で、「腕がしびれて動かない」「呂律が回りづらい」だの定期的に投稿する。
真実だとしたら何故病院にいかないのか分からないし、何かしらの結果を引き寄せたいが為の「アピール」ならば何がしたいのか全然分からない。