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はてなキーワード: コンセンサスとは

2024-02-23

スカート着用に次いで男にとってハードルが高いのって…

飾りのついたゴムとかバレッタで髪をまとめることじゃないかと思うんだよな

俺は性自認身体と一致した男なんだけど髪が長くて、

かつ趣味実益を兼ねて象牙細工とか螺鈿細工をやるんだけど

外で自作の髪留めとかヘアゴムを使ってると「あっ」って顔をされるんだよな

なんか、アメリカの長髪のジジイとかシルバーの髪留めとかつけてるじゃん

そういうイメージなんだけど

「髪に飾りをつけてたら女、男がやってたらオカマ」というコンセンサス日本社会にはあると思う

デザイン的にも別に女性向けに作ってるものではないんだけどな

2024-02-20

anond:20240219225022

懸念はわかるんだが、あくま理想を言えば、「あかほりさとるすらも『文学芸術』と位置付ける」だろう。

 

高尚さと芸術価値の分離が必要なのであって、高尚な芸術としてラノベを認めさせようという話であるきじゃない。

必要なのは価値だけなのよ。

もっと言えば、保存する価値一般的にあります、無くしていいものではありませんというコンセンサスえを得る事だけが必要なのだ

高尚ですねと認められることが必要なわけではない。

 

いや、発起人の頭のなかで、話がどうなっているかわからんよ。

お前の考えるような、高尚な奴だけを認めさせようとしている方向性なら、確かにやべーかもしれん。

2024-02-18

性的衣装とは何か

性的目的で考案、作成された衣装(A)」又は「元は異なる目的のものであってもある状況下で性的目的に用いられるとのコンセンサス社会的に生じた衣装(A')」を指すと仮定する。

たとえば「穴あき下着」は前者A、「亀甲縛り」は後者A'の例だろう。そして、それらが批判対象とされるのは、

「それらが性的喚起力を高くもつとの合意が現に社会的に維持されている(B)」こと、そして「性的存在として眼差すことへの禁忌社会的存在する対象にそれらの衣装を着ける(C)」ような場合(つまりAorA'、かつB&Cの場合)と仮定する。この場合、結果として現れる表象それ自体公序良俗の取り締まり基準を満たしているか否か(D)とは、また別の問題として扱う必要がある(Dは、どんな文脈でも社会的提示するのは一発アウト、みたいな基準と考えられたい。生性器のドアップ写真、とか。ただこの場合も、「公序」の制限とかけはなれた特殊な状況、場所で許容されるのは言うまでもない。医学書とか。)。

以上を前提として、先日話題になった「オーストラリアのH&M広告炎上」の件と、昨日来話題の「咲バニーガール衣装」の件を合わせ論じたい。先に結論を述べれば、A~Cの基準が異なれば議論が噛み合わないのは当然であり、相手非常識扱いしてヒートアップするのではなく「相手との間で異なっているのは何か」を考える必要がある。相手が、いかなる表現100%許されると考えている人(つまりDなどないよ派)でない限りは、見解が異なるだけで、対話余地はあるはずだからである。ではまず、オーストラリアH&Mの件を整理しよう。

オーストラリアのH&Mが子供向けに「新学期ファッション」をテーマとした広告を打った。広告は、通学バス社会を想起させる色合い・デザインの背景に、かわいい通学服を着た女児2名がちょっと生意気そうな雰囲気で振り返り、「この子らを新学期ファッションに振り向かせよう」みたいな煽り文句がついていた。これが炎上謝罪撤回に追い込まれた件である

まず、この広告がDに違反していないことは言うまでもなく、それでも炎上したことに対して、いろいろと文句をつける人がいた。多くの人は「こんな程度でいちいち文句をつけるなんてちょっとヒステリックでは…」みたいな反応であり、個人的にそう感じる気持ちもよく分かるのだが、でもちょっと待ってほしい。女児制服ファッションとして扱うのは、このキャンペーンがまさに狙っていることであり、ファッション一種性的喚起力だととらえるなら、この広告は「生意気そうなモデルの表情」「かわいい制服」といった文脈で、Bを印象付けたわけであり、その結果、制服がもともともつA'の文脈制服に対して性的視線を向けるという界隈の文脈)を喚起した結果、Cに抵触する(保護されるべき女児制服を着せあざとい表情をさせて晒し上げる)という批判を生んだという風に考えることができる。このことは、A'に陥りがちな服装ファッショナブルな(あるいは扇情的な)存在として扱うときには常に注意すべき危険であり、BからA'→C違反、という道筋がすぐ描かれてしまうことに、広告関係者は神経を尖らせる必要があるだろう。その意味でこれは、「月曜日のたわわ」の一件との連続性が高い問題だった。あれも、Dには全く違反しておらず、おそらく制服でなければ問題化もしなかった広告が、一言の少しだけ扇情的キャッチコピーを添えられただけで炎上したが、これはもともと危うい位置にある存在で更に一歩危うい方向へと歩を進めることで起きたトラブルなのだと考えるのが適切である

ただし、表現とは常に時代の尖端で社会常識と切り結ぶのが仕事であり、そういう突破力を否定し切るのもいかがかと思う。社会的に(まだ)アウトですよ、と指摘するのはいいが、相手悪魔化したり、あまつさえ、様々な社会問題の根源や責任がそこにあるかのように攻撃したりするのは、慎むべきだ。社会の様々な問題は、多くの場合間違いなく社会のものの中に有り、そちらをまず片づけるべきであるゴミの多い都会を描いた漫画があるとすれば、取り組むべきは都会のゴミをまず片付けることであって、漫画の取り締まりではない。

次に、「咲にバニースーツ着せた姿の広告炎上」した件。これに対して「高校生バニーガールなどという性的衣装を着せた絵が広告として駅頭に出るとは、常識外れもはなはだしい」という指摘が出た件である一見すると、上のオーストラリアの件以上にひどい案件に聞こえ、即取り締まられてもおかしくないように感じられることだろう。この場合、それが一般的公序良俗違反(D)の案件である必要はない。たとえば、制服の上から亀甲縛りをした少女を描いた広告にOKが出るか、と考えてみればすぐ分かる話だ。Dに違反していなくても、これはA'かつBかつCで明白にアウトである。では、「咲+バニースーツ」はどうなのか?

バニースーツがAであることは誰も否定はしない。従って、論点は、B「それが性的喚起力の高い服装であるとの社会的合意があるか」、また、高校生が「性的存在として眼差すことへの禁忌社会的存在する」ことは前提とした上で、これらの少女が「高校生である」ことが明示されているか、の2点ということになる。

C 「咲」に登場する少女高校生であることは明示されているか? これについては、残念ながらこの広告に関する限り、疑わしいとしか言えない。批判者は咲が麻雀部に所属する高校生であるとの知識をもって批判しているが、咲はそこまで社会的認知度が高い漫画ではない。アニメ化されたとはいえ視聴率は1%に届かない程度、DVD売り上げでも、1期7758枚、2期4939枚、3期4565枚…。(※)アニメファンには実写化映画化……とされた人気作のイメージがあるかもしれないが、社会現象になった数々の作品に比べれば売り上げが一桁少ない。加えて作品ジャンルが「麻雀」という、一般的にいって高校生とは結び付けづらいものだ。この広告を見た多くの人が「高校生バニースーツ」という風に見る、と主張するのは難しい。ただし、一定年齢層以上の人で、アニメ画は全て少女ロリ)にしか見えない、という意見をお持ちの方がいることも、一応認識はしている。

(※DVD売り上げはhttps://nizilove.com/category/number-of-anime-sales/page/2/の値。)

B それが性的喚起力の高い服装であるとの社会的合意があるか? おそらく批判者が一番「何を言ってるんだ?!」と思うポイントであり、今回一番議論が噛み合っていないところだと思うが、Aのような服装時代を下るにつれてBの意味合いを失っていくことは、歴史的にはよくあることである。たとえば、髪型一つとっても、「結わない髪は淫らである」といった固定観念が、遊女などの流行を取り入れつつ徐々に変遷し(※)、現代の人は単に「かわいい」という感覚で振り乱した髪の毛を奔放になびかせているのはご存じのとおりだ。「そんな髪型は昔は遊女流行らせたもので…」と説教をして、いま、一体誰が首肯するだろう? 時代が下ればある衣装が「もともともっていた意味合い」が薄れていっても、何も不思議はない。つまり、たとえAであったとしても、時代によってBではなくなるということは別に不思議ではないのだ。

(※たとえば参考:「『女髪結』考」https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/record/21365/files/KU-1100-19940930-01.pdf

では、バニー衣装はどうなのか、といえば、これはまさに時代が変化しつつある過程なのではないかと思われる。自分は決して専門の立場ではないが、そもそも夜の店の主流がキャバレーキャバクラ等へと変遷していく過程で、「性的接待衣装としてのバニーガール姿」というのはもはや古典的イコンとなり、現役の「風俗衣装」としての意味合いをかなり失いつつあるのではないか。たとえば「社長さん」御用達で半世紀以上の歴史を誇る「エスカイヤクラブ」では、支援の声を受けて「ワンランク上のおもてなし」としてバニーガールによる接待をうたっている(https://www.esquire-club.co.jp/general/about01/)が、これなど、バニーガール姿がほとんと「祇園芸妓」的な存在と化しつつあることの表れではないだろうか? そもそもの出発点においてからが極めてトレードマークコスプレ的な衣装であったバニーガール衣装が、現代においてコスプレ的ではなく生き延びている事例というのがどれほどあるだろう。

そのような時代の変化の過程において、「バニースーツ性的!」という批判と「ただのコスプレじゃん?」という意見が、まさにBをめぐる議論として立ち現れてくるのならば理解ができるし、それははっきり言えば単なる「時代感覚の差」の問題に過ぎないと思われるのだ。たとえば、高校生文化祭メイド服を着る、あるいは、小・中学生習い事ポールダンスを学ぶ……ある年代以上の人からすると、目が点になるのか三角になるのか知らないが、そんな事例であろう。だがそれらは、時代の変化の中で起こるべくして起こる変化の一様態しかない。

まり、これらは決して表現の自由だとか差別かいった問題ではなく、単なる「年寄り若者時代感覚の違い」に起因する問題だと認識した方がいいと思う。ならば、相互批判しあう人たちも、この問題からいずれも学ぶことがあるはずなのだ。こういった問題で、敵味方を作ってがあがあがなりたてるのはよろしくない。何よりも必要なのは、分断ではなく対話理解であるはずなのだから

2024-02-17

社会的に許されない恋愛」を糾弾するべきか否か?

ホッテントリ見てて思ったんだけど

たとえば、40歳男性と16,17歳女性恋愛があったとして

これを糾弾する人としない人に今の世の中分かれてるよね

特に40歳男性糾弾する(キモいなど)人が一定数居る

なんなら年の差が離れている時点で糾弾する人もいる

 

極端な例をあげるか

1.男40歳と女5歳

2.男40歳と女12

3.男40歳と女17歳

4.男40歳と女18歳

5.男40歳と女20歳

 

この5つに対する反応で大体その人のスタンスが見える

反応もまとめるか

O.そもそも恋愛ではない(前提否定派、これちょっと別枠だから今は置いとく)

A.どの条件、どの時代であれ大人としてあるまじき行いである(究極的違反派)

B.自分生理的に受け付けない(生理的嫌悪派)

C.倫理的現代社会は受け入れるべきではない(社会的に許されない派)

D.法を犯さない限り、個人自由である個人自由派)

E.歓迎する(肯定派)

 

例えばイスラム圏で5歳の少女婚姻している現状(児童婚)を訴えているユニセフなんかは

1に対してスタンスはAなわけだ

これは多くの国・地域時代コンセンサスが得られている

(全てではない、生物学的にどうか?といえば、出産ギネス最年少が5歳7ヶ月だからノーコメント病気を除けば8歳くらい。ただし母体危険に晒される)

 

じゃあまず、「どこまでAか?」でスタンスが分かれる

人によっては5でもAだと考えてる人が居る、その場合昔の人の多くが極悪人だが

実際はAだと思っているが、その主張が通らないかもしれなくてBだと言ってる人もいる

まあそれはい

問題はC「倫理的現代社会は受け入れるべきではない」がどこにくるかだ

この3つに絞るか

 

2.男40歳と女12歳 

3.男40歳と女17歳

4.男40歳と女18歳

 

法律上どういう建付けか確認しよう

2は健全で付き合うなら特に違法ではない、結婚はできない、性行為違法不同意性交)、大昔は結婚できた

3は健全で付き合うなら特に違法ではない、結婚は以前はできたが今はできない、性行為違法条例違反

4は健全で付き合うなら特に違法ではない、結婚できる、性行為適法

 

まり、2・3をC「倫理的現代社会は受け入れるべきではない」とする人が多いのではないかと思う

4についてはA〜Eまで主張は様々、芸能人でもこの前あったばかりだ

 

本題だが「社会的に許されない恋愛」は糾弾するべきだろうか?

それは昔同性愛糾弾したことダブスタにならないか?という疑問が生じる

これが面白くて、賢い人はそこに薄々気づいているから以下のような対策を取る

・主張をO「そもそも恋愛ではない」にする → しかしそれは「12歳や17歳女性の恋心は偽物である」となるので主張が苦しくなる

・主張をO'「成人と未成年のは恋愛ではない」を発明する → これが「グルーミング」の正体、今はこれが主流である

・主張をAに変える → 昭和時代より昔を全部否定する強い主張になるため苦しくなる

・主張をBに変える → これもよく使われる、Cで戦いたくないからBにするケース

 

このようにして糾弾者の頭の中で整合性を保たれるのだが

個人的には2,3,4はCではなくD「法を犯さない限り、個人自由である」にするべきだと思っている

あるいは昭和時代にはD'として「個人自由だが、周りは受け入れないよ」があった

これで良いのではないかと思うのだが、どうしてもCを採用したくて上記のような主張に至っているのを見かける

まあそれも別に自由なんだけれども、コンセンサスは必ずしも取れない(姉は受け入れない)と思ったほうが良い

 

元ネタ

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2316099

 

_____

 

グルーミングへの反論をしていなかった

グルーミングは確かに存在するんだ、つまり40歳男性からアプローチした場合

ただし女性からアプローチするケースは確実に存在するというのは誰も否定できないだろう

簡単だ、40歳男性が超モテるタイプだったらそれは簡単に起こる

から2人の詳細を聞かないで「グルーミングだ」なんていうのは詭弁なんだ

 

あと、CとDの中間として

大人そもそも未成年口説くべきではない」「大人未成年から惚れられても受け入れるべきではない」と主張して

「なぜなら世間が認めないからだ」と責任社会に丸投げする論法も昔は主流だったと思う

こっちの方が断然スマートだと思うんだけどねぇ、社会圧が減ったからかな

2024-02-16

anond:20240216065902

ホテルで男女が同一の部屋に泊まっても浮気証拠にならないということは令和のコンセンサスなんだな

2024-02-14

anond:20240214121237

どこが?

1000万円でも足りないってとっくにコンセンサス取れてるんだけど

anond:20240213205530

でも男は「叩いて良い」ってコンセンサスが取れるまで叩きには周りませんよね?

2024-02-13

仕事やる気なくなっちゃった

色々時間かけて提案してゴーサインもらってた企画が、圧力があったのか、やりたくなくなったのか部門長にプレゼン上司からストップがかかる

プレゼン雰囲気時間が足りないくら意見が活発で悪くなかった、と思う

はああー面倒くさくなっちゃったのかな

部長級ならもらえる給料ダンチらしいし、新しい事してリスク背負いたくないんだろうな

とか色々不信感抱いてきちゃった

やめたいなぁ、でも時短勤務の子育てワーカーだし、上司から放置気味扱いなので休みも取れるし過ごしやすいんだけど

こんな風に適当に扱われるからやる気なくなってきたよ

だってどんだけギバーな振る舞いをしてても何も返ってこない

与えられる仕事も増えないかスキルも育たない

仕事増やしたくて提案しても、なんか他の人がメインに置かれて外されてれるし

今回みたいに時間かけて周りとコンセンサスとっても、上司手のひら返しに踊らされる

疲れたなぁ

2024-02-10

限界独身中年男性から人生がつらい

私は基本的仕事中毒人間であり、仕事を抜いたら何も残らない。

もし仕事を辞めたら孤独無趣味で何の面白みもない引きこもりになるだけだ。

からと言って仕事において有能というわけでもない。

私の仕事独りよがりであり、作っては捨てての無駄な労力ばかりかけている。

仕事においては報連相大事なんていうのは、うんざりするほど聞き飽きたフレーズではあるが、私はそれが嫌いだ。

まずは相手が何を求めているかをきちんと確認して仕事方向性を決めて、

作成している途中の段階で何度も都度確認をしながらコンセンサスを得て、

最終的にゴールにたどり着くという段取り重要なのは分かっている。分かっているがそれが嫌いなのだ

仕事相手顧客であったり上司であったりするが、その相手が何を求めているかなんて大体ソイツ自身にも分かっていない。

言語化することをサボっていたり能力がなかったり、理由は様々だが、とにかく相手ヒアリングすることなんて時間と労力の無駄だと私は思ってしまう。

から私は最初から全部作り上げる。作成途中で7割程度の完成度のものなんて見せても、不出来な部分を指摘されて不愉快になることが分かり切っている。

そうして完成させた成果物を出しても、いやそういうのじゃないんだよね、というお気持ち一つでバッサリと捨てられる。

こんなの作るのに時間かける前に、ちゃんコミュニケーション取ろうよと言われる。

私はコミュニケーションが嫌いなのだ

私は雑談が非常に苦手であり、休日をどう過ごしているのか、どんな趣味があるのか、といった話ができない。

飯食って昼寝してネットサーフィンしてで終わりだよとしか思えないのだが、普通の人がそうではないことは知っている。

雑談ができないから、何を考えているのか分からない不気味な人間としてカテゴライズされ、異物として扱われる。

異物として扱われるから普段仕事にも支障が出る。

仕事仕事として、割り切って扱ってもらうことはこの人間社会では難しい。

まあそんな仕事の中身についての話はどうでもいい。結局は給料をもらって生活が出来ている、それだけだ。

人生は、予期せぬ出来事で満ちていると言われるが、私の人生は単調で予測可能だ。

朝起きて、仕事をして、夜になったら寝る。毎日同じようなことの繰り返しで、時が過ぎていく。

恋人はいないし、いたこともない。

過去の私が、もっと相手の心に寄り添うような行動を取っていれば、という場面も思い浮かぶが今更だ。

まあみんな大体そういう後悔のいくつかはあるだろう。そういうものだ。そしてその8割は勘違いだとも分かっている。

過去の行動を誤ったと解釈することもできるが、こういう行動をとった結果が私なのだから、無理しても仕方ない。

仕事中毒人間が家庭を犠牲にして働いて、職を失ってから後悔するという話もよくあるが、私にとっては贅沢な話だと思う。

その家庭をそもそも築けなかったのが私だから、完全に下位互換しかない。

自分限界を感じる。

もう若くはない。この先、同じような毎日を繰り返して老いていくのかと思う。

何かを変えるためには自分環境や行動を変える必要があるが、その意欲もどんどん薄れていく。

仕事があって生きているだけでも幸せなのだと思い込むように、ただひたすら毎日を過ごしている。

2024-02-09

業績上方修正です!でもコンセンサス未達だから売りです!

このコンセンサスって誰が決めてるの

2024-02-07

麻雀の打牌批判がまたトレンド入りした

まず第一に原因となった動画

https://www.youtube.com/watch?v=A3GlTTFMSyM

要はあまりにも自分麻雀配信に対してのコメント地獄すぎていい加減にしろってなって、神域リーグというVtuber主催選手になるのを辞退したというお話

で、この件で身内に打牌批判しているやつがいるが!?みたいなやつらが現れる

はっきり言って議論にもならないから言っておくと、それはちゃん批判した側とコミュニケーションが取れており、教えをしている身だからであり、ある程度の関係性が取れているから行えるのである

不特定多数しかない匿名のやつが全然コンセンサスが取れてない素人の打牌を面と向かって批判していいなんてことがあり得るはずがないのだ

その前提をわかってないでやってるからすっ叩かれるのである

これが麻雀プロで打牌でこっちの方がよかったのに!!と勝手気ままに自分Twitterつぶやく分には野球テレビ観戦で管巻いている居酒屋おっちゃんと同じなのでまだかわいいもんである

それにプロというものがいい打牌をするために金をもらっているので、どうしようもない打牌していたら金を返してくれ!と叫ぶ気持ちもわかる。

だが、素人の打牌をとってきて批判しているやつらは、それはもう草野球に対して河原で管巻いている人間と同じでそんな人間がいるなら普通逃げるだろ。怖くない?草野球のワンプレーで隣で怒鳴り散らかしながら批判しているおっさんがいたら。

もちろん打牌として明確に悪い選択というもの存在する。こちらの方がよくないか?という疑問点も出てきたりする。それを言うの自体別に否定しないし、身内でワイワイするのはもう好きにやっていいと思う。だが、それはそれとして、その人間がやっている配信コメント欄でやるな、メンションを送るな、タグをつけてわざわざ見せようとするな、というただそれだけの話でしかない

一定以上の関係性がない人間の面と向かった打牌批判はいらない」というこれだけの事実が難しいのは百も承知だが、麻雀を詳しいと自称している人たちが軒並み打牌批判は委縮するってバカの一つ覚えみたいに言っているのが何とかならないかなあと思っている今日この頃である

2024-02-03

anond:20240203172609

原作改変で問題になるのは、ふたつのケースがあると思うんだ。

ひとつは、原作者が怒った場合

もうひとつは、ファンが怒った場合

漫画版エヴァ原作改変が問題視されてるかどうか知らないけど、もしされてるならば、それは前者か後者どっちなの?という。

今回のセクシー田中さん問題は話にならんのだけれども、

原作改変は条件次第であっても俺は思うんだけど、その条件はなに?というと、

原作者が事前にそれを認めてるかどうか?だと思うんだよね。

ようするに最初から話し合い、コミュニケーションの上でそれを原作から変えてもいいよ、というコンセンサスが取れてるかどうか。

セクシー田中さんはこの辺りが決定的に足りてなかったし、むしろ騙し討ちに近いやり方だと思われるんで、

日本テレビ小学館もその辺りをキッチリ検証して発表する必要があると思うんだけども、

それはともかく漫画版エヴァの方はそういう問題があったのかな?という気がするというか、

問題になってなくて、ファンの一部が「原作アニメ)と違いすぎるじゃねーか!」っていうのは、

まぁファン個人的感想なので、ちょっと話が違うかな?というか。

もちろんその「違うじゃねーか!ふざけんな!」って声が物凄く沢山あったら、それはヤベーなとは思うんだけども。

anond:20240203152130

人は投資に慣れるべきという思想一般コンセンサスが取れたものと言い難く

政府が持つべきではないと思う

anond:20240202193616

原作改編がどこまで許されるかは原作者が決めるべきこと。

メディアごとに特性が違うからといって、それぞれの特性に合わせる必要特にない。

セクシー田中さん原作者とのコンセンサスを得ないままどっちつかずのスタンス

ドラマを作ろうとしてトラブルになったのではなく、

原作者とのコンセンサスを得なかったせいでトラブルになった。

2024-02-02

原作VS脚本議論、どこへ行く?

世間ブクマも「原作改変はどこまで許されるか」みたいな話ばっかしてるけど、

そんなん、ケースバイケースに決まってるじゃん

マンガは絵。小説文章アニメは絵の動画ドラマ映画は実写の動画

それぞれに特性が違うんだから、同じ物語でも伝え方はまったく異なるでしょ。

原作尊重した結果、原作とは表現が違ってしまうことだってあるでしょ

原作にはないセリフドラマでは追加したほうがいいケースとか。

逆に、原作にあるセリフでもドラマでは削ったほうがより効果的だとか。

上手に原作翻案された作品なら、そんな違いにはむしろ誰も気づかないよね。両者を見比べたら実は色々と違うところだらけなのに、「原作のまんまだった!」っていう印象を与えられたら、それこそが最高のドラマ化だよね。

 

そういった原作に寄り添う作品作りとはまた別に、あえて原作とは違うベクトルに持っていくアプローチもあるよね。

マニアック原作からコアとなるアイデアだけをいただいて、もっとテレビ的な普遍性を持たせる、とか。

原作掲載誌の読者層とテレビドラマ視聴者層は一致するとは限らないから、アレンジする。

もちろん原作者の了解あってこそのアプローチであって、原作者の了解もなくファン思い入れを踏みにじるようなアレンジをすれば当然炎上する。

でも上手にやればドラマ原作の人気を超える作品になることだってあるでしょう。

おおまかな設定だけを原作からいただいて脚本ドラマオリジナルって作品、いくつもありますよね。「おみやさん」とか。

 

まりどっちもアリなんですよ。

原作VS脚本議論なんて無意味なんです。

原作オリエンテッドだろうがなかろうが、作ろうと思えばどっちでもみんなが満足するいい作品は作れる。

そのために共通しているのは「上手にやる」こと。

原作者とのコンセンサスを得ないままどっちつかずのスタンスドラマを作ろうとするとトラブルになる。

今みんなで議論温度を上げて追及すべきはやり方でしょ。

テレビ局のプロデューサーは何をしていたのか。

出版社の窓口担当者は何をしていたのか。

そういうところにもっと目を向けましょうよ。

2024-02-01

anond:20240201162004

ジブリアニメや、漫画原作アニメ放送して金を得ている放送会社が、漫画原作ドラマ制作に関する問題を処理できず、それを発端としたゴタゴタの中で原作者自殺してしまう」ってのは普通に考えれば道理が合わないし、スキャンダラスだよな

社内でコンセンサス全然取れてないじゃん、って言う。

2024-01-30

anond:20240129172426

たこれか。同じやつが書いてんのか?  

  

間違った前提でわざわざ長文を書くなよ  

  

優生思想は「生まれ子供幸福か不幸か」「生まれてくる価値」「人生の素晴らしさ」なんかとはなんの関係もないの。もともと優生思想とは個人幸福とは関係ない話なの  

  

優生思想っつーのは社会全体を特定の方向(大抵は権力者またはマジョリティが望む方向)に導くために国家または社会がその権力をもって誰が生殖するのか(しないのか)を強制してもいいよ、ということなの  

  

個人生殖する権利集団が(権力者が)制限する(してもいい)という思想なの。だからアウトなの  

  

キチガイ病人貧乏人も生殖する権利は一様に持っていて、その権利行使した結果たとえ子供が本人が他人が不幸になるとしても、本人以外にその権利は停止できないわけ  

  

「じゃあ生まれてくる個人幸せなの?」とかは生殖する個々人が自分で考えてどうするか決めるべき問題で、法律はおろか社会コンセンサスをとるべき問題でさえないわけ。その考察の結果が生む生まないどっちに転ぼうと本人以外にはなんの関係もないし、その決定が他者から強制されたんでなければ「優生思想」なんて言葉を出すことさえナンセンスなわけ  

  

分かった? もういい加減にしてくんない?  

  

2024-01-29

anond:20240129191314

結果として契約原作者とのコンセンサスをきちんととりそれが正しく守られる未来が来ることだ。

どっちかっつーと、余程人気作とか有名作家で力が強いわけではないのなら

実写化にあたって内容は制作会社自由に改変出来るとする、原作者はそれに異議を唱えない」という契約になるだけのような気がする

それに従えないなら実写化はナシで、と

それはそれで「契約が正しく守られる未来」ではあるんだが、オタクが喚く事は変わらないと思う

anond:20240129175300

自分が一番心配しているのは、これでテレビ局脚本家が一層激しく攻撃され(そのことも原作者の本意ではないだろうが)、結果として契約原作者とのコンセンサスをきちんととりそれが正しく守られる未来が来ることだ。

そうなったらどうなる?

原作者自殺が正しかったことになるんだぞ?

死ねば世の中を変えられる希死念慮のある人にとってこれほど強い後押しはないぞ?

 

自殺した著名人をやたらに美化した報道をするな、という自殺報道ガイドラインがあるのはこのためだ。

だが自殺を受けて社会が変わってしまうのは止められないし、もちろん社会は良くなった方がいいに決まっている。

どうすんだこれ。

anond:20240129101230

まずハゲの前に、オッサンっていう被差別階級があるのよ。

オッサンは無条件にバカにしていいっていうコンセンサス社会全体にある。

女性に対して「オバサン」という呼称を使ったら大変な事になるけど、「オッサン」と呼んでも別に問題にはならない。

ハゲってのはそのオッサンのみに付く差別要素だからさらブーストされるってわけ。

もちろん差別されないオッサンってのは存在するけど、そういうのは「カッコイイ」とか「イケてる」とかい個人的理由差別されてないだけで、

ハゲてるオッサンはそこに含まれないのは言うまでもない。

からオッサンからといってバカにされない文化圏では、あまりハゲ問題にはならない。

もちろん嘲笑対象である事は変わらないんだけど、日本ハゲは他に比べてバカにされるレベルが違う。

2024-01-26

anond:20240126183251

9.「平和基本法から佐藤優現象〉へ

 〈佐藤優現象〉を支えている護憲派の中心は、雑誌としては『世界』であり、学者では山口二郎和田春樹である。この顔ぶれを見て、既視感を覚える人はいないだろうか。すなわち、「平和基本法である。これは、山口和田らが執筆し、共同提言として、『世界』一九九三年四月号に発表された。その後、二度の補足を経ている(56)。

 私は、〈佐藤優現象〉はこの「平和基本法からの流れの中で位置づけるべきだと考える。

 同提言は、①「創憲論」の立場、②自衛隊合憲化(57)、③日本経済的地位に見合った国際貢献必要性、④国連軍国連警察活動への日本軍の参加(58)、⑤「国際テロリスト武装難民」を「対処すべき脅威」として設定、⑥日米安保の「脱軍事化」、といった特徴を持つが、これが、民主党の「憲法提言」(二〇〇五年一〇月発表)における安全保障論と論理を同じくしていることは明白だろう。実際に、山口二郎は、二〇〇四年五月時点で、新聞記者の「いま改憲必要なのか」との問いに対して、「十年ほど前から護憲立場から改憲案を出すべきだと主張してきた。しかし、いまは小泉首相のもとで論理不在の憲法論議が横行している。具体的な憲法改正をやるべき時期ではないと思う」と答えている(59)。「創憲論」とは、やはり、改憲論だったのである

 同提言の二〇〇五年版では、「憲法九条の維持」が唱えられているが、これは、政権が「小泉首相のもと」にあるからだ、と解釈した方がいいだろう。「平和基本法」は、戦争をできる国、「普通の国」づくりのための改憲である。同提言軍縮を謳っているが、一九九三年版では、軍縮は「周辺諸国軍縮過程と連動させつつ」行われるとされているのだから北朝鮮中国軍事的脅威が強調される状況では、実現する見込みはないだろう(60)。また、「かつて侵略したアジアとの本当の和解」、二〇〇五年版では、周辺諸国への謝罪過去清算への誠実な取組みの必要性が強調されているが、リベラル過去清算は終わったと認識しているのであるから、これも実効性があるとは思えない。要するに、同提言には、論理内在的にみて、軍事大国化への本質的な歯止めがないのである

 佐藤が語る、愛国心必要性(61)、国家による市民監視(62)、諜報機関の設置等は、「普通の国」にとっては不可欠なものである佐藤饒舌から私たちは、「平和基本法」の論理がどこまで行き着くかを学ぶことができる。

 馬場は、小泉純一郎首相(当時)の靖国参拝について、「今後PKOなどの国際的軍事平和維持活動において殉死殉職した日本人の慰霊をどう処理し追悼するか、といった冷戦後平和に対する構想を踏まえた追悼のビジョンもそこからは得られない」と述べている(63)。逆に言えば、馬場は、今後生じる戦死者の「慰霊追悼施設必要だ、と言っているわけである。「普通の国」においては、靖国神社でないならば、そうした施設はもちろん、不可欠だろう。私は、〈佐藤優現象〉を通じて、このままではジャーナリズム内の護憲派は、国民投票を待たずして解体してしまう、と前に述べた。だが、むしろ、すでに解体は終わっているのであって、「〈佐藤優現象〉を通じて、残骸すら消えてしまう」と言うべきだったのかもしれない。

 ここで、テロ特措法延長問題に触れておこう(64)。国連本部政務官川端清隆は、小沢一郎民主党代表の、テロ特措法延長反対の発言について、「対米協調」一辺倒の日本外交批判しつつ、「もし本当に対テロ戦争への参加を拒絶した場合日本には国連活動への支援も含めて、不参加を補うだけの実績がない」、「ドイツ独自イラク政策を採ることができたのは、アフガニスタンをはじめ、世界の各地で展開している国連PKOや多国籍軍に参加して、国際社会を納得させるだけの十分な実績を積んでいたかである。翻って日本場合多国籍軍は言うに及ばず、PKO参加もきわめて貧弱で、とても米国国際社会理解を得られるものとはいえない」と述べている(65)。

 元国連職員吉田康彦は「国連憲章の履行という点ではハンディキャップなしの「普通の国」になるべきだと確信している。(中略)安保理決議による集団安全保障としての武力行使には無条件で参加できるよう憲法の条文を明確化するのが望ましい」と述べている(66)。川端吉田の主張をまとめれば、「対米協調一辺倒を避けるため、国連PKOや多国籍軍軍事活動積極的に参加して「国際貢献」を行わなければならない。そのためには改憲しなければならない」ということになろう。民主党路線と言ってもよい。今の護憲派ジャーナリズムに、この論理反論できる可能性はない。「8」で指摘したように、対北朝鮮武力行使容認してしまえば、改憲した方が整合性があるのと同じである

 なお、佐藤は、『世界』二〇〇七年五月号に掲載された論文山川均の平和憲法擁護戦略」において、「現実国際政治の中で、山川ソ連侵略性を警戒するのであるから、統整的理念としては非武装中立を唱えるが、現実には西側の一員の日本を前提として、外交戦略を組み立てるのである。」「山川には統整的理念という、人間努力によっては到底達成できない夢と、同時にいまこの場所にある社会生活改善していくという面が並存している」と述べている。私は発刊当初この論文を一読して、「また佐藤柄谷行人への点数稼ぎをやっている」として読み捨ててしまっていたが、この「9」で指摘した文脈で読むと意味合いが変わってくる。佐藤は、「平和憲法擁護」という建前と、本音が分裂している護憲派ジャーナリズムに対して、「君はそのままでいいんだよ」と優しく囁いてくれているのだ。護憲派ジャーナリズムにとって、これほど〈癒し〉を与えてくれる恋人もいるまい(67)。

10.おわりに

 これまでの〈佐藤優現象〉の検討から、このままでは護憲派ジャーナリズムは、自民党主導の改憲案には一〇〇%対抗できないこと、民主党主導の改憲案には一二〇%対抗できないことが分かった。また、いずれの改憲案になるにしても、成立した「普通の国」においては、「7」で指摘したように、人種差別規制すらないまま「国益」を中心として「社会問題」が再編されることも分かった。佐藤沖縄でのシンポジウムで、「北朝鮮アルカイダの脅威」と戦いながら、理想を達成しようとする「現実平和主義」を聴衆に勧めている(68)が、いずれの改憲案が実現するとしても、佐藤が想定する形の、侵略植民地支配反省も不十分な、「国益」を軸とした〈侵略ができる国〉が生まれることは間違いあるまい。「自分国家主義者じゃないから、「国益」論なんかにとりこまれるはずがない」などとは言えない。先進国の「国民」として、高い生活水準や「安全」を享受することを当然とする感覚、それこそが「国益」論を支えている。その感覚は、そうした生存の状況を安定的保障する国家先進国主導の戦争積極的に参加し、南北格差固定化を推進する国家―を必要とするからだ。その感覚は、経済的水準が劣る国の人々への人種主義、「先進国」としての自国を美化する歴史修正主義の温床である

 大雑把にまとめると、〈佐藤優現象〉とは、九〇年代以降、保守派大国路線に対抗して、日本経済的地位に見合った政治大国化を志向する人々の主導の下、謝罪補償必要とした路線が、東アジア諸国民衆の抗議を契機として一頓挫したことや、新自由主義の進行による社会統合破綻といった状況に規定された、リベラル左派危機意識から生じている。九〇年代東アジア諸国民衆から謝罪補償を求める声に対して、他国の「利益のためではなく、日本私たちが、進んで過ちを正しみずから正義回復する、即ち日本利益のために」(69)(傍点ママ歴史清算を行おうとする姿勢は、リベラル内にも確かにあり、そしてその「日本利益」とは、政治大国を前提とした「国益」ではなく、侵略戦争植民地支配可能にした社会のあり方を克服した上でつくられる、今とは別の「日本」を想定したものであったろう。私たちが目撃している〈佐藤優現象〉は、改憲後の国家体制に適合的な形で生き残ろうと浮き足立リベラル左派が、「人民戦線」の名の下、微かに残っているそうした道を志向する痕跡消失もしくは変質させて清算する過程、いわば蛹の段階である改憲後、蛹は蛾となる。

 ただし、私は〈佐藤優現象〉を、リベラル左派意図的計画したものと捉えているわけではない。むしろ無自覚的、野合的に成立したものだと考えている。藤田省三は、翼賛体制を「集団転向寄り合い」とし、戦略戦術的な全体統合ではなく、諸勢力からあいもつあいがそのまま大政翼賛会に発展したからこそ、デマゴギーそれ自体ではなく、近衛文麿のようなあらゆる政治立場から期待されている人物統合象徴となったとし、「主体が不在であるところでは、時の状況に丁度ふさわしい人物実態のまま象徴として働く」、「翼賛会成立史は、この象徴人物の未分性という日本政治特質をそれこそ象徴的に示している」と述べている(70)が、〈佐藤優現象〉という名の集団転向現象においては、近衛のかわりに佐藤が「象徴」としての機能果たしている。この「象徴」の下で、惰性や商売で「護憲」を唱えているメディア、そのメディア追従して原稿を書かせてもらおうとするジャーナリスト発言力を確保しようとする学者、無様な醜態晒す本質的には落ち目思想家やその取り巻き、「何かいいことはないか」として寄ってくる政治家や精神科医ら無内容な連中、運動に行き詰った市民運動家、マイノリティ集団などが、お互いに頷きあいながら、「たがいにからあいもつれあって」、集団転向は進行している。

 ところで、佐藤は、「仮に日本国家国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家同胞日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べている(71)。佐藤は、リベラル左派に対して、戦争に反対の立場であっても、戦争が起こってしまたからには、自国国防、「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。佐藤賞賛するような人間は、いざ開戦となれば、反戦運動を行う人間異端者扱いするのが目に見えている。

 この佐藤発言は、安倍晋三首相の目指していた「美しい国」づくりのための見解とも一致する。私見によれば、安倍の『美しい国へ』(新潮新書、二〇〇六年七月)全二三二頁の本のキモは、イランでのアメリカ大使館人質事件(一九七九年)をめぐる以下の一節である。「(注・反カーター陣営の)演説会で、意外に思ったことがある。人質事件に触れると、どの候補者もかならず、「私は大統領とともにある」(I am behind the President.)というのだ。ほかのことではカーターをこきおろす候補者が、そこだけは口をそろえる。/もちろん、人質にされている大使館員たちの家族配慮するという意図からだろうが、アメリカ一丸となって事件対処しているのだ、という明確なメッセージを内外に発しようとするのである国益からむと、圧倒的な求心力がはたらくアメリカ。これこそがアメリカの強さなのだ。」(八七~八八頁)

 文中の、「人質事件」を拉致問題に、「大統領」を安倍に、「アメリカ」を日本に置き換えてみよ。含意は明白であろう。安倍は辞任したとはいえ総連弾圧をめぐる日本言論状況や、〈佐藤優現象〉は、安倍の狙いが実現したこと物語っている。安倍政権は倒れる前、日朝国交正常化に向けて動きかけた(正確には米朝協議の進展で動かされたと言うべきだが)が、こうなるのは少なくとも今年春からは明らかだったにもかかわらず、リベラル左派の大多数は、「日朝国交正常化」を公然と言い出せなかった。安倍政権北朝鮮外交に敗北したのは明らかである。だが、日本リベラル左派安倍政権ときに敗北したのである

 〈佐藤優現象〉は、改憲後に成立する「普通の国」としての〈侵略ができる国〉に対して、リベラル左派の大部分が違和感を持っていないことの表れである侵略植民地支配過去清算在日朝鮮人人権擁護も、そこには含まれる)の不十分なままに成立する「普通の国」は、普通の「普通の国」よりはるかに抑圧的・差別的侵略的にならざるを得ない。〈佐藤優現象〉のもとで、対北朝鮮武力行使の言説や、在日朝鮮人弾圧の言説を容認することは、戦争国家体制に対する抵抗感を無くすことに帰結する。改憲に反対する立場の者がたたかうべきポイントは、改憲護憲(反改憲)かではない。対北朝鮮武力行使容認するか、「対テロ戦争」という枠組み(72)を容認するかどうかである容認してしまえば、護憲(反改憲)派に勝ち目はない。過去清算も不十分なまま、札束ではたいて第三世界諸国の票を米国のためにとりまとめ、国連民主的改革にも一貫して反対してきた日本が、改憲し、常任理事国化・軍事大国化して、(国連主導ではあれ)米軍中心の武力行使を容易にすることは、東アジア世界平和にとって大きな災厄である(73)。

改憲戦争国家体制拒否したい人間は、明確に、対北朝鮮武力行使の是非、対テロ戦争の是非という争点を設定して絶対的に反対し、〈佐藤優現象〉及び同質の現象を煽るメディア知識人等を徹底的に批判すべきである

(1)岩波書店労働組合「壁新聞」二八一九号(二〇〇七年四月)。

(2)ブログ「猫を償うに猫をもってせよ」二〇〇七年五月一六日付。

(3)ただし、編集者佐藤右翼であることを百も承知の上で使っていることを付言しておく。〈騙されている〉わけではない。

(4)「佐藤優という罠」(『AERA』二〇〇七年四月二三日号)中のコメントより。

(5)インターネットサイトフジサンケイ ビジネスアイ」でほぼ週一回連載中の〈 Permalink | 記事への反応(0) | 18:37

2024-01-23

anond:20240123162121

要するに問題だと叩きたい人は多いけど、何が問題なのかについては全くコンセンサス取れてないってことじゃん

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