はてなキーワード: 厚顔無恥とは
とあるオタク男子さんに聞いたら、宇崎ちゃんの前回ポスターと今回のの、炎上リスク度合いの違いが本気でわからないらしいので、まぁもう相互理解とかは難しそうだから、お互いへの寛容性を忘れないで行くしかないな、と思いました、まる。どっちがいいとか悪いとかじゃないんで。見える景色の違い。— 弁護士南川麻由子 (@lawyerMAYUZO) 2020年2月2日
良くも此処まで人間として越えてはいけない一線を平気で越えられるな。
控えめに言ってこいつらの馬鹿にするオタクやニート、氷河期や子供部屋おじさん、KKO以下の人間の屑。
そりゃここまで厚顔無恥だとサイコパスとか世間から言われるのも当たり前。
こんな良心の欠片もない連中だからこそ平気で児童ポルノだ青少年だの喚いて、子供の権利を自身のお気持ち規制の為だけに平気で悪用する行為もやるのだろう。
人として終わっている。
「宇崎ちゃんは遊びたい!」×献血コラボ第2弾の改善を評価するツイート群
https://togetter.com/li/1463187
関連:宇崎ちゃん×献血コラボ第2弾が好評。太田啓子弁護士「いい方向になったんだな、赤十字社がはじめからこういう企画でやっていたらよかったですね、と思います」
https://togetter.com/li/1463136
赤十字に対して今まであれだけの事をしてきたのだから、普通に怒る人が多いのは当たり前。
何で上から目線なの?とかお前らの血何色なのとか?サイコパスなの?とか厚顔無恥なの?恥知らずなの?とか言う意見が出るのは普通に理解できる。
そしてフェミも誰一人何が良くなったかの説明すらしていないのだから、そりゃ某掲示板の何とかJ民より熱い掌返しとかモーター式とか言われるのも理解できる。
グレタ叩きには色々と言いたいことがあるんだが、いい歳した大人が「いいぞ!よく言った!」程度の野次しか飛ばせないなら「未成年を尖兵に仕立て上げてる」と揶揄されても仕方ない程度には厚顔無恥だと思うよ。
彼女は大事な提言を残したとは思うが、一方でそれが「あまりにも偏った意見」であることも否定できないだろう。そういう複雑さを全く語ろうとしないで、役割を全部子供に押し付けて大人は囃し立てるだけって、無責任だと思わんのかな。彼女は本来今頃学校で勉強してなきゃいけないはずなんだよ。そしてそういう世の中の複雑さを、これからいくらでも学べる機会があるんだよ。その機会を奪っているという自覚がないのかな。
まあそれを差し引いてもグレタ叩きはいい加減ネットリンチでしかなくなってきてるし、それこそ「正義の暴走」だよなぁ、くらいは言っておきたい。
隣人の語ること、行うこと、考えることを気にかけないものは、どれだけ多くの利益を受けることだろうか
自省録 マルクス・アウレリウス
「世の中に恥知らずの人間が存在しないということがありえようか」
「ありえない」と答えるだろう。それならば、ありえぬことを求めるな。
自省録 マルクス・アウレリウス
公益目的でなければ、他人に関する思いで君の余生を消耗してしまうな
【認知的節約】
人は、必要以上に認知資源を用いない傾向があることを示す。
【認知資源】
注意を向けて考える、記憶する、といった認知活動に要する能力。認知心理学では、「認知資源には一定の限界があり、そのために認知的節約が起こる」とする。— 社会心理学用語bot (@shakaiaku) 2015年2月5日
散々、バラエティ(主に月曜から夜ふかし)でいじられていたクセに、なんで今ざまぁと言われているか全く理解できない武蔵小杉(タワマン)住民のタチの悪い厚顔無恥さ。
嫌われてる女が全く嫌われてることに気づいていない感に近いものがある。
同じことが港区、二子玉、築地(タワマン)、豊洲辺りにも言えるが私たちはハイソサエティ、シティ派、そこにはポエムがある人たちにも言える。
被災した時に揶揄されることに全く原因が思い当たらない。寝耳にウォーター。
しかも、別にそれまでの街の歴史に敬意を払おうとか、溶け込もうとかそういう感覚が全くないくせにその街の住民の代表者ヅラをしている。
美術に詳しくない人は知らないだろうけど、京都には京都市立芸術大学がある。
西日本の芸大の中ではトップクラスであり、歴史は明治13年創設と東京藝大よりも長く、上村松園など文化勲章者も多数排出した名門中の名門である。美術だけでなく音楽学部も西日本のトップ大学である。佐渡裕さんとかね。つまり芸術界の京大と考えて良い。少数精鋭で一学年200人ほど。
そして京都市立芸術大学の略称は、「京芸」「京都芸大」であり、京都で芸大と言えば京都市立芸術大学である。
一方、私立の京都造形芸術大学は創立30年程度だが、通信教育部も含めて一万人を超える日本最大の美術系大学である。レベルはお察しではあるが、勢いと資金があるのは間違いない(有名人講師を読んだり構内に謎の滝を作って学費を無駄にすることにも定評があるが)。産学連携も活発で、先端芸術にも強く、「京造」「造形大」の略称とともに着実にブランド化を果たしてきた。
その京造が、来年の4月から京都芸術大学に改称すると発表した。京芸からはもちろん、京都市長、全くの事後報告で寝耳に水だった京造の教員・学生からも大々的に反対の声が起こっている。署名も始まっている。
いわく、京造の名で頑張ってきた卒業生や在学生がかわいそうだ。京造ブランドに誇りはないのか。
いわく、京都芸大の名は長年守ってきた大切な名前で混同は必須。遠慮してほしい。
ハッキリ言うと人格を疑われるから口を濁しているだけ!!!!!!!
つまり京造の理事長(学長はただのフロントマンです、日大アメフト部の時のアレ)がやろうとしていることは、京都産業大学や京都学園大学がいきなり京都大学を名乗りだすようなもので、明らかに詳しくない人や海外から「京都芸術大学?東藝の京都版?国立の伝統のあるトップ大学かな?」「関西の代表的な芸大って言えば瓜生山にあるやつだよね?」と混同されることを目的にした、卑屈極まりない改称であって、これは京都人の最も嫌う方法です。老舗に限りなく近い名前を名乗って、京芸が築き上げてきた伝統にタダ乗りしようとしているのですから。恥ずかしいったらない。
京芸側も色々言ってるけど、要するに美術系大学としてのレベルが全然違うので「ウチの名前を使わはったらさぞかし便利なんやろねえ。新しいかたは発想が斬新どすなあ。死ねどす」であって関係者全員が静かに激怒している。せっかく難関入試をくぐり抜けたのに京造と一緒にされたらたまったもんじゃないっていうのが本音。が、如何せん人数が少なく、また京都人なのでハッキリ言えないから小さな記事にしかならない。
このままだと厚顔無恥の京造理事長の思いつきによって、京造生は間違いなく「偽京芸」だの「パクリのほう」だの「バカのほう」だの言われることになる。
普段インターネットでふざけた話をしていた人間が急に政治を語りだすのは、辞書の「焼きが回る」の項の例文に載せてもいいくらい典型的な病だと思っているので匿名で書くことにした。
選挙権を与えられて初めての選挙のときもそうだったし、その前もそうだった。おそらく外山恒一と中田考のせいだと思う。
特に外山恒一の2007年東京都知事選の政見放送は今見ると改めてパフォーマンスとしても完成されていることがわかる。時間があれば是非見てほしい。
イチオシは超絶頭の良いコンピュータによる全世界一元管理だが、残念ながら今の所そのようなものは影も形もないので、消極的にではあるが選挙に基づく間接民主制を支持している。
消極的に、というのがポイントで、別に選挙に行くのが正しいとか義務だとか思っているわけでは決してない。
私が祈ろうと祈るまいと世界は何も変わらない。一票差で結果が変わる選挙などまずないからだ。
しかし私は祈ることを冷笑はしない。それは祈るという行為が(私のように)愚かで怠惰な人間が唯一可能な意思表示であり、一種の反射であるからだ。
多くの人の祈りが届けば天は翻意し、我々に何か恵みのようなものを与えるかもしれない。しかし私達の祈りが正しいものであったか、また天からの贈り物が本当に恵みであるかどうかなど事前にわかりはしない。
投票とは所詮そんな、とてつもなく大雑把でどうしようもなく頼りないものだ。
それでも多分、投票率は上がったほうが良いのではないかとうっすらと思う。
投票率が上がれば民意が正しく反映されるとか、若者向けの政策が増えて世の中が良くなるだとかは正直眉唾ものだと思っている。そもそも人間は愚かなので民意が正しく反映されたところで合理的な判断を正しく下せるとは思えない。
しかしまあノイズが増えて右往左往するほうが崖に向かって全力疾走ダイブするよりは幾分かマシだろう。
さて、選挙が近づいてきた。本当に嫌な季節だ。
顔出しアイコンがインテリ仕草で、あるいは匿名アイコンがさも庶民の意志を代弁するかのように、いずれにせよ厚顔無恥な態度で若者よ選挙へ行けと叫びだす。
選挙へ行かない人間は非国民だ、人非人だと偉そうに喚いている。
こんなにも頼りない投票という行為を、どうしてそんなに正義面して他人に押し付けられるのか私にはさっぱり理解できない。
選挙に行かない、または白票を投じる理由はたくさんあるだろう。
単に面倒臭くて投票しないのかもしれないし、どうせ自分の一票では何も変わらないのだから(これはほぼ確実に正しい)と考えてもっと有意義に時間を過ごしたいのかもしれない。納得できる政党や個人が存在しないのかもしれないし、あるいは棄権することで自分より賢い人間に選択を委託するほうが自分にとってプラスだと考えているのかもしれない。
結果的にそれが自分に不利益をもたらす行為であったとあとからわかったとしても、自由主義は愚行権を正当化したのではなかったか。投票を棄権することそれ自体が社会的正義を損なうと、本当に言い切れるのか。
もしあなたが特定の団体からしつこく電話を受け、「X党に投票してよ」と言われれば、多少X党の人物やマニフェストに魅力を感じていたとしてもX党に投票したくなくなるのではないか。
少なくとも私はそういう人間である。選挙自体を否定するつもりはないが、選挙に行くことが絶対に正しいという思想の持ち主からしつこく勧誘されたら絶対に選挙に行きたくないと思う。
なぜ若者は選挙に行かないのか。それは多分、あなた方のことが嫌いだからだ。
この文章が嫌味ったらしすぎて、逆に選挙に行きたくなる人もいるかもしれない。それならそれで良いと思う。もし選挙に行くなら、それくらい感情的かつ雑に選挙に行ってほしい。