はてなキーワード: 駅前通りとは
よさこいソーラン祭りは、1992年にスタートした祭りで、6月の本祭のほか、学校教育や観光、さまざまなイベントでも披露されています。
よさこいソーラン祭りは、1991年に北海道大学に通う学生の思いつきがきっかけで始まりました。第1回は参加10チーム1,000人、観客動員20万人で始まり、現在では約270チーム27,000人の参加者する利権となっています。
参加費は、企業チームが最大35万円、一般チームが最大25万円です。また、商業演舞には12月から権利使用料が徴収されています。
2023年の協賛金は計約600万円。
しかし2024年度締め切りを1カ月後に控えた2月末時点で協賛金は150万円ほどにとどまる。
SNSの発達により、イベントが地元で不評なこととまた運営が傲慢であることが知れ渡り、イメージダウンを嫌う企業が増えている
祭り期間中は3日間にわたりで開催会場周辺の交通規制が実施される。
よさこいソーランまつりは公道を占拠するために道路使用許可を得て開催しており、警察官1500人を動員するなど財政を圧迫しているが、道路使用料などは支払っていない。
数年前、午前2時過ぎにバイト先の居酒屋から徒歩で帰宅する最中だった。当時10代だったわたしの足で、すすきのから札幌駅方面の自宅まで30分ほど。
平日深夜だと言うのに、市電通りの横断歩道を渡っても駅前通りは結構人が多かった。
カラ館前を通り過ぎようとしたら、路上でスーツを着た40〜50代くらいのおじさん3人が大騒ぎしていた。タクシーとタクシーの間、路上というよりは車道だった。
「酔っ払いは嫌だなあ」とチラリと視線を向けると、明らかに様子がおかしいおじさんが1人いた。見るからに意識がない。
周りのおじさん2人は、路上に座り込んで意識のないおじさんを呂律の回らない口で笑っていた。近くにいた客引きの女の子は仕事中だがおじさんの介抱するべきかチラチラと視線を送っていた。
おじさんは、転んだ時に頭をぶつけたようで、路上は血の跡で若干濡れていた。顔色は、夜でもはっきりわかるほどにみるみると真っ白になっていった。
そして、失禁した。それを見て周りのおじさんは更に爆笑した。
これはいけないと駆け寄った。首の横に手を当てても脈が触れず、肩を叩いて、名前も知らないのに呼びかけた。うろ覚えの知識でネクタイとベルトを緩めた。
それと同時に救急車を呼んだ。
大の大人が失禁するシーンなんて見たことがないからわたしはパニックを起こしていた。救急の人に状況説明していたが、支離滅裂だったんじゃないかと今になって不安を覚える。
必死で呼びかけたおかげか、顔色が戻ってきた。脈も触れる。よかった、と思っていたタイミングで救急車がやってきた。
そのまま救急隊員におじさんを引き渡した。だが、問題はここで起きた。
おじさんが救急車に乗らない。さっきまで顔色悪く失禁してたことなど本人は知らないからなのか、おぼつかない足取りでそのまま帰ると主張していた。
救急隊員も「頭怪我してるから、そのまま帰ると奥さんが心配するよ」「とりあえず頭の手当てだけするから救急車に乗って」などとさすがプロと思える誘導を行っていた。おじさんは言われるまで頭の怪我に気付いていなかった。
野次馬ごと「帰れ」と促されたからその後は知らないが、深夜に救急隊のみなさんに迷惑をかけてしまったのではないかとずっと気に病んでいる。
実はおじさんの怪我は大したことなくて、酔っ払いが失禁するのもよくあることで、あの夜に救急車を呼びたかったのに私が呼んだせいで助からなかった人がいたのではないかと、ふとした時に考えてしまう。
所詮通行人だったし、放っておいてもよかったんじゃないか、わたしがやらなくてもよかったんじゃないか。
おじさんと救急隊が結構な押し問答してたし、わたしがパニック起こして余計なお世話してしまったんじゃないか、状況説明したときの面倒臭そうな救急隊員の態度から通報してよかったのか、未だに不安になる。救急車に乗せられるところまで見届けられなかったからかもしれない。#7119にかければ良かったのかもしれないが、当時あったのか存在を知らなかったのか今となってはわからない。
たくさんのご意見ありがとうございます。当時の自分を労って下さるコメントに気持ちが救われています。
やらなかった時、きっと後悔してただろうってお言葉がいくつかありました。たしかに素通りしてずっと悶々とするよりは、助かってモヤモヤしてた方がマシだなって思いました。ありがとうございます。
以下気になったコメントについて。
→仰る通りです。ただ真冬のすすきのは警察官がその辺ウロウロして酔っ払いを拾って帰るので、恐らくわたしが出くわすことはなかったんじゃないかと思います。当時はそこまで寒い季節ではなかったので9〜10月上旬くらいだったかと記憶してます。
→多分立ち合ったら誰でもわかります。かなり真っ白で人間の色してませんでした。失禁直後に首触った時の感触と体温がゴムみたいで、数年前亡くなったおじいちゃんの遺体が過ぎり、余計に焦りました。生きててよかった。
→酔っ払ってました。フラフラで立てない感じです。わたしのスマホの充電が切れそうだったので「おじさんスマホある?」って聞いたら「どこだろ〜?落とした〜?」って言ってました。多分2人とも死にかけおじと同じくらい飲んでたんでしょうね。
わたしが焦る様子見てようやくただごとではないとわかってくれたのか、座ったまま介抱手伝ってくれました。
→怖すぎる世界線で震えました。普段から人気のない場所には行きませんが、気をつけます。
ちなみにすすきのは街頭の監視カメラかなり多いです。余談ですがひったくりされた時にすぐに犯人捕まりました。周りに通行人が多く、客引きやタクシーが見てる状況で、いざとなれば誰かに声をかけられるという環境だったからこそ動けたのかも知れません。
→ごめんなさい、気持ちの余裕がなかったです。場所を先に伝えたほうがいいってボーイスカウトで救急救命講習やったときに教わっていたので「〇〇に救急車一台下さい!」って咄嗟に言ってました。タクシーじゃないんだからもっと言い方考えるべきでした。
あの時は必死でおじさん死ぬな!って思ってたんですが、そのあと意識取り戻して救急隊と揉めるおじさんを見て「あれ…?元気じゃね…?私救急車呼んでよかったのコレ?」ってモヤモヤしてしまい、今回増田の存在を知って書きました。読んでいただきありがとうございます。
コロナ禍において「自粛をする真面目な若者」の分類に長らく入っていた俺は、先日久々に行きつけだったゲーセンに出かけ愕然とした。
郊外の国道沿いにあるこのゲーセンは、中心駅の駅前通りにあるそれよりも設定が甘く、景品が比較的取りやすかったのである。
久々にUFOキャッチャーをやり、力ないアームがだらんと落ちるのに軽く絶望を覚えた。
収益が減ったのだから、より金を落としてもらうには設定を弱くし、一つの景品を狙う一人の客から多くむしりとる必要がある。
俺もまたコロナ禍で遠ざかり、金を落とさなくなった客その人であるのだから文句は言えまい。
でも、それを頭で分かっていたとしても俺には
「この店でもうUFOキャッチャーはやりたくない」
いや、駅前通りのゲーセンはもっと酷い設定になっているに違いないからUFOキャッチャーそのものを遠ざけてしまうだろう。
別にゲーセンには音ゲーとかUFOキャッチャー以外のゲームもあるからそっちはやると思うが、ついでにと金を落とす事は多分もうない。
設定を甘くしたらしたで上手い人が根こそぎ取っていってしまうから、そういう事も起こらないだろう。
俺だけではなくそれなりに大勢の人がUFOキャッチャーに萎えていて、ほしい景品が出来てもメルカリで買うのだろう。
あの頃のゲーセンがもう戻ってこないと思うと悲しい。
その頃、駅前通りに商店を構えていると言えば、奥様、旦那様と呼ばれる身分。街の一等地に店を構える裕福なお店という扱いだったとか。
その中にあった、老舗のお店の奥様が、旅館のダンスホールで知り合った男性と良い仲になり、こどもと旦那を置いて家を出てしまった。そして、旦那に届く手紙。
奥さんを返して欲しかったら、そこそこの金額を用意しろと。奥様が惚れた男はヤクザで、女を引っ掛けるのを生業にしていたらしい。
妻がみずから家出しているのに警察にもいけず、悩んだあげく旦那は要求をつっぱねた。
店を守るため、対面を守るための決断だった。
それきり奥様は帰らなかった。
その後、何年もたち、大きくなった息子が店をついだが、少しずつ駅前通り自体がさびれ、今となっては賑やかだった通りもがらんとしたシャッター街になってしまった。
私が高校時代通っていた吉野家がつい先日なくなった。これで最寄りの吉野家が120キロ以上離れたことになる。
かの有名な「ジャスコ釧路店110キロ先」より遠いと言うと、どのくらい遠いかが…わからない気がする。
ちなみにその吉野家は「ジャスコ釧路店」こと「イオン釧路昭和SC」ではなく5キロほど例の看板側に移動したところにある「イオン釧路店(通称ポス)」のすぐ近くにあって私の帰り道になっていた。
未だにほぼ同じ値段だったインデアンでなく吉野家に寄って帰っていた理由はわからないが多分そんな時期だったのだろう。すき家もあったのでチーズ入りが食べたければそちらに行くこともあったが吉野家信者だったので大抵吉野家に行っていた気がする。でも今日言いたいのはそんな個人の趣味ではない。
今自分はその気になれば吉野家もすき家も松屋もあるしマックもモスもロッテリアも行ける生活をしてるけど自分ができるだけチェーン店の世話になろうとしない生活をしていたのはチェーン店が少ない街に住んでいたからなんだろうと思ってる。でもいくつか知るとちょっと勿体無かったと思ってもいる。
ここまで書いておきながら本題に入るのをすっかり忘れていた。なんで吉野家がなくなったことをわざわざここに書こうと思ったかというと衰退する釧路の風景をまた1つ見せつけられた気分になったからだった。生まれてから大学で内地に行くまでずっと釧路で生きてきた。その間進歩したことと言ったらせいぜい高速が伸びたことくらい(阿寒までつながったは最近のことだが…)で丸井はなくなるし駅前通りの衰退はリーマンショック以来酷いもので遂には広大な敷地にセブンができてしまった始末だ。あれもなくなりこれも無くなり新しい何かは出てこない。せいぜい春採湖畔に本屋ができたことぐらいではないか?
国も道も金が無いと妄想に基づく救い難い言い訳して無策を貫き通しているし万が一のことがあれば鉄道すら消えるかもと言われている。そんな中での吉野家閉店なのだ。私には希望や発展が奪われ続けているようにしか見えないのだ。
私が高校時代通っていた吉野家がつい先日なくなった。これで最寄りの吉野家が120キロ以上離れたことになる。
かの有名な「ジャスコ釧路店110キロ先」より遠いと言うと、どのくらい遠いかが…わからない気がする。
ちなみにその吉野家は「ジャスコ釧路店」こと「イオン釧路昭和SC」ではなく5キロほど例の看板側に移動したところにある「イオン釧路店(通称ポス)」のすぐ近くにあって私の帰り道になっていた。
未だにほぼ同じ値段だったインデアンでなく吉野家に寄って帰っていた理由はわからないが多分そんな時期だったのだろう。すき家もあったのでチーズ入りが食べたければそちらに行くこともあったが吉野家信者だったので大抵吉野家に行っていた気がする。でも今日言いたいのはそんな個人の趣味ではない。
今自分はその気になれば吉野家もすき家も松屋もあるしマックもモスもロッテリアも行ける生活をしてるけど自分ができるだけチェーン店の世話になろうとしない生活をしていたのはチェーン店が少ない街に住んでいたからなんだろうと思ってる。でもいくつか知るとちょっと勿体無かったと思ってもいる。
ここまで書いておきながら本題に入るのをすっかり忘れていた。なんで吉野家がなくなったことをわざわざここに書こうと思ったかというと衰退する釧路の風景をまた1つ見せつけられた気分になったからだった。生まれてから大学で内地に行くまでずっと釧路で生きてきた。その間進歩したことと言ったらせいぜい高速が伸びたことくらい(阿寒までつながったは最近のことだが…)で丸井はなくなるし駅前通りの衰退はリーマンショック以来酷いもので遂には広大な敷地にセブンができてしまった始末だ。あれもなくなりこれも無くなり新しい何かは出てこない。せいぜい春採湖畔に本屋ができたことぐらいではないか?
国も道も金が無いと妄想に基づく救い難い言い訳して無策を貫き通しているし万が一のことがあれば鉄道すら消えるかもと言われている。そんな中での吉野家閉店なのだ。私には希望や発展が奪われ続けているようにしか見えないのだ。
数年前、実家に帰省したら駅前通りの5階建てのデパートが取り壊されている事に気がついた。。
小さいころは、あそこで服を買ってもらったり、ガンダムのガチャガチャをよく回しにいっていたのを覚えている。
そうとう栄えたデパートだった。
更地になって新しく建ったのは、小さな一階建ての携帯電話ショップだった。
過疎化により、町にあったバスターミナルはなくなり、ただの停留所だけになった。
平成元年3万人いた人口も30年たったいまや2万人、産業がどんどんやせて言った。
子供の人数も加速的に減り平成元年の三分の一程度しかいなくなってしまった。
学校が統廃合され、町の端の方の子はスクールバスをつかって、子供たちは町の中心にある学校に通うようになった。
同窓会を開いても、半分以上の人は都市部に住んでいるためなかなか集まらない。
地元には仕事が無く、家業で農家をやってる家の子くらいしか地元に残っていない。
自分がいたときは1クラス40名程度だったが、廃校が決定した当時には1クラス5人程度しか居なかったらしい。
たった30年で、そこまでの変化があった。
ン10年前に旦那にプロポーズされた場所は、本当に何でもない駅前通りの舗道だった。当時、たいへんわがままで夢見がちだった私は、それに憤慨して「もっとロマンチックなところでプロポーズしなさいよ!やりなおし!」とやり直しを命じた。(今思うと本当に何様だと思う…)旦那は悲しそうな顔をして、頷いた。
それから、数カ月、本当に何事もなかったかのように日々が過ぎた。というか、仕事が忙しくなり、付き合ってるかどうかも一時期あやしくなったほどに忙しかったわけで。プロポーズのことなんてすっかり忘れていた。
で、4カ月後、私の誕生日に、初めてデートしたときに行った、八重桜の咲く綺麗な公園急に呼びつけられた。
訝しげな私に向かって、彼は青い箱を取り出した。手のひらに載るくらいの箱。私は何を思ったか「誕生日プレゼントだ」と思い、箱を開けようとするも深爪でうまく開けられない彼の手から、小箱を奪い、開けた。
で、中に指輪が 指輪が入っていた。彼が呆然とした顔で「それ、婚約指輪…」とふにゃふにゃした声で言う。まさかの二回目のプロポーズだった。というか、まさかじゃない。十分想定できることだった。
号泣した。二回目の、もしかしたらロマンチックになるかもしれなかったプロポーズを、自ら台無しにしたことに失望して号泣した。
それからもう一三年経つんですけど、まあ今日なんですけど、これが本題なんですけど、誰か私の誕生日祝ってください。旦那は後ろですやすや寝てます。