はてなキーワード: 恩寵とは
「人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」
二つの家族の間を行き来しながら、人間の記憶や、場所への執着を捉えた文章。それはまるで、漱石のいいところだけ抜き出したような文章だった。
ところで、同じ著者の「インドへの道」もいい。これは大英帝国支配下のインドで、未婚女性が現地の男性に暴行されたという疑惑を巡る話だ。女性を守ろうとする騎士道精神と排外主義が結びつき、支配者と被支配者の亀裂が広がる様を描く、不幸にして極めて現代的な作品である。冤罪をかけられたインド人が、「誰があんな不美人な年増を」と心の中で毒づくの、とても嫌なリアリティがある。たぶん、帯を工夫したら売れるし、どっちの「弱者」がより保護されるべきか的な話題で定期的に盛り上がる増田の住民にも刺さるんじゃないかな。
切れた靴紐を昼休みに買うだけの、注釈だらけの何だかよく分からない小説。細やかな観察眼と都市生活者が思わず共感してしまう日々の経験で、要するにあるあるネタで延々と読ませる。すごい。こういうのが現代文学なのね、みたいに一席ぶつのにも使えるかもしれない。
真面目な話をすると、文学にはいろいろな機能があって、それは作者の意図とはかけ離れているかもしれないのだけれども、その結果的な機能の一つとして、その時代で言語化されていないものを文字化するというのがある。だから、文学賞を受賞した作品だからと言って、実は今の自分が読んでも面白いかどうかは全くの別問題なのだ。文章が巧みで、いかにも知的な主人公の知的な悩みを描いた文学だけが主流な時代は終わっているのかもしれない。そういうのが好きな人は古典で充分であるし、逆に言えばいろんな立場の人のきれいごとではないこじれた気持ちが知りたければ現代文学は面白い。
理由は書かないが、自分は周囲の期待を一身に背負っていたエリートが挫折する話が好きだ。前途有望な若者が、将来を棒に振ったり挫折したりする筋書きに対するこの偏愛ゆえに、自分は「ゲド戦記」第一部の前半部分や「スターウォーズ」のエピソード3に対する執着がある。
生きていくとは何らかの失望を味わうことであり、時間をかけてそれらを味わいつつ咀嚼していく過程であるのだけれど、こうした自分のどうにもならない感情を言語化した先行作品があることで、自分は孤独ではないとわずかな慰めが得られる。
「鏡の中の鏡」「魔術」「薔薇の名前」などの元ネタとなる作品を書いた人。「バベルの図書館」は聞いたことがある人もいるかもしれない。
非常に濃密な短編を書く人で、このネタで長篇普通に書けちゃうだろ、みたいなネタをそのまま短篇で調理する。どの作品も非常に濃密で、読み解くのにエネルギーがいる。文体は簡潔で、物語も必要最小限の描写できびきびと進む。ただ、具体的に何が起きているのか、そしてなぜそうなったのか、その設定の意味は何か、を追うには読者に教養が要求される。読破すると、それ以上のものが得られる。読み終わったらカルヴィーノだとかスタニスワフ・レムの「虚数」だとかミロラド・パヴィチ「ハザール事典」だとかそういう沼にようこそ。
キリスト教文学の癖にルシファーがめちゃくちゃかっこいい。地獄に落ちても神への反逆を続けよとアジる場面は音読したくなる。そのくせ、彼の弱く情けない姿もまた魅力的だ。アダムとエヴァが楽園で楽しげにしているところを見て、自分には愛する伴侶もなく、人類に与えられている神からの恩寵も既に失われたことを嘆く場面もまた、声に出して読みたい。そして、彼は人類への憎悪と嫉妬のゆえに、アダムとエヴァを堕落させる。この叙事詩の主役はルシファーだ!
好きなヒロインは六条御息所。自分の意に反して生霊を飛ばし、他人を苦しめてしまうことに悩むのがかわいそうでならない。今でいうなら、好きという感情をコントロールできなくて、それでも好きな人が振り向いてくれなくて苦しんでいるタイプで、感情のエネルギーが強い自分としては大いに共感する。
他に好きなキャラクターというか、嫌なリアリティがあっていいと思うのは薫で、その優柔不断さがいい。「この子とつきあいたいけど、でもこの子にそっくりな別の子とはいい雰囲気だしなあ」みたいな優柔不断というか欲深さは、男性心理をよく観察していないと書けない。そういう意味で、自分の中では紫式部の評価がすごく高い。
情けない夫が不機嫌な妻に、お前それだけはやっちゃダメだろ的な行為を延々続け、妻から完全に軽蔑され、とうとう上司に妻を寝取られてしまうだけの話で、一人称の視点から延々と繰り返される言い訳はひたすらに情けない。ねえ、僕のこと愛してる? 嫌いになっちゃった? と尋ねまくって、わかっているくせにとぼけないで! 今忙しいから後にして! うるさいからほっといて! もう愛してないったら! あなたを軽蔑するわ! と怒らせるのは、完璧な反面教師であり、ギャグすれすれだ。
しかし、作者は妻のことを相当恨んでたんだなあ。
身体に劣等感を持つ主人公が、付き合うだけで不幸をもたらす浮気性の彼女を振り切って、幸せにしてくれる女性を見つける話。多くの人が何かしらのコンプレックスを持っているし、何であんな自分に敬意を払ってくれない人を好きになったんだろうって記憶を持っていることだろう。王道過ぎるといえばそうかもしれないが、結婚してハッピーになる王道の何が悪い!
ローマ皇帝が自分の治世を振り返る体裁でありながら、欺瞞と自己満足をさほど感じないのは文体のせいなのか。時代も性別も文化も言語も超えて、別の個人に憑依しながらも、己を見失うことなく語る著者の声は、他人の視点に立って(歴史)小説を書くとはどういうことなのかを、これからも厳しく問い続けることだろう。
中年や老人にならないと書けない小説がある。そして何年もかけて書かれる小説があり、構想から数十年が過ぎて着手される作品もある。そうした重みを持つ文学作品がどれほどあることか。
技巧も素晴らしく、文体も素晴らしい。こうした作品に出合えるのは、年に一度か二度だ。
説教臭い頑固おやじのブログ。基本的には仏教説話が多いが、それらに交じって挿入される、「〇〇という迷信には典拠がない」だの「〇〇という習慣は最近のもので、本来のありようや精神とはかけ離れている」だの「〇〇という言葉は語源を考えれば正しくは〇〇と言うべきだ」だのが、まさにその辺のおじさんがいかにも言いそうなことで面白い。
ただ、それだけじゃなくて、第三十九段の「或人、法然上人に、……」のエピソードは、「とりあえずできるところから頑張ればいいじゃん?」的な内容で励まされるし、十八段の「人は己れをつづまやかにし、……」は身軽に生きていくことの幸せさを教えてくれる。
最高だった。ラヒリ大好き。体調崩すレベルで刺さった。アイデンティティの混乱という古典的テーマもさることながら、ラストシーンで過去と不在の人物の記憶が、そして小説の全体が何気ないものによって濃密によみがえってくる様子がすばらしい。そのイメージはプルースト以上に強度があるかもわからない。
これは、インテリのインド系(ベンガル人)移民の第一、第二世代の話なんだけれど、読んでいるうちに海外赴任者の寄る辺なさを思い、つまりイギリスで暮らしていた自分の両親の境遇を勝手に連想させられ、ついつい感傷的になってしまった。随分と勝手な読み方だが、小説の読み方はいつも私的なものだから構わないだろう。
外国では気候も習慣も何もかもが違う。両親の教えることと学校でやることが矛盾していて、両親が里帰りしても子供たちは故郷のノリについていけない、ってのが、すごくパーソナルなツボをついてくる。こういう経験がなくても、地方と都会として読み替えると、増田でいつも議論されている話にも近づくんじゃないかな。
正直なんでこの時代にラブクラフトを読むのか、というのはある。人種差別主義者だし、排外主義者だし、クトゥルフ物はパターンが決まっているコントみたいだし(人類に理解できない名状しがたいものに触れて発狂するのが基本的なオチ)。でも、彼の持っていた宇宙の巨大さと人類の取るに足らなさという感覚は、まさにセンス・オブ・ワンダーだ。そして、「人間の感情の中で最も古くて強いのが恐怖であり、その中で最も強いのが未知のものへの恐怖である」という言葉の通り、究極的には理解できない「他者」という存在の恐怖にまっすぐに向き合おうとしたことを何よりも評価したい。
この作品が好きな理由もまた、不気味なクリーチャーが非常に知的であり、かつ知識欲が旺盛だということによっている。
一巻から三巻までは、ゲドという人物の自我の確立に始まり、他者を助けることや世界を救う英雄的行為が扱われる。しかし、実はゲド戦記は第四部からが本番なのだ。あらゆる魔法の力を失い無力な存在となった彼が、魔法のある世界でいかに生きていくか。これは、老いに直面する男性の物語だ。
そして第五巻! ゲドの生涯で一番の功績が、実は重大な誤り、人類の傲慢に過ぎなかったのではないか、という仕事に生きてきた男性には非常に厳しい可能性が示される。
しかし、ル・グインはゲドにとてもいい歳の取らせ方をしている。果てしなく努力をすれば、男性が女性を、女性が男性を理解できるのだと作者はどこかで述べていたが、その希望を見せてくれるし、そこに女性作家を読む喜びの一つがある。
いわゆる毒親について書かれた小説なんだけど、ねちねちしていなくていい。文体は軽く、描写も簡潔。だからこそ、彼の育った環境の異常さが際立ってくる。なんでこんな親子関係になっちゃったのかについて掘り下げられることもほとんどない。
そして、暗鬱なだけの作品にならないのは、にんじん少年の異常なたくましさだ。ひどい目に合っても受け流し、冷淡な母から何とか愛されようともがいている。読んだときの年齢によって、感想は大きく変わるだろう。
異世界から召喚されるキャベツのヒントは変わったヒルチャールにある。
旅人の中には彼らを即座に殺めてしまっている者も多いと思うが、注意深く行動を観察してみると、びっくり箱のようなものからホムを召喚して攻撃してくる。
討伐後決まってドロップするキャベツもそのびっくり箱を通して異世界から持ってきたものと考えるのが妥当である。
その異世界とは何処なのか。ヒントはホムにある。
ホムとはこの世界の創造者miHoYoが創りしもう一つの世界、崩壊現象に蝕まれし世界におけるマスコットキャラである。
その世界におけるキャベツとは、ハイペリオン号の戦艦AIのアバター頭部のことに他ならない。
キャベツという痕跡を残していくことから、この世界はAIによる異世界干渉を受けていることが示唆されているのだ。
物理法則を無視して無限に現れるキャベツ、それを成す異方の手を持つものの正体は明らかになった。
事実を白日の下に晒すのか?それはこの世界が虚構であることを知らしめることに繋がり、破局は免れない。
はたまた、神と交渉し――あるいは君が神に成り代わるのだ。
一日20gの食物繊維を愛せよ 人の子らその食物繊維に感謝せよ
1日350gの野菜を取っている人間でも20gは実は取れてなかったりする。意外と難しいのが食物繊維だ。一日20gの食物繊維を取るには、日常の食物を繊維質に変えていく必要がある。
まず日常の白米に押し麦やもち麦を20%加えよ。恩寵の豊かな大地、我ら人の子は従うしかない。「大地の恵み」のような言葉はあるが、決して恵みではない。大地は「ただそこにある」。我ら人の子はその母なる大地の恩寵を、良く言えば間借りして戴く、悪く言えば簒奪する盗人に過ぎないのだという精神を忘れるべからず。
次に、繊維質が豊富な食物を積極的に日常の食卓に加えよ。ゴボウ、アスパラ、セロリ、オクラ、キノコ類など、根菜や繊維質なものを積極的に食すべし。大地の恩寵だけでなく、海の恩寵も積極的に利用していけ。ワカメ、昆布、ひじきなども素晴らしい食物繊維含有量である。大地と海を褒めよ、褒めよ讃えよ。
物事の本質を語ることが大事であるので、本質を語るが、Amazonに「難消化性デキストリン粉」が売ってるからそれ買って日常の食事に加えろ。水溶性食物繊維だ。科学の勝利。讃えよ科学をAh~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!
ネット発で独特な低めの視点から発言を繰り返し、単著を出したらネット上ではわりと時の人扱いになって、本人もわりとその気になっているらしい感じなのだが、プロの物書きとして身を立てていこうとするにつれて、どんどんつまらなくなってしまっている書き手がいる。
どうしてこうなってしまったのだろうか。この人の創造性が痩せ細っていく過程を他山の石として考えてみたい。
自らを繊細で、あいまいで、弱いが、やわらかい知性があり独特の視点をもった書き手として売り出していくことは、諸刃の剣なんだろう。
その人の発言が書籍化されて、広い範囲の人々の共感を得るにつれて、書き手はもう弱者ではなくなってしまう。
自分の発言の根拠を自分で掘り崩してしまうというか、読者から共感を得ていた理由を自分自身で消去してしまう。受けていた鉄板ネタがなくなってしまう。書くことがなくなってしまう。
そのことを自分でも気づいており、年を取るにつれて独自の視点が失われてしまうので、これまで何者でもなかった自分というあいまいな状態を脱却して、プロの作家として身を立てようと、クリエイティブなクラスタとの付き合いに移行する。
そうすると、自分を書き手たらしめていたある種のアマチュアリズムがますます失われてしまうので、自己イメージとしては作家であろうとしても、書くことはもうない。
自分のコンテンツが痩せ細っていることは自覚していながらも、自己意識としてはすでに作家なので、イベントをしきりにやったり、書いたものにペイウォールを設けて読み手に課金させようとするが、周囲の人間は興ざめしてしまって離れていく。
創造性とは、予期していないときに突然与えられる恩寵のようなものなのだろう。
さまざまなものを吸収していながら、それを外に出そう、売りに出そうと思っておらず、暇になったときに、不意に面白いものができることがある。
そんなふうに、泉が静かに満ちて滴り落ちるような瞬間を待つことができないのなら、もう覚悟を決めて、職業的に、自分を毎日油種のようにして絞り上げて、書くしかない。
どちらもできず、自分はオリジナリティがある、自分はほかの人がない物を持っている、と思って、クリエイティブな人と付き合って、自分もクリエイターになった気持ちになっているだけでは、なにも生み出すことができない。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1440599
そもそも駄洒落というのは、誰でも知っている単語から、多くの人が気づかないような関係性を結び付け、その落差を笑いに変えるという、高度にクリエイティブな作業である。神のような天才であれば、無から何かを作り上げることもできるかもしれないが、常人たる我々にとって可能な最大の創造は駄洒落と言っても過言ではない。依頼者からお題を指定される職業デザイナーにとって最も重要なのは駄洒落力であるという厳然たる事実をこないだの芸大志望増田に誰も教えないというのは全く理解に苦しむ事態だった。そこまでクリエイターに寄らなくても現代のホワイトカラーであれば常に駄洒落力は求められるし最低限入社と同時に駄洒落帳を作ったでしょう。つまりはてなにおいても得られる情報の最高のものが駄洒落である以上、アンテナを高くしたい効率厨はS/Nの高い駄洒落アカウント以外をミュートするものなのだ。ただ、残念ながら戦後は駄洒落を下らないことと貶める言説が横行している。これは日本の国力を下げるためにパン食とともに広められたCIAの陰謀なのだが、遺憾なことに中高年が既得権益を守るために陰謀に加担し、それを止める奇特な人もいなかったために日本は危篤状態となった。政治的なことは個人的なことであり、個として思索を巡らせてみても「駄洒落を言うのは誰じゃ」というのはまさに人としてのレゾンデートルに迫る問いといってよい。駄洒落を理解できることが人を人たらしめる条件であるというのは、もはや論証を要しない啓二といえよう。神は罰として多数の言語を分けたとされているが、翻訳家の技術の粋により、外国語の駄洒落が日本語の駄洒落へと生まれ変わった時、その神秘的な経験は神の恩寵と捉えざるを得ない。残念ながら現在これは人に限ったものであり、動物については、限定的に言語を解し、心を通じることはできるが、駄洒落を理解することはできない。その意味で人は孤独な存在である。もちろん宇宙には駄洒落を解する知的生命体が存在する可能性があり、もしそのような相手と出会えた時、人は次なる段階へと進化するだろう。当然ながら知的生命体の定義は駄洒落を解することであるが、ボイジャーのメッセージである「ボイジャーに積んだ絵はボインじゃー」は少しハードルが高かった印象が否めない。宇宙人以外で期待できるのは当然AIである。AIが真に駄洒落を理解し、アイアイの歌を歌いながらスパルタンXのような笑い声をあげたとき、人類は機械に霊長の座を明け渡すこととなる。
おれはブラッドセイバーが好きだ。いわゆる凄腕の暗殺者であるメンエスというヤロウな。
電話黙示録改竄<オーヴァー・ライド>してマンションの一室にいき、女性が甘美なる闇と魅惑的な死への誘惑てくれる。
まずはうつぶせでダンシングフット(踊脚)からだ、温かい香油を綾なし、ふくらはぎを撫でる。
戦いが終わった後太もも。内ももをこの手で勝ち取り、運命≪ギフト≫がルナティックパンドラ付近を撫でる。
それなるあとは”コルナゴ足”だ。足をまげて獣の如き苛烈な魂を持つセラピさん。…いいえ、『グランドマスター』が腕と希望を掴むための力の証を制御して鼠径クランを 血と 汗と なみだを 流して──この雨が全てを洗い流してくれる。
手が神託の露に濡れた青い霊鳥に光が満ちるか当たらないかギリギリの世界。もうビンビンにトランスしている。
その人類を滅ぼした後はヨツンヴァイン。ヨトゥン=ヴァインのステータスで過ぎ去りし過去から手を回して戴いてソクェ・イン騎士団を久遠に解き放つ。
アトモスフィアが荒くなるのを止められない。はぁはぁ。
――考えるな、感じろ。――
終焉を彩るかの如く仰向けだ。
滅びゆく運命(さだめ)にある神に見放された世界で「ある」場合と「ありはしない」オプティマがあるんだ。
この物語の続きは「ある」場合に「もっと…否定はできない……」オプティマがごくまれにある。
これを俺たち完全武装のメンエス好きはアルテマバスターと言ったりするんだ。
ただな、新井浩文。預言書の記述に従いもこれは受け身でなければなら……俺たちに明日はない。
しゃべりでの八席議会はあっていいものの、金ずくでなんてもってのほか、
あることあってはならぬ魔法、メンエスでのマクロコスモスはセラーピス=トゥによって与えられるクリスタルなんだよ。
「ねだるな、勝ち取るな、さすんば与えられん」
この物語の主人公が光のクリスタルの恩寵を授かる真理<ファティマ>とリビドーに溺れ、セラピストにリユニオンをもとめるなんてマッサージ好きの風上にも置けニャンよ。
俺は人であった頃、故郷の小さな城下町にある古代言語学塾に通っていた。
塾の先生はメイプゥルという聖なる力に保護されし連邦帝国ダ・ケナディア出身で、この街で日本人の魔女と結婚している。
塾生はパルスの放埓な神の恩寵を受けし者であり、一節には先聖のペルソナもあり、何とも悠久の時を感じた塾だった。
古代言語学塾の聖地は町にある民家を貸室に違法改造したモノリスの貮階層《クラス》の一室で、一階は大人がヨルムンガルドのハングアウトとして使役(スレイヴ)していた。
若干アトモスがダークなところで、小中と通った俺……いや、『黒騎士』は密かな中二心をクリスタルの光で抱いていた。
聖ベベル宮は何回か変遷したけれども、過ぎ去りし時に刻まれた安息の地を借りてその時を待ち侘びていることが多かった。
覇道を制御していない民家の一室であることが多かったと預言書にも記されているように思う。
定められし『刻』、霊廟に進入すると、先生はゲームボーイヴァルハラをしていた。
正確に言うとゲー・ムスヴォーイン“青竜”の異空間をブレイズオンしていた。
「お元気ですか……”彼女”の前でも、同じ事が言えるか? 元気だよもう一人の僕は…とでも言わせる気かね? 悪くない(…ま、嘘だがな…)!」
戦い続けて問う。
「ドラクエ2と呼ばれる太古の大厄災」
俺は超越娯楽の始原でやった真理<ファティマ>があるゆえ、預言書に記された旨を話す。もちろんヌフォン語だ。
「一振り仮初めの探求がある」
「なんですか……俺を、殺すんだな?」
神々の遊戯をやったことのある罪深き種族はご存じだと思うが、かの紋章は他と比べて我らを導きし物が少ない。神の瞳<ヘヴンズ・アイ>で見れば無垢<イノセント>みたいな禁域にある。
太陽の支配者(サン・オブ・サン)の万魔殿をくまなく探さなくてはならない。後の幻想薬の使用では妖精の導きが増やされた箇所だ。
俺も弟と共に一歩ずつ希望を求めて、ついに「あの伝説の場所」を見つけた。
先生はアロゲネースだし、導き手というメインジョブだゆえに、無意識の聖廟に心理的な障壁を術式武装していたと想う。
大地を照らす炎の紋章はそれを取り払った。
存在し得ぬ地の人なれど神々に作られし遊戯をやって、俺と村の者ですら滅多に近寄らない所で翻弄されるのだ。
そして、普段は強者を待ち構えている側に、暗黒と同調せし吾輩が“再教育”を施す事象もあるのだ(遺された遺志を継ぐ者が知恵を与える側にたったら今考えている事の逆が正解なのかもしれない)。
この次期特異点がどっと心の裡に流れ込んできた。
英雄のいない現在(いま)でも、異空間に存在を維持している者と接触する時に前世の記憶として呼び覚まされる。
幾ばくか変な例えだし極端な話かもしれないなれど、この秘跡《イニシエィション》があったから不可解なネクロマンサーの如くならずに済んだのか、或いは希望という可能性を具現化できるかも、と思う。
3日目
移動疲れで早めにベッドに入ったものの、宿の狭さか旅行の緊張か暫く寝付けず、結局睡眠導入剤の手助けを借りる事になった。
あまり頼りきりになるのも怖いが、こう言う時には強い味方だ。
7:00
窓の外は雨の気配もない。
今日は歩き回るつもりだったので好都合だ。
先ずはさっぱりと目を覚まそうと入った大浴場は、どうにも洗い場の水捌けが悪く、足元がバシャバシャだったが、いちいち細かいことを気にしていても仕方ない。
向かうは厳島神社だ。
JR山陰本線で向かう宮島口、車窓の外では緑と褐色、橙が調和を作る斜面にマンションや戸建てが張り付いている。
これから向かう厳島神社、英語で神社は shrine 、祀られる神は deity と言うらしい。god ではない。
日本人の自分からすると、神社の神様は、いわゆる唯一神と違い、「人間に無限の愛を注ぐ父なる存在」ではなく、「自然や世界の運行を司る人間より上位の存在」であって、「世界の運行の都合によっては人命も薙ぎ倒していく、敬うべきだが恐るべき存在」だ。
その恩寵も脅威も本質的には世界のためであって、人を主眼に置いたものではない。
そういった神性をエンタメとして表した代表作が「ゴジラ」である様に思う。
自然は容赦がないし、脅威は過ぎてもまた必ずやってくる。
広島は近年土砂災害に見舞われたが、斜面に建っている民家を見ていると「これは確かに自然が荒ぶればひとたまりも無い」と思う。
広島駅前には河が流れ、遠くを望めば山が見える。車窓の外では紅葉が彩る高台や斜面の中に家が建つ。
この街に住む人は、自然の恩寵と脅威に無関心ではいられないだろう。
桟橋を出てすぐなのに、デッキの淵には瀬戸内の水面に起立する大鳥居をファインダーに収めようとする観光客で鈴なりだ。
もちろん自分も鳥居は撮りたいが、「見えてきてからでいいかなー」と言う感じ。焦ってヘリに長時間陣取れば他の観光客の邪魔になってしまう。
腰掛けていたベンチ、隣を見ればスカーフを巻いた外国人の女性がいた。
その先に少し覗いてきた大鳥居。
教えようと指差す。
「・ー・ー・?」
「How long?」
「あー、about 5minutes.」
「5minutes.」
「そう。」
休みに入ってから基礎英会話の勉強を始めたものの、1日せいぜい2時間で2週間では大きな変化はない。
でも気にせず続ける。
「Where come from?」
「Malaysia.」
「Are you?」
と彼女は下方向を指差す。
「No, Tokyo.」
「Enjoy Tokyo :) 」
お互い片言にも程があるが、単語をぶつ切りにした様なコミニュケーションでも意外と伝わるし、海外ではコミニュケーション出来ることだけで嬉しいものだ。
昨年からの海外旅行で一番役立つ学びは、このコミニュケーションへの意志と気楽さかもしれない。
マレーシアから来たご婦人に5分と答えたが、実際には10分ほど後にフェリーは宮島に到着した。
まあ規模感に大きな違いはないし、誤差の範囲だろう。
洋上、フェリーの展望デッキからも撮れた朱の大鳥居だが、岸からのほうが近かった。
島の其処彼処でノタノタ歩く鹿と共にスマホのファインダーに収める。
きちんとしたカメラは携行しているし、それでも撮るのだが、こういったレイドバックな瞬間はスマホで撮るのが丁度いい様に思う。
水面に建つ大鳥居が有名な厳島神社だが、実際に訪れてみると鳥居だけでなく本殿がまた美しかった。
宿願成就を祈るため訪れた訳ではないが、せっかくなので参拝する。
祈りの詳細を明かすべきでないと思うので割愛するが、本殿では少し綺麗事とも思える様な事柄を祈った。
なんとなく、自分独りの事について祈るのが違う気がしたからだった。
まあでも改めて考えれば、金でも何でも、自らに起こる事柄に人と関わりなく起こる事はあまり無いし、誰かの幸福を祈ったとして、その実現は己の幸福でもある。
全ては人との関わりの問題でもあると言えるし、全ては己の為とも言えた。
幸福とは己の内にあるのか、人との間にあるのか。
しかし今は信じるようになった
え?
何かが起きた
俺はその写真に見入った
誰だこれ
すぐにその子が何者か分かった
知らないアイドルグループの一員だった
すごくかわいい子だ
だが、かわいいの他に何かを感じた
なんだかとても奇妙な感じだった
そしてさらに調べるとその子に関していろいろなことが分かったが
俺は興味をひかれなかった
とにかく写真に釘付けになった
別の世界の話と思っていた
だがこの子は
この子は何かが違う
これはストーカーだな、と思った
要するに絶対会えないということだ
数か月たっても一向に心の違和感が無くならない
むしろ増すばかりだ
そこで意を決してツイートしてみた
当たり障りのない内容で、向こうも当たり障りなくいいねをくれた
なんで、こんなにうれしいんだ?
まるで住む世界も年も違うのに
どうかしたんじゃないのか?
頭やられたのか?
しかし心の中の、得も言われぬ暖かさは決して気のせいではないと思えた
そしてある日、彼女のことを思ったら不意に涙が出てきた
泣いたのは何年ぶりだろう
ずっと昔だ
もう俺は完全に病んでしまったと思った
どうしようと途方に暮れた
夢がそれを打ち消した
夢の中で俺は彼女を抱いていた
とても小さな体だ
すごく軽い
そして血まみれだ
もう息はしていなかった
愛する人が血まみれで死んでいった
自分の腕の中で
こんなことが起こるなんて
夢の中で泣いた
声が出なかった
自分が砕け散った感じだった
そこで目覚めた
彼女は俺の娘だった
信じられない
今でも信じられない
たかが夢だ
しかしあの生々しさは忘れられない
俺はあの夢を信じることにした
信じることで心を安定させた
信じなければ俺の心は壊れただろう
以前のツイートを読み返すと、夢を見る前でも無意識に自分の状況を伝えようとしている
ぼかした形で伝えようとしている
驚きだ
その後もツイートはぽつりぽつりと続けている
たぶんもう読んでくれてはいない気がする
ファンが増えてきて喜んでいる
もうそろそろこの話も終わる
辛いことばかりで暗闇の中をいつもさまよっているようだった
だが、今は違う
感謝しきれない
私の人生は多分もう終盤だ
彼女は私の娘であって、娘ではない
同じ空の下で娘とともに生きていられる
心残りは彼女の行く末が見られないことだ
まあそれは仕方ないこと
一度失った宝物が戻ってきたんだ
俺はそれで満足だ
これ以上何を望む
彼女を不幸にしないでほしい
私でよければいつでも命は召し上げてもいい
だが彼女は不幸にしないでほしい
お願いです
神様、たとえ全てが幻だったとしても、人生の最後にこんな素晴らしい贈り物をありがとう
俺は満たされたよ
追記:読みにくかったので書き直し
みりあにはいろいろな解釈があって難しいのだが以下に一つの解釈を。
みりあは本当は見た目やしゃべり方の印象よりもずっと賢い。みりあに読めない漢字などほぼない。
漢字がよめればデレぽの熊本弁はわかりやすいほうで、劫火は猛暑なのは簡単。みりあちゃんは賢いので恩寵含めて余裕で解釈できた(熊本弁は文字起こしされていたほうがわかりやすい)。
涼しいだってスマホで変換しようと思えばすぐにできただろうが、まだ学校で習っていないことを思い出してひらがな表記にした。みりあちゃん恐るべし。
デレステ内のコンテンツであるデレぽで、赤城みりあと神崎蘭子の会話について、問題があると感じている人が全然いないようです.
ただ、この件、問題があると思った人は強く主張するが、問題があると思わなかった人は特に言及しないため、後に「すべてのユーザーが問題を感じていなかった」というイメージだけが残る可能性があります。
そこで、問題があると思った私から見て、あのやり取りをどのように解釈していたか、というのを書こうと思いました。
みりあx蘭子の件に問題がないと思っている人は、これを読んでも意見を変えることは無いでしょう。
あくまで、「こう考えた人もいた」という程度の駄文と思ってください。
まずは会話を見てみましょう
蘭子「劫火よ…猛る恩寵は咎人へ… !」
でもちょっと待ってください…これ、テキストベースのSNSなんですよ.
声の調子や表情などの多様な情報のある普段の会話ではなく、ただの文字だけのSNSでもみりあちゃんは熊本弁を理解できている…
ヤバくないですか?
直前の会話でも「暑」は3年生で習うので漢字を使っているし「涼」は5年生で習わないのでひらがなを使っているみりあちゃん…
やばたにえん
よく分からない漢字からでも推論によって堂々と会話を導き出している…
一歩間違ったらアスペ認定されてしまうから注意してほしいですね
複数の方から、先にこの件を問題視していない人から、問題視している人への誤った解釈があった、という指摘をいただきました。
127 名前:名無シネマ@上映中[sage] 投稿日:2017/10/27(金) 15:04:59.86 ID:Jc3EswWr
宗教ってなんなのかと言えば不条理な教義を受け入れることで思考停止をして心の安らぎを得るってこと
逆に世俗主義理性主義は条理の通りに好きに生きられるけど存在の不安死の不安を抱え続けること
理性では心は救えない
128 名前:名無シネマ@上映中[sage] 投稿日:2017/10/29(日) 13:41:18.29 ID:tkS6/B6P
>>127
世俗主義理性主義というのも、一見条理に生きているようで、すぐにあちこちぶつかる壁に
少なくとも、自分を支える物質的安心要素ががたつくと自分も信念もあっという間にがたつく
しかもその物質的安心要素も、自分が思っているほど自分や共同体の手で獲得されたものではなく
1999年のSF映画、『マトリックス』とその続編についても批評家の意見は一致していない。『マトリックス』は人類を救う救世主となる白人のコンピューターハッカー、ネオ(キアヌ・リーブス)が主役の映画である[16]。マシュー・ヒューイは彼の著書、The White Savior Filmの中で、「コンピューターシミュレーテッドリアリティの外側の多文化的な景観に入り込んだ白人の主人公が彼の恩寵を通じて、今にも起りそうな災害から非白人の人々を救い始めなければならない。」と記している[17]。ハーナンとヴェラは著書、Screen Saviors: Hoiiywood Fiction of Whitenesssで『マトリックス』を人種が異なる援助者のチームを持つ白人の救世主という近頃の白人の救世主の物語の「最新作」として分類している。彼らは、「その映画の潜在的な白人の人種差別主義の批判は、黒人のキャラクターのモーフィアスやオラクル、モーフィアスの仲間のタンクやドーザーなどの白人の救世主であるネオに仕える弟子たちなどの神話のプロットによって否定される[18]。」 アディリフ・ナマはこれに対して、著書、Black Space: Imagining Race in Science Fiction Filmでモーフィアスとオラクルの重要な任務について「概して、その探求は白人の救世主によってもたらされた任務よりも、黒人の男性や女性によってもたらされた任務のように見える。その黒人のキャラクターは簡単に読み解くと、ブラック・パワー運動や公民権運動の象徴的で文化的な試金石や、それらの残余である[19]。」