はてなキーワード: この街でとは
数ヶ月に一度行っていたソープが唐突に閉店していた。サイトも消滅していたし、オキニの嬢に会う手段が完全に断たれてしまった。
彼女はおっぱいが大きくて可愛らしく礼儀正しく人間性もいいので、数ヶ月に一度会いにいっては話をするのを楽しみにしていた。ただそのソープに住み込みで働いているらしく (私の常識からすると) 異常な女性だった。
聞くところによると在籍している店が3店舗ほどあり、地方に遠征しては1ヶ月から2ヶ月ほど働くのだそうだ。関東のどこかに部屋を借りているけど物置程度にしか使っていなくて、大体は地方のソープに住み込みをしているとのことだった。
住環境は地方によってさまざまで、店が社宅的なものを持っていればそこに住まわせてもらうし、社宅的なものが無ければ客にサービスを提供するその浴室付きの部屋に寝泊まりするらしい。
精神面にそうとう負荷がかかりそうな環境だなと思ったが、彼女いわく一箇所にとどまらずいろんな土地に訪れながら働くのが性に合っているらしい。
そのソープにフリーで入ったとき担当してもらったのが彼女との出会いだった。もともとルックスが好みだったのだが、最初のサービスの最中になにげなく乳首をつまんだら「なんで『乳首つまんでもいい?』って最初に聞かないの?そういうの嫌がる子もいるよ」って叱られてから一気に好きになってしまった。
はじめてサービスを受けたそのとき、自分は仕事でストレスを抱えて鬱っぽくなっていて勃起はするものの射精ができない感じになっていた。
そのことは彼女にも説明し「たぶんイケと思うけど、それでも満足はできるから」と言っていたのだが、彼女はそんな私をどうにか射精させようと体力の全てを使ってがんばってくれていた。バテバテになるまで必死にがんばる彼女の姿を見て "スポーツマンシップ" 的なものを感じずにはいられなかった。
彼女はとにかく一所懸命で、悲壮感がなく、どこまでもプロだった。
一度「働くモチベーションって何?」と聞いたことがあった。借金を返したいし、やりたいことのためにも稼ぎたいと言っていた。それ以上深くさぐったりはしなかったが、目標に向けてやってやるという闘志に近い雰囲気を感じた。
彼女はいまもこの街で (店を変えて) 働いているのだろうか?いずれにせよ探すつもりもないのでもう会うこともない。
ただ健康でがんばってくれていればいいなと思う。
仕事の都合で某県某市に引越してはや数日、しっかりとホームシックに罹った。
これまでに住んだことがあるのは以下の3つの街。
・関東某市
・某海道某幌市
これまでに住んだ3つの街はどこも住みよい街だった。
関東某市は海あり山あり田園あり、駅前の商店街には今なお活気の衰えない老舗の店々が軒を連ね、図書館や博物館、美術館なんかの施設も充実していた。公共交通機関も発達しており、非常にバランスの取れた街であったと思う。
某政令指定都市は東京へのアクセスのしやすさは言わずもがな、街自体の魅力も十二分だった。電車で数駅とかからず商業施設の集まる街に行けるくせに、自宅近くの小高い丘に登れば、木立の向こう側に素晴らしい夕陽を眺めることができた。
某幌市についての説明は不要だろう。東京からの距離こそあれ、大抵のものはこの街で揃う。米津玄師のツアーだって来るし、ジャンプショップだってパルコにできた。新幹線はまあ…待ってればそのうち来るだろう。何より雪と氷がとにかく美しいのだ、あの街は。
話を戻そう。
現在の街に引越してきてまだ数日だが、街の雰囲気がどうも肌に合わない。なんと言おうか、人の気配というか、文化の香りが極端に薄いのだ。
戦後の人口爆発に伴って山を切り開いて開発したような、歴史の浅い街だ。人口はそれなりにいるはずなのに、公共交通機関が驚くほど発達していない。卵が先か鶏が先か分からないが、人々はみな車で移動し、道路の車線数ばかりが多い。
別に、車で移動することは構わないのだ。
何が肌に合わないかと言えば、車通りはめちゃくちゃに多いのに、それなのに、生きている人間の気配があまりにも薄いことなのだ。
延々と真っ直ぐに伸びる道路。道の脇には街路樹のひとつもなく、チェーンの飲食店やら、だだっ広い敷地のカーディーラーやら、巨大な平屋建てのドン・キホーテだのが間隔を空けて立ち並ぶ。そして店舗と店舗の隙間を埋めるような、手入れのされていない灰色の土地。
どこまで行っても誰も歩いていない。かたや、意思があるのかどうかも分からない自動車たちが片側2車線の道路をかっ飛ばしていく。どこまで行っても同じ景色。気が狂いそうだ。
先の記述を見てもらえば分かると思うが、自分は人が紡いできた文化だとか、人の手の入っていない(あるいはほどほどにきちんと手入れされた)花鳥風月だとか、そういうものが好きなのだ。
引越してきたこの土地にはそれがない。あるのかもしれないが、自分の嗅覚では知覚しきれない。
ああ、帰りたい。
どこに帰ろうか。某幌のスープカレーが食べたいなあ。
彼らは「もうこの地に夜は来ない」という意味の言葉で朝の挨拶を交わしていた。
私がその街に滞在する間、彼らは私と同じ時間に寝て起き、同じ服を着て、同じ食べ物を食べ、同じ腹痛に襲われた。水も私と同じ量を飲み、同じ身長でいようとし続けた。
それは見ず知らずの東洋人である私に対して、彼らが家族のように接した結果だった。それがこの廃墟同然の街を街たらしめる理由であり、彼らにとって家族と呼べるのももはやそのような存在以外になかった。彼らは全員、はじめは私と同じ観光客だった。
ある日、夜中に目が覚めた私は水を飲むために彼らを起こした。最初に起きた二人を連れ添って、私は台所へ向かった。彼らは名前を持たないから、その二人をここでは「赤い男」、「白い男」と呼ぶことにする。由来は伏せる。
私は水を飲んだ。隣に立つ赤い男が水を飲みながらこう言った。
「このまちにはかみがいる」
白い男が続く。
「かみはこのまちと、われわれをつくった」
「なぜおなじようにするのか」
もちろん無駄だった。
「なぜおなじようにするのか」
「なぜおなじようにするのか」
私は性懲りも無くまた尋ねた。
「かみはどこにいるのか」
「かみはどこにいるのか」
「すきま」
赤い男が白い男を驚いたように見た。
その街の教会には長い蛇が巻き付いていた。
処刑は日の出と同時に行われる。彼らによって目隠しを付けられ、広場の中央に連行された白い男は、地面から生えた低い棒に手首を拘束されていた。その間一言も発することなく抵抗も命乞いもしなかった白い男は、少し俯いて正座していた。そして罪人と向かい合う位置に教会がある。表情は見えなかったが、白い男の姿は祈っているようにも、一切祈ってなどいないようにも見えた。
次に彼らはどこからともなく大量の水を汲んできた。各々の器に水が注がれ、それを持って広場に出る。彼らは広場の縁に等間隔に並び、円をなして白い男を囲むように立った。私は少し離れた場所で水の入ったボトルを持って座っていた。早朝の空気は冷たく、やや湿っており、絶え間なく弱い風が流れていた。
私は水を飲んだ。彼らも一斉に水に口をつけた。白い男に教会の蛇の口から水が噴射された。私はボトルの水を飲み干した。彼らは器の半分ほどを飲み終えたようだった。白い男の体にまんべんなく水が当たっている。私はじっと広場を見ていた。彼らが水を飲み終えるころ、白い男は動かなくなっていた。
あっという間だった。彼らはずぶ濡れの白い男を抱えて教会の中に入っていったが、まだ太陽は昇りきっていなかった。
しばらく経って赤い男が教会から出てきた。近づいてくる私を認めると赤い男は微笑んだ。私は言った。
「もうこの地に夜は来ない」
赤い男は言った。
「もうこの地に夜は来ない」
それから私たちは短い会話をした。赤い男によると、白い男が教えに反した理由には心当たりがなく、あの処刑法は彼らの宗教にしかない特殊な死因を引き起こすのだという。
彼らの宗教については結局わからないままのことが多い。架空の宗教なだけあってその街には聖職者はおらず、教典もなかった。彼らの話から知ることができたのは、儀式を含むいくつかの慣習と断片的な神話のみだった。
その中でも最も多く話をしてくれたのが、街で唯一の老人だった。私は水を飲んでから耳を傾けた。
かみのいばしょはだれもしらない。ふたつのたまごがあって、かたほうだけにかみがはいっている。それをわってもかみがでてくることはない。それをたべてもかみのあじがすることはない。にんげんもかたほうのたまごにしかいない。たまごをくべつすることはむずかしい。にわとりのたまごをしっているか?とてもまぎらわしい。それとおなじだ。
ゆうれいはみずのなかにいる。しろいおとこはみずのなかにいる。すべてのしにんはみずのなかにいる。みずはおまえのなかにはいり、かれらはすきまからわれわれをみる。もっとみずをのめ。しにんのすがたがみえるか?みえるはずはない。みずをのぞくとじぶんのすがたがみえるだけだ。ははははは。
このまちのきたにふかいもりがある。つぎのきせつをしっているか?きせつのめぐりかたは、うまれるまえのこどもたちがきめている。このまちでうまれたこどもがすぐにいなくなってしまうのは、おとずれなかったきせつのうらみをかって、そこへとじこめられてしまうからだ。そこでかれらはみずにとけ、つぎのこどもたちはそれをのんでそだつ。するとすききらいのないこどもになるが、それでも50ねんいじょうおとずれていないきせつがある。
水。水が飲みたい。私は日本に帰らなければならない。もうこの街での目的は果たしただろう。赤い男はまだ私のベッドで寝ている。ボトルはすでにすべて空だが、喉の渇きを抑えられなかった。私は老人の部屋に向かった。
深夜に一人で外に出るのは初めてだった。老人の部屋へは建物の外壁伝いに少し歩くだけで着く。もちろん老人は眠っていて、床にも壁にも天井にも沢山の水があった。私はほとんど無意識にその中の一つに手を伸ばした。
赤かった。だが私はそれを飲んだ。口の中に水の味がすると、老人が寝返りをうった。次の水も赤かった。今度はひどい味がした。その次の水も赤かったが飲んだ。朝になってから気付いたのだが、このとき私はあまりの喉の渇きに手から出血していたのだった。老人は私が水を嚥下するたびに大きく息を吐いたり、うなされたりした。
また水を飲んだ。確かに幽霊は私を見ていた。ちいさな子どもだった。私が一心不乱に壁や天井から水を取って飲んでいるのを部屋の隅から見つめていた。しかし喉を潤さなければまともに怖がることもできない。
また水を飲んだ。彼らはどこから日本の食材を手に入れたのだろう。また水を飲んだ。彼らはどうして一晩で日本語を話せるようになったのだろう。また水を飲んだ。彼らはいつからこの街でこんなことを続けているのだろう。子どもの幽霊はそのすべての問いに対して明確な答えを返した。老人は眠っていたが、子どもの幽霊の回答に対してはすべて首を振った。
私は太陽が昇る前にありったけの水を持って彼らの街をあとにした。
税金払わずに毎日図書館に来て冷房を浴びながら昼寝しているホームレスがいる。
何日風呂入ってないのかも分からないクッセーオッサンが一角を占拠している。
宿無し生活用の装備が詰まったリュックを近くにおいて椅子の上に横になって寝てる。
クッセー靴下の匂いが染み付いて汚染された椅子は、あとで職員がファブリーズかけまくってるんだろうなと想像がつく。
住民税払ってる人間が図書館に来て本を借りるのは全く恥ずかしいことじゃない。
皆でお金を出しあっているクソデカイ学級文庫が図書館なんだから。
絵本をすごい勢いでグルグル読んでいく生き急ぎ園児、ラノベを大量に借りているニキビの中高生、彼らはきっと親が税金払ってるから堂々と使って良い。
実験や論文用の資料を読み漁っている大学生、その日の分の新聞を3つぐらい掴んで読み終わったらまた次の新聞を3つぐらい掴んで戻ってくる新聞ジジイ、将来税金を沢山収めてくれたり、過去にたっぷり税金を払い終わった人間も堂々と使うべきだ。
だがホームレスはどうなんだろう。
ずっとずっと税金を払わず、本を借りるわけでもなくただ涼しい場所、暖かい場所を求めてやってきて、夜の怪しい仕事にでも備えているのか堂々と昼間から寝息を立てている。
3人がけの椅子に堂々と横たわり、場合によっちゃ隣の椅子に荷物をボンボン置いている。
1円の税金も収めること無く公共の施設を貸し切っているホームレス。
こんな存在が許されて良いんだろうか。
「ホームレスじゃなくてツーリストがちょっと休憩に来てるのかもよ?」←知らねーよこの街で住民税払ってね―奴が知識や娯楽を求めるでもなくただエアコン効いてる場所で寝るためだけに来てるのがおかしいっつってんだよ。
健康で文化的な最低限度の生活を誰もが送るために弱い人にも優しくしなきゃいけないってのは分かる。
俺がいつかホームレスに転がり落ちた時、同じようにどっかのデパートや空港の待合室で怒られるまで寝てるかも知れないから。
でも釈然としないんだよな。
ホームレスが単なるホームレスで居てくれているだけまだマシで、風雨を凌ぐ場所欲しさにどっかの家に押し入ってくるぐらいなら、公共施設で悪臭撒き散らしてくれてた方がまだマシだってのはある。
冬場は凍りつくから仕方ないにしても、夏場だったら公園の蛇口からぬるま湯が出てくるだろ。
どうしたらいいんだろうな。
まず、私は鎌倉に住んでいる。地元で商売をしているけど、飲食店とかの店舗系の商売ではない。おかげさまで食っていくことはできている。
私の住む街鎌倉は日本有数の観光地と言っても過言ではないと思う。特に昨年の大河で鎌倉を訪れる人は沢山増えている。鎌倉と言えば、八幡宮や大仏等の寺社仏閣、由比ガ浜等の海水浴も有名だが、飲食店も有名だろう。実際、テレビをつけていると、よく鎌倉の飲食店を特集する番組が組まれている。実際、鎌倉駅前にある小町通りには多くの飲食店がある。そしてありがたいことかもしれないが、鎌倉で自分の店を出したいという人もかなり多い。商売柄、そういう人たちとも付き合いがある。ただ、正直に言うと、鎌倉で新規開業する飲食店はうまくいかないケースが多い。それは次の理由からだと思う。
まあ、これは鎌倉には限らないことかもしれないが、飲食店の廃業率は高い。実際、小町通りにもしょっちゅう飲食店が新規開店しているけど、ほとんどの店は開業から半年以内に廃業する。まあ、半年ごとに通りの店が入れ替わるので、街歩きに飽きることがないというメリットもあるけど、店側が生き残るのが大変だ。まあ、ありていに言えば鎌倉というマーケットは生き残るのが難しいのだ。そして鎌倉は地価が高い。だから店舗系の家賃は信じられない程高いし、ぼったくりみたいな家賃を設定しているケースも多い。ちなみに私の住んでいる地域にある店舗用物件は家賃が相場の倍する上に、借りる際の条件として必ず1階の店舗スペースと2階の事務所スペースの両方を借りることを条件に付けている。こんなことしても借り手がいるのは、まさに鎌倉という土地だからであろう。当たり前だけど、高い家賃は店の経営を圧迫する。家賃が払えずあえなく撤退というケースも多い。正直、飲食店をする場合、かなり経費が掛かる街が鎌倉だ。
②戦略が間違っている
鎌倉で飲食店を開業する人に多いのが、高級店を作ろうとする人たちだ。相場より高い料金設定の店を経営しようとする。手打ちそばだったり、鎌倉野菜を使ったなんちゃら料理だったりと。ただ、この種の店は大体うまくいかない。鎌倉観光に来ているよその人は物珍しさで入ってくれるかもしれないが、彼らはリピーターにはならない。彼らは観光が終われば、自分たちの街に帰ってしまう。仮にまた鎌倉観光に来ることがあるとしても、鎌倉にはこの種の”高級店”は腐るほどある。だから次来るとしても他の店であることが多い。
ちなみ言うと、鎌倉に住む住民の多くはこういう店に通うことはめったにない。私も鎌倉に長く住んでいるが、よく通う店はマックかケンタッキーだ。地元民からしたら、ただ値段が高い店を普段使いしようとは思わない。鎌倉に住んでいる人間はケチが多い。だからみんなが思っているほど高級店志向ではない。実を言うと、地元の人間は変に高い店ではなく、リーズナブルで通いやすいお店を求めている。ただ、この街で飲食店を開業する人たちはそれをわかっていない。だから、新しいお店は地元の固定客がつかずに廃業するケースが多い。
実を言うと、鎌倉の人は新たに開業した飲食店にあまり興味がない。上記のような事情があるので、自分たちのニーズを満たしていることは期待していない。正直言うと、新規開店した飲食店を見て思うことは、「この店は後何か月持つかな?」というくらいだ。そして対しておいしくもないのに高い店も多いので、通おうとは思わない。余談だが、鎌倉に住んでいると、よく東京に住んでいる友人から「鎌倉でお勧めの店を教えて。」と言われることがあるが、多くの鎌倉民はその種の質問が大嫌いだ。まず、地元の人は鎌倉野菜を使ったなんちゃら料理の店とかには興味がない。だから、鎌倉にお勧めのお店なんてない。正直、私は友人からこの質問投げかけられた時、いつもグーグル先生の協力を得ている。
勝手にいろいろなことを書きました。
①「どんな想いを抱えて 女性だけの街 なんてことを夢見たのだろうか?ということを少しでもいいから考えてほしい。具体的な経験からきているのではないか。差別的な意味で全ての男性を跳ね除けようとしている訳ではないはず。これは悲しいこと。」という主旨のツイートがある
→読みました。共感しました。(上記の要約については歪曲や勝手な読み取りを含みます。)
②女性だけの街を実現する為の手立てを具体的に考えている方々もいらっしゃる
→私は非現実的だと思ってしまうのですが、夢を本当に叶えにいこうとする姿勢はパワフル。この記事では「あったらいいなと思うんだ、なぜなら〜」という話題としてお話します。
③なぜ「街ごと」なのか?
→外干しの洗濯物への視線、駅で明らかにわざとぶつかってくる人、上司による威圧または変に柔らかい態度、夜道の足音、そういう様々な場面において、性別による頻度の偏りや質的な差があります。せっかくの夢ですから、「その全てに男性いなかったらどんなに変わるだろう?女性だけの街…」と、そんな風にこの話題の発端の方は考えたのではないかな、と私は想像します。発想としてフルスイングなので、その分反応が大きかったのだろうと思っています。
→私は、これについては③のフルスイングと明らかに矛盾するので全く同意しません。変な意見だな、とも思います。また、②のように具体的な検討を目指す姿勢でもないので、以後触れません。
⑤他
→2018年頃に目にしたこの話題ですが、あらゆる意見や表現、その経緯については把握しきれていませんのでご了承ください。
→男性からの加害を受けたことが複数回あるので、男性に対して身構えている部分があります。これについてムカつく!と思ったら読むのをやめることをおすすめします。
→この記事では、女性・男性という身体の性別の2枠でお話していきます。私の文章能力ではこれが精一杯です。
では、私が女性の日常からみた女性だけの街をどう捉えているかを、フィクション混じりに書いてみますね。
会社員女性の独り言みたいな拙い文章ですが、書きたいので書いてます。
◆ ◆ ◆
男性全員が加害者ではないことは分かっていても、被害を受けた経験は消えていない。もう自分の非を探して悲しむのは嫌だから、気を付けて過ごそう。でも、被害を受ける可能性が消えるわけでもないのに気力を使うのって、あんまり意味ないかも。そもそも警戒をされることに対して怒りを覚える男性もいるらしい。怖い。
帰りの夜道は、3分ほど1人で歩く。
ふと、背後に足音が聴こえて心臓が跳ねた。そんなに近くはないが振り返ることもできない。そっと早足になろう。あとは道の反対側に渡る形でそっと後ろを振り向こうか?
足音に耳を澄ましながら、ポケットの中のスマホと防犯ブザーを確認する。歩いているだけなのに緊張して息が浅くなる。
… … まあ、結局、何もなかった。後ろの人は普通に信号待ちをして、道を曲がっていったようだ。
いつも通り背後を確認しながら自宅のドアを開けて入り、すぐに施錠した。勝手に神経質になって、無駄に震えて、私ってなんなんだろう。
誰もお前なんか狙わねえよブス、という声が聞こえる。
でも私、昔あの夜道で被害を受けたんですよ。背後からスタスタと近づいてきて、手を出して、走って逃げていった卑怯者の後ろ姿が焼き付いている。
実行のチャンスさえあれば、顔を見ずとも誰でもいいんですよね。性的に狙ってだけじゃなく、加害欲で手を出す場合もあるんですよね。そんな風に思います。
普通の男の人はただの帰り道では心を擦り減らしたりしないらしい。羨ましい。
被害にあったことのない女の人もそうなのかな。被害のことを意識はしてるだろうけれど。
何年か前に見た、「女性だけの街」という話題を思い出した。私も、そういう場所で暮らしてみたいなと思う。
あらゆる行動の制限も緩んで、性別を気にせず働けて、振る舞いに注意しながら歩く必要もない。私でも、警戒せずにベランダに普通に洗濯物を干すとか、防犯ブザーも持たずにほろ酔いでのんびり夜道を帰るとか、そんなこともできるかもしれない。
ただの空想話。実現する為の手立てなんて考えているわけじゃない。
そもそも、私の願いは「女性だけの街が実現すること」や「男性と一切関わらないで生きていきたい」などではない。
男の人も女の人もいるこの街で、安全に、もう少し自由に、震えずに、暮らしていきたいということだ。
◆ ◆ ◆
普通に安心して過ごしたいという話に「夢」とか「理想」とかいう言葉を使いながら極端な想像をしてしまう、そんな現実を分かってほしいな。という文章でした。
勝手に安心して無警戒で歩いても大抵は安全、世界的に見れば治安は良い国、とお思いかもしれませんが、「安全じゃなかった」「その数分の無警戒を一生後悔する」そんな現実はあります。
被害者は悪くない、でも、後悔して苦しむのですよ。
そしてそれは、全ての人が自分の身に起こるかもしれないこととして想像できることだと思うのです。
安全に過ごしたいという気持ちは命に関わる重要な望みのはずです。
そのレベルの望みを軽視することは、恐ろしいことです。全くやさしくないです。
以下も私のお気持ちです。
「女性だけの街なんてのは実現しない」「女は3kの仕事しないくせに」「成り立たねえぞ」
→男が支えているんだぞー!という主張は汲み取りました。私としては女性だけの街を実現するための話はしていないので、ここではちょっと…。
→排斥ではなく身の安全を求めての話だから、違います。女湯に男性が入れないのは差別ですか…?と思う。つまり、「女性だけで好き放題したい、特別な権利がある」などという話ではないはず。
→そうですね。街における犯罪件数0を求めることは女性だけの街の実現よりもさらに無茶でしょう。
でも、男女の犯罪率の差などを見て、明らかに減るだろう、と想像しています。性犯罪も比べるまでもなく減りますし、妊娠のリスクもなくなります。
(実現はしませんが…。)
今回少し見ていて気が付いたのは、
「(この話題一定以上前に見たことがあるぞ)オイオイまだ同じこと言ってんのかようぜーな」
からの
「そんなに言うんだったら 実現に向けて進めてみろよ」
という方向のご意見がちょっと目につくような気がする…かも…?ということです。
だから、私としてはですけれども、そもそも女だけの街を本当に作ろうとしているわけじゃないんですってば。
「男性がいない方が安全に決まってる!男性のいない街ほしい!」なんて言葉を見たら「そりゃそうだろうけど断言してるのを見ると居心地悪いわ 男だって100%危険なわけないだろう。例え自分に言われてるわけでなくても引っかかる そもそも街なんてどうやって作るんだよ」と、思いますよねー。
一部の男性は、女性だけの街の話題で言わんとしていることは分かっている上で、皮肉を言っているんですよね?ほら行動に移してみろよ、できないだろ、とそういうことですよね?
でも女性(特に男性からの被害を受けた経験がある女性)からすると、
言い方伝え方の強さや良し悪しの幅や個人差は大いにあれど、「男性に警戒心あり」はきっと迷いなく本当。
見知らぬ男性を強めに警戒している。
とはいえ、現実として、男性と関わらずに生きていくことはかなり難しい。
ということで、女性の私(達)は「日々安全を脅かされたり嫌な思いをする中で、叶わない夢は何度でも空想してしまうものよね〜」とそんな感じで今後も呟いていくのではないかと思います。
別の場所で暮らしていても、街の建設はしていなくても、各々が現実への対処をして生きているのだろうと思いますよ。
女性のみなさま、どうかご無事で。
それが今回私が思ったことです。
俺も、1993年の1月に生まれた。1歳から大学までは、千葉県の船橋あたりで生活していた。千葉県はカスだ。東京まで微妙な距離のせいで、逆にオシャレを履き違えているやつらだらけ。茨城のゴミ共もいるおかげで、余計に田舎者ムードは高まっていた。特に地元の船橋民が嫌いだった俺は、三国志大戦などをやるためにわざわざ津田沼エースまで行っていた。今思うと津田沼は津田沼でゴミみたいな街だったが、船橋よりはマシというところだろうか。あと、俺はオタなので秋葉原が微妙に遠いのが嫌だった。総務線で一本とはいえ、微妙に遠い。かといって千葉のオタショップはやはり、品揃えの面で大きく劣る。飲食店は何一つとしてとりえのない、個性のない「退屈な街」だ。この街で人生の3分の2を過ごせたことを、私は幸せに思っている。
私が住んでいた地域には大学があったのか覚えていない。競馬場はあって、薄汚いおっさんが娘の給食費を無駄にするために通ってきていた。市立船橋高校はスポーツが盛んで、イキリ散らした民度の低いカスみたいなスポーツマンたちが船橋を不快な街に育て上げていた。あと、船橋高校のゴミどもも、もっと渋幕とかに行けばいいのに頭いいような面してイキリ散らしながら歩いていた。自然豊かといいつつそれは小室とかいう飛び地の話で、友達がそのへんの団地に住んでいたのだが、子供心に「こんななにもねえ田舎に住んで何が楽しいんだか」と考えつつ、スマブラをやりに行っていた。俺も競馬場に通うおっさんたちと同じ、人生を無駄にするのが好きな人間だったと言えるだろう。
小学校の時は色んな道徳教育を受けた覚えがあるが、ある日、うちの親戚のおっさんが登壇して「阪神淡路大震災の記憶」を語っていた。俺は幼心に、いや、お前関西住んでたっけ?と思ったが、無事に講演は終わり、無意味な感想文などを書いた。のちに親戚の集まりで、おじさんは講演会の人が来れなくなったので代打で登壇したと聞かされた。「わかりゃしねえよ」とのことだったが、まあどうでもよかったのでそんなもんか、と思い今日まで忘れていた。俺と震災には深い結びつきがあったと言えるだろう。
高校生にもなると、俺は自由だった。エスカレーター式の東京の学校に入学していたので、誰も受験勉強なんかはしていなかったのである。そんな中で、一学年上の先輩にとても頭の良い人がいた。そう。割れ厨である。エロゲや音楽を無料あるいは格安で手に入れてくれることは後輩の俺達にもすぐに知れ渡った。サブスクの走りみたいなものだ。ちなみに、その先輩は生徒会長だったので、なんか体育祭で頑張った的なスピーチをしていたことを鮮明に覚えている。その次の年に起きたのが、東日本大震災だった。
震災当時、俺は秋葉原にいた。試験も終わり、余裕綽々でカードショップで萌え萌えなスリーブを買い漁りに行っていたのである。その時、震災が起きた。スリーブはあたり一面に散らばり、混乱の中、店員さんに言われ、店の外に出た。駅に行くと、そこには人が沢山いた。だがしかし、電車は動いていなくて、そこで東北で大震災があった、という情報を聞いた。
震災なんてものはどうでもよかった。ただ、俺の心配は家に帰れるかどうかだった。録画していなかったのだ。その日、放送される「まどか☆マギカ」を。深夜だしリアタイ視聴余裕という慢心があったのだ。しかも、当時は確かものすごく盛り上がる10話の放送を控えていた時で、まどかを見られるかどうか、というのは俺の死活問題であった。あと、まどマギとか略すやつは当時のオタ仲間の間ではにわかの象徴だった。
さらなるハプニングが俺に起きた。ゲームのやりすぎで俺のガラケーは充電がなかったのだ。その上、萌えスリーブを買いすぎていたせいで、財布には100円の金もなかった。コンビニで充電器も買えやしない。もちろんクレカやキャッシュカードなんて持ってなかった。電車が動く気配はない。俺は、仕方無く歩いて帰ることにした。ぞろぞろと、他の帰宅難民の秋葉のオタクたちと共に。
途中で、公衆電話を見つけたので、並んで家族に無事である旨を伝えた。だが、当時オタバレを嫌っていた俺はプライドから、録画を頼むことはできなかった。まどかマギカくらいで何を、と今の世代は思うかもしれないが、当時はまだオタ差別は著しく、まどかマギカなどという萌えアニメを見ていることがカミングアウトできなかったのだ。
数駅くらい、歩いたところで俺の体力は尽きた。帰るのがダルくなったと言ってもいい。周りの人間たちから漏れ聞こえる被害状況を聞くに、心のどこかで動くと思っていた電車も、動かないことがわかってきたからだ。俺は近くのスーパーでなけなしの金でバナナを買って、フードコートの水を飲んで飢えと乾きを満たした。まどかマギカの10話が見られるかが心配で、その次にそもそも今日、どこに泊まるんだ?という思いがあった。
ということで、俺は近くの駅のポッポ屋さんに聞いて、避難所の小学校を紹介してもらった。たどり着いたのは、夕方ごろだろうか。そこには、俺と同じ帰宅難民のリーマンが何人かいた。俺が一番若くて、寝床のマットレスを運んだり、先生たちの手伝いをした。教室備え付けのテレビで、炎に燃える気仙沼を見て「関係ねえな、明日も仕事行かなきゃ」と語っていた、リーマンのおじさんの茫漠とした表情をよく覚えている。夕飯は乾パンだった。
夜。少し冷静になって。俺は件の割れ厨の先輩のことを思い出した。学校近くの公衆電話から、まどかマギカの録画を頼むために、俺は駆けた。「大丈夫だよ増田くん。MBS版はもう放送されてるからね。違法うpされたデータ回すよ」。先輩は、相変わらず元気そうだった。俺は大いに安心して、また気仙沼の火事を見に学校に戻って、ちょっとまた先生たちを手伝い、制服のブレザーをかけて、教室で眠った。
翌日、なんとか帰宅したが、普通にまどかマギカは10話以降放送延期になった。あ、あと親戚が2人ほど死んだ。例の阪神淡路のスピーチをした親類もそこには含まれていた。
そして大人になったある時、友達に誘われて行った飲み会で、誰からともなく東日本大震災の話になった。その飲み会には東北出身者が多かったので、彼らは当日の様子を思い出して話していた。親戚や家族が死んだこと、放射線関係で差別されたこと。
その会話の中で、参加者のひとりが「〇〇さん(私)は東京だから、こういうの想像できないかもしれないけど…」という言葉を発した。俺も被災者だから分かるよ、と返すと、彼は「何言ってるんですか」と少し笑った。歩いて駅まで帰ったんやぞ、まどかマギカのために。と嘘をつくと、彼は気まずそうに「なんやアンタ」と呟いた。
彼は俺より少し年下だったから、もしかしたらまどかマギカのことをリアルタイムでは知らないのかもしれない。劇場版から入ったにわかかもしれないし。彼のことを個人的に責めようとは思わないが、そうか、忘れられているのか、という虚しさが心に残った。
俺は今、違う場所で暮らしているけれど、今でも自分が育った千葉はゴミクズだったと信じている。そもそも秋葉原から遠くなければ、俺も簡単に帰宅してまどかマギカの録画云々なんて悩まなくてよかったし、千葉のオタショップの品揃えさえ充実していればよかったのだ。
俺も、30歳になった。平成初期に生まれた私たちは、Z世代や氷河期世代両方から馬鹿にされる「最悪の世代」だと言われている。確かに、地震は俺にとってすごく身近な問題であり続けてきた。だけどこれまでの人生、別に24時間365日「亡くなった方々のぶんも、毎日を大切に生きていこう」と思いながら過ごしてきたわけじゃない。忙しい日常を生きていると、震災のことを全然考えない日がほとんどだし、まあ今になるとまどかマギカとか大した作品じゃねえな、と冷静な評価を下すこともできる。でも、震災の時にふと過ったあの感情を、たまに思い出したり思いださなかったりするのだ。リーマンってなんで震災翌日も働くねん、という。
まああれだ。震災は一時のスリルというエンタメとしては面白かったが、アニメの放送延期からわかるように日常生活に大きな影響を与えるのは間違いない。
そして、俺は思うのだ。
私は、1993年の1月に生まれた。1歳から大学までは、神戸市で生活していた。神戸はとてもいい場所だ。街の中心部である三宮はおしゃれな街で、大阪駅までも直通で30分。中華街で有名な豚まんを食べ、旧居留地の優雅な建築を抜ければ、港から海を見渡せる。中心部から少し足を伸ばせば、B級グルメを出す飲食店が立ち並ぶ下町の長田、六甲山の麓に日本屈指の酒蔵を擁する灘などにも行ける。どの地域も個性にあふれた「退屈しない街」だ。この街で人生の3分の2を過ごせたことを、私は幸せに思っている。
私が住んでいた地域には大学があった。このキャンパスは自然豊かなことで知られていて、敷地内に公園や池があったので、私は物心ついたときから時々家族とこの大学内を散歩していた。子どもだった私は漠然と、大きくなったら私もこんな学校で勉強するのかな、なんて思っていたものだ。
私が小学校にあがる前のある日、父とふたりで大学の中を歩いていた。ふと父が「父さんは今日こっちの道に行きたいんだ」と言って、普段は入らない芝生の中へ私を連れて行った。杉の木立の中には、小さな茶色の碑があった。父はその石碑の前で足を止め、静かに手を合わせた。「これは何なの?」と尋ねると、父はこの石碑が、阪神淡路大震災で命を落とした学生たちを追悼するための慰霊碑だと教えてくれた。銘板に刻まれた名前の中には、地元で教員をしていた父の教え子がいるという。父は何十年も教員として勤務していたが、彼が家庭内で教え子の話をすることはほとんどなかったので、少し驚いた。
小学校にあがると、音楽の授業で「しあわせはこべるように」という歌を習った。この曲は阪神淡路大震災のことを歌っており、神戸市内の小学校では震災学習の一貫として習うのだ。たぶん、1995年以降に神戸市で勉強した人間なら、誰もが諳んじて歌える一曲だろう。小学校でも中学校でも、毎年1月17日には黙とうを捧げ、校長先生のお話を聞いた。ある年の学校新聞の1月号に、同級生とその妹のことが書かれていたことも覚えている。2学年下に在籍していた彼の妹は、まさに阪神淡路大震災の混乱の中、1月17日、被災直後に生まれたという話だった。
高校生にもなると、「しあわせはこべるように」を合唱する授業はなくなった。進学校だったので受験勉強は忙しく、みんな志望校に入るため必死だった。そんな中で、一学年上の先輩にとても頭の良い人がいた。先輩は部活でも目立っていて、関西の超有名大学への現役合格を果たしたことはすぐに後輩の私たちにも知れ渡った。卒業式の日に卒業生代表挨拶を担当したその先輩は、両親を阪神淡路大震災によって亡くしたことをみんなの前で話してくれた。10年以上が経った今でも、あのスピーチを鮮明に覚えている。その次の年に起きたのが、東日本大震災だった。
高校を卒業すると、私は自分の実家から一番近い大学に進学した。それは、子どもの頃から家族と散歩していたあの学校だった。私の学部はかつて父と散歩したキャンパスからは少し離れていたのだが、それでも時々あの慰霊碑を見に行くことがあった。いつのまにか、私は父の教え子だったという誰かより1歳年上になり、成人を迎えた。成人式の会場に向かう途中のタクシーでふと「私たち、本当はもっといたかもしれないな」と思った。
大学を卒業して上京すると、色々な地域出身のさまざまな年齢の人と関わりあうようになった。地元は神戸なんです、と言うと、ほとんどの人が「おしゃれなところだね」なんて言ってくれるので鼻が高かった。しかし時々、50代くらいの人と話すと「震災の時、もう生まれてた?」と聞かれることがあった。生まれてたけど2歳になりたてで記憶はないんです、と返すとだいたいそこで話は終わるのだが、ごく稀に「実は僕は当時大阪に住んでいて…」と、当時の記憶を話してくれる人もいた。
ある時、友達に誘われて行った飲み会で、誰からともなく東日本大震災の話になった。その飲み会には東京出身者が多かったので、彼らは当日の様子を思い出して話していた。乗っていた電車が止まったこと。復帰のめどが立たず、線路を歩いて帰ったこと。その時、自分の前を歩いていたお姉さんが泣いていたこと。
その会話の中で、参加者のひとりが「〇〇さん(私)は関西だから、こういうの想像できないかもしれないけど…」という言葉を発した。私も被災者だから分かるよ、と返すと、彼は「何言ってるんですか」と少し笑った。阪神淡路の時に2歳だったよ、と告げると彼は気まずそうに「そっか、そっちか」と呟いた。
彼は私より少し年下だったから、もしかしたら阪神淡路大震災のことをリアルタイムでは知らないのかもしれない。小学校の社会の教科書にはきっと地震のことも載っていたはずだけど、自分が高校生の時に体験した東日本大震災の方が記憶としてはハッキリしているに違いない。彼のことを個人的に責めようとは思わないが、そうか、忘れられているのか、という虚しさが心に残った。
私は今、違う場所で暮らしているけれど、今でも自分が育った神戸はとてもいい場所だと信じている。街の中心部である三宮駅前には、かつて「神戸阪急ビル」という名のビルがあった。この辺りは震災で大きな被害を受けてめちゃくちゃになったという。街のランドマークだったというビルは取り壊され、それからずっと低層のビルが駅舎に繋がっていた。このビルは2021年に高層ビルとして生まれ変わり、震災前の姿を模した外観でリニューアルオープンした。私より年上の世代は新しいビルを見て「元の神戸の姿だ」と喜んでいたが、私には正直良く分からなかった。私が毎日のように遊んだ三宮は「仮の姿」だったのか!それでも、西洋風のモダンな茶色のファサードは、「私の好きな神戸」の姿に近いような気がしていいなと思った。
私は今日、30歳になった。平成初期に生まれた私たちは、阪神淡路大震災の記憶とともに生きる「最後の世代」だと言われている。確かに、地震は私にとってすごく身近な問題であり続けてきた。だけどこれまでの人生、別に24時間365日「亡くなった方々のぶんも、毎日を大切に生きていこう」と思いながら過ごしてきたわけじゃない。忙しい日常を生きていると、震災のことを全然考えない日がほとんどだし、まだ2歳になりたてだったから当日の記憶もまばらだ。でも、成人式の時にふと過ったあの感情を、誕生日のたびに思い出すのだ。阪神淡路大震災がなければ、私たち、本当はもっといたかもしれない。地元の同級生は、実はもっと多かったのかもしれない。自分の人生のどこかのフェイズで、あの時いなくなった誰かが私の大切な人になっていたかもしれない。
記憶も年をとる。誤解を恐れずに言うと、阪神淡路大震災のことは、これからどんどん忘れられていくだろう。神戸と縁のない人たちにとっては、もうすでに阪神淡路大震災のことは別の災害の記憶に塗り替えられているかもしれない。はっきり言って、これはどうしようもない、誰が悪いわけでもない、日本に住んでいる限りは、大きな地震が定期的に起きることは避けられないのだから。でも、少なくとも私は― 傷ついた神戸の街に育ち、ゆっくりとその傷が治っていく中で青春を過ごした私は、これからも阪神淡路大震災を忘れることはない。「最後の世代」という言葉は、「私たちは本当はもっといたのかもしれない」とリアルに思える「最後の世代」だということなのだろう、と今は思っている。30歳になった今日も、またふと考えた。私と一緒に年をとってくれる誰かが、本当はもっといたのかもしれない。
あさめちゃめちゃきつかった
ごぜんちゅうしごと
吉野家、意外と少なくて店まで遠い
1会計あたり1クーポンとのことだったので2回会計して2つ味噌汁もらってのんだ
あとそこの吉野家はなぜか入り口に自転車の空気入れがおいてあった
手動のポンプじゃなくて、
自転車やさんによっては有料のやつ
んでマクドナルドでkodoクーポンのソフトクリームと、コカコーラ製品かってもらえるハンバーガー無料券でもらったハンバーガーと、kodoつかうためのチキンクリスプと水を買って食った
130円でバーガー2つ、ソフトクリームくえたらめっちゃいいわあ
かえりゲオよろうかとおもったけど今セールやってないからやめる
かわりにつたやよる
近々閉店するらしい
今日もレンタルオチCDコーナーあさってCUNEのベストアルバムまずみつけたけどこれまえきたときにかったきがする・・・とおもッテガマン
まあまえにアイカツ初期のベストアルバムかえたからそれだけでもよかったけど
鬼束ちひろインソムニアかおうかとおもったけど月光とめまい目的ならyoutubeできけるからいいかなって
あたらしめのサイケな格好したジャケのもあったけど知ってる曲しらなくてかわなかった
小松未歩の謎は有名曲謎だけじゃなくて他にもセルフカバーしたの結構はいってていいなと思ったから
輝ける星はにんぺんまんまるのEDで地味にすきだし、
この街で君と暮らしたいとか錆びついたマシンガンで今を撃ち抜こうとかねー
錆びついたマシンガンで今を撃ち抜こうが小松未歩だとしってるひとはすくないんじゃないかなー
ピロウズもじみにあったけどだいぶまえにきたときにかっててそれとだぶらない自信がなかったから飼わなかった
そばの宣伝テレビでbzのニューアルバムの宣伝でコナンのop?の曲がループでかかっててすげーみみざわりでうるさかっった
ぜんぜんいい曲にもきこえなかったし
ドラッグストアで食パン半額だけどいまおなかすいてないしたべすぎるとコレステロールになるしとおもってガマン
オーブントースターあるしあまったスティックシュガーもあるからやいたら素パンでもそこそこ美味しく食べられるとは思ったけど
18時くらいにやめて寝て22時までねる
よるのスーパ^^^ーとドラッグストアいくけど割引のやつもう終わってるかかっさらわれててめぼしいものないから何もかわない
買い置きのレトルトおかゆにするかとも思ったけどまだ期限あるし万が一のためにとっとこハム太郎と思ってオートミールにする
水多めとサバ缶でレンチンしたらほぼおかゆになって、おかゆたべなくてよかったなと思った
そんで今
とりあえずがんばって聖剣3やるかなー
自分も障碍者で生活保護受給者だが、地元の役所の障害課も福祉課も、まあめちゃくちゃ頼りになるというわけではないが、露骨に邪険にされたことはないし、少なくとも末端の職員はみんな腰が低い。昔の市役所職員ってかなり横柄な態度の人がいたという(親からもそういうの聞いたことある)し、だから役所に用事があるときは毎回ちょっと準備して気合い入れて、時には録音しながら臨んだりしてるが、その度に無難に終わりすぎて拍子抜けしてる。
この街では餓死者が出て、それがメディアに取り上げられて福祉の観点から役所が叩かれたりもしたんだけど、正直なところ受給者としては全然実感ないんだよね。
役所で一番態度が横柄だったのはゴミ袋わけてくれる窓口のおっちゃんだけど、1種類しか希望してないのに3種類分くれたからこっちも悪くない。
最後に。
今回これを書こうと思ったのは、冒頭の話が関係している。
昨年末に約十年ぶりに京都に行ったのだが、知っている店はほとんど潰れていた。バーも、キャバクラも、スナックも、マクドナルド河原町三条店も、もちろん――S店も跡形もなくなっていた。
年末にしては暖かい夜だった。寂しい気分で歓楽街をうろついていると、学生時代によく行っていた老舗のバーを発見した。店員もお客さんもコロナ禍の中でしんみりとした雰囲気かと思いきや、意外と賑やかだった。
「ソーシャルディスタンスなんて関係ないぜ!」みたいな連中がわいわいと騒いでいる中、私は2つほどバーをハシゴした。その後、さめざめとした心持ちで先斗町の狭い街並みをうろつき始める。
すると、心の内にあることが想起された……そうだ、私は一度、S店で接客を受けてみたかったのだ。それを夢見ていた。だから京都に来たのだ!
私の中では、京都旅行の動機の端っこにあった感情だったけど、大きい部分を占めていたことに気が付いた。
通りを一本挟んだ木屋町に戻った私は、S店がなくなったのであれば、別のキャバクラに行ってみようと思った。深夜2時になっていた。
※ここまで読んでいる諸兄はおわかりだろうが、法律上は深夜1時までの営業になっていても、実際には朝5時まで営業できる。警察があえて取り締まっていないのだ。たまに見せしめで捕まる店がある。
そのRというお店は、私が大学生をしていた頃は新進気鋭のルーキー的な立ち位置だった。今では木屋町で一番の老舗になっている(堅気の店だとは思うが、そうじゃなかったらまずいので名前は伏せさせてもらう)。
最初に19才の可愛い子が隣についた。その、あまりの顔つきの美しさ、手足の細さにびっくりした。まるでアイドルみたいだった。※私はアイドルを見たことはない。
ちょっと後になって、チーママが真正面の席についた。30代後半くらいで、落ち着いた雰囲気があって、笑顔が素敵な人だった。談笑は続いて、残り時間があと40分ほどというところで、R店のメニュー表を持ってきてもらった。人生で一度、キャバクラでシャンパンを飲んでみたかったのだ。
せっかくの機会なので、5万円のやつにしようと思って――考え直した。ここはあえて、1万円のものを頼むのが正義であると気が付いた。そうだ、これは最初の体験なのだ。5万円のやつを堪能してしまったら、1万円では楽しめなくなる。
こうして1万円の一番安いシャンパンを注文し、私の席に嬢があと2人増え、付け回しをしている人が私の席に挨拶に来た。やがて細長いグラスとクラッシュアイス入りのアイスペールがやってきて、カフェドシャンドンみたいな名前のシャンパンが細長いグラスに注がれた。
午前3時半に店を出た。
楽しい夜だった。でも、満足はできなかった。あの日々、私が青春を過ごしたS店はもうないのだ。もう二度と行くことはできない。
お酒を飲んだのに――辛い気分だった。寂しい気分だった。やるせなかった。
そういうわけで、この私こそが世界に産み落とされた最初の人間なんだと自分に言い聞かせ、木屋町を流れる高瀬川沿いの歩道をほっついて回り、いまだに夜の店を求める者たちがはかなげな声で囀りまわる四条大橋の袂へとぴょんと躍り出るやいなや、私は考え始める。
これからどうしよう、まだ眠気はないのだ! どこに行こう……そうだ、まだ祇園では飲んだことがない。でも、木屋町にもまだ懐かしい店があるかもしれないなぁ。
私はまた考え始める。そしてそれが楽しいのだ。私は夢見心地で祇園の四条通りの石畳を踏みつけて、曲がっていることもわからないまま小道や細道の角を折れ曲がり、川があることもしらずに祇園の中を通る小橋を走って飛び越え、姿形も見えない、これから行くであろう店でどんな話をしようか思案をはじめる。
……でも、今の私はこの街で一人だった。もう仲間はいない。知り合いもいない。一緒にお酒を楽しめる人はいない。今更気が付いたのだ。
こうして、一人ぼっちになった私は、「お酒も十分に飲んだし、暗い気分を晴らしにデリヘルでも呼ぼうか」と考えた。おっとり刀でホテルに帰り、スマホの遅い読込速度にイライラしながらも、どうにかデリヘルを呼ぼうとする。
私はあるお店の、いろんな女の子が並んだパネルを見ていた。風俗店では、口よりも目を隠している子を指名するのが基本だ。そちらの方が統計的にアタリ率が高い。
ある女の子を見つけた。右手で目元を覆っている。慎ましい乳房だ。身長は低い――これは加点要素だ。でも、よく見ると髪型で顔の長さをごまかしている。肩幅を見るに、ガタイの大きさをフォトショで修正している感がある。これは勝てん要素だ。場合によってはチェンジ宣言もやむを得まい。鱗滝さんに「判断が早い!」と怒られる可能性がある。
彼女を指名した。待つこと約30分、真っ白のマスクを着けた女の子がやってきた。予想通り、背が小さくてかわいい。マスク美人かなと思ったが、はずしてもかわいい。
「コロナで大変じゃない?」と聞くと、「お客さんは減ってる。でもお兄さんみたいな人が指名してくれるから嬉しい」とのこと。
早速シャワーを浴びて、時間はあまりなかったけど、ベッドで少しばかりの睦言を楽しんで、それからプレイが始まった。肌が触れ合う感じがいい。吸い付くようだった。有意義なプレイだった。
最後に、お互いの相性がよかったからか、それとも彼女の温情によるものか、サービスにはないが、『合体』をしてもいいという。コンドームも用意してあるらしい。お金のことを聞いたが、お兄さんの気持ちでいいとのこと。ふと、さっきのシャンパンが頭をよぎる。
だが、挿入の前に問題が起きた。私のやつに適合するサイズのコンドームがなかったのだ……私は、彼女が持っていた何種類もの中から、一番マシな物を選ぶ必要があった。サイズが小さすぎると途中で抜けてしまう。彼女の中で抜けるわけにはいかない。
残り時間が限られる中、高速でコンドームを試着し続ける私に、彼女は不安そうに言う。
「そんなに急いで大丈夫?」
私は笑いながら答えた。
「付け回しは得意だからね」
私はその子を知った。
しっとりとした肌の感触だった。心地よかった。心までひとつになったみたいだった。私はいま一人ではない。
特別サービスで、5分だけ無料で延長してくれるという。お言葉に甘えることにする。
行為が終わった後、その頬にそっとくちづけをした。
「気持ちよかった。でも、お金は具体的な額を求めないとだめだよ。仕事なんだから」
「これはお店のメニューじゃないからいいの。お客さんに気持ちよくなってほしくて」
彼女は笑いながら答える。つぶらな瞳で私を見上げてくる。が、視線を逸らすことはなかった――鋭い、理性的な、豹のような瞳をぶつけてくる。
私の心は最初から決まっていた。さっき節約したばかりの4万円を財布から取り出して、「ありがとう」とその柔らかい手のひらに渡した。猫が喉を鳴らすようにして彼女は、嬉しそうに受け取るのだった。仕事ができる子だった。
私が大学を卒業した年にTちゃんからもらったメールによると、イケメン先輩は100万円を払い終えたらしい。
その後は、M主任の後釜に収まった。イケメン先輩のS店への貢献という「状況」が、1年以上も前に下された免職処分を打ち消したのだ。
土曜日の昼。世間では一般的に休みの人が多く、その昼間といえばランチなどに出かける人も多い時間帯。
まさにその時間帯、その人達の横で自分は働いていた。今日は歩行者を専用通路に促す仕事。正確にはちょっと違うけどそんな感じ
とにかく時間が経つのが遅い。人はなぜ休日に動くのか?それを常に考えてしまう。動かなければ自分の仕事もなくなってやらなくていいのに。
ラーメン屋は行列が出来ている。カップルばかりだな。一生並んでいればいいのに
老人に道を聞かれる。こんな自分がこの街で分かるのは駅までの道だけだよ。
高級車が音をたてて通り過ぎる。世界に一つだけの花のメロディーだった。
時計を見る。汗がついていた。11時35分。全然時間が過ぎていないじゃないか。労働はまだまだ。暇だし口ずさむか。子供の声もうるさいし。
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい
サビのところしか分からないからそこの繰り返しになってしまう。
1フレーズ30秒ほどだろうか。それを繰り返し繰り返し唱える。200回くらい言ったはずなのに気がつけばようやく昼休憩だった。
花が咲いたら救われるのか?確かに沖ドキは光った瞬間報われる気がするよな。
営「ちなみに「枕投げ」は2020年東京オリンピック、パラリンピックにも公式な競技として採用されているんです」
俺「ほんとだ!枕に付いてるタグに東京オリンピックの青いマークが!」
俺「…しかし、どれもお高いですなあ。こんな高い枕が買える身分なら迷わず枕より最新のレッツノートを買います…」
営「そうですか…」
後日、そのときの枕営業ウーマンは道端で全裸の死体となって発見された
彼女は借金をして仕入れた枕の販売に困り、雪の降るこの街で枕を路上販売していたというのだ
「まくら、まくらはいりませんか?」
しかし、昨日未明に、理由は定かではないが、彼女は商品の枕をすべて箱から取り出しており、死体の周囲には枕が産卵散乱していた
警察は事件性はないとしており、その理由の一つに矛盾脱衣を上げている
矛盾脱衣とはかの八甲田山でも起こった異常行動であり、昔のギャルゲーとは何の関係もないのだが、
奇しくも今シンエヴァが盛り上げっているが、
過去にガイナックスが開発、販売していたゲーム「バトルスキンパニック - 全裸戦士 -」のように意味なく脱衣する、
ということは昔のゲームではよくあり、回り回って艦これなどにも継承されているのである
枕の話はどこへ行ってしまったのだろうか
日本でも自分自身が住んでいる地域によって接客業の話が噛み合わないように
自分自身の所得に合わせて住む場所と付き合うコミュニティ選ぶと思う
(スーパーZIP・・・”those ranking highest on income and college education”、つまり、「居住者の平均所得や大学卒業率が、最高ランクである地域」のこと)
このスーパーZIPが全米でもっとも集積しているのがワシントン(特別区)で、それ以外ではニューヨーク、サンフランシスコ(シリコンバレー)にスーパーZIPの大きな集積があり、ロサンゼルスやボストンがそれに続く。
ワシントンに知識層が集まるのは、「政治」に特化した特殊な都市だからだ。この街ではビジネスチャンスは、国家機関のスタッフやシンクタンクの研究員、コンサルタントやロビイストなど、きわめて高い知能と学歴を有するひとにしか手に入らない。
ニューヨークは国際金融の、シリコンバレーはICT(情報通信産業)の中心で、(ビジネスの規模はそれより劣るものの)ロサンゼルスはエンタテインメントの、ボストンは教育の中心だ。グローバル化によってアメリカの文化や芸術、技術やビジネスモデルが大きな影響力を持つようになったことで、グローバル化に適応した仕事に従事するひとたち(クリエイティブクラス)の収入が大きく増え、新しいタイプの富裕層が登場したのだ。
マレーは、スーパーZIPに暮らすひとたちを「新上流階級」と呼ぶ。彼らが同じコミュニティに集まる理由はかんたんで、「わたしたちのようなひと」とつき合うほうが楽しいからだ。
新上流階級はマクドナルドのようなファストフード店には近づかず、アルコールはワインかクラフトビールでタバコは吸わない。 アメリカでも新聞の購読者は減っているが、新上流階級はニューヨークタイムズ(リベラル派)やウォールストリートジャーナル(保守派)に毎朝目を通し、『ニューヨーカー』や『エコノミスト』、場合によっては『ローリングストーン』などを定期購読している。
また彼らは、 基本的にあまりテレビを観ず、人気ランキング上位に入るようなトークラジオ(リスナーと電話でのトークを中心にした番組)も聴かない。 休日の昼からカウチに腰をおろしてスポーツ番組を観て過ごすようなことはせず、休暇はラスベガスやディズニーランドではなく、バックパックを背負ってカナダや中米の大自然のなかで過ごす。ここまで一般のアメリカ人と趣味嗜好が異なると、一緒にいても話が合わないのだ。
同級生やその家族がグシャグシャに崩れた自宅の前でさめざめと泣いているのを、自宅だったマンションの瓦礫の山で配給の乾パンかじりながらボケーッと眺めていたい。
商品棚がスッカラカンのコンビニで、絶体絶命都市みたいにレジカウンターの上に山積みにされている、善意の人々が店員がいなくても支払った料金をバレない程度に握り込んでこっそり貯金したい。
電気も通わなくなって監視カメラとかも機能してないことを確認したら未だにわだかまりを抱えてる同級生をこっそり殺したい。
スーパーの棚に残された人気のないラーメンをためらいなく食べて、初めて食べる味わいにちょっとテンションを上げてみたい。
避難所に指定されてる母校の小学校の体育館に行って、思い出に浸りたい。
震災関係なく、おいしくなかったから食べなかっただけで賞味期限がとっくに切れた買い置きを非常食のように振る舞って他人に感謝されたい。
ちょっとずつちょっとずつ復興する地元を見守りながら、これからこの街で起きた災害を忘れないように背負っていくとかインタビューでフカしたい。
だから『環境は、あなたを映す鏡。』とかドヤ顔で言われたりする
(スーパーZIP・・・”those ranking highest on income and college education”、つまり、「居住者の平均所得や大学卒業率が、最高ランクである地域」のこと)
このスーパーZIPが全米でもっとも集積しているのがワシントン(特別区)で、それ以外ではニューヨーク、サンフランシスコ(シリコンバレー)にスーパーZIPの大きな集積があり、ロサンゼルスやボストンがそれに続く。
ワシントンに知識層が集まるのは、「政治」に特化した特殊な都市だからだ。この街ではビジネスチャンスは、国家機関のスタッフやシンクタンクの研究員、コンサルタントやロビイストなど、きわめて高い知能と学歴を有するひとにしか手に入らない。
ニューヨークは国際金融の、シリコンバレーはICT(情報通信産業)の中心で、(ビジネスの規模はそれより劣るものの)ロサンゼルスはエンタテインメントの、ボストンは教育の中心だ。グローバル化によってアメリカの文化や芸術、技術やビジネスモデルが大きな影響力を持つようになったことで、グローバル化に適応した仕事に従事するひとたち(クリエイティブクラス)の収入が大きく増え、新しいタイプの富裕層が登場したのだ。
マレーは、スーパーZIPに暮らすひとたちを「新上流階級」と呼ぶ。彼らが同じコミュニティに集まる理由はかんたんで、「わたしたちのようなひと」とつき合うほうが楽しいからだ。
新上流階級はマクドナルドのようなファストフード店には近づかず、アルコールはワインかクラフトビールでタバコは吸わない。 アメリカでも新聞の購読者は減っているが、新上流階級はニューヨークタイムズ(リベラル派)やウォールストリートジャーナル(保守派)に毎朝目を通し、『ニューヨーカー』や『エコノミスト』、場合によっては『ローリングストーン』などを定期購読している。
また彼らは、 基本的にあまりテレビを観ず、人気ランキング上位に入るようなトークラジオ(リスナーと電話でのトークを中心にした番組)も聴かない。 休日の昼からカウチに腰をおろしてスポーツ番組を観て過ごすようなことはせず、休暇はラスベガスやディズニーランドではなく、バックパックを背負ってカナダや中米の大自然のなかで過ごす。ここまで一般のアメリカ人と趣味嗜好が異なると、一緒にいても話が合わないのだ。
ヒプノシスマイク、ヒプマイの世界に本格的に魅せられて約1ヶ月が経過した。
まだまだ知らないこともたくさんあるけれど、折角だから今日までの過程を記してみようと思った。
初めてヒプノシスマイクのことを調べたのは2018年の夏、昼過ぎのマクドナルド店内だった。
そういうプロジェクトが始動したらしいというのはTLで流れてくる情報で得ていたが、私も友人もノーマークで、「名前だけ知っている最近話題のあのジャンル」という認識。友人とマックのグランバーガーを遅めの昼食として頬張りながら喋っている中で、どういう経緯かは忘れてしまったが、ヒプマイが話題に挙がった。
検索してサイトの情報を2人で眺める。しらいむのキャラ可愛いね…としみじみしたのを鮮明に覚えている。某地球を守る系のアニメでの印象が強かったため、こんな可愛い見た目のキャラクターに声をあてられるのか、ポテンシャル高いね、みたいな会話をした。
それから、神宮寺先生がかなりの高身長なのに体重がめちゃくちゃ軽くて、どういうこと?となった。
名前のことを話した記憶があまりないので、読むの難しいな、程度だったのだと思う。オタクと難読名字は切っても切り離せない関係なのだ。
でもサマトキ様という名前はしっかり頭に残っていた。多分ヒプマイのLINEスタンプいつ使うんだよ!というバズったツイートを以前目にしていたからだろう。新しいデカLINEスタンプもサマトキ様の脚が長くて注目を集めており、流石だなと思った。
盧笙先生の「予習復習しっかりせえよ!」スタンプは勢いがあって良いし、二郎くんの「…何のことだ??」から新たな火種が生まれないか心配になる程キレッキレでカッコいい。
それはともあれ、その後ヒプマイについて触れることはなく、ほとんど情報を得ることはなかった。
今せっせと供給を得ては少しずつ生産をしているコンテンツにおいて、好きな絵を描く人を見つけた。ホームに飛んで、遡っていて見かけたのがStellaヤバい、といった趣旨のツイート。
これがヒプマイとの再会だった。
StellaはヒプマイのFling Posseというチームの新曲であるとその前後の呟きやRTで理解した。ヒプマイ、去年の夏に調べたな〜、聞いてみようかな〜〜と軽率な気持ちでYouTubeで聞いてみた。
全く理解できなかった。
試しにオススメに出てきたYokohama Walkerを聞いてみた。
何も分からなかった。
ヒプマイ、難しいな、知識不足かと思い、諦めた。
振り返ってみると何も難しいことはないし、今となってはかなり好きな曲なのにどうしてこういう感想になったのか、それこそ全く理解できないのだが、当時の私はヒプマイの世界観に馴染めず縁を切ってしまった。
ただ、その神絵師はジャンルを両立している神だったため、私は自然とヒプマイの情報を断片的ではあるが神から得ていた。神はシブヤと、その後加入が発表されたオオサカがお好き。公開当時からものすごく話題になっていたオオサカのあゝオオサカdreamin' nightのトレーラーも、時流に乗って見てみた。ノリが良いし耳に残るしクセのある歌い方が心地よくてアホほどリピートした。コメント欄の広告付けろ金落とさせてくれという言葉が何だか良くてすごく覚えている。
その時知ったのが、渋い詐欺師のおじさんが誰かのお父さんということと、漫才師と教師が元お笑いコンビであったが解散してしまっていて、今回また同じチームになってテッペンを目指しているということ。全部すっ飛ばして良いとこどりである。その後もオオサカの曲を時折聞きつつ、神から氷山の一角も一角の情報を得つつ、というコンテンツの消費の仕方をしていた。
神はコンテンツに動きがある度に色んなことを仰っていたので、相変わらず私はいいとこ取りをし続けていた。乱数ちゃんはクローンであること、幻太郎さんの一人称が小生であること、帝統君は乙統女さんの息子であること、シブヤの3人とシンジュクの3人の相性がめちゃくちゃ悪いことが私の持っている主な知識。他のキャラクターのことは、職業と大まかな名前を把握している程度だったと思う。
ヒプノシスマイク-Division Rap Battle-Ryme Animaの放送開始である。
音楽が原作のコンテンツで原作を理解できなかった女は、毎週金曜日24:00〜の放送を心待ちにしていた。毎週土曜日は固定シフトで朝6時出勤の5時前起床だったが、1回たりとも欠かさずにリアタイするくらい楽しみだった。放送終了後、布団の中で神や神のフォロワーたちの感想ツイートを見てニヤニヤした。
そうはならんだろ〜!みたいな展開も、それで変装!?って格好も、絆ァ!!!も、全部全部見てて楽しくて最高で、最終回EDテーマが大好きで、ヒプアニ面白かったな、と思った。ずっと声と歌だけを聞いてきたファンの皆さんは、歩いて食べて笑って戦う推しの姿を見て、どんなに嬉しかっただろうと思った。
放送中、既存の楽曲に興味が湧き、加入していたAmazon musicでいくつか聞いてみたりもした。パーティーを止めないでを聞こうとしたら制限がかかっていて聞けなかったのでUnlimitedに加入した。これもまた良い曲、キャラクタープロデュース力がすごい。
ヒプアニが終わった後の金曜日の喪失感が年明け数週間後も続いたので、何だかおかしいなと感じた。
2月の初頭、知らない人に食事に誘われて行くと答えたら、毒島メイソン理鶯さんに2人で行くのか?と問いただされ、みんなで行くんだよ〜!となぜか焦りながら答えた夢から覚めた時、疑惑は確信に変わった。
Amazon musicで片っ端から楽曲に触れ、ドラパに耳を傾け、約1週間で配信されているものをほぼ網羅した。YouTubeでも動画を見た。Anthem+、タマンね〜〜〜
声優さんの収録の様子を見られるだけで感動したのに、キャラに寄せたフリまで付いていて、本当にこれは無料で見ていいのかと本気でビックリした。
1年以上前、全く理解できなかったStellaは本当に幻想的で儚いけれど、Posseの固い意志を詰め込んだ曲だった。今、やっとStellaのヤバさが分かった。2020年2月に出たPosseのアルバムのドラパを聞いてから聞いたら、もっとヤバかった。この曲の示す意味がより鮮明に見えてきたような気がして、幻太郎のことも早く知りたい。
Yokohama Walkerもちゃんと理解できた。MTCの3人はアニメでは一番物騒でクールな日常を送っていたが、心底ヨコハマでの人生を楽しんでいるんだと、矜持を持って生きているんだと伝わってきた。お互いへのリスペクトがすごい3人だとずっと思っているんですが合っていますか?
情報量が半端じゃなかったけれど、アニメを見ていたおかげか、すんなり入り込み楽しむことができた。18人のキャラクターへの理解もかなり深まった。
何故ポッセと麻天狼の仲が悪いのか、アニメでは描かれていなかった点も把握できた。B.B. vs MTCの二番手三番手の争い、あれは銃兎さんが悪いんじゃないかなと思ったりもする。
みんなの1回目のディビジョンラップバトルの結果を経て、2回目のバトルへの意気込みも感じた。名実ともに命がけなんだ。
The Champion、ドラパは時系列順に聞いたけれど曲はなかなか手が出なかった。アニメを見て結果を知って、ドラパを聞いて、何だか敬遠してしまっていた。全部聞き終わった後にちゃんと聞いたらかっこよかった。
新参のクセに、と思われて当然のことを言うけれど、このCDが出たとき、他のディビジョンを応援していたファンの人はどんなに悔しかったろう、麻天狼を応援していたファンの人はどんなに嬉しかったろうと思わずにいられなかった。
これが大体2週間前のこと。ヒプマイに少しずつハマりながら、私はヒプステ観劇の計画を立てていた。
正直ヒプステの存在をちゃんと認識したのも2月に入ってからだった。ヒプマイのHPを見て、ヒプステが公演開始直前だと気付いた時にはもう観に行きたいと思っていて、いつなら行けるかと考え出す自分がいたのだ。普段から.5の舞台に定期的に足を運んでいる身故に決断も早かったと思う。平日の昼間の公演チケットを取り、物販で買ったリングライトを身につけて着席した。
ちょ〜〜楽し〜〜〜〜くて最高だった
重低音が身体に響いて、ハンドサインしながら曲に合わせて手を振って、”現場”って感じでビリビリした。迫真の演技も歌もダンスも所作の1つ1つも胸を鷲掴みした。終演後にリングライトを外す手が少し震えていて、帰りたくないなと思った。
リングライトのリング部分がプラスチックじゃなくてゴム製だったところにすごく感動した
お土産、オーディエンスキットと熱いときめきを抱えて、オフィシャルファンブックを買うべくそのまま池袋に向かった。街中にちらほらとオーディエンスキットのビニールを持っている人が見えて、あ、と思ったりした。オフィシャルファンブックを買って、Enter the Hypnosis microphoneも手に取りレジに直行した。HoodstarのMVを狂ったように見ているので円盤で手元に置いておきたいし、ライブも見たいな、という軽率な行動である。
それにしてもHoodstar、Cメロ(あっていますか?伝わるかな)の三拍子でいつも狂ってしまいますね。すごい曲だなとつくづく思っています。哀歓悲喜全てが凶器のメロディが好きすぎる。この街で1番のbad boys ←大好き
それからファンブックのドラパを聞いて言の葉党大好きマンになったり、Summit of DivisionのMVに出てくる可愛いラクガキつきのイラストが収録されていないことにガッカリしたりした。どこか収録されている場所ありますか?もしあったら情報ください(切実)
アルバムのライブ映像、2ndも3rdもガッツリ見た。キャストさんもお客さんもすっごく楽しそうで私も見ていてすっごく楽しかった。シャンパンゴールドのコーレス、プリンセスってお客さんのことだと思うんですけど、お客さんがプリンセス!!って叫ぶから面白くて、死ぬまでに絶対コーレスしたいと思った。さいこ〜〜〜!!!!!
2ndの最後に無花果様が来て、1回目の結果を公表したから頭がおかしくなった。投票って、勝敗をつけるってこういう感じなんだって思って勝手に疲弊した。優勝したディビジョンは当然知っていたけれど、こうして目の当たりにして、すごいな、ディビジョンラップバトルは、と痛感した。
今週の内にアベマのシブヤ vs ハマの観覧チケットをとり、HIPSTERにも入った。
これを打っているのは2nd ディビジョンラップバトルの3回戦目の前夜である。
正直、ここまでずっぷり入り込んでしまっていて、やばいなと思っている。比較的慎重な方で、なかなか新しいコンテンツに手を出さずに生きてきた私だったが、こんなにも強欲に手を出してしまうとは。
2年半前の私には考えられない行動力、抗えないヒプマイの魅力。おそるべし。
こうして今までヒプノシスマイクというコンテンツとそのファンが築き上げてきたものにあやかって楽しませてもらっていて、明日のライブを見て投票することで、私もそのコンテンツに加担する1人になるんだなと大袈裟だけれど考えて、少し緊張している。
ヒプマイって楽しいなと思うきっかけになってくださった神に感謝してもしきれない気持ちでいっぱいです、ありがとうございます。
長々と特に面白みのない独白にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
これを読んでハマった当時のことだとか、今どう感じているかだとか、コメントとして残していただけると嬉しいです。ヒプマイファンのお話、よければ聞かせてください。
これから、末永くお世話になると思います、微力ながら応援させていただきます。
Do or Die ぶっこんだもん勝ち!!