はてなキーワード: 竹取物語とは
竹取物語じゃないんだけど、受験生時代に古文で「使用人たちが満月を見ながら話していたので耳を傾けてみたが『月は実際にはどのくらい大きいのか、ここから見ると円だが本当は円柱かもしれない』と言ったなんとも風情のない話をしていた」みたいな話を読んで月が物理的に存在しててクソデカいって認識があることに驚いた記憶があるんだけど、あとから探してもそれらしい文章見つからないんだよな
図書館のリファレンスサービスを初めて使ってみたが素晴らしかった
日常の素朴な疑問を調べるのが趣味なのだが、調べもののプロはやはり違うなと感じ入った
今回調べてもらったのは「月の都」について
「竹取物語が書かれた時代だと月が球状の天体だという認識ではなかったはずで、だとすると天体の地表に月面都市があるみたいなイメージではないはずで……だとすると月の都って、月のどこにあるんだ?」
みたいな疑問が解決するような本ってありませんか?と問い合わせた
この疑問は半年くらい前からこつこつネットで論文を検索して読んだり自力で本を探して読んだりしていたのだが、どうにも解決できなかったものだ
以前からリファレンスサービスは利用してみたかったのだが、図書館ちょっと遠いし……メールで聞くのも質問の細かいニュアンスが伝わら無さそうで嫌だし……電話で聞くのもなんか嫌だし……みたいなやらない理由をこじつけていた
一週間ほどで回答のメールが返ってくるらしく、毎日メールボックスを頻繁に覗いてドキドキしていた
しかし一週間を過ぎても返信は返ってこず
注意書きに書いてあった「お答えできない質問」の基準に抵触してしまったかもしれない、と落ち込んだ
しかしメールを出してから十日後、回答メールが来て嬉しくなってしまった よかった~
さて内容を確認すると「調査しましたが解決しませんでした」 ずっこけ
そう、結局この疑問は解決しなかった
しかし私は素晴らしいと感じ、とても満足していた
「どのように調べた結果解決しなかったか」の経緯を回答メールに記載してくれていたからだ
この調べ方を真似すれば次からは自力でもより効率的に事を運べるだろう
反省もした
「月の都は月のどこにある」という疑問は……ふわっとした疑問だった 調べにくい疑問
これは「当時の人は月をどのような大きさ、形、また何処にあると解釈していたか」という疑問を踏み台にして「月はこういう大きさでこういう構造という理解なら、月の都はそれのどこにあるのか」という二段階の問い合わせが必要だったんだよな……
前者の疑問までは須弥山世界で調べれば一応はわかるのだけれど(そして司書さんもそれはわかっていたようだ)
あっ 今思いついたが「須弥山世界図で月の都が描かれたものはある?」という質問の仕方をすればよかったのか?
ここはまだ未調査の領域だ、とりあえず自力で調べて……手詰まりになったら再問合せも視野に……
司書さん的には「須弥山世界図が描かれた資料をありったけ見せてくれ」の方が楽なのかしら これは実際に司書さんにどっちの聞き方が好ましい?と聞いてみるか
「お答えできない質問」に抵触するかもしれないというのがここなんだよな……図書館によっては「研究の手伝いは出来ねーぞ」みたいな注意書きが書かれているのを見かけたような気がしている
日常の素朴な疑問を、司書さんの真似事をして自力で調べるのが自分の趣味なんだなあ(司書ワナビー……ってコト?)
その調べた内容というか、調べる過程を日記メモ的にたまに匿名はてなダイアリーにも書いているが
自分で調べて調べて……これ以上は手詰まりとなるシーンが今後もあるだろう
一度使ってみて上手くいったから二度目はもっと気軽に問合せメールの送信ボタンを押せるに違いない
次に調査をお願いする内容はもう決まっている
「日本の最高峰が新高山から再び富士山となったとき、『富士山が再び最高峰となって嬉しい』のような反応はあったのだろうか?」
という疑問を質問するつもりだ
逆の「最高峰が富士山から新高山になったとき、『富士山が最高峰じゃなくなって残念』のような反応はあったのだろうか?」に関しては自力で解決できている 実際にそのような反応があったようだ
当時の静岡とか山梨の新聞のコラム的なものを探せばありそうな気はするのだけれど、流石に自力じゃ無理だ
今の今まで勘違いしていたが「リファレンス」じゃなくて「レファレンス」なのか!?なんてこった……
終わり、日記です
中世以前
人間の住む世界以外に生命が生息する世界が数多く存在するという考え方(多宇宙論)は古代からあり、地動説よりも古く、世界各地の神話に共通している[要出典]。2世紀の風刺作家ルキアノスが書いた『本当の話』には、船に乗っていたルキアノスが竜巻に巻き上げられて月まで行った話が描かれている。月には人が住んでおり、太陽の住民と明けの明星の植民地化をめぐって戦争をしていたとしている。
東晋の干宝が著した『捜神記』には火星が登場し、『捜神記』の現代日本語訳では「火星人」と訳した本もあるが、原漢文の少年のセリフ「我非人也,乃熒惑星也。」を直訳すると「私は人間ではない。実は火星である」となるためいわゆる「火星人」ではなく、「火星」という惑星そのものの化身、というほうが原文に近い。
また、日本では10世紀半ばまでに成立したと考えられている『竹取物語』は主人公のかぐや姫が月の住民であるという話であり、中世アラビアの『千夜一夜物語』の「ブルキヤの冒険」も異世界譚の一種である[8]。
かぐや姫が出した難題は当時どの程度の難題だったのだろう
気になる
「100%無理だ!」なのか
「いや、実現可能性は0%じゃないけどさ……現実的に考えて無理だ」なのか
21世紀の日本に生きる私から見ると「竜の首の珠」なんてそもそも竜が現実には存在しない空想上の生物と知っているから「100%無理だ!」という気分になってしまう
現代版竹取物語を考える時、同程度の難題はなんだろうとぼんやり考える
とりあえず『竹取物語(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』をkindleで読む
ふむふむ、要求されたモノは実在するという体で5人の求婚者は動いているように見える
かぐや姫もそもそも存在しない架空のモノを要求しているんじゃなく伝聞で伝え聞く遠き異国の激レア珍品を要求したって感じに見えるか
じゃあ竹取物語が成立した9~10世紀ごろの読者の感覚としては「いや、実現可能性は0%じゃないけどさ……現実的に考えて無理だ」くらいなのだろうな……
ということは竹取物語が読まれる時代によって、読者が難題をどの程度の難易度と受け取ったかに差があるということになる?
以前「日本人は竜という生物の実在をいつ頃の時代まで信じていた?」というトピックについて調べた
その際には「少なくとも明治時代くらいまでは実在を信じる人がそこそこいたはず」という調査結果が得られた
もちろんこれは割合の話で、大正時代くらいでも竜巻を見て「竜が出た」という人はいたらしいし、江戸時代でも竜の実在を信じない人はもちろんいたようだが
なるほど、私が今気になっているのは「竹取物語がファンタジーとして読まれ始めたのはいつの時代からになる?」という問いか
いや、この問いの書き方はよくない……ファンタジーの定義が面倒くさい……
「5つの難題で要求されたアイテムは実在しない、と読者が認識したのはいつの時代からになる?」
「月に天人はいない、と読者が認識したのはいつの時代からになる?」
という問いにしよう
まあ、だいたいこういうのは西洋の知識が入ってきて須弥山世界観が揺らいだタイミングと予想できるけれど
納得のためには調べる必要がある、推測では納得できない
そういえば以前「昔の人は月にウサギがいるとマジに信じていたのかどうか」というトピックについて調べたが、まだ納得できる調査結果を得られていない
改めて調べたい欲求が復活してきた
仏教とか神仙思想とかについて調べる必要が出てきたのだが前提知識があまりに不足していて調査が行き詰ったんだった
しかし竹取物語をあらためて読んでみるがしっかり面白い物語だな……
今昔物語集とか先に読んで浅く広く昔の人々の世界認識を知る方が近道かもしれん
こういう調べものは楽しくやらなきゃね
これは日記です
異世界転生ブームの前に一線張ってた異世界転移って過去から連綿と続くファンタジーの王道じゃん。
一番有名な古典で言えば、不思議の国のアリスなんかは典型的な異世界転移だし、
そこまで古くなくてもナルニア国物語もそうだし、ハリーポッティーもそう言えなくもないし
日本でも浦島太郎もその系譜ではあるし、おむすびころりんだってそうじゃん?
なろう小説が流行るずっと前から十二国記とかふしぎ遊戯とか少年向け少女向け問わず
いろいろあって現代の常識とは外れた謎の世界に入り込んでしまう作品は枚挙に暇がない。
でも、異世界転生ものの本懐の生まれ直す系の作品って相当少ないよね?
それに近い系統ではあると言えるのって月の住人が地上で赤ん坊として生まれ直すっていう
(終助)
①自分の判断を強く言い切ったり,主張したりするのに用いる。「ぼくの方が正しい」「これならきっとうまくいく」「そら,やる」
②疑問詞と呼応して,反語や疑問を強めるのに用いる。やや文章語的な言い方。「一体だれがこの難問に答えられよう」
(副助)
文中の疑問詞を受けて,不定の意を表す。「だれに聞いてくれ」「なん食べ物はないか」〔の終助詞は近世以降の用法,の副助詞は中世以降の用法〕→ぞ(係助)
ぞ
(係助)〔古くは「そ」。上代から中古にかけ次第に濁音化し,「ぞ」が一般的になる〕体言・活用語の連体形・種々の助詞などに付き,取り立てて強く指示する意を表す。
①一つの物事を特に取り出して強調する。「峰高く,深き岩の中に聖入りゐたりける/源氏物語」「野中に岡だちたる所に,ただ木三つたてる/更級日記」
②文の調子を整えるのに用いる。この場合,動詞の連用形に付き,サ変動詞「する」で受ける。「折りてみば落ちしぬべき秋萩の枝もたわわに置ける白露/古今和歌集」
文末にある場合。その文を強く言い切るのに用いられる。「我をいかにせよとて捨てては昇り給ふ/竹取物語」「この西なる家には何人の住む/源氏物語」→ぞ(終助・副助)
この伝承は「月はウサギが住むことが出来る大地がある」という認識が前提にある
「空とはドーム状の天井であり、月は天井に描かれた模様である」という認識だとそうはならない
私は現代人なので月は巨大な岩の塊と知っているが、古代人はどうだろうか
巨大……という認識があったのだろうか
「月の模様がウサギに見えるので、月にはウサギがいる」ということであれば、月にはウサギが一匹しかいないってことになる
「せいぜい1メートル以下の大きさの小さな円盤、あるいは球にウサギが一匹いる」という認識だったのだろうか
この認識は「空はドーム状の天井である」という宇宙観と矛盾するのかどうか
そういえば「竹取物語」のかぐや姫は明確に月の都の住人だったか
ガチでトレースとかしているわけじゃ無いから、著作権的に照らして争いになっても勝てると思う。参考にして書くことは何の問題もないので。
ただし、元の作家の意図とは百八十度違う形で、おまけに法的根拠の無い主張に使ってしまっているのがかなり問題。例えば、ミッキーマウスの姿を使って、ドブネズミが引き起こす食中毒啓蒙ポスター作るみたいな話になってる。これ遠回しに作者を批判していることにもなってる。それも、公的な金を使って。
社内や行政記録の中に、元絵を参考にした証拠が残っているとなると、凸版印刷的にはボイコットまで発展しかねないから、事後対応としては妥当では。
例えばこれを竹取物語で「貴族はよかれと思っても、姫はNo」とか、この間バズった増田じゃ無いけど、鶴の恩返し「嫌といってることはやってはいけません」とか、そういう風にするべきだったと思うし、思想的にバランスの取れてない人をこの手の担当にしてしまったのが問題。
担当した人は公開オナニーで満足、同類がちやほやしてくれても満足かも知らんけど、目的が果たせないポスターなんてたんなる怪文書と変わらんからなあ。
夏目漱石の短編小説集『夢十夜』は、10の独立した物語からなる作品集です。以下に、それぞれの物語のストーリーを簡単にまとめます。
「虞美人草」
植物学者の主人公が、仕事で山中を訪れた際に、美しい花「虞美人草」に出会います。その花に惹かれた主人公は、その後も虞美人草を求めて、奇妙な体験をすることになります。
「トロッコ」
登山家の主人公が、山の中腹にあるトンネルで出会った男性と話をする中で、恐ろしい遭難事件の真相を知ることになります。
「杜子春」
芝居の役者を目指す主人公が、出会った女優との恋愛に悩む物語です。女優が演じる役柄が、主人公にとって思い出深い人物と重なることから、主人公は自分自身の過去と向き合うことになります。
「金色夜叉」
文学者の主人公が、ある夜、金色に輝く美しい女性に出会います。その女性は、主人公に夢中になるが、その正体は一体何なのか?という謎めいた物語です。
「竹取物語」
大正時代の日本に、突然竹取の翁が現れます。主人公が翁に会いに行くと、竹取物語に出てくるような不思議な体験をすることになります。
「蜘蛛の糸」
主人公が偶然出会った女性が、実は蜘蛛の妖怪だったことが明らかになります。その女性に導かれるままに、主人公は不思議な世界に足を踏み入れます。
「老年」
人生の終わりに向かう老人の回想を通して、自分自身や人生を見つめ直す物語です。
主人公が、道化師に扮した男と出会います。その男は、主人公に自分自身を見つめ直す機会を与えます。
「月下の一群」
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「竹取物語」
大正時代の日本に、突然竹取の翁が現れます。主人公が翁に会いに行くと、竹取物語に出てくるような不思議な体験をすることになります。
「蜘蛛の糸」
主人公が偶然出会った女性が、実は蜘蛛の妖怪だったことが明らかになります。その女性に導かれるままに、主人公は不思議な世界に足を踏み入れます。
「老年」
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主人公が、道化師に扮した男と出会います。その男は、主人公に自分自身を見つめ直す機会を与えます。
「月下の一群」
俺は古典教育廃止しろ派、というか、文法とかどうでもいいから文学史だけやれ派なんだけど、その理由のひとつに、「古典」つって出てくんのが結局枕草子・源氏物語・徒然草程度じゃん!っていうのがある
なんなら小学5年〜中1くらいでやるだろその辺って
谷川俊太郎の詩とかと一緒にさあ!
それで暗唱させられたから覚えてるだけなんだ
水鏡とか大鏡とか、伊勢物語とか落窪とか、なんかいろいろあったろ?俺は覚えてねえけどさあ
日常的に軍記物語の語り口調でギャグを飛ばしてみんながウケるとか、しょっちゅう百人一首あたりを引用して喋るのが一般的とか、そういうレベルでみなさんが教養を持ってんだったら、俺だって文句は言いません
でも何すか、スーパーの惣菜売り場に「春は揚げ物」って書いてある、これが"古典教育"だ!ですって?
"「春はあけぼの」の元ネタがわかる"程度だったら、小学生のときに、授業1時間受けるだけで、充分たどり着けるんだよ
っていう話だろ
これ、実は明確な答えがあって、ないんです
なんせ何も覚えてねえ
昔、男ありけり ソーワット、ファックユー!
まあ実際、(ごく一部を除いて)つまんねえ上に教訓もないクソ説話・小説を6年にわたって読まされることで、ああ俺たちの先祖ってカスだったんだ、貴族階級のが書いて、かつ後世に残そうとされた、日本古典文学の上澄みがこのレベルだったんだ、貧しい文化の国だったんだなあ!と思えるというのは、ひとつの学びだったかもね
ここで10 Japanese Classic Booksなるまとめをチェック!
4 竹取物語 ングアー!やられた!!でも竹取物語って古典やんなくても知ってるだろ 古典教育の必要性って意味では、これはノーカウントじゃないか?? でもまあ、1ポイント
7 砂の女 そういえばこれ読んどきたい
9 雪国 ほら〜
見てくださいよこれ "クラシック"なんて頭につけても、ガチ古典vs近代文学で3:7ですよ
雑魚すぎんだって古典 しかも竹取物語はなんか、史料っぽい雰囲気だからな
アレある程度授業でやったけど、覚えてんのは「うつくしうてゐたり」の一文だけだ 美しく座っていた、という表現はちょっと英語っぽくてかっこいいな、という浅い印象だけ あと不死の薬を焼いたから富士山です(笑)みたいなオチがすげー鼻についた
枕草子・源氏物語・徒然草・竹取物語・今昔物語くらいをサラッとさらって、文法は一切触れず、こんな感じだったんですよ〜でお終いだ
原典の響きがどうこうって意味では、昔のハ行はパ行だったとかいうし、やるだけ無駄ってもんだろ